12 ◆ ユンのコソ泥デビュー戦(4)ユン視点
全16話(執筆済)+後日談(執筆中)。基本毎日投稿予定です。
恋愛系小説にて苦手な要素がある方は、先に投稿済の【第二部 注意書き】をお読みください。
犯人が犯行現場に戻るときって、こんな心境なんだ。
……まじで吐きそう。怖すぎる。
俺が宿屋に着いたときには、兄ちゃんはもう部屋に着いていた。
ミリアさんが全然昨日のことなんて無かったかのように「あ、ユンさん!こんにちは!ゼンなら部屋にいますよ!」と言ってくれたのが唯一の救いだった。
……もう、ミリアさん、本当好きです。人として。
ミリアさんが王都演劇大賞の主演女優賞だよ。あんなに感動しいなのに、こんなに普通に振る舞えるなんて。挙動不審の大根役者の俺とは大違いだ。
ミリアさんが舞台女優デビューでもしたら、俺は絶対追っかけになる。
そんな感じで軽く現実逃避をしながら重い足取りで階段を上がり、3階の兄ちゃんの部屋にお邪魔する。
兄ちゃんは普通に丸テーブルに酒とグラスを置いていて、俺たちはいつも通りそれぞれテーブルに椅子を寄せて座った。
「……お前さ、」
そして座って早々、兄ちゃんが俺に切り出した。
兄ちゃんの睨むような目付きは生まれつきのものだし、普段は全然何とも思わないけど、今日だけはすごく心臓に悪かった。
……ごめんなさい、ラルダさん。多分兄ちゃんにバレました。せっかくの計画を台無しにしちゃったかもしれません。
実行犯の俺は指示役のラルダさんに心の中で謝罪をした。
……やばい本気で吐きそう。なんで昨日あそこで休む判断をしちゃったんだ。昨日午後3時の俺の馬鹿。
そんな俺の心境を知らない兄ちゃんは、普通に眉間に皺を寄せながら俺に向かってこう言った。
「最近どんだけ寝てねえんだよ。顔まじでやべえぞ。」
──あ!よかった!バレてない!!
てっきり「昨日お前宿屋で何してたんだよ。」とか「昨日王城行ったろ。訓練場から見えてたぞ。」とか「今日ラルダに何渡してたんだよ。」とか言われるかと思ってた。まじで心底ほっとした。
俺はうっかり口角が上がりそうになってしまった。慌てて口を尖らせてその頬の筋肉の動きを誤魔化す。不自然極まりない表情だったと思うけど、仕方ない。うっかり笑顔になって再度疑われるよりよっぽどマシだ。
俺はこの世の泥棒たちを尊敬した。
よくこんな心臓に悪いことして平然と生きていけるな。今度コソ泥に遭遇したら財布を取り返して腕の骨を折った後で「尊敬してます!」って言ってサインでももらっておこうかな。
「ああ、なんだ。そんなこと。」
俺は安堵のままに本心を口にした。
そんな俺に、兄ちゃんは苛ついたような声で怒る。
「『そんなこと』じゃねえだろ。お前鏡見てみろよ。まじで死人みてえだぞ。」
「えぇー?そうかなぁ?」
俺はそう言いながら、壁際の机の上に置いてある宿屋の備品の手鏡を軽く覗いた。
「うーわ、やっば。怖っ。」
思ったより酷かった。我ながら死人だった。
兄ちゃんはでかい溜め息をひとつつきながら、グラスの酒を口にした。俺もとりあえずグラスを持って兄ちゃんと一緒に酒を一口飲む。
「お前、何か悩みでもあんの。」
兄ちゃんがストレートにお悩み相談所を開催してきた。
「うーん、特にないけど。」
俺は素直に答える。
ついさっきまで悩みというか焦りは感じてたけど、それもたった今杞憂に終わったから解決したし。
俺は一気に普段のテンションを取り戻した。普通に会話ができるって素晴らしい。
「……お前、例の公爵令嬢とうまくやってんの?」
ここまで聞かれて俺は察した。
