6 ◆ 嘘で塗り潰された理想像(後編)
第五部(18話+幕間2話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
ようやく会話が成立するようになったユン。
それなのに、また筋違いなことを言い出したユン。
一体、いつまでこの地獄のような説得の時間が続くのか。
わたくしは目の前の地獄のような男に、溜め息をついて再度向き合った。
「…………ユン。そこに座りなさい。」
わたくしはベッドを指差して命令をして、ユンを強制的に座らせた。
それからわたくしも隣に座って、物分かりが悪いユンに仕方なくさらに説得を重ねることにした。
「……ねえ。貴方はわたくしと婚約しているのよ?
今、わたくしとユンは婚約者同士なの。分かるかしら?」
「……はい。」
「それで、ユン。貴方は今はもうわたくしを好きになってくれているのでしょう?惚れてくれているのでしょう?
違うかしら?」
「………………っ、……はい。」
「だったら何の問題もないじゃない。何が駄目なのよ。
今までは『好きでもない』『恋人ですらない』『わたくしの足元にも及ばないそこら辺の適当な女』だったから問題だっただけよ。
わたくしと一緒にしないで。」
するとユンは、顔を少し動かしてわたくしの方を見て、それから酷く辛そうな顔をして……すぐに視線を逸らして俯いた。
「でっ、……でも、俺は……俺は、嫌だ。
そんな最初は……、ただの俺の都合で、俺のせいで……そんなのは、駄目です。
もっと、ちゃんとしなきゃ……っ、セレンディーナ様は、もっと自分を大切にしないと……だから、こんな今日が最初なんて……そんなの、やっぱり駄目です。……嫌です。」
………………この男は。
なんてややこしいのかしら。
わたくしは呆れつつも──……でも、とても嬉しかった。
きっとユンは、ここまでのものを抱えながら、こんなにも追い詰められながらも、ずっとわたくしのために葛藤してきてくれたのだ。
そして今でも必死に、わたくしのことを大切にしようとしてくれているのだ。
……できもしない、理想通りに。
「ねえ、ユン。」
「………………。」
「わたくし、中等部の頃はずっといつか『告白される』と思っていたの。わたくしの理想通りの、完璧な王子様に。」
「………………は?」
ユンが顔をわずかに上げてわたくしを見て、涙で頬を濡らしたまま戸惑った。
「わたくしは理想の王子様に恭しく跪かれて、赤い薔薇の花束を差し出されて、『貴女は世界で誰よりも美しい。私の運命の相手だ。』って言われるの。
そして王子様とわたくしは、お付き合いを始めて2ヶ月目に、エゼル王国にある有名避暑地の湖畔の別荘に1週間滞在するの。
その別荘から見える湖でボートに乗るのよ。視界に広がる美しい景色を堪能して、そこで二人で初めてのキスをするの。……どう?絵になるでしょう?」
ユンは返事もできず相槌も打てず、困惑しきっていた。
わたくしはお構いなく続ける。
「当然、婚約なんてすぐよ。お付き合いを始めたその日でもいいけれど……お付き合いして半年くらいかしら。
美しい紅葉の季節に、パラバーナ公爵邸と、お相手の王子様の王城で、盛大に婚約パーティーをするの。わたくしはドレスを3着ずつ……合計で6着は用意しなければならなくなる。どれも当然特注よ。当たり前でしょう?このわたくしの婚約パーティーだもの。」
困惑しすぎて涙が止まりかけている間抜けな顔をしたユンに向かって、わたくしは教えてあげた。
「分かるかしら?ユン。
貴方はわたくしのこの中等部の頃の完璧な理想を、悉く打ち砕いてきたのよ?
