7 ◆ 涙の悪夢と地獄の逆張り
第五部(18話+幕間2話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
短めなので、本日2話分投稿します。
幸せな眠りについていた意識の中に、静かに、異変が飛び込んできた。
最初は何か分からなかった。
けれど、意識の中に飛び込んできた何かとともに、右腕の肌に何かが擦れる気配を感じて──わたくしは本格的に起こされた。
目を開いたら、夜中だった。
意識が完全に浮上するまで、一瞬、ここがどこか分からなかった。
…………ああ、そうだわ。
ここはホテルの一室。
そして今、わたくしの隣にいるのは、ユン。
わたくしは状況を把握した。
そしてわたくしの意識に飛び込んできたものが何なのかも、そこで理解をした。
──幸せな眠りについていたわたくしを起こしたのは、ユンの乱れた呼吸の音だった。
暗い部屋に慣れてきた目で、わたくしは隣にいるユンの顔を見た。
ユンは、起きていなかった。
目を開いてはいなかった。
ユンは目を瞑ったまま──まだ眠りについたまま、顔を歪めていた。
そして眠りについたまま寝言を言う人間のように、不自然に震える口を開きながら……
……「寝言」と言うには重すぎる、地獄のような「譫言」を呻きだした。
「……っ、にいちゃん、兄ちゃん……に゛いちゃんっ……!
とうちゃん、っ、父ちゃんと母ちゃんが……!
……サラ姉──っ、……サラ姉が死んじゃったよ……!」
◆◆◆◆◆◆
掠れきった小さな声の譫言。
でも、それはきっと夢の中では叫びだった。
……わたくしも経験がある。
悪夢の中で叫んだ思っても、実際は掠れた小声を発していただけだった……ということが。
けれど、ユンが叫んでいる「悪夢」は、わたくしのそれとは違う。
これはユンが実際に見た「現実」の光景に違いない。
お父様と、お母様と…………【サラ姉】。
ユンの、初恋の女の名前。
1年以上前、まだ婚約をしていなかった頃のデートで、ユンに聞いてしまったことがある。
わたくしに聞かれてユンが不快そうにしていたから、とても後悔したのを覚えている。
──「7歳のときにサラね姉を好きになって、それからずっと片思いしてました。……ウェルナガルドにいたときのお隣の家の姉ちゃんです。でも死んじゃったので強制失恋しました。」
だからすぐに確信できた。
ユンが見ている悪夢の内容が。
ユンは、わたくしと幸せな眠りについて──……
その眠りの中で、わたくしの隣で、「ウェルナガルドの悲劇」の悪夢に酷く魘されていた。
「………………ユン。」
「──こわい、怖い……嫌だ、っ、いやだ……!
兄ちゃん、っ──兄ちゃん!
ねえ!父ちゃんと母ちゃんが……!サラ姉……!みんなが……!
どうしよう……っ、怖い、こわいよ、死にたくない……!
怖いよにいちゃん……っ、嫌だ、……助けて!……兄ちゃん……っ、兄ちゃん……!」
わたくしはそっとユンに声を掛けた。
けれどユンは、そんな静かな一言だけでは、悪夢から覚めなかった。
ユンは目を瞑ったまま涙を流して「兄ちゃん……!」と呻きながら、震える手でわたくしに縋ってきた。
……いえ。わたくしではなかった。
ユンは夢の中で、お義兄様に泣きながら縋りついていた。
ユンをようやく掴んだと思っていた。
完全に理解できたと思っていた。
手に入れられたと思っていた。ユンを救えたと思っていた。
…………わたくしが甘かった。
わたくしは……ユンをまったく救えていなかった。
──ユンを苦しめる「悪夢」の中に、わたくしの「愛」は、欠片ほども存在できていなかった。
わたくしはユンを揺さぶって起こすこともできずに──……優越感と万能感からは程遠い、絶望感と無力感に浸されながら、ユンの地獄のような譫言を聞き続けた。
魔物に襲われて叫んで。
町中で燃え盛る炎に恐怖して。
次々と死んでゆく人々の姿に悲鳴をあげて。
ユンは泣きながらお義兄様だけを必死に頼りにして、何度も、お義兄様を呼んでいた。
…………その地獄のような譫言の中で。
ユンは最後に、一番の絶叫をした。
……実際には絶叫ではなかったけれど。
ユンは引き攣った喉でほとんど声にならない掠れ声を出しながら、閉じた目から涙を流して、震える口でこう叫んだ。
「──っ、にっ……にいちゃん……っ、兄ちゃん!!
