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婚約者様は非公表  作者: 湯瀬
第二部
32/93

5 ◆ 悪役令嬢と平民男の初デート(後編)セレンディーナ視点

全16話(執筆済)+後日談(執筆中)。基本毎日投稿予定です。

恋愛系小説にて苦手な要素がある方は、先に投稿済の【第二部 注意書き】をお読みください。

「ねえユン。やっぱり……わたくしでは駄目なのかしら。わたくしはユンの恋人にはなれないのかしら。」


 ユンはわたくしの急な言葉に、困惑したような声を出した。


「……え?えーっと、どういうことですか?そんなに俺、今日つまんなそうでしたか?」


 わたくしは首を振る。


 そんなことはない。ユンは今日一日、とても楽しそうにしてくれていた。わたくしもとても楽しかった。

 …………でも。


「だって貴方、わたくしに全然手を出そうとしないじゃない。」


「ブッフォ!!……ゲホッ!ゴホッ!」


 ユンがいきなり変な声で吹き出したと思ったらいきなり咽せ出した。


「え?!ちょっ、何ですかそれ?!」


 ……何よ。わたくしは真剣に悩んでいるというのに。馬鹿にしているのかしら。


「だって……ユンはわたくしに友情以上の魅力を感じなかったということでしょう?違うの?」


 わたくしはお兄様と婚約者様の仲睦まじい姿を何度も見てきた。手を取り合って、見つめ合って……そこにはただ楽しいだけではない、甘い恋があった。

 でもわたくしたちは違った。ユンはわたくしにいつもと変わらない笑顔を向けるだけだった。歩いていても手を取ろうともしなかった。わたくしと違って、恋焦がれるような視線など一度もなかった。


 今朝は初恋が叶ったと嬉しくなったけれど、また気分は逆戻りしてしまった。

 やはり今日が最初で最後の日になるのかもしれない。今日一日で、ユンに「やっぱり無理でした」と言われて終わるのかもしれない。


 ……そう思うと、涙が出そうだった。


 するとユンが、珍しく真面目な顔をしてわたくしの両肩を掴んでこちらに身体を向けてきた。わたくしは俯いてしまいそうだったが、肩を掴まれたせいでそれもできなかった。


「セレンディーナ様。」

「……何かしら。」

「そういう判断基準は、とっっっっっても危険なので改めた方がいいです。」

「どういうこと?」


 わたくしが尋ねると、ユンは少し口を尖らせて一瞬言いにくそうにして、それでもはっきりと説教をしてきた。


「好きかどうかと、手を出せるかどうかはまた別ってことです。

 大切だからこそ手を出さない場合もあるし、逆にどうでもいいからこそ手を出せるって場合もあります。

 だからそれで一喜一憂するのは間違ってます。ダメです。そんなことを言っていたら悪い男にすぐ手を出されますよ。」

「そうかしら?」

「そうです。貴族様は婚約者が決まっていることが多いから、そこら辺の感覚というか警戒心が薄いのかもしれませんけど。それはまずいですよ。危険です。」

「貴方はどちらなの?大切な人には手を出すの?出さないの?」

「…………時と場合と相手によります。」


 何よそれ。そこは「セレンディーナ様が大切だから手を出していないんです」と言うものではないの?


 ……やはり、わたくしには魅力がないのかもしれない。


「ユンは、わたくしに魅力を感じる?手を出せると思う?」


 そう問いかけるとユンはほんのり顔を赤らめながら「どういう質問ですか?!」と返してきた。


「どうもこうも、そのままの意味よ。わたくしに手を出したくなるような魅力がないのかもしれないと思っただけ。」

「いやいやいやいや!だからその判断基準はまずいんですって!

 そんなこと言ったら、セレンディーナ様相手なら男なんて全員その気になれば手を出せますから!美人ですし魅力ありますから!だから人前で軽々しくそういうこと言っちゃダメですよ?!」


 ユンが必死になってわたくしに訴えてくる。


 ……わたくしは今さらりと「手を出せる」と言われた気がした。ユンにとって、わたくしはちゃんと魅力はあるということでいいのかしら。


 わたくしが「人前で軽々しくなんか言わないわよ。ユンだから言っているのよ。」と言ったらユンは今度は顔を真っ赤にしながら「えぇー……嘘ぉ……」と困惑したような声を出した。


