3 ◇ 王立学園講師アスレイ(前編)
全16話+後日談(数話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
未来の魔法士の卵である貴族の子女が通う全寮制のクゼーレ王立魔法学園中央校。ここが現在の俺の職場だ。
実戦魔法学非常勤講師【アスレイ・オーネリーダ】。
自分の名札がかかっている職員室の机に朝刊を広げながら、俺は優雅にコーヒーを飲んでいた。時刻はすでに夕方の17時半だが、日中は授業と試験の採点で忙しく新聞に目を通す暇が無かったのだ。
それにしても……
「やれやれ。発表からすでに3日経ったというのに、まだ一面が王女様の婚約発表とは。他にも書くべきことが山ほどあるというのに。記事の内容も薄いですし、飽きてしまいましたよ。」
すると隣の席のツィー先生が勢いよく顔をこちらに向けてきた。
ツィー先生は生物学担当の新任で、俺のこうした誰に宛てた訳でもない独り言を毎度すかさず拾ってくる愉快な女性だ。
「ええ?!まだ3日しか経ってないんですよ?今年一番のビッグニュースですよ?!それをもう飽きただなんて、国民として祝福する気持ちは無いんですか?」
「そんなことはないですよ。心から祝福していますとも。ただ、昨日の研究会で発表された例の画期的な新魔法こそ今年一番のビッグニュースだと思っていたもので。今日はその記事が一面にくると思っていたので、少々がっかりしました。」
「…………それ、本当に心から祝福してます?」
「もちろんですとも。この職員室内の誰よりも喜んでいますよ。」
「ついさっき『がっかりした』って言ってましたよね?」
「それは新聞についてですから。」
俺がそう言って丸眼鏡を軽く押し上げる様子を、ツィー先生は疑うようにじっとりと見つめてきた。
「アスレイ先生が言うと、なーんか胡散臭いんですよねえ。」
「生徒にもよく言われます。心外ですね。」
俺と彼女が他愛のないやりとりをしていると、俺の反対隣の席にいるメイバル先生が珍しく会話に入ってきた。
「ふふっ。ツィー先生、きっとアスレイ先生は嘘はついていませんよ。今回は。」
魔法史を担当し続けて長いメイバル先生は、俺が学生だった頃から学園にいる初老の女性。優しげな口調でさらりと毒舌を吐いてくるのが特徴だ。
「『今回は』とは一体どういう意味です?」
「あら。アスレイ先生は基本的には嘘つきでしょう?」
「…………まあ。そうでしょうかね。」
何を言っても負ける気しかしないので、俺は訂正を諦めることにした。
メイバル先生は、俺の横で首を傾げているツィー先生ににこにこしながら説明をした。
「アスレイ先生は学園を卒業してからしばらく魔導騎士団に所属していたんですよ。2年前に結婚されたのを機に退団して、この学園に講師として来てくれたんです。」
「ええーっ?!」
案の定お手本のような驚き方をしたツィー先生の声に、職員室にいる他の先生方が何事かと耳を傾けてくる。
「だからきっと、アスレイ先生の祝福する気持ちは本物ですよ。元同僚のことですもの。」
「し、知らなかった!アスレイ先生……いち講師にしては異様に強いというか、猛者のオーラが出ているなと思ってはいましたが……そういうことだったんですか。」
ツィー先生の目が一気に尊敬の眼差しに変わり、俺は思わず苦笑した。
「強くなんてありませんよ。それこそ魔導騎士団の中には猛者がゴロゴロいましたから。私は並の人間でした。」