貴方が告白してくれなかったから、わたくしがみっともなく告白する羽目になった。
貴方が手を出してくれなかったから、わたくしから下手な初めてのキスをする羽目になった。
貴方が『パーティーには絶対に出ない』と言い張ったせいで、わたくしは惨めに一人で婚約パーティーに出る羽目になったわ。当然ドレスなんて、1着しか着れなかった。
……全然、理想通りにならなかった。」
「ごっ……ごめんなさい。」
ユンがまた何かくだらないことを考え始めたのか、わたくしの言葉を聞いて顔を歪め、また涙を流しながら俯いた。
「誤解しないで頂戴。
わたくし『だから理想と違った今のわたくしたちが嫌だ』なんて一言も言っていないわよ?」
俯いたままのユンが微かに動く。
「わたくし、今振り返っても、もうあの頃の理想がまったく良いと思えなくなってしまったの。
赤い薔薇の花束も、エゼル王国の湖のボートも、特注の6着のドレスも、想像してみたところで全然ときめけないわ。全然憧れない。
……だって、ユンは絶対にそんなことしないもの。」
──ユンじゃない。
それだけで、どんなに売れている小説の絶賛されている完璧な理想の王子様も、微塵も素敵だと思えなくなってしまった。馬鹿馬鹿しいとさえ思ってしまう。
……でも、ユンがもし薔薇の花束を持っていたら、それはそれで可愛いかもしれない。
不似合いな自覚のあるユンが顔を真っ赤にして、照れくさそうにしながらわたくしに薔薇を差し出してくる。……最高だわ。想像しただけで、ときめきで胸が痛くなる。
そうね。……そう考えると、湖に行って、ユンをボートに乗せてみて反応を見るのも面白いかもしれない。
今度エゼル王国に避暑に行く計画を立てよう。平民のユンはわたくしと違って、海外経験など無い。きっと喜ぶことだろう。
あとは、6着の特注ドレスを目の前にして「セレンディーナ様、こんなに買っちゃったんですか?!えっ?!しかもこれ、婚約パーティーだけでしか着ないんですか?!嘘でしょ?!?!」とみっともなく動揺するユン。
……まあ、これは簡単に想像できるわね。いつも通りのユンだもの──
そこでわたくしはハッとして、脱線しかけた思考を元に戻した。
「──そう。そういうことよ。
だからユン。わたくしにはもうそんなありふれた理想なんてないの。
ユンとならば何だっていいの。だって、ユンとの実体験の方が、絶対に最高になるに決まっているんだもの。
……貴方がみっともなく拘ろうとしている理想も、どうせその程度のものではなくて?」
ユンは下を向いたまま、肩を揺らして鼻を啜っている。
「貴方がどんな理想を思い描いているのかは知らないけれど……そんなもの所詮、わたくしがさっき言ったのと同じような、そこら辺の大したことない凡人が書いた三文小説のありきたりな量産型の『理想もどき』よ。
どうせ、『何か事情があると見せかけて実は本命一筋』な見た目が良くて能力が高いだけのつまらない男が、『異性からの好意になると途端に察しが悪くなる』清純ぶった個性派気取りの気味の悪い女と、何だかんだ波乱がありつつ案の定両思いになって結ばれる。
それで『ずっと二人とも清廉潔白に生きてきた』から『お互いに後ろめたいこともなく安心して』愛のある初夜に臨む──というありふれた導入だけがあって、官能小説ではないから具体的な描写は飛ばして無事に終わったことにして──そうして二人はいつまでも幸せに暮らしました──……みたいなものでしょう?
わたくし、古今東西の恋愛小説を読み尽くしてきたから分かるの。多少設定が斬新だろうと、細部の違いはあろうと、どこの国でも8割方は大体それよ。
そんな『無難さ』が誠実さの証明になると勘違いしているのよ、貴方。
貴族の一般常識とされる『結婚式当日が初夜』でなければ誠実ではない。万人受けする『安心安全な経歴』でなければ一途ではない。──そういう先入観があるのでしょう?」
ユンが震えながら「……うぅっ、そっ、そこまで言わなくても……」と懸命にツッコミを入れてきた。
何よ。口を挟む元気はあるのね。
わたくしはどうやらまだ理解をしきっていないユンに、妙な誤解が起きないよう、はっきりと伝えることにした。
「それに比べて。
わたくしたちは最高だと思わない?
これからユンはわたくしを『最後の女』にして、わたくしはユンを『初めての男』にするの。素晴らしいでしょう?
しかもユンはもう、悩まなくていいのよ?だってわたくしがいるんだもの。
苦しくなったら、眠れなくなったら、迷わずわたくしに泣いて縋ればいいの。ユンはわたくしに惚れてくれているのだから、何の問題もない。ただわたくしを愛するだけでいいの。簡単でしょう?