「今日一日過ごしていて思ったのよ。

 ユンはいつも通りで、わたくしばかりが好きみたいだった。

 ……だから聞いただけ。」


 わたくしがそう呟くと、ユンは赤い顔のまま目を丸くした後、その熱を引かせつつ眉を下げて笑った。卒業式のあのときのように「困った人だなぁ、仕方ないなぁ」とでも言いたげな顔だった。


「要するに不安にさせてしまったということですね。すみませんでした。」

「………………。」

「自分で言うのも恥ずかしいんですが……さすがに今はまだセレンディーナ様との熱量の差はあるかもしれませんね。俺の方がまだ覚悟が全然足りていないので。」


 覚悟じゃなくて、恋心の話なのに。


 ユンが分かっていてその言葉を敢えて避けて「覚悟」に置き換えたのが伝わってきたからこそ、わたくしは余計に惨めな気分になった。


 そんなわたくしの心境を知ってか知らずか、ユンはわたくしを安心させるように温かく笑った。


「でも大丈夫ですよ。俺、きっとセレンディーナ様のことすぐに好きになっちゃいます。多分すぐに追いつきますよ。」


 わたくしは驚いて、目を見開いた。


「……な、何よそれ。意味がわからないわ。何でそんな『予告』ができるのよ。」


 わたくしは驚いたまま、何も考えずに口からそう発してしまっていた。

 そんなわたくしを見てユンはにっこりとした。


「だって、今日一日だけでも俺、何度も『セレンディーナ様可愛いなぁ』って思いましたもん。

 あと俺けっこう惚れっぽい自覚あるんで。あと3回もデートしたら普通に落ちちゃうと思います。」


 ……何よそれ。


「惚れっぽいって、ダメじゃないの。それ。わたくし以外の誰にでもすぐに落ちるってこと?」

「いえいえ。さすがに恋人がいたらよそ見はしないので。問題ないです。」

「無茶苦茶な理屈ね。全然論理的じゃないわ。何も安心できない。……本当に貴方、研究員なの?実験も雰囲気でしているんじゃない?大丈夫なの?」


 わたくしがそう言うと、ユンは声をあげて笑った。


「あはは!そうそう!そういうところ可愛いと思います。」


 何が可笑しいのよ。変なことを言っているのは貴方のほうじゃない。やっぱりわたくしを馬鹿にしているとしか思えない。


 でも、今はっきりと「可愛い」と言われてしまって、わたくしは全身が熱くなってしまった。胸が痛い。


 …………悔しい。苦しい。……腹立たしい。


 またわたくしのことを変な言葉でその気にさせて、軽率に振り回して笑うユンが許せなかった。


 それなのに、すごく幸せだった。ユンに「好きになる」と言ってもらえた。それだけで泣きたいくらいに嬉しかった。


 この感情をどうすればいいか分からなくなって、ただユンにぶつけたくて仕方がなくなってしまった。


 だからわたくしは、やり方も何も分からないまま、衝動のままにユンの服を引っ張って彼を引き寄せ、その笑った顔に口をつけた。



◆◆◆◆◆◆



 勢いがついていたせいで、どちらかというと痛かった。わたくしの口はちょうどユンの口の真正面……ではなく、犬歯のあたりに当たった気がする。もしかしたら今のでユンは口の中を切ってしまったかもしれない。


