後談1 ◆ 悪役令嬢と平民男の初喧嘩 - アルディート視点
紆余曲折の後日談です。
全9話。基本毎日投稿予定。
「クゼーレ王国一の幸せな花嫁」ラルダ第一王女のご結婚。
婚礼式典でのラルダ王女の力強い演説は、多くの国民の心を揺さぶった。
僕たちの両親、パラバーナ公爵夫妻も然り。
そしてラルダ王女に感化された僕たちの両親は唐突に、とある決断をしたのだった。
◆◆◆◆◆◆
「えーっと、はじめまして。お邪魔します……。」
ある日突然、僕とセレナの実家であるパラバーナ公爵家本邸に連れてこられたユン。
僕の学園時代にできた唯一無二の親友であり、双子の妹セレナの恋人。
ユンは今日は魔導騎士団の方の勤務日で、団服を着ていた。仕事帰りに研究所の職員寮の前に来たところを僕とセレナで捕まえて、半ば強引に馬車で連れて来てしまったのだ。
そしてユンは今、完全に死にそうな顔をして恐縮しまくりながら、僕とセレナに案内されて本邸へ足を踏み入れた。
「……ッスゥー……この度は誠に申し訳ございませんでした。どうか命だけは…………儚い人生だった。」
僕たちに連れられて大食堂へと歩いていく間、譫言のように謝罪と遺言を残すユン。
僕はそれを聞いて思わず笑ってしまった。
「ははっ!大丈夫だよ、ユン。そんなに心配しないでくれ。決して悪い話ではないから。」
「うぅー……そう?」
胃を抑えながら聞いてくるユン。
「もちろん。まだ話の内容は言えないけどね。お父様とお母様が直接話したいそうだ。」
「うぅー……何でぇぇ……?……もうダメだぁ。」
どうやら不安は拭えないらしい。
何故そんなにも怯えているのだろうか。ユンは僕がこれまでの人生で出会った人々の中で、誰よりも素晴らしく尊敬に値する人物なのに。
僕がそのまま「何故そこまで不安がっているんだ?」と聞いたら、ユンは萎びた顔で「だって怒られる心当たりしかなくて……っていうか、そもそもセレンディーナ様と平民の俺がお付き合いしてる時点でどう考えてもダメでしょ。」と返してきた。
………………まあ、言われてみればそうか。
僕たちは今日の両親の意図を知っているし、そもそもセレナとユンが付き合うに至った経緯については、ユンに申し訳ないとさえ思っている。
しかしユンの方からすれば、経緯はどうあれ、平民でありながら四大公爵家の一角であるパラバーナ家の娘と交際してしまっているのだ。両親への断り無しに。
両親の怒りを買っていると考えてしまうのも無理はないのかもしれない。
「まったく。いつまでも情けない男ね。堂々としていればいいでしょう?みっともないわよ。」
元凶であるはずのセレナが呆れたように言う。
「ハイ。すみません。」
そんなセレナにユンは素直に謝った。
「……ユンはもう少しセレナに怒ってもいいと思うぞ。」
僕が思わずそう言うと、ユンは萎びたまま僕の方を向いて力なく笑った。
「あはは……まあ、俺が情けないのは事実だからね。」
◆◆◆◆◆◆
大食堂に入ると、すでに席に並んで座っていた両親がユンの姿を見て立ち上がった。
「やあ!ユンくん。よく来てくれたね。」
「お仕事帰りに突然呼び出してしまってごめんなさいね。どうぞ座って。」
にこやかに歓迎する両親。それを見てユンはようやく少し安心したようだった。
いつものようににっこりと笑って「はじめまして。この度は誠に申し訳ございませんでした。」と流れるように挨拶をしてから「あっ、間違えた!この度はお招きいただき誠にありがとうございました。」と流れるように訂正をしていた。
ユン……。
僕は思わずユンに憐れむような目線を送ってしまったが、ユンは「にこっ!」という音まで聞こえてきそうなくらいの人懐っこい笑顔で無理矢理誤魔化そうとしていた。
両親は一瞬違和感を覚えたようだったが、ユンの笑顔につられて、二人揃って「にこっ」と破顔して「はじめまして。ようこそ我がパラバーナ公爵邸へ。」と返していた。
お父様、お母様……。
そしてお父様とお母様に向かい合うようにして、僕たちは席に着いた。セレナと僕に挟まれるようにして座ったユンは、学園で一通りテーブルマナーを学んできたとはいえ、落ち着かないといった様子で緊張していた。
「さて、本題に入る前に、まずは食べるとしようじゃないか。」
お父様の一声で、使用人たちが動き出す。
こうしてセレナの恋人ユンを交えた、初めての晩餐会が始まった。