好きでもない適当な女への罪悪感に苛まれることもない。自らを粗末に扱って心の傷を増やすこともない。それでいて婚約者のわたくしを何の憂いもなく幸せにできるのよ。
それでわたくしは、ユンに愛されるだけで、自分が満たされるのと同時にユンのことも助けられるの。
貴方に泣きながら求められるなんて、最高に気分がいいわ。そしてわたくしはただ優越感と万能感に浸りながら、隣でユンが眠る姿を一晩ずっと見守ることができる。愛する男を何の苦労もせずに幸せにできるのよ。
どう?貴方にとっても、わたくしにとっても、まさに『一石二鳥』よ。しかも『唯一無二』。
わたくしがこれまでに読んできた恋愛小説の中でも、ここまでお得な関係はそうはないわ。
ユンはさっきから『ちゃんとしなきゃ』と言っているけれど。……これはちゃんとお互いに誠実で、一途なことでしょう?ただ相思相愛なだけよ。
そこに《ユンが普段よりもよく眠れる》という嬉しい特典が付いてくるだけ。違うかしら?」
「………………。」
「そして、その素晴らしい一石二鳥で唯一無二な関係に進むのに、今日ほど最高な日はないわ。
──初めてユンがわたくしの前で泣いてくれた日。
初めて、貴方がわたくしに包み隠さずに本心を見せてくれた日よ。
どう?絶対に、一生忘れられないと思わない?
貴方もわたくしも、きっと一生、今日を思い出す度に幸せになれるはずよ。
そこら辺のありふれた貴族たちと同じように何も考えずに従来通りに初夜を結婚式当日にしてしまう方が、むしろつまらないじゃない。
わたくしは嫌よ。そんな個性の欠片も無い、特別じゃない初夜なんて。」
ユンは間違っているの。
今日のミリア様の一件も、ユンのこれまでの過去も、決してわたくしとユンの関係を揺るがすものにはなり得ない。
そんな有象無象の女たちが、わたくしとユンの間に入り込む隙などないのだ。
それに、わたくしは別に不本意なことなど何一つない。ありふれた常識に縛られて思考を止めてしまうより、ユンを一番幸せにできる日を、わたくしは自分で選びたい。
それが、きっと今日なのだ。
……だから、そんな筋違いなことでいつまでも苦しんで遠慮していないで、いい加減に理解をしてほしい。
「ねえ、ユン。もう分かったでしょう?
貴方はわたくしと交際するまで、ただ真っ当に生きるための努力をしていただけ。……よく頑張ったじゃない。自分を責める前に褒めてやりなさいよ。
それで、ユンはこの2年間、ちゃんとわたくしに誠実で一途な男であり続けたわ。……素晴らしいじゃない。今日まで信念を曲げずに耐え抜いた自分を誇りなさい。
大丈夫よ、ユン。落ち着きなさい。
──貴方は何も悪くないの。貴方は穢れてなんかいない。
いい?そのことを忘れないで。
──そして今日こそが、わたくしとユンにとって最高の日よ。間違いなく、わたくしたちは今日、人生で一番の幸せを手に入れられるの。
他でもない婚約者のわたくしが言っているのだから、貴方はさっさと自分に自信を持ちなさい。」
わたくしの言葉を最後まで聞いたユンは、ついに声をあげて泣きだした。
懸命に立て直そうとして、必死に何かを言おうとしているようだったけれど──……まともな言葉は何一つ言えていなかったから、わたくしにはよく分からなかった。
◆◆◆◆◆◆
辛そうに泣くユンの隣に座ったまま、わたくしは窓の外の、日が沈みかけている茜色の空をしばらく無言で眺めていた。
そして、ふと思った。
…………いつもと、逆ね。
わたくしはつい自嘲してしまった。わたくしはいつも、こんな風にユンに暇な思いをさせていたのかしら。
「ふふっ。……ねえ、ユン。
隣でこうして泣かれてしまうと、泣かれた側は案外困るものなのね。わたくし、今ようやく気が付いたわ。」
するとユンは、これまで散々泣いていたくせに、そのわたくしの声にすかさず反応してバッと顔を上げた。
「……ユン?どうしたの?」
わたくしが不思議に思っていると、ユンは涙に濡れた目を丸くして、それからさらに絶望したような顔をした。
そして顔を思いっきり歪めて、わたくしの方を向いたまま手で隠すこともせずに大粒の涙をボロボロと溢した。
「うっ、う゛ぅーーーっ!!」
また今までとは違う泣き方だった。
わたくしは急なユンの変化に焦って心配になって、ユンの肩に手を添えながら必死に声を掛けた。
「……ユン?
ユン、いきなりどうしたの?何があったの?」
「せ、せっ……!」
「……『せ』?何?ユン、どうしたというの?」
「せっ…………、
セレンディーナ様が笑ったぁぁー……!いま初めて見たぁー……!