 そしてわたくしはすぐにユンを押し返した。

 少し遅れて冷静になって、それから今までの人生で一番顔が熱くなってしまった。


 ……何をやっているのだろうわたくしは。これではわたくしがただの悪い女ではないか。


 ユンの同意もなく、いきなり襲った犯罪者のような女になってしまった。


 ユンはというと、完全に顔から表情を抜け落として「えぇー……嘘ぉ……」と先ほどと同じ言葉を呟いていた。


 わたくしはそんなユンを見て、遅れてショックを受けてしまった。


 ユンは顔を赤らめることもなかった。


 私は恥ずかしくて死にそうになった。いっそこのまま、激怒したユンに殺されてしまいたかった。

 わたくしの目には涙が滲んできて、わたくしの声は震えてしまった。


「ご、ごっ……ごめんなさい。違うの。違うのよ。」


 何が違うというのだろう。何も違くないのに。


 わたくしが震えながら泣き出したことに気付いたユンが、慌ててわたくしを宥めようとした。


「えっ?!いや、どうしたんですか?!大丈夫ですって!泣かないでください!」

「だって、いきなり嫌だったでしょう?ほっ……本当にごめんなさい。……そんなつもりじゃなかったの。」

「いやいや嫌じゃないです!全然!嬉しかったですよ?!ありがたき幸せ!僥倖(ぎょうこう)です!!えっ?何言ってんの俺?」


 勢いだけでフォローしようとしているのか、ユンは自分でも何を言っているのか分からなくなっているようだった。


「無理しなくていいわ。だって……全然嬉しそうじゃないし……やっ、やっぱり嫌だったでしょう?」

「いや!脳の処理が追いついていなかっただけです!申し訳ないです!」

「そっ、それに痛かったし……ユンは口を切ってしまったかもしれない……。」

「それはぶっちゃけ切れましたけど!名誉の負傷ってやつですよ!えーっと……そう!男の勲章です!」


 わたくしは涙が止まらなくなってしまった。


「せっかくの初デートだったのに……はっ、初めてのキスだったのに……ユンを傷つけただけだったわ。……っ、わたくしは最低だわ。」

「大丈夫です大丈夫です!これはこれで趣深いですし!あと、テイク2(ツー)!テイク2(ツー)で巻き返せます!」

「………………。」


 ユンのフォローは滅茶苦茶だった。

 それでも、わたくしはその言葉に少しだけ救われてしまった。


 テイク2(ツー)。もう一度やり直せるのだろうか。


「……ユンは、もう一度わたくしとキスできるの?」


 ユンは必死の形相で力強く頷いた。


「できますできます!余裕でできます!」

「……でも、わたくしは怖いわ。また……ユンを傷つけてしまうかもしれないもの。」

「アッ、じゃあ次は俺から行かせていただきます!」


 ユンはそう言って片手を軽く上げる。もはや選手宣誓のようだった。


 しかし、それからユンはそのまま焦って何かを行動に移すかと思いきや、そうではなかった。一息ついて落ち着きを取り戻して……そして優しく笑った。「ですのでセレンディーナ様、本当に大丈夫ですよ。ありがとうございました。」と言いながら。

 ユンはしばらくわたくしを見守り、こちらも落ち着きを取り戻したところで、ほっとしたような顔をした。


「……涙も止まりましたね。良かったです。」


 そう言っていつも通りに笑うユン。


 ……なんとなくユンが、このまま今のキスを、今の話をなかったことにしてしまうような気がしてわたくしは不安になった。

 だから、散々ユンを困らせて傷つけてしまっているのを承知で、わたくしはみっともなく我儘を言ってしまった。


「それで……本当にユンからもしてくれるの?」


 するとユンはわたくしの方を見て少しだけ驚いて、それからあっさりと笑った。


「あはは!そうでしたね。では、失礼します。」


 そしてユンはあっさりとわたくしの頬に片手を添えて、あっさりとわたくしへと顔を近付けた。


 ……少しだけユンの顔の角度を変えながら。



◆◆◆◆◆◆



 ユンからのキスは、わたくしの拙いそれとはまったく違った。

 同じように軽く触れただけのはずなのに、信じられないくらい気持ち良くて、溶けてしまいそうで、疼いてしまいそうな、このまま何もかも委ねてしまいたくなるような──とても色気のあるキスだった。


 ………………そう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 時間にすればほんの数秒。けれど、わたくしの心臓は握りつぶされたかのように痛くなり、顔は血管が千切れそうなほどに熱くなり、目には先ほどとは違う涙が滲んだ。


 だから──……ユンがわたくしから離れた次の瞬間、わたくしは痛くなった胸を抑えながら、(ほて)った顔のまま、何とか無理矢理正気を保つために、敢えてユンを思いっきり潤んだ瞳で睨みつけた。