兄ちゃんが俺に聞こうとしてること。
……まあいいや。一番の懸念だったラルダさんとのコソ泥計画バレは防げたことだし、素直に白状するか。
「うん、まあ。今のところは。誠意をもってお付き合いさせていただいてます。」
兄ちゃんは別に「公爵令嬢との関係に悩んでんのか?」って言いたいわけじゃない。
どっちかっていうと「公爵令嬢と付き合ってるせいで女遊びできなくて寝れてねえんだろ?」って言いたいんだと思う。
俺はそれを察して、先回りして返事をした。
そんな俺を見て、兄ちゃんは「はぁーあ」と声に出してまたでかい溜め息をついた。
「お前どうすんだよ。このままじゃやべえんじゃねえの。」
俺は酒を少し飲んで、目を上に向けて考えた。
「うーん……どうしよう。たしかに困るかも。思ったより顔やばかったし、俺。」
「お前な。何でそんな他人事みてえなんだよ。」
兄ちゃんが横で呆れてる。
「でも、本当にどうしようもないっていうか仕方ないし。さすがに彼女がいるのに他で遊ぶほど落ちぶれたくはないもん。俺。」
もう今さらっちゃ今さらだけど、それでもそこの一線は超えたくない。そこを超えなければギリギリ真人間として認定されるから。俺基準では。
じゃあ、自分が寝るために彼女を使えばいいかっていうと、それはそれでもっと違う。
それをした瞬間に、俺はもう二度と真っ当に彼女の恋人を名乗れなくなる。彼女には俺の事情抜きで、ちゃんと誠実に向き合っていなきゃいけないと思う。それも俺の真人間認定基準。
……それにそもそもセレンディーナ様は貴族だし。結婚どころか婚約もしてないのに手を出そうもんなら、俺はアルディートに確実に殺される。
「そもそも何でまた寝れなくなってんだよ。問題はそこだろ。」
「……たしかに。言われてみればそうかも。」
俺は兄ちゃんに聞かれて首を捻る。
……うーん、何でだろう?
しばらく考えて、俺は一つ思い当たるものを見つけた。
「んー……多分、特に問題なくお付き合いが続いちゃってるから……かな?」
「は?」
兄ちゃんが俺の意図がつかめないって感じの声を出した。
俺はその場で考えながら、特に内容もまとめないまま思っていることを口に出していった。
「なんかさ、別に普通に続いちゃってるし、俺には勿体無いくらいのいい子だし、何の問題もないんだけどさ。
……だからかな?何か最近怖くなってきてるんだよね。このまま上手くいっちゃいそうで。」
セレンディーナ様は本当に純粋で綺麗で、素直な心の持ち主だと思う。
というか、考えること一つ一つ、悩みの一つ一つが本当にささやかで平和だ。
先週会ったときは「そろそろ俺に敬語をやめてほしいが、一度敬語をやめられたらもう二度と自分に向けた敬語は聞けなくなってしまうのか」って悩んでた。超くだらなくて笑った。
俺が一応「敬語をやめることはできますけど、復活させることはたしかに難しいですね。」って答えたら、少しだけ悩んだ後に「じゃあ、わたくしが満足するまで、もうしばらくの間、今まで通り敬語でいてちょうだい。」って謎の指示をされた。多分、これ永遠に解決しないやつだと思う。俺はそのうち結局「半々」に落ち着くんじゃないかと予想している。一応普段は敬語で、でも敬語を忘れて話すことがあってもいい……みたいな。
そんなセレンディーナ様を見てると、なんだか「人生って面白いもんなんだなー」って思えてくる。そのくらいのことを一生懸命悩める人生が、何だか羨ましくなってくる。
