8 ◇ 新人魔法研究員ユン(前編)
全16話+後日談(数話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
※ 少しですが流血・死亡の表現があります。苦手な方はご注意ください。
早朝の王立魔法研究所。
働き始めて数ヶ月。ようやく慣れてきた自分の職場で、俺は出かけるための最終準備をしていた。
特殊素材の採取用道具、それから携帯野宿セット……こんなもんかな。
「おや?ユンじゃないか。休日だというのに早いな。どうしたんだ?」
「所長!おはようございます!」
背後から声を掛けられ、俺は振り返った。
「はっはっは。朝から元気だな、ユンは。」
「所長こそお早いですね。先日の新魔法発表の件ですか?」
「ああ。それでいろいろと事務処理が溜まっていてな。研究は楽しいが、雑務はつまらなくて仕方がない。休日の朝から憂鬱だよ。」
「あはは、お疲れ様です。」
そして俺はさっきの所長からの質問に答える。
「俺は今日明日と、泊まりがけで素材採取をしに行くのでその準備をしていたんです。趣味の実験用なので、研究所保管のものを使うわけにはいきませんから。」
すると所長は心配そうに俺を見つめてきた。
「ユン一人でか?危険だぞ?多少金はかかるが民間ギルドに発注するのも手だぞ。」
俺は笑って返事をする。
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫です。兄と一緒に行くので。」
「ああ、君のお兄さんか。それならば安心だな。」
所長は納得したように頷く。
王立の研究機関ということもあり、所長は割と王宮の事情を知っていたりする。俺たち一般研究員は関わる機会はないけど、魔導騎士団の幹部ともたまに直接会って情報交換をしているらしい。
そういうわけで当然、兄ちゃんのことも知っている。
「先週たまたまお兄さんとすれ違う機会があったよ。君と全然雰囲気が違うものだから、一瞬分からなかった。」
「あはは。『似てない兄弟だ』ってよく言われます。」
俺と兄ちゃんは髪の色も目の色もまったく同じなのに、周りには兄弟だと全然気付かれない。
兄ちゃんは本当に父ちゃんにそっくりで背も高くはっきりとした顔立ちをしているのに対し、俺は母ちゃんに似て垂れ目でおっとりした顔立ちで背も平均程度だからだろう。まあ、中身も全然似てないけど。
「今週はどうも彼の周りのことでいろいろと騒がしかったようだが、今日出掛けてしまって大丈夫なのか?お兄さんの方は。」
「うーん、どうでしょう?ただ兄も予定を変更したいとは言ってきませんでしたし……むしろ息抜きになればいいなと思います。」
「そうだな。うむ。それでは気をつけて行って来いよ。お兄さんにワシが『おめでとう』と言っていたと伝えてくれ。」
「ありがとうございます。伝えておきます。」
そうして俺は兄ちゃんがいる王都の宿屋へと向かった。
今回の旅は、兄ちゃんと王女様の婚約が内定した2ヶ月前に思い立って、1ヶ月前に兄ちゃんに頼んで予定を空けてもらったものだ。
希少素材の採取は口実というか、ただのおまけ。
──俺も今日、兄ちゃんに伝えたいことがあるんだ。
◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇
本当のことを言うと、俺は昔、兄ちゃんのことがちょっとだけ苦手だった。
俺は小さい頃は病弱で、あんまり外出もできなくて、背も低かった。
だからその分、近所の人から譲り受けた本を使って独学で字を覚えて、読書したり計算したり、こっそり魔法の練習をしたりして家で遊ぶのが日課だった。母ちゃんには「ユンは天才だわ!将来は学者さんになれるんじゃないかしら!」と褒めちぎられていて、すっかりその気になったりしていた。