「随分と『慣れて』いらっしゃるのね。わたくしと違って。」


「あっ、やべっ。」


 ユンが小さく呟いたのをわたくしは聞き逃さなかった。

 そして思いっきりわたくしから目を逸らして明後日の方向を見るユン。


 ………………。


 人生で記念すべき初めての恋人とのキス(テイク2)のはずなのに、もはや感動も余韻も何もなくなっていた。平民はまさか皆こんなものなのだろうか。信じられない。


 わたくしは先ほどまでの弱気になっていた自分をすっかり捨て去り、早速、目の前の恋人(ユン)を問い詰めた。


「ユン。」

「……ハイ。」

「貴方とっても経験が豊富なようね?」

「いえ、それほどでも。」

「褒めてないわよ。」

「アッ、ハイ。すみません。」

「一体今まで何人のどこぞやのお嬢様とそういうことをしてきたの?」

「えーっと、そんなに……ほんの少しだけです。」

「ちなみに。」

「……ハイ。」

「一体『どこまで』したことがあるのかしら?」

「そんなことまで聞きます?!」

「当然でしょう?どうせいずれ分かってしまうことだもの。今みたいに。だったら事前に聞いておいた方がまだマシだわ。」

「なるほど。一理ありますね。」

「で?答えは?」

「えーっと、そのぉー…………ひ、一通りは。」


 やっぱり。


「……そう。」

「ごめんなさい。」

「何故謝るの?」

「ヒェッ!すみません!」

「とっても大切な彼女だったのでしょう?」

「……いやぁ、別に……そういうことでもなく……」

「じゃあまさかただの遊びで、ということ?」

「うーん……まあ、そのー……そういうことになっちゃいますかね。強いて言うなら。」

「平民は皆こうなの?」

「いえ、そんなことはないです。多分。」

「じゃあ貴方が(ただ)れているということね。」

「ヴッ!い、いや……爛れているというほどでは……」

「言い訳かしら?」

「……イエ。失礼シマシタ。」


 わたくしはユンから視線を外して大きく溜め息をついた。それを聞いたユンがビクッと肩を揺らす気配がした。


 わたくしが怒っているとでも思っているのかしら。大胆な割に小心者なのね。


 気を取り直してわたくしはまたユンの方へと向き直った。


「……別にいいわ。

 貴方は『破廉恥』で『軽薄』で『誠意のない』所詮は平民だもの。

 わたくしと違って『雑に』『誰に』『何を』消費していようが今さら驚かないわ。

 結婚する気も責任を取る気もない相手に『一通り』していようと、相手も同じく『適当』な女ならば何の問題もないわよね。後腐れなく『遊ぶ』のに便利な魔法薬も庶民の間では普及しているようだから。

 ねえ?貴方は可愛らしい顔をして、本当は最低な男なんでしょう?」


 わたくしの(とげ)しかない言葉に、ユンは身体を縮こませながら目を細めて「ヒェ……おっしゃる通りです」と弱々しく鳴いた。


 …………呆れた。


 さっきわたくしに説教してきたときに言っていた「悪い男」って、ただの自己紹介だったんじゃないの。妙に実感がこもっていると思ったら、そういうことだったのね。


 わたくしはなんて残念な男に惚れてしまったんだろう。

 今までのわたくしだったら、きっと激怒して、暴れ狂って、お父様とお兄様にこの男を突きつけて、社会的に抹殺しようとしていただろう。

 ……でも何故か、今のわたくしはそうする気にはなれなかった。


 ──何かが違う気がしたから。


 わたくしが学園の図書館で話したユンは、1学年のときも、3学年のときも、育ての兄への感謝と尊敬の念で溢れていた。今朝のユンからは、唯一の兄への強い信頼が感じられた。

 そんなユンが、多額の金を掛けて学園に通うその裏で、憧れの研究員として働くその裏で、ただ欲に溺れて自らを粗末に扱うなど……兄の期待を裏切るようなことをするだろうか。

 どうにも、何かがちぐはぐでおかしい気がした。

 実際に遊んだ過去があるのは確かなようだけれど、どうしてもユンが、自分の兄を悲しませるようなことを平気でしてしまうような男には思えなかった。


 掴みどころのない、わけが分からない「ユン」という男。

 ただ、きっと「兄への敬愛」だけは、ユンは絶対に揺るがせないはず。

 学園で過ごした3年間と卒業してからの数ヶ月。わたくしとユンは特に関わりが多かったわけではない。でも()()だけは、わたくしは間違っていないという確信があった。


 だからこそ、わたくしはユンの愚かな過去の意味がわからなかった。

 何かが違う気がしたが、何が違うのかは分からなかった。


 なので代わりに、わたくしは今思っていることをそのまま彼に伝えた。


「ユン。()()()()()()()()()()()()