さっ、最悪だぁーーー!!う゛ぅーーーっ!!!」
……………………あっ、
「いっ、今じゃなかったのにぃ……!絶対に今じゃなかったのにぃぃーっ!!」
「…………ごめんなさい。」
「あ゛ぁ謝らないでくださいい゛ぃーっ!!」
わたくしは無神経で鈍感なユンにこれまで悉く理想を打ち砕かれてきたけれど、さすがに今はユンに心の底から申し訳なく思った。
…………わたくしも、できることならもっと「可愛い」と思ってもらえる笑顔を、最初に見せたかった。
わたくしがそう思って少し落ち込みかけていたら、ユンが俯いて顔を手で覆い、グスグスと鼻を啜りながら震え声でわたくしに感想を伝えてきた。
「うっ、う゛ぅーー……かっ、可愛かったです……うぅっ……。」
「…………そう。ありがとう。嬉しいわ。」
わたくしはこんな意味不明な状況で褒められたというのに、不覚にもときめいてしまった。自分の顔が熱くなるのが分かった。
……ユンに、笑顔を「可愛い」と言ってもらえた。
自然と頬が緩む。
わたくしがユンの言葉を噛み締めていると、ユンはわたくしをチラリと見てまた「うぅーっ……!めっちゃ笑ってるぅぅー!何でぇぇ……っ、可愛い゛ぃー……けど最悪っ……ほんと最悪……!俺もうやだぁぁー!!」と言って泣いた。
一度コツを掴んでしまえば、婚約者の前で笑うことは簡単だった。
素直に感情を顔に出せるようになったわたくしは、ユンに「可愛い」と言われるたびに、嬉しくて、照れてしまって、つい顔がにやけてしまった。
ユンはそんなわたくしを見るたびに「最悪」と「もうやだ」を繰り返して呻きながら泣いていた。
でも、そうして泣いているユンも可愛くて愛おしくて仕方がなかった。
泣き続けるユンと、それを愛おしく感じて笑うわたくし。そしてそのせいでさらに煽られたかのように泣くユン。
わたくしたちはそうして日が暮れて窓の外が暗くなるまで、ずっと収拾のつかないやりとりを続けていた。
◆◆◆◆◆◆
日が沈み、窓の外はすっかり暗くなってしまった。
ユンはようやく落ち着いたものの、まだ横で萎れている。
「ユン。もういい加減落ち着いたかしら?
そろそろ行きましょう。夕食を食べる時間がなくなってしまうわ。たしかホテルのレストランはラストオーダーが夜10時だったの。あと2時間と少ししかないわ。」
わたくしがそう声を掛けると、ユンはみっともなく「……本当に行くんですか?」と言ってきた。
この男。ふざけているのかしら。
「……何?この後に及んで、まだ何か嫌なことでもあるの?
もしかして、わたくしに本気で魅力を感じないとでも言いたいの?勃たないとでも言いたいのかしら?」
わたくしが睨みながらそう言うと、ユンはギョッとして「勃たっ……!?せっ、セレンディーナ様がそんなこと言わないでください!!」と露骨にショックを受けていた。
「そうね。その通りよ。このわたくしの品行方正なイメージにそぐわない台詞だわ。
でも、その台詞をわたくしに吐かせた貴方がいけないのよ。貴方がいつまでもうだうだと言っているから。」
「…………すみません。」
「……それで?何がまだご不満なのかしら?わたくしにもっと酷い台詞を吐かせる前に、自分で言ってご覧なさい?」
わたくしが圧をかけると、ユンは「うぅ……」と唸って縮こまり、顔を赤くして眉をへにゃりと下げて半べそをかきながらショボショボと呟いた。
「いっ……今の俺、かっこわるいから……。
その、どうせなら……さっ、最初は、もっとセレンディーナ様に『かっこいい』って思ってもらいたかったというか……その、……ごっ……ごめんなさい。」
……………………可愛い。
先ほどまでとは違う意味で、ユンにはユンなりの理想があったのかと思うと、可愛くて愛しくて仕方がなかった。
なんてくだらない理想なのかしら。……もしかして、わたくしのお兄様のアルディートやユンのお兄様のゼン様のような、世間一般で言う「格好良さ」みたいなものに憧れて背伸びして、普段とは違う振る舞いでもするつもりだったのかしら。
もともと無神経なくせに。いざとなったら一丁前に優雅にエスコートできるとでも思っていたのかしら?それとも庶民らしく、ワイルドに色気を出して誘うつもりでもあったのかしら?
