朝の挨拶
「おはようございます」
高校の正門をくぐると、風紀委員と教師数人が挨拶運動をしていた。
内申点だって大学受験に関係してくる。絶大に。ていうか高校生活って内申点の争いでしょ。
それに、変に無視して教師に呼び止められるのも面倒くさい。
そう判断した俺は、できるだけ爽やかに、速やかに挨拶を返す。
「おはようございます」
「…………」
ただ、横にいる彼、菅原和樹は挨拶をせずに下駄箱へ向かう。
また面倒なことをしだした。
「おい」
案の定、挨拶をしなかった和樹は、教師に呼び止められる。
まあ、ここまでは予想していたのだが、予想の範囲外のことがあった。
和樹に向けられた『おい』という声を聞いたことがなかったのだ。
つまり、今年から新しくこの高校に就任した先生となる。
振り返ると、そこには存在感のすごい、身長は2mもありそうな、見るからにいかつい先生が立っていた。イカ先とでも名付けることにしよう。
和樹は後に少し振り返ったが、振り返ったともいえるようないえないようなところで首を進ませる向きを反対にして、歩き出す。
つまるところ、無視した。
つまり、詰んだ。
絶対やばい先生でしょ。
人を見た目で判断してはいけないとは習ったものの、判断しちゃうよね。
人間だもの。
それでも彼は進む。まるで、何もなかったかのように。
「止まれ」
イカ先は、先ほどよりも大きな声をお出しになられて、和樹を威嚇する。
しかし、彼は止まらない。さっきから一定のスピードでリノリウムの廊下に上靴の音を響かせながら進んでいる。いつの間に靴を履き替えたんだか。
俺は、あっけにとられ、下駄箱の前で立ち尽くすしかなかった。
いや、イカ先の声が怖くて動けなかったのだ。なんというか、動いたら撃つぞ的なオーラ放っているし。
「もう一度警告するぞ、止まれ」
先ほどよりもひと回り大きな太い声で和樹の背中に空気の振動を浴びせる。
彼の鼓膜は破れてはいない。正常なはずだ。それどころか、地獄耳。
「最後の警告だ菅原、止まれ」
すると、彼は下駄箱から15mほどの場所で停止した。
「こっちへ来い」
イカ先は恐ろしい形相で和樹に命令をする。
「はい」
対する和樹も、堂々としたもので先ほどと同じスピードでこちらへ近づいてくる。
小走りになることもなく、ゆっくりと。
和樹がイカ先の前まで来ると、イカ先は自慢であろう太い声をかけ始める。
「なぜおまえは俺が止まれといったのに止まらなかった」
絶体絶命である。
ていうか、登校中の皆さん、俺に視線を向けないでほしい。
怒られているのは俺じゃないからね。そこんとこ勘違いしないでよ。
たぶんいまびくびくしているのは和樹よりも俺だろうけど。
「はい?止まりましたけど?」
和樹は疑問を疑問で返す。
「それは3回目だろ。俺はその前に2回もお前に止まれと言った。その2回でなぜ止まらなかったと聞いているんだ」
イカ先は声を荒げる。
落ち着いてくださいな。和樹にはダメージ0だが、関係ない俺が周囲からの目線で1秒ごとにダメージ100食らう。
「あぁ!」
彼はやっと気づいたような声を上げた。絶対最初から気づいていただろ。
「ようやく俺の言っている意味を理解したようだな。ではもう1度聞こう。なぜおまえは止まらなかった」
イカ先の背後に赤い炎が見えるようだ。
しかし、その炎を凍て尽くすかのような冷静な声で彼は返す。
「止まる必要がないと判断したからです」
「はぁ?」
イカ先、当たった相手が悪かったな。彼は百戦錬磨の論破王、いや、論破魔王なんだ。
「仮に警察が信号無視した車を取り締まっていたとしましょう」
「いや、俺が話しているのは」
イカ先はもう炎どころか太陽のように核融合が起きている。
「教師とあろう物が生徒の話をさえぎってもいいんですか?」
今、『物』って言ったよな。イカ先を人として扱っていない。
「では、続けますね。警察が取り締まっている場所は、交通量もそれなりの交差点だとします。警察は、1台、信号無視した車を見つけました。そこで、警察は『止まれ』といったのですが、誰も止まりません。なぜでしょう」
「それはだな」
イカ先の後ろで核融合が大量勃発している。
「まだ僕の話は終わっていません。『以上です』というまで聞き続けといてください。これくらい常識ですよ。では、もう1つのお話です。当然、僕たちには名前がついています。僕には『菅原和樹』、後ろでびくびくしている彼には『星野光』。あなたには『平川正幸』。まあ、後ろの彼は心の中で『イカ先』と呼んでいるみたいですけど。確かに、名前のわからない『A先生』と呼ぶよりも、『いかつい先生』を略した『イカ先』のほうが人間味があり、覚えやすいですけどね」
なぜわかった?