で、その悩みを毎回俺に共有してくるから、俺も一緒になってそのささやかで平和な人生の悩みを考えることになる。その時間が俺は最近けっこう好きだったりする。俺まで一緒に、そういう面白い人生を歩んでるような気分になれるから。
あと、まあ……そういうセレンディーナ様が普通に可愛いと思う。
俺のことを何故か異様に好きでいてくれるのも悪い気はしない。たしかにアルディートの言うように我儘で暴走しがちな人なのかもしれないけど、俺の言うことにはけっこうホイホイ納得して合わせてくるし。むしろチョロすぎて心配になる。
今のところ許せないのは、あのパラバーナ家のパーティーでの公開告白──間違えた。公開処刑だけだ。あれだけは本気で一生許さない。今はまだ態度に出してないけど、今後喧嘩でもしたら俺は絶対に「あのとき俺を公開処刑したくせに!」ってキレる自信がある。
……あ、そういえば、まだ一度もあのときのことセレンディーナ様に謝ってもらってないかも。俺は一応逃げたことを謝ったのに。なんか思い出したら腹立ってきた。
まあでも……正直、普通に絆されてきてる。
ただ──、
「このまま続いてったらさ、そのうち本当に『大切な人』になっちゃう気がして、怖いんだよね。
今ならまだギリギリ引き返せる気がするけど、本気で彼女を『大切な人』にしちゃったらさ、いよいよ引き返せなくなるっていうか……なんか、俺が抱えきれる気がしないっていうか……よく分かんないけどなんか怖い。
……兄ちゃんの前で重いこと言うけどさ、多分俺、兄ちゃん以外に大切な人を増やすのが怖いんだと思う。
だって兄ちゃん以外の大切な人なんて、どうしていいか分かんないもん。」
兄ちゃんはというと、無言で酒を飲んでいた。
普通の表情だったから、兄ちゃんが何を考えてるかは俺には読み取れなかった。まあ、別に読み取る気もないけど。
俺は素直に感想を漏らす。
「兄ちゃんはすごいね。俺と違って、ラルダさんもちゃんと大切な人にできて。」
すると兄ちゃんはあっさりと否定してきた。
「別に。すごくねえよ。俺もお前と同じだし。」
「へ?どういう意味?」
今度は俺の方が兄ちゃんの言葉の意図が分からなくて首を傾げた。
「どういう意味も何もねえよ。『同じ』っつってんだろ。俺だってユン以外の家族なんてどうしていいかよく分かんねえし。
4年半……もうすぐ5年か。ずっとよく分かんなくて気持ち悪いなって思ってお前みたいに悩んでたし、今もまだ若干気持ち悪いよ。」
「…………兄ちゃん。『気持ち悪い』はさすがに失礼じゃない?」
「別にラルダのこと気持ち悪いっつってるわけじゃねえだろ。」
「まあ、それはそうだけど。」
じゃあまあ、いっか。
「兄ちゃんはそれどうやって解決したの?まだ若干は残ってるみたいだけど。」
兄ちゃんは「んー」ってしばらく考えてから、普通の顔で言った。
「ずっと気持ち悪いままでいて、そのまま婚約しちまって、いよいよまじで寝れなくなってたらドルグス副団長にバレて言わされた。今のお前みたいに。」
「なるほど。で?」
「んで、とりあえず言ったら『それを全部ラルダに話せ』って言われて、ラルダに話したら……アイツが『婚約者の非公表を貫く』って言い出した。」
「……ああ、あのときの話か。そういう経緯だったんだね。」
俺は納得して頷いた。
「じゃあまあ……俺ももしそんぐらいまで続いたら、彼女に相談するかもね。」
……でもなぁ。セレンディーナ様に相談したら、しっかりしてるラルダさんと違って意味わかんない結論出してきそうだなぁ。いつものしょうもない悩みみたいに。
……それでいいのかもしれないけど。
