5 ◆ 嘘で塗り潰された理想像(中編)
第五部(18話+幕間2話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
魔法研究所から公爵邸に戻り自室に入ると、わたくしの専属侍女のエリィが頭を下げて迎えてきた。
「おかえりなさいませ。御主人様。」
「……ええ。」
わたくしはそのまますぐに、自室のクローゼットを自らの手で開いた。
予定時間よりも異様に早く帰宅し、座って飲み物を飲むこともせず、さらに侍女にやらせずに突然自分でクローゼットを開けたわたくしの行動に、エリィは分かりやすく動揺した。
「え?……えっと、……御主人様?」
わたくしの背後で、肩書きだけは上級の、上級専属侍女の声がする。
「エリィ。」
「はいっ!」
「今すぐに、一泊分の荷物を入れる鞄を用意して頂戴。」
「…………はい?」
わたくしは間抜けな声のする方を振り返って、間抜けな専属侍女を睨んだ。
「一度で聞き取りなさいよ。
『一泊分の荷物を入れる鞄を用意しなさい』と言ったの。
聞こえなかったのかしら?わたくし、急いでいるのが見て分からないの?いいからとっとと用意しなさいよ。
何でもいいわ。この部屋にある鞄でいいから早く出してきて。」
「──っ、はい!ただいま!」
エリィは慌てて小走りで駆けていって、すぐに一泊分……にしては少し小さめの革製の鞄を持ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか?」
「ええ。」
普段ならば「何よ、これ。これでは二着目の服も替えの靴も入らないじゃない。小さすぎるわ。『一泊ならば着替えは一着で靴は一つ』なんて貧乏臭い感覚をわたくしに押し付けないで頂戴。」と返していただろう。
けれど今のわたくしには、そんな悠長にエリィを教育している暇はない。
そして今に限っては、この小さい鞄の大きさで充分だった。わたくし自身に、何着も服を吟味する余裕などなかったから。
だからわたくしは、躊躇うことなくそのままエリィから一つ目の候補の鞄を受け取った。
「エリィ。」
「はい。」
「そうしたら、すぐに今晩一泊分のホテルを予約して頂戴。王都御三家のホテルならどこでもいいわ。最上位ランクの部屋が空いているところを押さえて。もし空室がなかったら追加でいくらでも払っていいから、とにかく交渉して部屋を確保しなさい。
そして家族に見つからないよう内密に馬車の手配をして。……西側のいつもの場所に待たせておいて。」
「えっ?」
「早くして。」
「あ、えっと──はい!かしこまりました!っ、すぐに手配いたします。」
エリィはわたくしの指示を聞いて勢いだけで返事をして、それから数秒後に「あっ」と独り言を呟いてから、わたくしに質問をしてきた。
「あの……そのホテルのご予約の人数とお部屋の数なのですが──……」
「二人よ。部屋は一つ。」
すると、わたくしの返事を聞いたエリィが、躊躇いがちに恐る恐る伺ってきた。
「………………ユンさん、ですか?」
「当然でしょう。他に誰がいるのよ。」
急いでいるわたくしは、要らない確認をしてくるエリィを睨みつけた。
わたくしに睨まれたエリィは、主人であるわたくしに心配そうな視線を寄越しながら、要らないお節介をしてきた。
「……御主人様。ユンさんと何かあったんですか?」
図々しくて厚かましい侍女に、わたくしは久しぶりに腹が立った。
「貴女には関係ないでしょう。いいから早く動きなさい。あと3秒で動かなければこの場でクビにするわよ。」
けれどエリィは、わたくしの言葉を聞いて顔を曇らせながらも……わたくしと目を合わせたまま動かずに、あろうことか言い返してきた。
「あの、私……御主人様が心配です。御主人様のお顔が……今、とても辛そうなので。
ご指示の通りに、すぐにホテルと馬車の手配はいたします。ですが、よろしければその前に何かお飲み物をご用意してもよろしいですか?