◆◆◆◆◆◆
最初の緊張が嘘のように、晩餐会は和やかに進んだ。
お母様はユンに「かしこまらなくていいのよ。」と気を遣い、お父様はユンに早々に魔法研究所の話を振った。お父様は若かりし頃、科学研究者として王宮の別機関に勤めていたことがあり、現在でも暇を見つけては趣味の研究に没頭している。魔法と科学。分野は違えど、同じ研究者。お父様とユンは目を輝かせながらお互いの研究について語り合っていた。
特に、ユンの現在の個人研究の内容にお父様が科学的観点から意見を述べたときは、ユンは「あっ、すみません!行儀悪くてすみません!一瞬失礼します!」と言いながら鞄からノートとペンを取り出して必死にメモを取っていた。それからメモを眺めながら満足そうに笑って「あぁー!ありがとうございます!ちょっと行き詰まっていたんですが、お陰様でうまく進められそうな気がしてきました!」とお父様にお礼を言っていた。
お父様は満更でもなさそうにしていて、セレナは完全に二人だけで盛り上がっているのが悔しいのか、ほんの少しだけ不貞腐れていた。
そうして皆が夕食を食べ終え、食後のデザートと紅茶を口にする。
そこでようやく、お父様がユンに本題を切り出した。
「ところで、ユンくん。」
「はい。何でしょう?」
「今日、君を呼んだのは他でもない、娘のセレンディーナのことで、君に聞きたいことがあるからなんだ。」
「聞きたいこと……ですか?」
ユンはキョトンとしながらコテンと首を傾げる。その横で、セレナが顔をほんのり赤らめながらそわそわしだした。
お父様はそんなセレナを見て優しく微笑み、ユンの方へと真剣に向き合い、はっきりと伝えた。
「ユンくん。我々パラバーナ家は、ユンくんに正式にセレンディーナの婚約者になってもらいたいと思っている。
一般市民であるユンくんにとって無茶なお願いだということは重々承知している。だが、どうか、娘と結婚を前提に婚約してはくれないだろうか。
セレンディーナには、ユンくん。君しかいないんだ。」
◆◆◆◆◆◆
大きな目をまん丸にして固まるユン。
そんなユンを見ながら、お父様は続けた。
「もともとセレンディーナは、思い込みが激しく我儘で、努力家ではあるがその分容赦なく他人を見下すような娘だった。口を開けば敵しか作れず、どんどんと孤立するばかり。
完璧な自分には相応しくないと言い張り、婚約者はおろか、婚約者候補の一人も選ぼうとしない。
だから……正直なところ、我々は諦めかけていたんだ。セレンディーナはもう、生涯一人で生きてゆくしかないのかもしれない、と。」
「っ、お父様!!」
セレナが顔を真っ赤にして怒りながら立ち上がる。そんなセレナを、何故か隣に座っていたユンがビクッと怯えながら見上げた。
しかしお父様はセレナの方は見ずに、ユンに向かって語った。
「だが、セレンディーナは変わった。
家庭教師を変えても、住む場所を変えても、国を超えて婚約者候補を探しても……私や妻、アルディートが何を言っても変わらなかったセレンディーナが、あるときから少しずつ変わっていったんだ。
相変わらず高飛車ではあるが、内面では他人を思いやれるようになった。
相手の格を決めつけて馬鹿にする前に、きちんと立ち止まれるようになった。
そして何より……自分に相応しい相応しくないなどの上から目線の選別ではなく、真っ当に目の前の人物を見れるようになった。
それはすべて、ユンくん。君のお陰だ。」
ユンはお父様からの言葉を受けて、さらに驚いたような顔をして、それから少し戸惑ったように瞳を揺らした。
「これはセレンディーナ自身も言っていたことだが……ユンくんを逃してしまったら、娘は今後一生、結婚などできないだろう。
身分の差や生活環境の違い、将来の人生設計など、問題が山積みなのは分かっている。だが、決してユンくんにとって悪いようにはしない。それは約束しよう。」
「あっ……どうも、お気遣いありがとうございます。」
突然の熱量のあるお父様のプレゼンに、ユンは目を泳がせながら間の抜けたお礼をした。
そんなユンに向けて、お父様に続けて、お母様が笑顔で提案をした。
「それでね、わたくしたち考えたの。
ユンくんがもしよければ、だけれど……2ヶ月後のアルディートとセレンディーナの20歳の誕生日パーティー。そこでユンくんとセレンディーナの婚約発表も兼ねるのはどうかしら?