対して、兄ちゃんは昔っから運動神経が抜群で、猟師だった父ちゃんについて野山を駆け回っていた。父ちゃんは「まだガキは銃なんて持つもんじゃねえ。棒切れで遊んどけ。」と言って兄ちゃんに武器を持たせようとしなかったけど、兄ちゃんは遊びついでにそこら辺で拾った石ころを投げて熊を狩っちゃうくらいすごかった。「危ねえことすんな!」と父ちゃんからゲンコツを喰らってる兄ちゃんを見て「馬鹿だなー兄ちゃん」ってうっかり言ってしまい、よく喧嘩になったりもした。
兄弟仲は普通に良かった。それでも、兄ちゃんを苦手だと思っていたのはただの嫉妬だ。
兄ちゃんは町ですごくモテた。歳の近い女子はみんな兄ちゃんが好きだったんじゃないかってくらい。当たり前だ。見た目も良くて運動神経も良くて、平民では珍しく魔法も使えて、兄貴肌で。モテない訳がない。
それで……当時俺が密かに憧れていたお隣の2つ上のサラ姉も、当然兄ちゃんが好きだった。しかも兄ちゃんは完全に脈無しな態度を取って間接的にサラ姉を振った。
俺には無い魅力を何でもない事のようにあっさり使いこなして、貴重なものだとありがたがりすらしない。俺は「学者になれる」なんて褒められただけで有頂天になっていたのに。もし俺がサラ姉に惚れられたら、それだけで舞い上がれるのに。
ぶっちゃけ兄ちゃんが苦手だった理由はそれが全部だ。
そんなくだらない日常を送っていた俺と兄ちゃんの世界が一変したのは、11年前のあの日だった。
◇◇◇◇◇◇
その日も、俺は病弱なもやしっ子らしく体調を崩していた。
晩飯を少し食べただけで気持ち悪くなってしまって、2階の自分の部屋で休んでいた。
どのくらい経ったか分からないけど、少しスッキリしたかなと思って起きた──次の瞬間だった。
いきなり1階の方で聞いたこともない凄い音がして、兄ちゃんが聞いたこともない声で「親父!!お袋!!」と絶叫した。
俺は寝起きの頭で何も考えられずに固まってしまった。その直後、何発か銃声が聞こえて、バタバタと階段を駆け上がってくる足音がした。
そしてバキッ!と俺の部屋のドアを蹴破って入ってきた兄ちゃんが叫んだ。
「ユン!!逃げるぞ!!」
◇◇◇◇◇◇
「ねえ、兄ちゃん、何があったの?父ちゃんと母ちゃんは?」
俺が困惑しながら問いかけるのを無視して、兄ちゃんはシーツをその馬鹿力で思いっきり割いて、俺を背負ってシーツで自分の身体に縛り付けた。猟師の父ちゃんがよく獲物を背負って帰ってくるときの縄の結び方と一緒だった。
「兄ちゃん、何それ?父ちゃんの銃じゃん。ねえ、父ちゃんと母ちゃんは?」
俺は遅れて、兄ちゃんが部屋に入ってきたときに大小二丁の銃を手にしていたことに気付いた。
シーツの縄を縛り終えた兄ちゃんが床に置いてあった父ちゃんの愛用の銃を手にする。
その銃は、二つとも血塗れだった。
「ねえ!兄ちゃんってば!!」
背負われて兄ちゃんの顔が見えなくなって、いよいよ不安になって俺が叫んだそのとき。
俺は窓の外からこちらに気付いてギョロリと振り返る飛竜と目が合った。
「うわあああああああーーーっ!!!」
間一髪、兄ちゃんが走って部屋を出て階段を駆け降りるのが、俺が叫んで飛竜が窓を突き破って部屋の中に入ってくるのより先だった。
兄ちゃんは1階に降りたら一目散に玄関に向かって走った。
俺はそのとき、チラッと居間の方を見てしまった。
そこには、二体の魔物の死体と、肩から上が無い父ちゃんと母ちゃんの身体があった。
「父ちゃん!!!母ちゃん!!!!」
俺が悲鳴を上げるのと兄ちゃんが外へ出たのは同時だった。
◇◇◇◇◇◇
外は絵本にあった地獄絵図よりも酷かった。