私が手配をしている間にそれをお飲みになって、一度落ち着かれてください。」
「……勝手にして。」
「かしこまりました。……ありがとうございます。」
そう言ってエリィは、勝手にホットココアを淹れ始めた。
そして勝手にいつものわたくしの机の上に「こちらに置いておきます。」と言ってホットココアを置いて、それからわたくしに一礼をして、そっと部屋を出て行った。
侍女のくせに自我を丸出しにしてわたくしの命令を無視するエリィにはとても腹が立ったけれど、エリィが去った後、言われた通り机の方に行ってエリィの淹れたホットココアを少し飲んでいたら、少し怒りは収まってきた。
でも、エリィへの腹立たしさが消えてきた分、今度はユンへの腹立たしさが呼び起こされてきてしまった。
…………何よ。何よ、あの男。
今さら「離れる」って何なのよ。
初デートの日、わたくしに睨まれて問い詰められても、すぐに開き直って笑っていたくせに。
……そもそも「女遊びが激しいクズ男」だなんて言い出したのは、わたくしではなく貴方でしょう?
何よ。泣いていたわたくしをそれで馬鹿にして煽ってきたくせに。何を今さら自分の言葉で、勝手にショックを受けているのよ。
何よ。……何よ、何なのよ!
散々今までもわたくしを傷付けてきたくせに。何を今さら「もう無理」だなんて言って、一人で壊れているのよ。
今回だって、ただ開き直ればいいじゃない。ヘラヘラ笑って謝って、それで自虐でもしていればいいじゃない!
何よ今さら……!
でも、わたくしはそうやって憤ってみても……頭ではもう分かってしまっていた。
ユンの気持ちがようやく理解できた今、わたくしは腹立たしくて仕方がないはずなのに、上手く憤ることができなくなってしまった。
ユンはきっと最初からずっと、将来的にこうなるであろうことを……この「今」の状況を予想して……そして怯えていたに違いない。
初デートのあの日から婚約するまでの1年間、ユンは何度も笑って自虐していた。反省しているのかいないのか、いまいち分からないヘラヘラとしたあの顔で。
早めにわたくしがそんなユンに幻滅して冷めるのを……ユンはきっと、無意識のうちに期待していたのだろう。
そうすれば、わたくしを深く傷付けなくて済むから。
……ユンは、とても臆病で誠実な男だから。
ユンはそういった自虐を、婚約パーティーの件でわたくしが職員寮で大泣きしたあの日以来、わたくしの前で言わなくなった。
わたくしはそんなユンに対して、「煽ってあそこまでわたくしを泣かせてしまったから、さすがに少しは反省したのね。」と思っていた。
…………でも、そうではなかった。
今のわたくしには分かる。
ユンという男の事情と行動原理を理解した今なら、わたくしはこう感じる。
──きっとユンはあの日、わたくしのユンへの想いが、何があっても揺るがないことに気が付いた。
──そしてユンは、あの日からきっと……わたくしのことを本気で好きになってくれたのだ。
だから、ユンはわたくしと婚約してからの1年間、今度は逆に言えなくなってしまった。笑って誤魔化せなくなってしまった。
わたくしを遠ざけるための予防線だったはずの「自虐」が、好きな相手を傷付ける「事実」に変わってしまったから。
……もう「わたくしを好きになる前」のような言動が、できなくなってしまった。
ユン自身は恐らく無自覚だっただろうけれど。あの男は鈍いから。
…………そうよ。きっと、そうだったんだわ。
婚約してから今日までの1年間、ユンはわたくしのことをちゃんと好きになってくれて、徐々にわたくしを愛してくれて……それに合わせて、どんどん辛くなっていっていたんだわ。
わたくしを好きになればなるほど、過去の事実がわたくしを傷付けると思えてしまって、ユンはどんどんそれに怯えて──……結婚が現実味を帯びてくればくるほど、過去の事実が生々しく己の不誠実さを突きつけてくるように思えて──……そうやってユンは、徐々に追い詰められていたに違いない。
わたくしはもうそんなことでは傷付かないのに。
ユンは不誠実なんかじゃないのに。
わたくしとユンは両思いなのに。……っ、何故なの?どうしてこうなってしまうの?
上手く憤れない代わりに、わたくしの目からは涙が出てきた。
──悲しい。苦しい。……とにかく辛い。
でも、こんなにも辛いのに、わたくしは幸せだった。嬉しかった。
「ユンがわたくしを好きになってくれている」という事実が、これでよく分かったから。痛いほどに。
愛する男に愛されているという事実。それを実感するのに、どうしてこんなにも痛みが伴うのだろう。
幸せなのに痛い。辛い。涙が出るほどに嬉しいのに悲しい。苦しい。
「…………っ、何よ。
何も隠すことなんてないじゃない。……全部言えばいいじゃない。
……わたくしに最初から──……っ、全部言えばよかったじゃない!!