というより気づいても黙っていろ。ほら、イカ先、いや、平川先生の核融合の攻撃範囲が俺にまで来ている。
平川先生、そんなに睨まないでください。彼は鋼のメンタルを持っていますが、俺は平均なんですよ!
「おまえ、後で話がある」
「はい、わかりました」
とんだとばっちりを食らった。
「平川先生、つまり、我々には1人1人『名前』というものがあるわけです。以上です」
「それがどうした?今回の話にどう関係する?」
「先生は『止まれ』のみしかおっしゃられませんでした。つまり、信号無視の車を見つけた警察が、ただ『止まれ』と叫んでいる状態と同じわけです。警察は必ず、止まらせる車のナンバーを言います。警察がどの車に『止まれ』と言っているのかわからないですからね。つまり、平川先生は今回、僕の名前を読んでから『止まれ』とおっしゃられなくてはならないわけです。誰に向かって『止まれ』とさけんでいるのかはっきりさせておかないと」
「ああ、わかった。それは俺が悪かったということにしておこう。では、なぜ挨拶をしなかった?まさか、挨拶が自分に向けられていると思っていたとでもいうまいな?」
イカせ――じゃなかった、平川先生は、核融合を起こして巨大化していく太陽のごとく、お怒りになられていらっしゃる。
和樹がド正論をぶちかましたせいだろう。
「挨拶って、なんの意味があるんですか?」
南極の氷のような冷たさの声色で和樹が返す。
太陽6000℃対南極-25℃
「いろいろある。例えば、挨拶をすると互いに気持ちよくなる」
「しかし、今現在、イ――失礼しました。噛んでしまいました。先生が挨拶をしてしまったせいで、この場にいる3人全員が不愉快な気持ちになってしまいました。それについてはどうでしょうか?」
絶対「イカ先」って呼ぼうとしたよな。
「その上、『挨拶をされたら返さなければならない』などという法律でもあるのですか? 法律よりは格下ですが、僕もこの高校の一員として、もちろん校則も精読しました。しかし、そのような校則はありませんでしたよ。以上です」
「相手の気持ちを考えてみろ。お前が俺に挨拶をして、俺が挨拶を返さなかったらどう思う?」
平――――……イカ? イカ川先生の例えや返しが下手だ、と感じてしまう俺がそこにはいた。
まず第一に和樹の法律とか校則とかの話に反論してこない。
「まず、僕がイ……すみません。先生に対して挨拶をするという場面が僕には想像できないですけれど、仮にそのような状況に至った場合は、僕はこの時間が無駄ではなかったと思うでしょう」
目の前で真っ赤になって起こっている人物が太陽からタコに見えてきた。
イカに少しづつ近づいてきている。
そうではない。俺はそんなことを考える人間ではなかったはずだ。
目の前にいるどうぶ――ではなく人は、軟体動物ではない。
この1年間で和樹に毒されてしまったというのか!?