「謙遜しないでください!卒業してすぐ魔導騎士団に入団できる子なんて、各学年で1人いるかどうかですよ?!少なくとも学年一桁の成績は取っていないと無理なコースじゃないですか!」
「まあ、たしかに私は常に学年1位でしたね。」
「ええ。アスレイ先生はとっても優秀な学生でしたよ。」
「ひえぇーっ!天才ですね!」
──天才、か。
ツィー先生の言葉に、俺は当時を思い出して懐かしい気持ちになった。
「いえいえ。学園を出て騎士団に入って思い知りましたよ。『天才』という言葉は私のためにあるものではないと。」
俺の世界を変えた同期の一人。
天才という言葉は、まさに彼のためにあるのだ。
◇◇◇◇◇◇
7年前。
当時18歳だった俺は、ただ何となく、モラトリアムの延長のために魔導騎士団を受験した。
最難関の入団試験。命懸けの危険な任務。しかし俺に使命感などというものは無かった。
オーネリーダ公爵家の跡取りとして決められた婚約者と結婚し、父の仕事を手伝う。その将来に不満はない。ただ、もう少し先延ばしにしたかっただけで。
母親には、もし命を落としたらどうするつもりか、跡取りは貴方しかいないのにと泣かれたが、父親には、オーネリーダ公爵家に箔がつく、お前にも度胸がつくだろうと喜ばれた。婚約者には「貴方はそういう人ですから今更驚きませんわ。私を未婚の未亡人にしないよう、頑張ってくださいね。」と笑われた。
そして俺は過酷な入団試験を乗り切り、晴れて魔導騎士団第27期生となった。
俺は当時のことは、今でも鮮明に覚えている。
◇◇◇◇◇◇
◇◇◇◇◇◇
…………嘘だろ?
入団初日。騎士団員が全集合する演習場での顔合わせの場で、俺は信じられないものを見た。
並ばされた新入団員は俺を含むたったの4名。
いや、人数は驚くべきことではない。例年そんなものだと聞いている。驚くべきはその人物だった。
「……ラルダ王女?」
見間違えるはずがない。公爵家嫡男として参加した茶会やパーティーの場で幾度か見かけたことのある姿。
優雅にドレスを着こなしていた「高嶺の花」のクゼーレ王国第一王女が、真新しい騎士団の制服を着て俺の右隣に並んでいた。
「ん?ああ。貴方はオーネリーダ公爵家のアスレイか。まさか貴方も入団していたとは。これからよろしく頼む。」
視線に気付いたラルダ王女がスッとこちらに手を差し出してきたので、俺は慌ててその手を握り返した。
「失礼いたしました。私から名乗る前にラルダ様からご挨拶していただいてしまって。覚えていただけていたようで光栄です。こちらこそよろしくお願いいたします。」
「そんなに畏まるな。ここでは身分など関係ない。私たちはただの同期だ。気安く接してくれて構わない。」
「は、はい。ありがとうございます。」
気安くなどできるわけがないだろう!と内心ツッコミを入れていると、ラルダ王女のさらに右隣の方から、もう一人の新入団員がひょっこりとこちらに顔を出してきた。
……その顔はもしや。
「ああ、自己紹介の流れですね。僕はクラウス・サーリです。ラルダ様も、アスレイ様も、以前お会いしたことがあるのですが覚えていらっしゃいますか?」
「え、ええ。勿論覚えております。まさかこのようなところでお会いできるとは。」
クラウス・サーリ。サーリ侯爵家の次男で幼い頃から「美貌の神童」と貴族の間で評判の人物だ。
ラルダ王女と同じく社交の場で幾度か会ったことがあるが、評判通り一目見たら忘れられない端麗な容姿だった。