今、っいま叫んでたの──……いま!ぁ、あそこでさけんでたの!ぁあ、っあれ……っ!
あれ!!──あれキミ姉だよ!!」
…………………………。
「【キミ姉】って誰よ。
…………誰なのよ。その女。」
わたくしは痛いほどにユンに肌を掴まれながら、暗い部屋の虚空に向かって呟いた。
ユンに直接問い詰めることなどできないから、その答えは貰えない。
ただ陳腐でありふれた嫉妬のような言葉を、わたくしは惨めに口にした。
それからユンは、もう言葉らしい言葉は呻かなかった。
ただ辛そうに目をギュッと瞑ったまま、グスグスと泣いていた。
身体が揺れるくらいに鼻を啜り、息を浅く胸で吸って。お義兄様に縋って静かに涙で枕を濡らしていた。
……どのくらい、わたくしはこの地獄の時間を過ごしたのだろう。
ずっと、時計など見ていなかったけれど。
ユンの呼吸がようやく落ち着いて、また眠りに戻っていったところで、そっと部屋を見回して壁に掛けられた時計を見てみたら……明け方の、5時少し前だった。
眠るユンの隣でわたくしは眠りにつけずにいたら──……あっという間にカーテンの隙間から、朝の光が漏れだした。
◆◆◆◆◆◆
地獄のような夜明けだった。
……けれど、わたくしの「地獄」はまだ終わっていなかった。
ユンの不眠は、分かっていたことだった。
…………悪夢も、予想はできていたことだった。
だからこれ以上の絶望などないはずなのに。
最後にわたくしは訳が分からない、予想もしていなかったさらなる「地獄」を、ユンに突きつけられた。
「……ユン、起きたの?」
すっかり布団の中に潜り込んでいたユンが、わずかに動く気配がした。
わたくしが声を掛けると、ユンはしばらく布団の中に無言でいて、それからそろっと、目から上だけを布団から出した。
そしてぱちくりと丸い目を瞬きさせてから、キョロキョロと焦茶色の瞳を動かしてここがどこかを確認して……
そしてわたくしと目が合って、もう一度丸い目をぱちくりとさせてから、ユンはその目を細めて笑った。
それから視線を照れ臭そうに外して、布団に隠れたままの口元を動かして、ぽそぽそと喋りだした。
「…………あ、えっと、……おはようございます。」
「……ええ。」
「すみません。起きるの遅くて。……すっかり寝ちゃってました。」
「………………そうね。」
わたくしは上手く相槌を打てなかったけれど、ユンはそんなわたくしの顔に再び視線を戻して、微笑んで──
続けて、訳の分からない恐ろしいことを口にした。
「セレンディーナ様、本当にありがとうございました。
俺、今日めっちゃよく眠れました。
──……なんか、すごくいい夢まで見ちゃった気がする。」
……………………は?
「ユン……貴方、一体何を言っているの?
……ねえ。貴方……大丈夫なの?」
「え?」
わたくしは呆然としながら、思わずユンにそう問いかけた。
ユンが、まるでわたくしに救われたかのような顔をしていたから。
……ユンが、本気で幸せそうにわたくしに感謝してきたから。
わたくしはすべての意味が分からないまま、ユンに聞いてしまった。
ユンは呆然としたわたくしの質問に、不思議そうに目を丸くしてキョトンとした。
そしてしばらく焦茶色の瞳をくりっと上に向けて、何かを考える素振りをして──……
それからいきなりガバッと勢いよく起きて、部屋の時計を見て大声で叫んだ。
「あ!!やばい!!『出張』!!!
──っ、は……っ、8時半?!?!
っ、やばいやばい、……やばいやばい!やばいやばい置いてかれる!!」
………………………
「…………さっさと行きなさいよ。」
「エッ?!──あ!……えっと……!でっ、でも──
「何をモタモタしているのよ。今ならまだ何とか間に合うのでしょう?
いいから、早く行きなさい。」
「アッ、ハイ!──っ、あ、あの……!教えてくれてありがとうございました!!
