9 ◇ 新人魔法研究員ユン(後編)
全16話+後日談(数話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
「兄ちゃんはさ、俺があんまり泣かなくなったときのこと覚えてる?」
覚えてないかと思って一応聞いてみたら、兄ちゃんは意外とはっきり覚えていた。
「ウェルナガルドから山一つ越えたぐれえのときだろ。何日目だったかは数えてなかったから分かんねえけど。」
「うん、そう。そのとき。
実はさ……俺、夜中にあの山の池んとこで兄ちゃんが泣いてるの見ちゃったんだ。過呼吸になって、喉と胸を押さえて、ほとんど息だけの掠れた声で、父ちゃんと母ちゃんのこと呼んで泣いてたの。」
兄ちゃんは驚いたように目を見開いて俺を見て、それからふっと目を逸らして手元のフライパンに視線を戻した。
「……見てたのかよ。」
「…………うん。ごめん。」
俺はあの日も、一度寝るまでの間はずっと泣いてた。
兄ちゃんが「大丈夫だから。兄ちゃんが側にいるから安心して寝ろ。」ってずっと背中をさすってくれて、ようやくくたびれて眠りに落ちたんだ。
でも多分……眠り始めて1時間も経たないうちに、あの父ちゃんと母ちゃんとサラ姉が夢に出てきて、俺は汗びっしょりになって飛び起きた。
それで、いつもそんなとき隣にいてくれてた兄ちゃんが、その日はいないことに気付いたんだ。
俺は怖くて心細くて、泣きながら兄ちゃんを探した。
そしたら、すぐに兄ちゃんは見つかった。
ずっと「大丈夫だ」って言ってくれてた兄ちゃんが。
俺を背負って「守ってやる」って言って魔物を全部倒してくれてた兄ちゃんが。
俺より何百倍も苦しそうにして、声にならない嗚咽を漏らしてた。
「俺さ、そのとき初めて気付いたんだ。『兄ちゃんの方が俺なんかよりずっとずっと苦しくて辛いんだ』って。
だって、そうだよね。兄ちゃんは俺と違って全部見てたんだもん。
……馬鹿みたいだよね。自分のことでいっぱいいっぱいで、そんなことすらも考えられてなかったの。それまでの俺。」
父ちゃんと母ちゃんが頭から喰われて死ぬ瞬間も、町のみんながどんどん死んでいく姿も、襲ってくる魔物たちの牙も爪も、真っ赤に燃えていく町も。
俺が見なくて済んだものを、兄ちゃんは一人で全部見てた。
俺は兄ちゃんが横で今どんな表情をしているのかを見れないまま、ぼんやりと暗くなっていく空と、だんだん光ってきた街明かりを眺めながら話し続けた。
「そんでさ、ここからがもっと馬鹿な話なんだけど。
俺、そのとき思ったんだよね。
『どうしよう、兄ちゃんが死んじゃう!』って。」
だって、本当に死にそうな泣き方をしてたから。
「それでね。俺、その後さすがにあんな辛そうにしてる兄ちゃんに泣きつく気になれなくて、初めて一人でもう一度寝たんだ。ウェルナガルドを出てから初めて。
……そしたら今度は違う『夢』を見た。それが、現実よりももっともっと、ずっと怖かった。」
「……そんな夢あるかよ。」
黙って聞いてた兄ちゃんが、低く単調な声で呟いた。
「うん。ある。……んー、でも兄ちゃんには無いかも。だって兄ちゃんの見た現実は、俺が見た現実とは比べ物にならないくらい怖いもん。」
「………………。」
「でも、俺には怖い夢があったんだ。
俺が見た夢はね、『兄ちゃんが死んじゃう』夢だったの。
兄ちゃんがさ、俺を背負ってしばらく走って逃げたところで、現実と違って俺のことを背中から降ろすんだ。それで、俺に言うの。『あっちに向かって走れ!兄ちゃんもすぐ追いつくから!』って。
でね、俺は走って逃げて、逃げ切るんだけど、その後いくら待っても兄ちゃんが来ないんだ。
兄ちゃんはね、多分俺のこと逃して、自分は町の人たちと一緒に死んじゃったんだ。……そんな夢。」
隣で兄ちゃんが息を呑む音がした。
「で、その夢がすごく怖かった。それまで兄ちゃんに泣きついてた現実の夢よりもすっごくすっごく怖かった。」
俺はその夢を初めて見た日を鮮明に思い出しながら喋り続けた。声が僅かに震えるのが自分でも分かった。
「俺ね、一人で泣く死にそうな兄ちゃんを見て、それで兄ちゃんが死んじゃう夢を見て、分かったんだ。
俺にとって、ウェルナガルドのあの日よりも怖いことは、兄ちゃんが死ぬことなんだって。
だから俺、次の日から泣かないようになったの。だって俺が泣いて兄ちゃんがもっと苦しんじゃって、それで兄ちゃんが本当に死んじゃったら嫌だから。
俺にできることは何でもしようと思った。俺も頑張ろうと思った。それで兄ちゃんが生きてるなら、全然大丈夫だった。」
自分の話の流れに合わせて、俺の声音は明るくなって震えも止まった。
まるで9歳のあの頃の俺が、そのまま今の自分に乗り移っているようだった。
「それにさ、…………あ、今からすっごい酷いこと言っていい?