「私は入団試験のときにクラウスのことは見かけていたからな。貴方であれば合格は間違いないと思っていた。」
「あはは!光栄です。僕も試験会場でラルダ様をお見かけしてすごく驚きましたよ。これからよろしくお願いしますね!」
爽やかに握手をしている2歳下の化け物たち。
……ラルダ王女に、クラウス様か。
俺はもしかしたら、とんでもない代に入団してしまったのかもしれない。
ひとりで戦慄していると、ラルダ王女が俺と俺の左隣の方に目を向けてきた。
「そういえば、クラウスと私は剣士で試験日が同じだったのだが、貴方たち二人は見かけなかったな。中衛か後衛の専門だろうか。」
俺は動揺しながらも答える。
「ええ、はい。私は中衛の魔導術士として受けておりました。」
剣も学園内で成績を残す程度にはできるが、さすがに騎士団に前衛として入るほどの腕はない。俺が一番得意としているのは、魔法の増強道具である杖を用いた複合詠唱からの大規模魔法だ。
「……そちらは?すまない。私は一度会った者は忘れぬよう努めているのだが、記憶にないのだ。会うのは初めてだろうか。
私はラルダ・クゼーレ・ウェレストリア。これから同期としてよろしく頼む。」
この国の第一王女という身分でありながら、自ら先立って名乗る謙虚な姿勢に、俺はいたく感心していた。
そして俺も王女様に習い挨拶をしようと、精一杯の愛想笑いを浮かべながら左隣の男の方を向いて……驚いた。
真っ先にラルダ王女に気を取られてしまっていたため気付かなかったのだが、その隣の男もまた目を見張るほど整った容姿をしていた。と言っても、貴族らしい優雅さは感じられずどちらかというと粗野な印象を受ける。辺境の爵位持ちの家出身か、それとも珍しい平民の魔力持ちなのだろうか。
そして背が高い。俺は決して背が低い方ではないのだが、それでも顔を見るためには首を曲げて見上げる必要があった。
俺が口を開くよりも先に、彼は気怠そうに短く喋った。
「ゼン。試験のときは銃使ってた。どーも。」
おまっ……!不敬にも程があるだろう!?
一国の王女に目も合わせず適当に答える脅威の新人。
信じられない言動に俺とクラウス様が目を点にしたところで、団長からの鋭い号令がかかった。
「定刻だ!これより、全体集会を開始する!第27期生、前へ!」
◇◇◇◇◇◇
「名前、姓氏または出身領。専門ポジションと所属部隊を順に言え。」
団長の言葉に、ラルダ王女とクラウス様が頷き先輩団員たちへ自己紹介を始めた。
「クラウス・サーリ。前衛の剣士です。第3部隊の所属になりました。よろしくお願いします。」
「ラルダ・クゼーレ・ウェレストリア。同じく前衛の剣士で、この度は第4部隊に配属されました。よろしくお願いいたします。」
「アスレイ・オーネリーダと申します。中衛の魔導術士として、第1部隊に配属となりました。皆様、どうぞよろしくお願いいたします。」
クラウス・サーリにラルダ王女。
二人の存在に全員が気を取られていて俺の自己紹介など誰も聞いていなかったが、そんなことはどうでも良かった。
俺は次に控える謎の大型新人ゼンがどんなことを言うのかが気になってしかたなかったのだ。俺は彼からどんな失礼な発言が飛び出ようが動揺しないよう、ひとり身構えた。
だが、彼の自己紹介は、俺が警戒していた方向性とはまったく違う、予想の斜め上をいく衝撃の内容だった。
「ゼン。……ウェルナガルド出身。狙撃手で後衛。第1部隊。以上ッス。」
俺は思わず息を呑んだ。
──「ウェルナガルド」だって……?