……帰ってきたら!また連絡するんで!あの、本当にすみません!ありがとうございました!!本当にすみませ──
「早く行きなさいと言っているの。」
「ヒェッ!はい!行きます!失礼しました!!
本当すみません!すぐ連絡しますんで──!」
ユンはわたくしが「貴方、今日は出張だと言っていたけれど、のんびり寝ていて大丈夫なの?」と声を掛けたのだと勘違いしていたようだった。
ユンは「本当にすみません!ごめんなさい!ありがとうございました!」を繰り返してバタバタと慌てながら一瞬で部屋を出る支度をした。
服を着て髪を結んで自分の鞄を引っ掴んで、それからまたわたくしに何度も謝ってきた。
わたくしが
「いい加減にして。うるさいわよ。
……いいからさっさと行きなさい。皆に置いていかれてしまうわよ。
わたくしのことは気にしないで。わたくしはここで、しばらくゆっくりしていきたいの。
ユン。早く頭を切り替えて、遅れないように行きなさい。」
と言ったところで、ユンは情けなく泣きそうな顔をして、
「……っ、本当にごめんなさい!すっ、すみませんでした!行ってきます……!」
と頭を下げて謝って、走って部屋を出ていった。
…………………………。
わたくしは何も考えられなくなって、ただ一人残された部屋で、ユンが去った後の扉を見つめることしかできなかった。
これが、わたくしの覚悟の結末。
今朝起きた、何も理解できない出来事だった。
◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆◆
わたくしは呆然としたまま、一人公爵邸に帰った。
自室の座り慣れた椅子に座る。
塵一つなく磨かれた机の模様を眺めながら、わたくしはこの地獄に向き合うことにした。
…………と言っても、何から考えればいいのか、何も分からなかった。
昨日は、本当に幸せだった。
ミリア様への誤解の一件から始まって、ユンの発狂と崩壊を目の当たりにして──……そしてわたくしは、ユンを本当に愛おしく思った。
だから、説得した。必死に語った。
そうしてユンに、やっと理解してもらえた。やっと受け入れてもらえた。
やっとユンはわたくしの言葉を聞き入れて、わたくしの愛を信じて受け止めてくれた。
わたくしは、ようやくユンを理解した。あの男を手に入れた。
…………そう思った。
わたくしは絶対に間違いが許されない地獄の山場を乗り越えた。
そしてわたくしは人生で一番の、最高な二人での幸せを、昨日、たしかに掴んだはずだった。
けれど、それは浅かった。
地獄はまだそこから先に広がっていた。
──ユンはもっと、さらに狂っていたから。
ユンは「ウェルナガルドの悲劇」の悪夢の中で泣いていた。
お父様とお母様のことを何度も呼んで……サラとキミの死に絶叫して。お義兄様に縋って、恐怖に震え続けていた。
そこにわたくしはいなかった。
わたくしの愛ごときでは、何も救われてはいなかった。
ユンはまったく、微塵も……幸せに眠れてはいなかった。
……………………。
それだけなら、まだいい。
それだけなら、まだ分かるわ。
…………それだけなら、まだよかったのに。
ユンは、悪夢を越えて朝、起きて、
──わたくしに「救われた」と思っていた。
「よく眠れた」と、「幸せ」だと、完全に勘違いをしていた。
お父様の、お母様の、……サラの、キミの悪夢を……
……【いい夢】と言って、笑っていた。
あれは、本気の顔だった。
あの顔は嘘なんかじゃなかった。
ユンは本気で、わたくしに愛されて自分は救われたのだと思っていた。
「…………何よ。……何なのよ、これ。
……一体、ユンは……あの男は、……あの男は一体、何なのよ。」
わたくしはあんなにも狂った男の顔を、今まで見たことがなかった。
路地裏で下劣な平民共が馬鹿げた騒ぎをしているのを、馬車の中から偶然見かけてしまったときも。
中等部の頃に傍聴した王都裁判所の裁判で、死刑囚の理解不能な往生際の悪い戯言を聞いたときも。
これほどの衝撃はなかった。
わたくしのこれまでの人生の中で、圧倒的にわたくしの愛したあの男が──……【ユン】が、誰よりも一番狂っていた。