「ただ、俺は兄ちゃんと違ってそこまで保つ気がしないなぁ。好きになりきる前のこんな時点で、すでに兄ちゃんの婚約後みたいになっちゃってんだもん。」
俺はそう呟いた。
なんか、そう考えたら……俺はもう詰んでるのかもしれない。
兄ちゃんは俺と違って、うまくこの宿屋って場所を見つけて、気持ち悪いなりにうまく寝て、ちゃんとラルダさんと4年間お付き合いを続けて、それで婚約できたんだ。
婚約者になれたから、悩みだって打ち明けられた。
……でも。俺はそこまで耐えられる気がしない。
兄ちゃんにさっき指摘されて、鏡で自分の顔を見て、今こうして自分の気持ちを理解したら……分かっちゃった。
「うん。やっぱり、そうだ。俺は……ダメだ。……これ以上は無理だ。
俺は兄ちゃんみたいにうまく寝る方法を見つけられない。兄ちゃんみたいにうまく大切な人を作れない。
……多分、俺の人生はきっとここが限界なんだ。」
酒が入ったせいで、俺はうっかり泣いてしまった。なんか声が震えてきたなと思ったら、勝手に涙が流れてきてた。
今ならまだ引き返せる。
引き返したら、またセレンディーナ様が言ってた「最低な男」になってクズ再認定されて、「わたくしを最後にしなさい」っていうあの突然の意味不明な指示も守れなくなっちゃうけど。
それでも引き返さないともう、俺はいよいよ生きていけなくなる気がする。
俺は兄ちゃんと違って弱いから……ここがもうきっと、限界だ。
「兄ちゃん。俺……俺は兄ちゃんみたいに強くないから、もうこれで充分なんだ。
兄ちゃんに守ってもらって生き延びて、一緒に楽しく暮らしてきて、兄ちゃんに学園まで通わせてもらって、憧れてた研究所に就職できて。それだけじゃなくて、ラルダさんとクラウス隊長にも助けてもらって、魔導騎士団にまで入れちゃった。
……俺、もうこれで充分幸せだよ。これ以上いらない。……これ以上は、俺には無理だよ。」
もう俺の目からは壊れた蛇口みたいにボロボロと涙が出続けていた。
自覚はなかったけど、もしかしたら俺、相当参ってたのかもしれない。
──もう嫌だ。何も考えたくない。何もいらない。
だからとにかく今はただ早く寝たかった。何でもいいから、どうでもいいからひたすら早く寝たかった。
「兄ちゃん。俺、もうやだよ。全部やだ。もう嫌だ。早く寝たいよ。もう早く寝たい。」
持ってた飲みかけの酒のグラスの中に涙がボロボロ落ちていく。あーあ、これ飲んだら絶対に不味いだろうな。勿体無いことした。
そんな俺の横で、兄ちゃんがそっと動いた。
──それで、兄ちゃんは泣いてる俺の背中を軽く……でもけっこう力強めにトントンと叩いて、それから当たり前のようにさすってくれた。
昔みたいに。ウェルナガルドから逃げ出したあの日からずっと泣いてた俺に、毎日やってくれてたように。
「大丈夫だ。兄ちゃんがついててやっから。
……いいからお前はとりあえず早く寝ろ。」
そうしたら俺は何故か急に頭がぐわんとして眠くなって、頭の位置がコントロールできなくなった。
最後に意識が飛んだ直後に「ガンッ!」って物凄い音がした気がしたけど、多分あれは俺が目の前のテーブルに頭を打ちつけて、テーブルの上の酒瓶を倒した音だった。
あー、中身溢れちゃったかも。勿体無いこと──……
◆◆◆◆◆◆
…………………………
◆◆◆◆◆◆
酷い頭痛とともに、俺は目が覚めた。
とにかくめっちゃ頭痛い。なんか、内側もだけど外側も痛い気がする。どっか打ったっけ?
それから数秒かかって、ここがどこだか思い出した。
……ここ、宿屋の兄ちゃんの部屋か。で、ここはベッドか。
あれ?俺ちゃんとベッドで寝たっけ?