その名を知らない者はこの国にはいないだろう。
通称「ウェルナガルドの悲劇」。
4年前に王国南部で起きた未曾有の魔物災害。一晩にしてウェルナガルド領が全滅したという凄惨な事件だ。被害者は数千人にも及び、保護できた生存者はいなかったとされる。
不可解なのは、翌日の午後にようやく魔導騎士団が現地に到着したときには、約百体にも及ぶ魔物がすべて殺されていたということだ。
生存者ゼロの大災害。その一晩に起きたことを語れる者は存在しない。そのため当時は様々な憶測や陰謀論が飛び交っていた。
……まさか、生き残りがいたのか。
平民でありながら魔導騎士団の試験を受かったという事実も、本来であれば驚くべきことなのだろう。ただ、それが霞んでしまうほどの驚愕の事実だった。
俺は動揺を表情に出さないよう努めながら、目線だけ動かして周囲の反応を伺ってみた。
正面に整列している騎士団員たちも驚きの表情で固まっていたが、中には苦しげな表情を浮かべている者もいる。恐らく事件当時にすでに騎士団に所属をしていたベテラン勢だろう。「助けられなかった」嫌な記憶が蘇っているのかもしれない。
先ほどまでの王女様たちへの興味などが嘘のような、重く苦しい空気が流れる。
「それでは、訓練を開始する!新人団員は各部隊長の指示を煽ぐように!」
恐らく事前に入団者の情報を知っていたのであろう団長が、何事もなかったように早速指示を出す。その声に俺とクラウス様はなんとか我に返り反応をした。
「「……っ、はい!」」
「へーい。」
遅れて、何とも気の抜ける返事がゼンの方から聞こえた。
周りから戸惑いの視線など気にせずに頭を軽く掻きながらさっさと第1部隊の隊列に向かって歩き出すゼン。俺は一拍遅れてそれに続いた。
そしてふと、ラルダ王女が返事をしていなかったことに気付いた俺は、小走りしながらそっと振り返った。
……そこには、目を見開いたままひどく青ざめた顔でゼンを見つめるラルダ王女の姿があった。
◇◇◇◇◇◇
入団から1週間半。
あの衝撃の初日以来、俺は同期の3人と特に絡む機会もないまま日々を過ごしていた。
最初の1ヶ月は新入団員の研修期間で、月の前半2週間は各専門に別れて基礎の訓練をし、後半2週間は各部隊で連携の訓練するとのことだった。そのため中衛の俺は、前衛の二人と後衛のゼンと未だにろくに会話もできていなかった。
訓練後に何度か中衛の先輩たちに誘われて食事に行ったが、そこで「お前の同期は面子が濃いな!」「お前あんな奴らの中でこれから大丈夫か?」と冗談半分心配半分で言われる度に、曖昧に笑いながら「さあ、どうでしょう?」と誤魔化すことしかできなかった。
……大丈夫な訳がないだろう。代われるものなら代わってくれ。
そんなある日、事件は起きた。
後に団内で語り継がれることとなる「伝説の27期事件」。
ラルダ王女と平民ゼンの、半ば殺し合いにまで発展した大喧嘩である。
◇◇◇◇◇◇
「………………テメェ。今、何っつった?」
俺が事態を察知したきっかけは、ゼンの地を這うようなドスが効いた声だった。
王国東部の領主から緊急の討伐依頼が入り、団長副団長と、新人を除く第1部隊と第4部隊が出動したのがつい1時間前のこと。そして今日の午後の訓練は中止となったため、珍しく前衛中衛後衛の者たちが同時に食堂で昼食をとっていた。そんな矢先の出来事であった。
声のする方を見てみると、食堂の隅のテーブルでひとり食事を食べ終えたらしいゼンの横に、ラルダ王女が立ったまま話しかけていた。
俺だけでなく周りの団員たちも皆、不穏な空気に気付いたのか、そっと耳をそばだてて二人の会話に注目した。
「先ほど言った通りだ。ゼン。貴方がウェルナガルドの出身だと聞いてからずっと、王家の人間として、貴方に謝罪したいと思っていた。」
「……………………。」
「我ら王家が不甲斐ないばかりに、大勢の民を失い、貴方の心も深く傷つけてしまった。……本当に、申し訳ない。」
そう言って深々と頭を下げるラルダ王女。
下がったままの彼女の頭を横目で見るゼン。彼の眉間には深く皺が刻まれていて、誰がどう見てもそれは怒りの表情であった。
…………そりゃあそうだ。
俺は密かにゼンに同情した。
ラルダ王女の言っていることは間違いではない。王族に国民を守り導く責務があるのは確かだ。
だが、故郷を最悪な形で失った者にその理屈で詫びるのは、さすがに無神経ではないだろうか。
どうやらゼンもそう思っていたようで、苛立ちを隠しきれないといったように片足を揺すり始めた。
「テメェの自己満足で勝手に謝ってんじゃねえよ。当事者でもねえ奴にしゃしゃられんのが一番胸糞悪いわ。クソが。」
「無関係ではない。我が国の民の命を預かる王家の者として、私は貴方に罪を償うつもりだ。」
おいおいおいおい、やめろ王女様!!