どうせ無理なくせに。デートではいつも「俺はそんな格好良い振る舞いできませんから、期待しないでください。」なんて言って笑っているくせに。
……本当は、そういうことができる自分をこっそり夢見ていたのね。
……可愛い。可愛すぎるわ。この男。
「ふふっ。可愛いのね、ユン。」
わたくしが思ったことを素直に口にすると、ユンは赤い顔のままぐっと口を曲げて、また涙を浮かべた。
ユンの長い下まつ毛に涙の粒が乗っているのが見える。
どんな感情なのだろう。
少なくとも喜んでいないのは分かる。
……ああ。もしかして、わたくしが笑ってしまったから馬鹿にされたとでも思っているのかしら。
そういえばユンは「可愛い」と言われるのを嫌がる傾向にあるから、それかもしれないわね。
……まあいいわ。だって可愛いんだもの。仕方ないじゃない。
「ユン。また泣き始める気?
さっきも言ったでしょう?もう時間がないの。貴方もさっさと一泊分の着替えを用意しなさい。」
そしてわたくしは、この交際してきた2年間で学んだ、貧乏性な平民のユンが絶対に動くであろう切り札を出した。
「ねえ、ユン。
今日予約したホテルの最上位部屋の一泊のお値段……いくらだったと思う?
当日キャンセルなんて当然できないから、もし貴方が行かなければ全額無駄になるわね。」
「……ハイ。すぐに用意します。すみませんでした。」
ユンは即答して動きだした。
下まつ毛に乗っていた涙の一粒だけをほろりと零して、それから目元を袖で雑にぐいっと拭いながら立ち上がった。
そしてまったく躊躇わずにクローゼットを開け、わたくしとの初デートのときに買った白いシンプルなシャツと焦茶色のスラックスと、角度的によく見えなかったけれど、下着類らしきものを鞄に突っ込んだ。
……何よ。すぐに準備できるんじゃない。だったら最初からそうしなさいよ。
わたくしがそう思っていると、ユンは何を血迷ったのか、いきなりその場で今着ているシャツを脱ぎ始めた。
「ちょっ……!ユン!?いきなり何をしているの!?」
わたくしが驚いて声をあげると、ユンはこちらを振り返ることもせずに、萎れた声でぼそぼそと返事をした。
「……けっこう泣いて服も濡れちゃったんで。着替えて行きます。」
そう言ってユンは手を止めることなく上半身裸になり、そのまま、まったく躊躇わずにズボンのベルトまで外し始めた。
「──ユンっ!!あっ、貴方!少しは恥じらいなさい!!わたくしに見えているのよ!?」
わたくしが叫ぶと、ユンは手を止めて少しだけ振り返り、覇気のない顔でわたくしを一瞥してから「……別に俺、そんな勿体ぶるようないい身体してませんし。どうせホテル行くんだし。もういいと思うんですけど。」と口を尖らせ小声でボソッと吐き捨てた。
ユンは完全に不貞腐れているようだったけれど、わたくしはそれどころではなかった。
わたくしは慌てて顔を反対側へと向けて、慌てて両手で顔を覆った。
ユンは首元が空いている服を好んでよく着ているし、寒い時期でもよく癖のように両袖を捲っている。首筋や手首、腕の様子から何となく想像はできていたけれど……やはりユンは細身な筋肉質の男だった。
背中しか見えなかったけれど、正面の方は見えなかったけれど……魔導騎士団に入団できるくらいなのだ。鍛えられた身体なのは、一目で分かった。
見てしまった。……ユンの身体を。
全然可愛くなどなかった。とても……とても格好良かった。わたくしはこれから、このユンと──
──……わたくしは、もしかしたらとんでもない提案をしてしまったのかもしれない。
嫌ではない。まったく嫌ではない。むしろ──……っ、でも、心の準備ができていない。いえ、できていたはず。さっきまではできていたのに。
遅れて心臓がうるさいほどに鳴ってきてしまった。
どうしよう。どうすればいいの?