……いや、寝てない。俺最後、酒のグラス持ってたもん。
どうやら俺はあの後、気絶して意識を飛ばしてそのまま何時間か寝ちゃったらしい。兄ちゃんが俺をベッドまで移動させてくれたんだろう。
「えぇー……俺、気絶しながら寝たの、かなり久しぶりかも。」
目だけ開いて横になったまま、俺は素直な感想を口にした。本当にまじで久しぶりかもしれない。
「しょっちゅうやってたらいよいよやばすぎんだろ。」
椅子に座ってた兄ちゃんが呆れたような目で俺を見てくる。
「たしかに。……でもけっこうスッキリした。ありがと兄ちゃん。」
俺はそう言って笑いながら起き上がる。だんだん頭痛いのも収まってきた。
頭痛が引いてきて気付いたけど、身体がだいぶ軽い気がする。
うん。やっぱり睡眠って素晴らしい。
「あ、ごめん兄ちゃん。俺多分めっちゃ汗かいた。」
なんとなくだけど、起きたときの湿った感じでそう思った。
すると兄ちゃんは、何でもないことのように言った。
「別に問題ねえよ。どうせ明日ミリアが替えるし。」
「あ!そっか!ここ宿屋だもんね。
いいなぁ。自分でやんなくても毎日シーツが替わるなんて最高じゃん。俺も宿屋探そっかな。」
そう冗談を言って笑ったら、兄ちゃんは心配そうに「……ユン」って俺の名前をポツリと呼んだだけで、全然乗ってこなかった。
……うん、それはそう。今のは俺の冗談のセンスが悪かった。寝起きだから頭回ってなくて仕方なかったってことにしといてほしい。
兄ちゃんは俺の顔をじっと見つめていた。
そんな兄ちゃんの後ろの机の上に、昨日盗んだ父ちゃんの銃が置いてある。たった一日前のことなのに、遠い昔のことのようだった。
なんか、こうやって泣き疲れて寝て起きたときに兄ちゃんが横にいるってのも、久しぶりだよなぁ。いつ振りだっけ?こういうの。
俺は昨日のことと昔のことを、時系列も何もかも無茶苦茶になりながらぼーっと頭の中で振り返った。
──あ、そうだ。そうだよ。……そうだったじゃん。
まだ眠りから醒めきってない頭で、ただぼーっと兄ちゃんの顔を眺めてたら、俺は急に思い出した。
そのまま特に何も考えずに、俺はとりあえず口を開く。
「………………ねえ兄ちゃん。」
「何だよ。」
「俺さ、今思い出したことがあるんだけど。」
「……何だよ。」
「なんで今まで忘れてたんだろうってくらい、当たり前だったことなんだけど。」
「……だから何だよ、それ。」
本当に今、突然思い出した。
どうして今まで忘れてたんだろう。
ものすごく当たり前のことだったのに。
あの日からずっとずっと、毎日毎日、何年も何年もそうだったのに。
何も試行錯誤する必要なんてなかったのに。最初から答えなんて分かりきってたことなのに。
……そうだ。きっと学園に入って、兄ちゃんと離れて……それでうっかり忘れちゃってたんだ。
だから俺は、こんなにも遠回りをしちゃってたんだ。
知ってたはずの答えを、勝手に忘れて困ってたんだ。
「……俺、兄ちゃんに背中さすってもらってるときが、一番よく眠れたんだった。」
こんな大事なこと、どうして忘れちゃってたんだろう。
俺は言いながら、何でか分からないけどまた目から勝手に涙を流していた。
そんな俺の顔を見た兄ちゃんが、一瞬目を見開いて、それから眉間に思いっきり皺を寄せて目を細めて口を曲げる。
兄ちゃんの顔は、今にも泣きだしそうだった。
俺は前に、この宿屋でラルダさんに言われた言葉を思い出した。
──「これからも弟としてゼンに……兄にたくさん頼って甘えてくれ。」
あのときは正直あんまりピンと来てなかったけど、今なんとなく、ピンと来た。
もしかしたら、兄ちゃんもラルダさんも、案外許してくれるのかもしれない。
……こんないい歳した俺の、ガキみたいな我儘を。
「ねえ、兄ちゃん。」
「……何だよ。」
「いい歳してガキみたいで、本当に恥ずかしいんだけどさ。」
「………………。」
「また、寝れなくなっちゃったら兄ちゃんのとこに来てもいいかな?
……背中、さすってほしいんだ。兄ちゃんが昔ずっと、俺にやってくれてたみたいにさ。
そしたら俺、割とすぐに寝れる気がする。」
言ってみたらすごく簡単なことだった。
俺はあまりにもくだらなくて、やっぱり恥ずかしくて思わず笑っちゃったけど、兄ちゃんは全然そうじゃなかった。
俺は笑って一言付け足す。
「なんで兄ちゃんがそんなに泣いてんの?変な兄ちゃん。」