あちこちで火の手があがり、町の人たちが叫びながら大量の魔物に襲われ逃げ惑い、一人また一人と、呆気なく殺されていた。
真正面の道路の向こう側に、ボロ雑巾みたいにズタズタになって倒れてピクリともしない人がいた。サラ姉だった。
「兄ちゃん……兄ちゃんっ……!!」
ガタガタと震え出す俺に、兄ちゃんは前を向いたまま静かに言った。
「ユン。何でもいい。俺に強化魔法と回復魔法をかけ続けろ。」
「え、」
「ユンは俺の背中だけ見てろ。周りは見るな。
──大丈夫だ。兄ちゃんが必ず守ってやる。」
◇◇◇◇◇◇
それから俺は、兄ちゃんに言われた通り、兄ちゃんの背中以外が視界に入らないようにしながら必死に震える声で魔法をかけ続けた。
何が起きているかまったく見えない。ただ、たくさんの人の悲鳴とたくさんの魔物の咆哮と兄ちゃんの辛そうな息切れが聞こえて、俺たちの周りが恐ろしいことになっているんだということは嫌でも理解できた。
そして俺は動転しすぎて、間違えて兄ちゃんの背中に覚えたての火魔法を打ってしまった。密着した兄ちゃんの背中と俺の胸が焼けるように熱くなる。
「っ、ごめん!!ごめん兄ちゃん!!」
俺が泣きながら謝ると、兄ちゃんは吠えるように叫んだ。
「ッ!いいから!!謝ってねえでさっさと回復魔法かけろ!!」
俺は涙でべしょべしょになりながら必死に回復魔法をかける。魔力を使いすぎて頭が痛すぎて、怖くて怖くて滅茶苦茶だった。
そうしてどのくらい経ったのかも分からなくなっていよいよ意識が飛びかけた頃。
兄ちゃんは俺を背負ったまま追ってくる魔物を殺しきって、焼け落ちる町から逃げ切った。
◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇
「はぁ〜あ。トロすぎんだろこの馬車。日ぃ暮れるっつの。歩いた方が速えわ。」
「まあいいじゃん。それに兄ちゃん、せめて『走った方が速い』くらいにしておこうよ。」
「走ったら俺らの方が速いのは言うまでもねえだろ。この馬の全速力程度なら強化魔法すらいらねえよ。」
「そんなん兄ちゃんだけだから。俺は魔法ないと無理だよ。」
王都の宿屋で無事に合流できた俺たちは、予約してあった馬車に乗って目的地に向かっていた。
俺はのんびりと窓の外を見る。のどかな田園風景が広がっていて、その向こうに山々が見える。
「俺、久しぶりだなぁ。王都の外に出るの。こういう風景、なんか懐かしいね、兄ちゃん。」
学園最後の年は休日も卒業研究や就職活動で忙しかったから、気晴らしに王都を散策するくらいが精一杯だった。
本当にこうして兄ちゃんと王都の外に出掛けるのは1年半振りだ。俺は何やかんやで、こういう景色の方が好きだなと実感する。
すると窓枠に肘をつきながら退屈そうにしていた兄ちゃんは俺の方を見て笑った。
「俺は一昨日も遠征行ってっけど……まあ、お前とは久しぶりだな。」
◇◇◇◇◇◇
目的の渓谷近くの街に着いた俺たちは、慣れた動きでその街の民間ギルドに入って単発登録の手続き書類を取った。
俺がささっと二枚分記入する間、横で兄ちゃんは首をゴキゴキ鳴らしながら肩を回して待っていた。そして俺が書き終わったところで、一緒に依頼書が貼ってある掲示板を見に行く。
「ユンー。なんかいいやつあるかー?」
兄ちゃんが掲示板を眺めながら間延びした声で聞いてくる。
「んー……とりあえず三色草の採取はいくつかやっておこうかな。俺の目的のもんだから、ちょっと余分に採取してけばいいだけだし。」
俺がいくつか依頼書を掲示板から外して取っていると、横で兄ちゃんも気に入ったのを見つけたのか、一枚依頼書を取った。
……兄ちゃんが文字を読んでる姿、実はまだちょっと違和感覚えるんだよな。俺としては。不思議な気分。
「んじゃ、俺これすっかな。」