俺の背中を冷や汗が伝う。
ラルダ王女の一言一言がゼンの気を逆撫でしているのが伝わってくる。もはやこの食堂で悠長に言葉を発している者など誰もいない。二人のピリついた会話だけが食堂に響いていた。
「……へえ。罪を償うって?テメェの首でも差し出すのかよ。」
「それでウェルナガルドの民が戻るのであればそうしたい。しかし私の命ひとつ生贄にしたところで、死者は蘇らない。」
「………………。」
「今後、貴方に必要な支援は国が行おう。遺族補償金も給付する。金銭で解決できるなどとは思っていないが、貴方の未来のためには、一番有用であろう。」
「…………………………。」
「私の首などではなく、貴方がこれからの人生を幸せに生きることを、貴方のご両親は望んでいるはずだ。」
────「ブツッ」と、聴こえるはずのない音がした。
次の瞬間。
座っていた椅子を倒しながら勢いよく立ち上がったゼンが、いきなりラルダ王女の胸倉を掴みそのまま彼女を床へ投げつけた。
テーブルの上に乗っていたゼンの食器にラルダ王女の宙に浮いた足が触れ、食器はそのまま派手な音を立てて床に落ち粉々に割れた。
ラルダ王女は咄嗟に受け身を取り身体を打ちつけることは避けたが、床に跪く王女らしからぬ姿勢になった。
そんな彼女の目の前にゼンがゆらりと立ち塞がり、黒い影を落とす。
彼は無様に皿の割れた床に膝をつく彼女を、まるでゴミを見るかのような冷めた目で、同時に壮絶な怒りを隠すことのない燃えた目で見下ろしていた。
「テメェが親父とお袋を語るんじゃねえよ。」
水を打ったように静まり返った食堂に、ゼンの低い声がする。
──ラルダ王女は、ついに彼の逆鱗に触れたのだ。
そしてゼンは、顔を上げたラルダ王女と目が合うと、眉間の皺を一層深めながら恐ろしいことを言い放ったのだった。
「──表出ろ。テメェを殺してその首を故郷の墓前に供えてやるよ。そうすれば親父もお袋も、アイツらも多少は気が晴れる。」
◇◇◇◇◇◇
ゼンが食堂を去った後。
彼の怒りを一身に受けたラルダ王女は、無言で立ち上がり、彼の後を追って食堂を出ていった。
そして残された俺を含む団員たちは、全員地獄のような空気の中で固まっていた。
「……どうする?」
「どうするって……今、団長も副団長もいないし。」
「あの二人の部隊長もいないよな。」
「誰か止めないとまずいんじゃないか?」
「でも、誰が止められるんだよ。」
どこからともなく徐々にざわつき始める。
俺は驚きと戸惑いで上手く回らない頭を使って、これからどうすべきかを思案していた。そもそも、何を考えるべきなのかすら分からないまま。
そして脳がフリーズしかけた瞬間、不意に何者かに遠慮がちに背後から肩を叩かれ、俺はハッと我に返った。
振り返るとそこには、困り果てた顔をしたクラウス様がいた。
「アスレイ様……どうします?僕たち。」
人に頼られるとかえって冷静になれるのはよくある話。俺はクラウス様のその一言で頭を冷やすことができた。
立ち上がってクラウス様の方を向き、丸眼鏡のブリッジを指で軽く押し上げる。
「一応彼らを追いかけましょうか。まあ、彼の人となりは知りませんが、さすがにラルダ王女を殺しはしないでしょう。……恐らく。最悪の事態になりそうであれば我々で彼らを止めましょう。」
「……そうですね。行きましょう。」
そう言って俺とクラウス様は並んで歩き出した。
本来であればゼンを確保して、ラルダ第一王女への暴行、脅迫、殺害予告の罪で投獄すべき案件なのだろう。