ユンくんの同僚の魔導騎士団や魔法研究所の方々も、今ならまだご招待が間に合うわ。そこでとびきり盛大に二人の婚約を祝いましょう。いかが?」
……自分で言うのもなんだが、僕はこの激情家揃いのパラバーナ家の中では自分が一番冷静な方だと思っている。
その僕は親友のユンを心配して、彼の顔色を窺った。
学園での3年間の付き合いで、僕なりに理解はしているつもりだ。
ユンは我が公爵家の人間とは真逆。派手なことを嫌い、身のほどを弁えて行動し、大それた夢は抱かずに、謙虚に慎ましやかに過ごそうとする傾向にある。
さらにユンは、その人懐っこい笑顔や態度とは裏腹に、かなりシビアに一線を引いてくる鉄壁の心の持ち主だ。にこやかに喋っていながらも、一定以上のラインに踏み込まないように、逆に踏み込まれないように、迂闊に心を開きすぎないように──常に慎重に見極めている。すべて笑顔で受け流して、本心を悟られないように隠していると言った方が正しいかもしれない。
いずれにしろ、かなり物事を落ち着いて捉える性格だ。もちろんその結果、思い切りのいい決断をする場合もある。決断力や行動力がないというわけではない。だがしかしそれは決して、一時の感情に流されてのことではない。
僕の知るユンは、そういう人間だ。
……そんなユンが、今のこの激情家たちの熱い婚約推奨話についていけているだろうか。
……………………。
どうやら案の定、ついていけていないようだった。
ユンは小さく「なるほど」と呟き頷いて、そのまま首を傾げて「……な、なるほど?」とまた呟いた。
どうやら何かを口にしておかなければならないと思ってとりあえず相槌代わりに呟いているだけのようだった。
僕はそんなユンにそっと助け舟を出す。
ユンの肩を軽く叩いて「要約すると、お父様とお母様は今、ユンにセレナとの婚約の打診と、2ヶ月後の婚約パーティーの提案をしているんだ。ユンはその2点だけを考えてくれればいい。」と伝えた。
するとユンはハッとしてこちらを向いて、それから笑って「あ、ごめん。ありがとうアルディート。」と言い、また首を傾げて「うーん、な、なるほど……」と呟いた。
そんなユンの様子を見て、速攻で頷かない彼に少し不安になってきたのか、セレナが「ユン……?」と声を掛ける。
その声を聞いたユンはセレナを安心させるように笑いながら「ああ、すみません。ちょっと突然だったもので、びっくりしちゃって。」と返した。
それから少しの間ユンは考えるような仕草をして、やがて「わかりました。」と笑顔で頷き、姿勢を正して口を開いた。
「お話ありがとうございます。お二人にそこまで言っていただけて、恐縮です。
婚約の件は身に余る光栄で、とても嬉しいです。
ですが…………申し訳ありません。俺は『婚約パーティー』はちょっと。遠慮したいんですけど。」
◆◆◆◆◆◆
ユンが笑顔のまま、少し眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。
それを聞いたセレナが、隣に座っていたユンの顔を困惑した表情で見た。
「えっ?……ユン。どういうことなの?」
それに対し、ユンは目をキョトンとさせて首を軽く傾げながら答えた。
「え?どういうことも何も、言葉の通りですよ。
俺は婚約パーティーは出たくないので、遠慮させてくださいって言っただけです。」
「ユンは、わたくしとの婚約が嫌だというの?」
セレナが動揺しだす。そんなセレナにユンは首を傾げたまま説明をした。
「そんなこと言っていませんよ?