「なになに?何にすんの?」
「双頭地竜の卵。最初の依頼額から3倍になってるし。割りが良い。」
「えぇー?俺そんな奥地まで行く気なかったんだけど。」
ギルドではなかなか依頼が達成されないと報酬が釣り上がっていくことがある。
特に魔物の卵を納品する系の依頼は危険度が高いから報酬もいい。巣から卵を奪う行為は魔物を一番刺激する行為で、討伐と同等か、下手に遭遇したら討伐よりも格段に難易度が高い仕事になる。
基本的に「討伐」というのは、人里に被害が及ぶところに魔物が出現した場合に限り依頼される。だから「卵の納品依頼があっても、その魔物の討伐依頼は出てない」なんてことはよくある。魔物の巣は大抵、人里から遠く険しい自然に守られた場所にあるからだ。
ちなみにこういった卵の依頼は研究機関から出されることが多く、魔物の生態研究に生かされる。あとは稀に珍味を求める羽振りのいい貴族くらい。
俺が不満の声を上げると、兄ちゃんは依頼書を確認しながら軽く言った。
「大丈夫、大丈夫。兄ちゃんが守ってやっから。心配すんな。」
久しぶりに聞くその言葉に、俺は脊髄反射のごとく何も考えないまま頷いていた。
「うん。ありがと兄ちゃん。……じゃあそれにしよっか。」
するとハッと気付いたような顔をした兄ちゃんが、なんだか複雑そうな顔をして頭を掻いた。
「あ゛ー……完全に無意識だったわ。もう癖になってんな、これ。」
──大丈夫。兄ちゃんが守ってやる。
この言葉は、あの日からの兄ちゃんの口癖だ。
俺はこの言葉を毎日、毎日、何万回と聞いてきた。
◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇
ウェルナガルドから満身創痍で逃げ延びた俺たちは、何も持っていなかった。
父ちゃんの二丁の銃も戦っている間に壊れたらしく、銃身が曲がってしまっていてもう使い物にならなかった。血だらけの壊れた銃など売れるわけもなく、ボロボロの身なりの見知らぬ子供を雇ってくれる物好きもいるはずもなく。俺たち兄弟はしばらく野宿を余儀なくされた。
その後、結局そこら辺で取った薬草や狩った獣を換金しながら食い繋いでいるうちに、行き着いた街のギルドで依頼を受ける放浪兄弟っていうスタイルが確立した。
野宿生活の最初の頃は、とにかく本当に酷かった。
まず、すべてが怖くて眠れなかった。一瞬目を閉じるのすらも怖くて、一瞬立ち止まるのすらも怖くて、ずっと走って逃げていないと死んじゃうんじゃないかと思っていた。
猟師の息子だったとはいえ、狩った獣の調理法なんかまだ知らないし、ましてや調理器具もない。
だからもう腹に入れば何でもいいの精神でとにかく何かを口に入れて、恐怖と疲労で、疲労が勝って気絶できるまで、何もかもに怯え続けていた。
「兄ちゃん、兄ちゃん……怖いよ……うっ、ううっ!母ちゃん……っ、父ちゃんっ!」
俺は本当にずっと泣いているだけだった。
朝も、昼も、夜も。兄ちゃんはその度に、一日中俺の頭を撫でて背中をさすりながら
「大丈夫。大丈夫だユン。兄ちゃんが守ってやるから。心配すんな。」
って言い続けて、ずっとそばにいてくれたんだ。
◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇
ほぼ絶壁に近い崖を、滑るように下っていく。
三色草の群生地を速攻で見つけた俺たちは、先に双頭地竜の卵を回収してしまうことにして巣を探していた。
「ねえ、兄ちゃーん。」
「んー?」
「双頭地竜の卵といえばさぁ。」
「んー。」
「生で食べたときのこと覚えてる?」
「忘れる訳ねえだろ。」
「だよね。今日多めに取れたらどうする?って思って。」
「さすがに食わねえよ。お前研究所持って帰れば?」