しかし、そうする気にはなれなかった。
ゼンの強い怒りとその裏にある深い悲しみに共感したからかもしれない。現場にいた自分に飛び火して厄介なことになるのを恐れたからかもしれない。そんなもっともらしい理屈がいくつか頭に浮かんだが、そのどれもしっくり来なかった。
そして、理屈などではない、俺の本心が自然と口に出た。
「やれやれ、さっそく喧嘩とは困った同期だ。俺はどうやら、相当愉快な仲間を持ったらしい。」
それを聞いたクラウス様は声をあげて笑った。
◇◇◇◇◇◇
クラウス様と俺が二人の後を追って演習場に着いたときには、すでに一触即発の状態になっていた。
ゼンの全身からは目に見えそうなほどの怒気が溢れ出していて、立ち方こそ自然体なものの、一瞬で銃を取り出して撃ってもおかしくない雰囲気。対するラルダ王女は、腰に差した剣の柄に手をかけてゼンの出方を警戒していた。
「あの二人、本気で戦るつもりですか。」
「えぇー……ゼンさんの実力は知りませんけど、さすがにラルダ様相手は無茶なんじゃないかと。」
すっかり冷静になった俺たちは、とりあえず二人の様子を見守ることにした。
少し遅れて、俺たちのさらに後方にぞろぞろと他の団員たちが集まってきた。どうやら彼らの中では「27期生の間で収拾つけろ」という結論になったようだ。俺とクラウス様を盾にするようにして遠巻きに野次馬に来ている。
……頼りない先輩方だな、まったく。
「そちらの戦いやすい距離からの開始で構わない。全力で来い。」
ラルダ王女が真っ直ぐとゼンを見つめながら言い放つ。その言葉を聞いたゼンは額に青筋を立てて彼女を凄まじい形相で睨みつけた。
「あれで挑発のつもりではなく本心なのだとしたらすごいですね。『ゼンの有利な状況に合わせても勝つ余裕がある』と言っているようなものです。」
「あーあー。またゼンさん苛ついてますね。
でも本心だと思いますよ。ここ1週間半、剣士としてラルダ様と一緒に訓練をしてきましたけど、ラルダ様には部隊長でも勝てていませんから。すでに騎士団の中でもトップクラスのお強さですよ。」
なるほど。以前から噂には聞いていたが、やはりラルダ王女の強さが化け物じみているというのは本当らしい。
……さて、ゼンはどうするのか。
俺たちはゼンに注目する。
すると彼はいきなり演習場の端にずかずかと歩いていき、雑多に置かれている訓練用の剣を適当に手に取った。そして自分の二丁の銃を抜き取り、あろうことか地面に放った。
ところどころ欠けている量産型の剣を手にしたゼンがラルダ王女の目の前に戻ってくる。
そして、ゆっくりと剣の切先を彼女の目の前に突きつけ、先ほどのお返しと言わんばかりにあからさまな挑発をした。
「テメェ如きに銃なんざ使う訳ねえだろ。コイツで充分だ。殺してやるよ。」
「「「なっ……?!」」」
その場にいた騎士団員全員が驚き呆然とした次の瞬間、ゼンの纏う空気がいきなり変化した。
「──化け物だ。」
隣に立つクラウス様が身震いしながら呟く。
「……僕が間違っていました。ゼンさんは次元が違う。」
自分と同等かそれ以下の相手の実力は正確に測ることができる。だが、自分よりも高みにいる相手の力は測りきれない。
俺はその事実を痛感していた。
ゼンは今までただ隠していただけなのだ。
この騎士団の中で己が最強であることを。
俺たちが遅れて悟ったのと同時に、完全に怒りが頂点に達したゼンが静かに決闘開始の合図をした。
「来い。」