 今までがどうであれ、これからはすべてわたくしのものよ。すべてわたくしに捧げなさい。何があってもわたくしを呼びなさい。

 わたくし以外に一欠片でもやったら絶対に許さないんだから。」


 ……そうよ。よく考えたら、弱気になる必要なんてどこにもない。

 わたくしは美しい。ユンもそう言ってくれていた。どうせすぐにわたくし以外は目に入らなくなるに決まっている。

 ……そんなことは分かっているけれど、わたくしは一応、念のためユンに釘を刺した。


 わたくしの言葉を聞いて、ユンはさらに怯えるだろうか。申し訳なさそうにするだろうか。それとも安堵して喜ぶだろうか。


 しかし、ユンはそのどれでもなかった。


 ユンは驚いたような顔をした後、ほんの一瞬だけ──……泣きそうな顔をした。


 そして……その一瞬歪んだ顔をすぐにいつもの笑顔で隠してしまった。

 安堵して喜んでいる顔を()()()()ユンは、本心かどうか分からない感謝を口にした。


「本当にすみませんでした。許してくださってありがとうございます。」


 そんなにもわたくしに怒られると思って怯えていたのだろうか。そんなにも過去の行いを悔いているのだろうか。泣きたくなるほどに。


 …………いえ、きっと違うわ。


 わたくしの勘だけれど。

 そこには何か、くだらない……悲しい理由があるような気がした。


 以前、どこぞの恋愛小説で読んだことがある。


 ──「眠れない夜は、人肌が恋しくなるものだ」と。


 そんなものに(すが)って何になるのか。そんなものに真の愛などあるわけがない。

 わたくしはその一文の意味を未だに理解できていない。それでも、今一瞬だけ見えたユンの表情から、何故かその一文を思い出してしまった。


 眠れない夜に、辛くて、辛くて、苦しくて仕方がなくなって、誰でもいいから、何でもいいからと、必死に足掻いて人肌に縋った悲しくて愚かなユンの姿が、何故か思い浮かんでしまった。


 お兄様はよくわたくしを「面倒」だの「厄介」だの、失礼な言葉で表現してくる。

 ただ、この目の前にいる男……わたくしの惚れた(ユン)の方がよほど「面倒」で「厄介」な存在なのではないだろうか。


 わたくしは改めて、我が身の破滅の予感に震えた。


 きっとユンはわたくしが想像しているよりも、もっと酷い男だ。地獄のような中身の男かもしれない。

 いつかそんなユンの本性を知る日がくるのだろうか。

 そのときわたくしは何を思うのだろうか。


 ……でも。

 そんなことは考えても仕方がない。それに、そんなことはもう関係ない。

 平民男(ユン)を好きになってしまったあの日から、すでにわたくしの人生は滅茶苦茶になっているのだ。今さら問題の一つや二つ、増えたところでどうということはない。


 破滅の先に、幸せがあるならそれでいい。


「ねえ、ユン。」

「はい。何でしょう?」


 ユンはもうすでにしっかりと顔を取り繕ってしまっていた。何事もなかったかのように、いつも通りの笑顔を見せている。

 過去の女性遍歴を暴かれてしまったけれどすっかり開き直った最低な男──の仮面を被った彼が、そこにいた。


 ……ああ、なんて恐ろしい男。


 貴方はもっともっと、まだ本当に暴かれたくないものを奥に抱えているのでしょう?そしてそれを簡単に見せる気はないと言いたいのね。「縁」だの「向き合う」だのと(のたま)って、恋人にして期待させておきながら。


 お兄様は卒業式の日、わたくしに「お前は変わった」と言っていた。

 あのときはいまいち分からなかったけれど、たしかにそうかもしれない。自分を「完璧な令嬢」だと信じてやまなかった頃とはもう違う。わたくしは一つ、自分の()()()()()()を自覚できたのだから。


 わたくしはそんなことを思いながら、また思ったことをそのまま口にした。


「貴方はわたくしが思っていたよりもだいぶ最低な男のようだけれど。」

「……すみません。」

「でも、わたくし、貴方となら案外幸せになれそうな気がするの。きっとわたくしは()()()()()()()のね。」


 するとユンは、その丸い目をさらに見開いた後、まるで他人事(ひとごと)のように声をあげて笑った。


「あはは!それはたしかにその通りですね。勿体無いなぁ、セレンディーナ様。」


 ……何で他人事(ひとごと)なのよ。この男。



◆◆◆◆◆◆



 わたくしは忘れずに次に会う約束をしっかりと取り付けた。今日みたいに、約束せずに会いに行くというのは心臓に悪い。

 ユンが「あと3回のデートで落ちる」と言っていたことを思い出し、わたくしが「明日の夜と、明後日の夜と、明々後日の夜に一緒にディナーに行きましょう」と提案したら、またユンに爆笑されてしまった。