「えぇー……うーん、どうしよっかなぁー。」
昔、まだ野宿に慣れず四苦八苦していた頃。
半ば遭難しかけながら、偶然見つけた双頭地竜の卵を兄ちゃんと生のまま食べたことがある。
今思えば「二人して馬鹿だったなー」と笑えるけど、当時の俺たちは本気で知らなかった。野生の卵を生で食べたら危険だって。双頭地竜の卵は特に、加熱しないと毒性があって危険だって。
二人して3日3晩吐きながら腹を壊して生死を彷徨った。汚い思い出だ。
ちなみに三色草にも思い出はある。
野宿にもだいぶ慣れて板についてきた頃。
俺はあり物で晩飯を作ろうとして、何故か出来心でスープの中に適当に三色草を混ぜた。そしたら滅茶苦茶美味くできて兄ちゃんも珍しく絶賛してくれたんだけど、そのまま次の日二人して酔い潰れた。三色草は生なら滋養強壮にいい薬草だけど、加熱すると酒みたいに酔う特殊な効果が出る草だった。しかもそのとき魔物に襲われて死にそうになって二人で泣いた。愚かな思い出だ。
どれもこれも、無知で幼くて泥臭い思い出ばかり。
それでも俺にとっては、全部全部、怖かったけど大切な思い出だ。
俺は崖を降りながら辺りをざっと見渡す。そして「兄ちゃん!」と谷を挟んで向こう側の崖の間にある窪みを指差した。
俺の声に兄ちゃんがすぐに反応する。足に身体強化魔法を軽くかけて一気に俺が指差した窪みの入り口までジャンプした。いや、ジャンプというより人間弾丸のように直線で突っ込んでいったと言った方が正しいかもしれない。
兄ちゃんが軽く窪みを覗いて、さっとその中へと消えていく。俺は滑っていた足を踏ん張って降りるのを止め、足に強化魔法をかけて今度は崖の上へと登っていった。
崖の上に着いて胡座をかきながら兄ちゃんのいる窪みを見つめていると、ほどなくして兄ちゃんがひょっこり出てきて、こっちの方へひとっ飛びで戻ってきた。
「おかえり!兄ちゃん。あった?卵。」
すると兄ちゃんは担いでいた袋をバサッと広げた。
「めっちゃあったわ。取りすぎた。」
「うん、めっちゃあるっていうか…………なんで角もあんの?」
「親がちょうど巣穴にいてキレてきたからついでに折って持ってきた。」
兄ちゃん……卵狙われてキレてる魔物が目の前にいるのに、必要以上に卵かき集めてついでに角まで折るって……。
「兄ちゃん強欲〜。俺には絶対できない。」
「こっち追ってくる前に逃げんぞ。」
「うわ、最悪っ!袋の中見せてる場合じゃないじゃん!」
「うっせ!おら、走れ!全速力!」
僕は兄ちゃんに左手首を掴まれたまま引っ張られるようにして一気に走った。
昔はこういうとき完全に地面から足が離れ宙ぶらりんになってしまっていた。そのせいで肩が脱臼して、回復魔法でも治りきらなくて近くの街の医者に診てもらう羽目になったこともある。今はギリギリついていけるからいいけど、また研究員の仕事で身体が鈍ったらすぐ脱臼しそう。
……そうなるのは、やっぱり怖いな。
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◇◇◇◇◇◇
俺が「自分、もしかして動けるほうの人間?」と自覚したのは学園に入ってからだった。王都に来て学園の中等部に入って、最初の身体能力テストでいきなり1位をとった。肝心の剣術は素人でさっぱりだったから武術の総合成績は上の中だったけど、ただの短距離走や跳躍なんかはずっと負け無しだった。
ウェルナガルドで暮らしていたときは病弱なもやしっ子で、それから死に物狂いで生き延びていたときは常に兄ちゃんしか側にいなかったから、ずっと自分は力が弱くて足が遅いままだと思っていた。
学園でようやく気付けたんだ。あ、兄ちゃんがヤバイだけだったんだ。俺はちゃんと4年間でそれなりに鍛えられてたんだなって。