わたくしは大丈夫かしら?日頃から体型維持は怠らないようにしているけれど……それでも、最低でも1ヶ月はかけて、もっと完璧なボディーケアをしてくるべきだった。失敗した。
よく考えたら、この後の夕食もどのくらい食べればいいのか分からないわ。まったく食べずにお腹が鳴ってしまったら恥ずかしすぎる。でも、食べすぎてしまったらボディーラインが崩れてしまう。……そうね、軽めにしておきましょう。
そうだわ。選りすぐりのソープや香水も持ってくるべきだった。服と化粧品しか考えていなかった。ホテルの備え付けのものの香りが良いとは限らないのに。わたくしは馬鹿だわ。頭が回っていなかった。
……というか、お化粧はどうすればいいのかしら?一度身体は清めるはずよね?その後に再度お化粧をすべきなのかしら?ノーメイクのままというのは……でも、お化粧をしている間、ずっとユンを待たせるのかしら。それが普通なのか──……どうしよう。そういうときの常識もマナーも、何も分からないわ。
どうしよう。何も知らなくて呆れられたらどうしよう。変なことをしてユンに幻滅されたらどうしよう。馬鹿だと思われたら……こんな無知な女が相手じゃ無理だなんて思われたら……っ!嫌よ、そんなの嫌!でも、分からないっ、どうしよう!どうすればいいの……!?
「…………すみません。お待たせしました。」
「キャアッ!?」
後ろから突然声を掛けられて、驚いて叫び声をあげてしまった。
反射的に振り向くと、そこには着替え終わって鞄を持ったユンが、申し訳なさそうに眉を下げて笑って立っていた。
ユンは、いつものユンの表情に戻っていた。
…………よかった。
わたくしは目を閉じて一息ついて気を落ち着かせ、それから立ち上がった。
「準備ができたようね。とっとと行くわよ。」
……そうよ。わたくしが動揺することなどない。大丈夫。わたくしはユンのために、今日一歩踏み出すと決意してきたのだから。
わたくしは美しい。ユンもわたくしに惚れてくれているのだから。……大丈夫。大丈夫よ。
わたくしが自分にそう言い聞かせていると、ユンが横からわたくしの様子を窺うようにして「あの……本当に無理しないでくださいね。俺、今日こうしてセレンディーナ様にお話ししていただけただけで充分なんで。今日もただ普通に泊まるだけでいいと思いますし。」と言ってそっと笑いかけてきた。
わたくしが今、不安になってしまったのが伝わってしまったのだろうか。
駄目よ。そんなんじゃ駄目。またユンに譲らせて……また隠されてしまっては駄目。
今日見たユンの涙は、ちゃんと今日、わたくしが受け止めるべきものだ。わたくしはユンのことを知りたいのだから。……ユンをようやく手に入れられるのだから。
ユンが見せてくれた弱味を、ユンという男の片鱗を、怖気付いて逃すわけにはいかない。
「無理なんてしていないわ。わたくしを誰だと思っているのよ。いいから行くわよ。」
わたくしが気合いを入れながらユンに向かってそう言うと、ユンはまたふわりと眉を下げながらそっと笑った。
「ありがとうございます。
本当に……何も心配しなくていいですからね。」
わたくしはそのとき気付けなかった。ユンの言葉の違和感に。
◆◆◆◆◆◆
わたくしが先ほどの思考を口に出してしまっていたと知ったのは、ホテルに着いて軽めの夕食を食べた後。
シャワーを浴びに行こうとしたら、ユンに声を掛けられた。そのときだった。
「……あ、お化粧はし直さなくていいと思いますよ。香水も別にいらないと思います。
というか、俺がそっちの方が好きなんで。じゃ、ごゆっくりどうぞ。」
いきなりそう言われてわたくしは一度首を傾げ──……それから遅れて気が付いて顔を熱くしながら悲鳴を上げた。
「まさか──っ、貴方、聞こえていたの?!早く言いなさいよ!!……っ、一体どこから?!どこからわたくし、口に出していたの?!……っ、酷いっ!酷いわ!!」
羞恥で泣きそうになるわたくしを見たユンは、ついに吹っ切れたかのように明るく、ついに諦めたかのように哀しげに──……ついに、ようやくわたくしの想いを受け入れる気になったかのように笑って目を細めた。
そしてわたくしに向かって、相変わらず本心かどうか分からない──でも、きっと本心であろう言葉を口にした。
「俺、ずっと『セレンディーナ様って、お化粧してるのもいいけど、実はすっぴんが一番可愛いんじゃないかな?』って内心思ってたんです。
──それじゃ、楽しみに待ってますね!」
余談ですが……
ユンにとって「何故かいつも以上にセレンディーナが可愛く見えてしまった日」が、実は過去に存在しています。
お気付きになった方は、案外単純で分かりやすい彼のことを笑ってあげてください。