俺は『婚約』じゃなくて、『パーティー』が嫌なんです。だから、パーティーはやらないか、もしやったとしても俺は欠席でお願いします。」
「け、欠席って……だって、ユン。貴方が主役じゃないの。主役がいないなんて、おかしいじゃない。」
「そうですか?パラバーナ公爵家のセレンディーナ様の婚約発表というだけなら、俺の存在はいらなくないですか?
別に俺、平民ですし。どうせ貴族の方々との交流の際には何のお役にも立てませんよ?改めて顔を売る必要なんてないと思うんですけど。」
僕は「ユンにしては珍しく強引な屁理屈だな」と違和感を覚えた。
そう思っていたら、ユンはそれが屁理屈であることを隠さずに本音も続けて言ってきた。
「まあ、そんな建前はどうでも良くて、要するにただ俺が無理なだけなんです。
俺、平民なんで貴族様のパーティーって一回しか出たことがないんですよ。
『セレンディーナ様とアルディートの誕生日パーティー』。
あの一回でパーティー自体が怖くなっちゃったので、出たくありません。」
◆◆◆◆◆◆
セレナと僕、そして僕たちの両親が皆揃って沈黙する。
平民であるユンを、不慣れなパーティーの場で開始早々注目の的にして、公開告白の返事までさせてしまったあの日のこと。
第一王子ご夫妻も、学園の元クラスメイトたちも、有力貴族たちも……全員がユンに視線を向けていた。
……そういえば、ユンはあのときオーネリーダ公爵家のアスレイ先生ご夫妻の近くにいた。
アスレイ先生は元魔導騎士団で、ユンのお兄様と同期だったと聞いたことがある。アスレイ先生経由でお兄様やその周りの人々にも話が伝わってしまっていたのかもしれない。
ユンは笑顔のまま続けた。
「俺、多分パーティーに出るって決まっただけでもすごく具合悪くなっちゃうと思うので、本当に無理なんです。だから申し訳ありませんが、ご配慮いただけませんか?
もちろん、婚約に際しての身内同士の顔合わせ等は全然問題ないです。」
ユンの発言に、セレナが戸惑い焦ったように微かに震えた声を出した。
「そんな……それじゃあ、ユンはパーティーはすべて嫌だということなの?……もし結婚しても、結婚披露パーティーもしないということなの?」
ユンはしれっと断言した。
「そうですね。さすがに結婚式は……まあ、身内と知人をちょっと……10人くらいずつ呼ぶ程度ならギリギリ耐えられそうですけど。
結婚披露パーティーは無理です。」
セレナは絶句した。
ユンの言う「ギリギリ耐えられる」結婚式は、貴族はおろか、平民であってもかなりの小規模な部類のものだろう。
公爵家の華やかなパーティーを当たり前として生きてきたセレナや僕たちからしたら、常識はずれの信じられない提案だった。
「で、でも無理よ。そんなの聞いたことがないわ。公爵家の人間が婚約パーティーも結婚披露パーティーもしないなんて。」
「そうなんですか?でも、俺みたいな平民と婚約するのもあんまり聞いたことがないんじゃないですか?それなら前例から外れても変ではないと思いますけど。」
「……わたくしは婚約パーティーがしたいわ。皆にきちんと伝えたいもの。」
「いいと思いますよ。セレンディーナ様がパーティーをお好きなら。すればいいと思います。」
「……っ!ユン!やっぱり出てくれるの──……」
「でも俺は欠席するので。よろしくお願いします。」
「そっ、それはおかしいじゃない!だって、わたくしとユンの婚約パーティーなのよ?わたくし一人で出ろというの?」
「すみませんが、そうなりますね。
……もし『パーティーには絶対にペアで出なければならない』って決まりでもあるなら、アルディートに頼めばいいんじゃないですか?俺、そこら辺はよく知らないんで分かりませんが。