戦うのはだいたい兄ちゃんの役目だったから、俺が鍛えられたのは主に逃げ足だったけど。
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◇◇◇◇◇◇
無事に帰りがけに三色草もたくさん採って、俺たちは街に戻ってきた。
俺が「ギルドに寄って納品する前に、宿屋の方が近いから一旦余計な荷物は置いてっちゃおうよ」と提案して宿屋に受付しに行ったとき、小さな事件が起こった。
「……え?重複予約?」
「大変申し訳ございません。完全にこちら側の不手際でして──」
「えぇー。俺たち1ヶ月前には予約入れてたんですけど……こっちの方が後だったんですか?」
「あ、いえ、その……お二人の方が先にご予約はされていたんですが、もう一組の方々は小さなお子様連れのご家族でして、すでにお部屋にお入りになっておりまして……誠に申し訳ございません!」
「だってよ、兄ちゃん。どうする?」
「…………チッ。」
「ヒイッ!!ももも申し訳ございません!」
兄ちゃんの舌打ちに、宿屋の人が過剰に怯える。
ちなみに兄ちゃんはこういうとき、存在に威圧感があるだけで意外とキレてない。本人の中では「チッ。どうすっかな……めんどくせー。」くらいのニュアンスで、なんなら実は俺の方が内心キレてる。
まあ、兄ちゃんのすぐに舌打ちしたり「あ゛?」って言う癖は普通に悪癖だと思う。それによって確実に人生損してる。
「残念だけど、今日は野宿だね。」
「んー。どうせ他の宿も空いてねえしな。っつか、街のでかさに対してぜってー宿屋自体足りてねえだろ。」
「ギルドでシャワーだけ貸してもらうかぁ。」
「仕方ねえなー。」
そして俺たちはギルドに行き、卵と三色草を納品し、おまけの角も換金してもらい、シャワーを借りた。
稼いだお金と余った卵と三色草、それから旅の鞄を持って、適当な飯屋で晩飯を済ませて、野宿する場所を探しながらフラフラと街の外を歩き回った。
「兄ちゃん。俺、王都の外を久しぶりって言ったけど、野宿はもっと久しぶりかも。」
「お前と野宿したのって学園入る前が最後だったか?」
「ううん。学園入ってからも一回か二回あったけど。週末こうやって気晴らしに出掛けて、宿予約し忘れたことあったじゃん。」
「あー……あったな。」
「でもそれも5年前くらいじゃない?」
「そんな前か。」
「うん、そんな前だよ。」
ちょうどいい感じに街を見下ろせる丘を見つけた。登ってみたら風も気持ち良かったから、その丘で街の夜景を眺めながら野宿をすることが決定した。
さっさと焚き火用の木を拾ってきて、魔法で火をつける。飲み物は街で買ってきたけど、そういえば小腹が空いたときにつまむための食べ物を買い忘れた。
「兄ちゃん……卵焼いちゃう?」
俺はサッと鞄から携帯用のフライパンと調味料の小瓶を出して足元に並べる。
「お前、まだそんなん持ち歩いてんのかよ。……もう研究員なのに。」
兄ちゃんは半ば呆れたような感心したような顔をする。
「うん。荷物の中に入ってないと落ち着かなくてさ。でも役に立ったでしょ。」
「まあな。」
「あ、俺、いつもの感じね。」
「あ゛?俺が焼くのかよ。」
「うん。目玉焼きだけは兄ちゃんの方が上手いじゃん。」
「ったく我儘な弟だなー。」
片手で卵を割って焼き始める兄ちゃんの手元を見つめていたら、兄ちゃんが視線に気付いたのかこっちを見て笑った。
「お前、今日ずっと笑ってんのな。」
……別にタイミングを窺ってた訳ではないけど。
話すなら今かなっていう気がして、俺は口を開いた。
「ねえ兄ちゃん。俺さ、兄ちゃんに話したいことがあるんだ。」
──ずっと言えてなかった「あの言葉」を、ちゃんと兄ちゃんに伝えよう。