「いい加減にしろっ。お前もこの時間が無駄だと思うのならば、早く謝れっ」
平川先生の怒声が校舎に響いた。
もしかしたらブラジルでも聞こえるかもしれない。
無関係な生徒まで平川先生の怒声に緊張している。俺もその1人だが。
平川先生、理性崩壊。
鬼塚先生へと進化した。
そうじゃなくて。
結構やばい状況だと思うのですが。
鬼塚先生、和樹に今にでも殴り掛かりそうな勢いだ。
壁ドンしてる。
その強面で。
どんな変態でも拒否するだろう。こんな壁ドンは。
太陽からはくちょう座V1489星へと進化した赤色超巨星の手は鉄でさえ握りつぶせそうな握力で拳を作っている。
「生徒に暴力をふるってはいけませんよ。校則がどうとか法律がどうとかではなく、憲法がどうとかという問題になります」
飄々とした態度で和樹が面倒くさそうに口を開く。
「もういい。早く行け」
赤色超巨星は悔しそうに壁から手を放し、職員室へ向かっていった。
その巨漢の姿が見えなくなると、玄関から一気に安堵の声が上がる。
巨漢の姿が見えなく立った途端、早足で歩き出した和樹を追いかけ、教室に入る。
「なんで反論したんだ?」
俺まで巻き込んだ責任は取ってもらうぞ。
「なんか眠かったから、眠気覚ましにと思って。まあ、眠気覚ましにはならないような無茶苦茶な教師で、言ってくることは菜乃葉の胸より薄っぺらかったけど」
おいおい、和樹、菜乃葉がどこのクラスかくらい確認しとけよ。
席、お前の隣だぞ?
「ちょっと、和樹ぃ? いいかしら?」
後ろからかけられた声に、和樹が過剰に反応して肩をビクッと震わせる。
そして、カタカタと少しずつ、頭を後ろに向けると。
随分とお怒りの菜乃葉が立っていた。
「もう1回言ってもらってもいいかしら?」
「いや、あの、いえいえいえいえいえ。菜乃葉様の胸は豊満で実に素晴らしいと……」
パチィィーン!
教室に乾いた音が響き、少ししてドサッという和樹の倒れた音が鈍く響く。
教室中の注目が俺たちに集まった。
菜乃葉の隣にいた冬華は、焦って外野へと後退りする。
「エロ和樹!」
そう叫ぶと、菜乃葉は教室から出ていってしまった。
そして、冬華が菜乃葉を宥めるようにを追いかけて行く。
「下からの風景も、運が良ければ見れるな。冬華のは見えなかったが、菜乃葉のはギリギリ見えた……」
和樹は幸せそうな顔で、そう呟いた。
「そうか。じゃあ俺は菜乃葉にそのことを伝えに……」
行こうとしたら、足を掴まれた。
「待て待て、まだ話は終わっていない」
「なんだよ和樹? もう話は終わっただろ? 眠気覚しがどうとかこうとかで……」
「他にも理由があるんだよ。こっちのほうが重要。1:999くらいの割合くらいでこっちのほうが超重要。
それは、俺TUEEEEEぞアピール。もちろん、最初に挨拶を返さなかったのも、わざと」
忘れていた。こいつはとんだクズだった。
で『TUEEEE』の意味地味に間違ってる。いや、あっているのか?
『教師としての能力を図るため』とか、『自分の能力を知るため』とか、もっとかっこいい理由を期待していたのに!
いやそれでも中2病だけど!
せめて『ムカついたから』のほうがよかった!
ただの自慢だったのかよ!!
それも無関係な人を巻き込みながらの!!!
その上スケールちっちゃ!!!!
呆れて物も言えない俺に、和樹は「どうしたの? 急に黙ったりして」などと言ってくる。
こうして、俺の高校2年生の新学期は中2病をこじらせて永遠に治らない持病となったの彼と共に幕を開けるのであった。
せめて「彼女」だったらなぁ。