あ、別に俺の名前は全然出してもらって構わないので。『ユンって人と婚約しました』って言っておいてもらえれば充分です。言わなくてもいいですけど。」
ユンは笑顔のままだが、その言葉にはだんだんと棘が出てきていた。心なしか声のトーンも少し低くなってきている気がする。
セレナに粘られていることが若干不愉快そうな……「こんなささやか希望すらも何故通してくれないのか」とでも言いたげな様子だった。
セレナはそんなユンを説得しようと必死になっていた。
「でも、常識的に考えたら、やっぱりおかしいわ。他の貴族たちからもどう思われるか……」
「平民の俺の常識で考えたら、そもそも全部おかしいですけどね。この大きな家も、この椅子も、このテーブルも、豪華な料理も、着ている服も、使用人の方々がいるのも──俺からしたら全部常識外です。
だいたい、いちいちパーティーを開いている人なんて一人も見たことがありません。」
「ユ……ユンっ……」
「そもそも『婚約』ってステップ自体も、そんなに仰々しいものじゃないですけどね。
俺の常識を言ってもいいですか?
俺だったら、結婚しようって決めたら、まず両家の家族……俺なら兄ですね。兄に話伝えて、兄のところに結婚相手を連れて行って挨拶します。それで、兄と結婚相手のご家族とみんなで一緒に一回豪華な飯でも食って、それで終わりです。
あとは結婚式当日になるんじゃないですか?」
「そんな……ひっ、酷いわ……。」
セレナが思わず漏らした一言に、ユンが一瞬真顔になる。しかしすぐにそれをまた笑顔で隠して、さっきまでに比べ、棘を剥き出しにしてセレナに言い返した。
「『酷い』って何がですか?
……一般的な庶民の常識がですか?
……それとも、俺の生まれ育った故郷の常識がですか?
すみません。どこが酷いのか教えてくれますか?俺、貴族様と違ってよく分からないんで。」
セレナが顔を真っ青にする。セレナだけじゃない。僕も、僕の向かいにいる両親も、顔から血の気を引かせてしまった。
ユンは「ウェルナガルドの悲劇」の生き残り。想像を絶するほどの過酷な人生を送ってきた人間だ。そのことは両親もすでに僕とセレナから話を聞いて知っている。
そしてユンは今、セレナの「酷い」の言葉を受けて、平然とその事実を出してきたのだ。
…………ユンが、怒っている。
僕は学園で3年間、ユンと友人として共に過ごした。
その間、ユンはいつも笑顔で、明るくて、何があっても決して怒ることはなかった。
入学式当日にいきなりセレナに「馴れ馴れしいのよ!この平民が!」と怒鳴られたときも、剣術の授業で他のクラスの奴に「剣術の師についたこともないのか貧乏人!」と馬鹿にされていたときも、僕と一緒にいるのを見られて「公爵令息に取り入ろうとして必死だな。見苦しいぞ。」と言い掛かりをつけられていたときも、僕が何も深く考えずにユンの生い立ちを聞いてしまったときも、ユンはずっと笑っていた。
僕が心配しても「全然気にしてないよ」「だって本当のことだし」と言いながら、すべてをおおらかに受け止めていた。
さっきだって、何もわからずに強引に連れてこられた挙句セレナに「情けない男」と呆れられても、笑って許してくれていた。
でも、今はそうじゃない。
僕はユンが怒っているのを、初めて見た。
セレナはもしかしたらすでにユンと一度くらい喧嘩でもしたことがあるのかもしれないと一瞬思ったが、セレナの表情を見てすぐに違うと分かった。
恐らくセレナにとっても、こんなユンは初めてなのだろう。
もともと派手好きで、誰よりも華やかで豪勢な場こそが自分に相応しいと思って生きていたセレナ。きっとセレナは、ユンとの婚約発表も結婚報告も、これまでのどんなパーティーよりも盛大に……なんなら王女様よりも盛大にすることを夢見て、実際にあれこれ思い描いていたに違いない。