 わたくしが「明日からは平日だから、夜しか会えないでしょう?」と首を傾げたら、ユンが「そういうことじゃないです!」と爆笑したまま返してきた。

 ユンはしばらく笑った後に、目に涙を浮かべながらまた変なことを言ってきた。


「ひー!笑った!……多分、俺あと3回じゃなくて2回くらいで落ちると思います。」


 ……何で減ったのよ。いいわよ気を遣わなくても。


「ですので、次のデートは来週末にしましょう。明日というか……平日はちょっと。」

「何故?!」


 わたくしは思わず叫んでしまった。


「いやぁ、今日一日でもけっこう腹いっぱいなので。一週間くらい消化する期間が欲しいなーと。」


 わたくしは馬鹿ではない。これはただの胃袋の話ではなく、わたくしとの出来事全体を指した比喩表現だということは分かった。


 ……そうね。わたくしも今日一日だけでも本当に胸がいっぱいになってしまったから、一週間くらいあけてもいいかもしれないわね。


「あと、せっかく今日あんなに美味(うま)いプライムリブ食べたので。明日の夜もまた高級な料理を食べちゃったら、俺の胃が狂うんで。一週間くらい感動する期間が欲しいなーと。」


 わたくしが馬鹿だった。結局胃袋の話じゃない。この男、ふざけているのかしら。


 ユンが「来週末はどこに行きますか?また王都を今日みたいに適当に散策します?」と首を傾げながら聞いてきたので、わたくしは少しだけ考えてから答えた。


「そうね……今日歩いた通りのさらにもう一本隣の通りからまた散策でもしましょうか。」


 隣の通りには、今日とはまた違った良質な店がある。宝石店と、小物屋。それに今日のレストランのデザートとは違い、一流の紅茶とケーキを出すカフェ。

 来週末はきちんとカフェを予約してそこに行けばいい。


 わたくしの提案を聞いたユンはにっこりと笑った。


「そうやって王都中を巡っていくの、面白そうですね。来週末が楽しみになってきました。」


 来週末、再来週末……通りを毎週巡っていったら、王都中の通りを制覇するまでにどのくらいかかるのだろう。

 わたくしは今から、来週末どころではなく、1ヶ月後、半年後……1年後が楽しみになってきていた。


 そのときには、わたくしとユンはどうなっているのだろうか。

 今よりも仲が良く、手を取り合って歩いているかもしれない。

 ユンも……わたくしに熱い視線を向けてくれるようになっているかもしれない。

 そんなことを期待してしまう。


 でも、わたくしにはそれらをうまく想像することができなかった。

 ユンという男が難しすぎて。わたくしに惚れているユンの表情が、うまく思い浮かべられなかった。



◆◆◆◆◆◆



 研究所の屋上からユンに抱えられて飛び降りて、その後は寮の前まで普通に歩いて移動した。そして無事に寮の前に待機していた従者と合流し、ユンに笑顔で見送られながら馬車に乗った。


 こうしてわたくしとユンの初デートは終わった。


 家に帰ると、お兄様がわたくしの表情を窺いながら遠慮がちに「ユンは大丈夫だったか?」と聞いてきた。

 わたくしは今日の出来事を思い出しながら呆れた顔をして、お兄様に事実だけを簡潔に教えてあげた。


「わたくしの方が大丈夫じゃなかったわ。……お兄様。ユンは思ったよりも酷い男よ。」


 それを聞いたお兄様は何故か安堵の溜め息をついた。

 わたくしが首を傾げると、お兄様はそんなわたくしに気付いたのか笑ってこう言った。


「ユンがお前に振り回されてないなら安心だ。逆にお前を振り回せるなんて、やっぱりアイツはすごい奴だな。」


 ………………。


 お兄様はユンに甘すぎる。


 わたくしはやはり、次こそはユンに「わたくしと付き合えることがいかに素晴らしく光栄で有難いことなのか」を自覚させ、これまでの無礼の数々を泣いて謝らせようと心に誓った。

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