俺、そもそもあの現実の夢が、あんまり怖くなくなったんだよね。だから泣く必要もなくなったの。」
「……は?」
「2階の窓越しに見た飛竜の目も、父ちゃんと母ちゃんの死体も、サラ姉の死体も、全部ちゃんと夢に出てくるんだけどさ。でもその後はずっと兄ちゃんの背中見てるだけでいいんだもん。
だからさ、兄ちゃんの背中のところまできちゃえば、あとはずっと安心できるんだ。夢の中でも。」
「………………。」
「酷いよね。みんな死んでるはずなのに、その現実の夢を見て朝起きても、全然怖くなくなったの。なんならスッキリ『おはよう!兄ちゃん!いい天気だね!』みたいな。」
兄ちゃんが小さく「お前、確かにそんなんだったな毎朝。」って呟くのが聞こえた。
「俺って薄情な人間だなーって、一時期悩んだくらいだったよ。兄ちゃんがいたらあとは何でもいいのかよ、って。父ちゃんも母ちゃんも大好きだったはずなのにどうしてもっと悲しめないんだ、って。
ね?酷いでしょ?俺。」
俺はなんだか可笑しくなって笑っちゃったけど、兄ちゃんは全然乗ってこなかった。当たり前だけど。
「酷くねえよ。全然。」
俺は沈みきった兄ちゃんの声にまた笑った。
「兄ちゃんはそう言ってくれるよね。優しいから。」
◇◇◇◇◇◇
「おぉー!兄ちゃん完璧じゃん。いつのまにできてたの?」
「冷める前にさっさと食え。」
話し始めたのは俺だけど。そんな俺が言うのもなんだけど。
よく俺のあの話を聞きながら目玉焼き普通に焼いてたな、兄ちゃん。
俺たちはフライパンから直接目玉焼きをつついて食べる。行儀が悪いなんてのは今さらだ。余計な荷物や洗い物が無いに越したことはない。
俺は固さも味付けも完璧な兄ちゃん作の目玉焼きを味わいながらひとり心の中で苦笑する。
──うーん、なかなか辿り着けないな。兄ちゃんに言いたい「あの言葉」に。
たった一言が、なかなか言えない。
でも、きっと俺にとっては必要な道のりなんだ。
俺がちゃんと、心を込めて兄ちゃんに伝えられるように、けじめをつけるために必要な道のり。
俺はもう少し話を続けることにした。
ゴールはもうすぐ見えてくるはずだから。
◇◇◇◇◇◇
「『兄ちゃんが王女様と付き合ってる』って初めて聞いたとき、俺がなんて言ったか覚えてる?」
「なんとなくな。」
学園の休日に合わせて、兄ちゃんと今日みたいに二人で出掛けながら気分転換していたとき、兄ちゃんが急に俺に報告してきた。「一応言っといた方がいいかと思って」って。
俺は思いっきり驚いた。「嘘でしょ?!てか何それ『一応』って?!」と言いながら兄ちゃんを揺さぶった。
「あんとき、俺ぶっちゃけすぐ別れると思ってた。」
「お前な。」
兄ちゃんがちょっとイラッとした声を出す。俺は笑いながら訂正をする。
「ああ、違うんだ。そういう意味じゃないよ。
俺が、兄ちゃんとラルダさんに、別れてほしかっただけ。だから『どうせすぐ別れるだろ。続くわけない!』って自分に言い聞かせてた。」
「…………は?何言ってんのお前。」
兄ちゃんが今度は理解できないといったような険しい声を出した。
「うん、本当ごめん。でも、怖かったんだ。
兄ちゃんを取られちゃうような気がして。……俺だけ、ひとりぼっちになった気がした。ごめんね。」
兄ちゃんは不機嫌そうな声で言った。
「……なんで言わなかったんだよ、それ。言えよ。」
俺は首を振る。