そんな夢が今、ようやく目の前まできたというところで、よりによって人生でたった一人……ようやく見つけた最愛の相手ユン本人によって全否定され、あまつさえ怒りまで買ってしまったのだ。
セレナはもうどうしていいか分からないようだった。
そのまま涙目になりながら、震える声で苦しい思いを口にした。
「ユンが婚約パーティーにも結婚披露パーティーにも出ないなんて……そっ、そんなことじゃ、わたくし、ユンと婚約も結婚もできないじゃない。……そんなの嫌よ。」
──その瞬間、ユンの纏う空気が一気にどす黒く厳しくなった気がした。
「…………へーえ。貴族様って、パーティーしないと婚約も結婚もできないんだ。俺、婚約や結婚って書類上での契約で成立するもんだと思ってたんだけど、庶民とは文化が違うんだね。
……貴族様って、大変ですね。」
ユンが完全に真顔になる。
「ユン……ッ。」
セレナが泣きそうになりながら彼の名前を呼んだが、ユンはそれに対して、ユンにしてはあり得ないくらいの冷たい視線を思いっきりセレナに投げかけた。
「……何?もしかして違うの?
え?じゃあ今のって、ただの『脅し』ってこと?
『パーティーに出なかったら婚約も結婚もしない。そうなったらユンは困るでしょう?だからパーティーに出なさい。』
……とでも言いたかったの?」
セレナはもう泣き出す寸前のように唇をきつく結んで息を呑んだ。
そんなセレナに、ユンは決定的な言葉を投げかけた。
「俺、そういう相手を試すために脅しをかけるようなこと言うやつ、大っっっ嫌い。
別に脅しじゃないならいいけど。本当にそれを天秤にかけろっていうならいいけど。
じゃあ俺、セレンディーナ様に言われた通り、『婚約』と『パーティー』の二つを、冗談抜きで本気で天秤にかけて考えてくるね。
話してくれてどうもありがとう。」
そしてユンはセレナの顔からまったく躊躇わずに視線を外し、両親の方を向いてにっこり笑ってこう告げた。
「──ということで、お話ありがとうございました。一旦持ち帰って検討してきますね。
では、今日のところはそろそろ帰らせていただきます。失礼しました。」
……僕はずっと勘違いをしていた。
僕たちの誕生日パーティーでのあの騒動。
あの後ユンはセレナを笑顔で受け入れ、交際をしてきてくれた。だからすっかりユンはあの日のことを許してくれたと思っていた。
でも違った。ユンは全然許していなかったんだ。
あの日、初めての貴族のパーティーで、皆の前で怯えるユンに公開告白し、返事の選択肢すら与えなかったセレナのことを。
……それだけじゃない。
嫌がるユンを無理矢理招いたくせにセレナを止められなかった僕のことも、あの場でユンを助けようとしなかった僕の両親のことも……ユンは許していなかったんだ。
ずっとずっと根に持って、ただそれはそれとして我慢して、セレナと交際してくれていただけだったんだ。
僕たちが無言で固まっている間に笑顔で立ち上がり、またまったく躊躇うこともなく使用人たちに会釈をしながら去っていくユン。
──「待ってくれ」、「違うんだ」、「許してくれ」、「話はまだ終わっていない」、「その言い方はないんじゃないか」、「本当にセレナと別れる気なのか」、「お願いだから考え直してくれ」……
どの言葉が正解か分からない。全部不正解だとしか思えない。
僕たちが無言で固まる中、ユンの姿はあっという間に見えなくなってしまった。
ついにセレナが「うわあぁーーーん!」と、子どものような声をあげて泣きだした。
……こんな泣き方、本当に初等部の頃が最後だったんじゃないか。
もうセレナは感情を爆発させた5歳児のように、手で目をぐしぐしと擦りながら泣き続けていた。
そしてパラバーナ家の応接間には、葬式よりも沈痛な地獄のような空気が流れた。