「言えるわけないじゃん。だって兄ちゃん、俺がそれ言ったらラルダさんと別れてたでしょ。」
「…………。」
「それにね、兄ちゃんは怒るかもしれないけど……もし俺がそう言ったら、兄ちゃん、別れるだけじゃなくて死んじゃうかもって思った。兄ちゃんがあの山の中で泣いてたときみたいに。
だって、王女様と付き合うんでしょ?相当な覚悟じゃん。それを唯一の肉親の弟に否定されるんだよ?最悪じゃん。
俺がくだらないことでこれ以上泣きついたら……兄ちゃんは、困って、苦しんで、それで死んじゃう気がした。兄ちゃん優しいし絶対無理するもん。」
俺はあの頃、学園の寮で過ごしてた。
「でも……それから兄ちゃんと別れて寮に戻ったら、俺またあの怖い方の夢を見るようになっちゃったんだ。同室の奴にすげー文句言われた。夜呻いててうるさいって。
……不安になって、怖くなったんだ。
『兄ちゃんを取られちゃう。兄ちゃんがいなくなったら俺は生きていけない。でもそんなことを言ったら、兄ちゃんが死んじゃう!』って。滅茶苦茶な理屈で。」
ああ、俺は馬鹿だ。
今、兄ちゃん隣で絶対困ってる。
でも、いつか言わなきゃいけないと思ってたことだから。これを隠したままだと心からちゃんと「あの言葉」が言えないから。
一度腹を括ってしまえば、ずっと思っていたことがどんどん口から出てきた。
「さっき兄ちゃんは俺のこと『酷くない』って言ってくれたけど、俺は本当に酷い奴だよ。
兄ちゃんがラルダさんと付き合ってた4年間、ずっと『早く別れないかな、ラルダさん早く兄ちゃんに飽きないかな』って期待してた。」
……絶対に今じゃない。今じゃないはずなのに、俺の目から自然と涙が溢れてきた。
誤魔化すのも無理なくらい一気に溢れてきて、俺はべしゃべしゃになった。
さっきの比じゃないくらいみっともなく声が震え出したけど、俺の口は止まらなかった。
「……でも、でもさ、無理なんだよ。そんなの。
だって俺が一番よく知ってるんだもん。
兄ちゃんは世界で一番かっこいいんだ。ラルダさんが飽きるわけない。
兄ちゃんは世界で一番優しいんだ。兄ちゃんがラルダさんを見捨てるわけない。
兄ちゃんは世界で一番責任感が強い人なんだ。二人が簡単に別れるわけないって、本当は俺が誰より一番分かってた。」
兄ちゃんの背中を見ていれば、故郷の町が消えたってへっちゃらだった。
兄ちゃんが隣にいれば、飢え死にしそうになっても魔物に襲われても、何があってもへっちゃらだった。
兄ちゃんのすごさは、誰よりもこの俺がずっと見てきたんだから。
「……だから、グスッ。俺、兄ちゃんが2ヶ月前にいよいよ婚約したって聞いて……ようやく決めたんだ。
俺、いい加減『兄ちゃん離れ』しなきゃって。」
隣で兄ちゃんが何か声を出した気がしたけど、俺にはよく聞こえなかった。
「それでね、この2ヶ月間、何度も何度も兄ちゃんとの日々を思い出して、俺なりにけっこう考えたんだ。」
……ああ、なんとか俺、進めそうだ。
ゴールがようやく見えてきた。
「でね、いろいろ考える中で、俺は一つ『未来の悪夢』も考えてみたんだ。
兄ちゃんとラルダさんが結婚して、二人に子どもが産まれる。それで……嫌な想像だけど、もし突然、王都がウェルナガルドのあの日みたいになったら兄ちゃんはどうするだろうって。
しかもそのときラルダさんが怪我でもしてたら、って。」
「……何、馬鹿なこと考えてんだお前。」
兄ちゃんが弱々しく、でも怒って俺を咎めてきた。
「まあ最後まで聞いてよ。
でね、俺はとにかくそんな未来の悪夢を想像してみたんだ。そしたらね……すっごくあっさり想像できた。
兄ちゃんは、あの日と違って、まず自分の子どもを背負って、それでラルダさんを抱いて走るんだ。で、魔物をちゃんと蹴散らして、子どもとラルダさんを守り抜くの。
……それで終わり。
兄ちゃんはね、俺のことも一瞬助けようとするんだけど、手が足りないことに気付いて『お前も早く逃げろ!』って言って、俺を置いて走って行っちゃうの。」
いつの間にか、自分の涙は止まりかけていた。
「俺は、兄ちゃんが結婚したら三番目になるんだって思った。
もう俺はあの日みたいに、兄ちゃんに背負ってもらえない。今度は自分で逃げなきゃいけないんだって。」
「……っ、ユン、俺は──」
兄ちゃんが掠れた声で何か言いかけたけど、俺は自分の話を続けた。
「でね、心配しないで兄ちゃん。ここからが俺の大発見だったんだから。」
兄ちゃんの婚約が決まって、考えて考えて、そして辿り着いたこと。
「俺、その夢で気付いたんだ。
『全然兄ちゃん、死にそうじゃない!』って。」
俺は自分で言いながら自分で興奮して立ち上がった。
足元には焚き火が燃えていて、丘の下には街の夜景が広がっている。空はすっかり真っ暗で、星はまあまあよく見えた。
「そのとき俺、ようやく確信できたんだ。
兄ちゃんはラルダさんと結婚すれば『幸せに生きていける』んだって。」
俺にとって一番怖いことは、兄ちゃんが死んじゃうこと。
「俺さ、それに気付いたときびっくりしちゃったよ!
あの山の池んとこで兄ちゃんが泣いてたときも、あの怖い夢の中で兄ちゃんが俺だけを逃したときも、兄ちゃんはいつだって死んじゃいそうだったのに。
なのに、その未来の悪夢では兄ちゃんは絶対に生き延びるんだ。」
俺は濡れた顔を雑に袖で拭って笑う。もう涙は完全に止まっていた。
「そしたら意外なことに、俺、また全然怖くなくなった。夜もちゃんと眠れるようになって、仕事もルンルンで行けるようになって。
それこそ『おはようございます!所長!いい天気ですね!』みたいな。」
俺はゴールへと向かっていく。
「俺はようやく理解したんだ。『俺が一番なこと』は全然大事じゃないって。
俺にとって大事なのは、ただ『兄ちゃんが生きてること』だ。
そう思ったら、兄離れなんて簡単にできるって思えた。兄ちゃんに言うべき言葉が、ちゃんと見つけられたんだ。
だからさ、兄ちゃん──」
──ああ、やっと言えそうだ。兄ちゃんに伝えたかったこと。
俺は一歩だけ距離をとって、横に座っている兄ちゃんの顔がしっかり見えるように向き合った。
こういうことは、ちゃんと顔を見て言いたいから。
「今までずっと、俺を一番にしてくれてありがとう。
もう一番にしなくても大丈夫。俺はこれからは、自分の足でちゃんと走るよ。
だから兄ちゃんは、ラルダさんと幸せになってね。
──おめでとう。兄ちゃん。」
やっと言えた。
大好きな兄ちゃんに。ずっと言いたくて言えなかった言葉を。
俺は今までにないくらい心が晴れやかだった。多分だけど俺、今までの人生で一番いい笑顔してるかもしれない。
でも兄ちゃんは違った。俺は笑って一言付け足す。
「兄ちゃんの泣き顔を見たの、けっこう久しぶりかも。」