何よ……何よ!何をそんなに怯える必要があるのよ!
やっぱり、わたくしのこと……っ、全然信頼してくれていないじゃない……!!」
わたくしはココアを半分だけ飲み終えて、泣きながら鞄に化粧品と着替えを詰め込んだ。
淡い青色のシンプルなワンピース。
わたくしがユンとの初デートの日に着ていった思い出の服。
わたくしは胸が痛くて仕方なくて、ろくに考えることができなかったから、とにかく最初に思い浮かんだ服を選んだ。
服を吟味している暇などない。
早くユンのもとへ行ってあげないと。
今はもう、それしか考えられなかった。
わたくしがそうして鞄に必要なものを入れ終えたところで、エリィから声が掛かった。
「……お待たせいたしました。馬車のご用意ができました。」
それを聞いたわたくしは、涙を拭って立ち上がった。
◆◆◆◆◆◆
魔法研究所の職員寮に着いて、わたくしは従者たちを
「明日の昼に、家族に見つからないようにホテルに迎えに来なさい。
絶対にバレないようにして。もし勝手にお父様に報告でもしたら、貴方たちは全員即刻クビよ。……いえ。クビだけでは済まさないわ。わたくしが出家してやるから。」
と脅して、無理矢理すぐに帰らせた。
それから、すっかり顔を覚えられた職員寮のスタッフにあっさりと「セレンディーナ様ですね。」と確認されて、わたくしは建物の中に入っていった。
スタッフにいつものように「ユンさんをお呼び出ししますね。」と言われかけたけれど、わたくしは
「結構ですわ。呼び出しは不要です。
ユンは今外出中ですから。部屋には誰もいませんわ。
わたくし、ユンが帰ってくるのを応接間で待つように言われていますの。」
と、息を吐くように嘘をついた。
ユンは重い石の裏に隠れているダンゴムシのようにジメジメとした人目嫌いな男だから。どうせ落ち込んでいる今は職員寮の正門ではなく、裏の通用口から部屋に戻っているに違いない。
もしくは開いている廊下の窓を見つけて、そこから帰っているか。あの男は気配を消して奇妙なところから出入りする手練れのコソ泥のような男だから。非常識な侵入の仕方も平然としたりするのだ。
スタッフが「あら。そうなんですか?……ああ、そうでした。そういえば午前中にお出掛けしてから、まだお戻りになっているのを見ていませんね。」とか何とか言って都合よく納得していたから、わたくしは「ええ。そうでしょうね。」と適当に相槌を打って、堂々と嘘をつき通した。
わたくしはそうして律儀に仕事を全うしているスタッフとの会話をさっさと終えて、1階の共用応接間を立ち止まらずに通過して、そのまま廊下を進んで階段を上がってユンの部屋の前に来た。
………………。
中から物音はしなかった。
でもユンは約束通り、部屋の中にいるはずだ。
……………………。
コソ泥ダンゴムシのようなうじうじしたあの男──……ユンを、早く立て直してあげなければ。
何に緊張しているのか自分でもよく分からなかったけれど、わたくしは恐ろしく緊張した。
声を掛けるのが怖い。ノックをするのが怖い。
…………あの男が、どんな顔をしているのかを見るのが、怖い。
わたくしは一度目を閉じて深呼吸をして、それから気合を入れて目の前の扉をノックした。
「──ユン。わたくしよ。
来たわ。……扉を開けて頂戴。」
◆◆◆◆◆◆
大人しく扉を開けたユンは、もう泣いていなかった。
けれど当然、いつも通りでもなかった。
ユンはわたくしとは一切目を合わせずに、「あの……先ほどは、本当に失礼しました。……取り乱してすみませんでした。」というような台詞を、掠れた声で弱々しく口にした。
そしてわたくしが部屋に入っても、椅子やベッドに座るでもなく、扉の近くに立ったままだった。
大人しく立っているだけで精一杯なのだろう。ユンは唇を巻き込んで眉を下げて……今にも泣き出しそうな顔だった。
わたくしとは目を合わせずに、視線を下の方に落としていた。
ユンは怯えているときにはよく、胸の前で両手を握りしめて縮こまり震え上がっているけれど。今はいつもよりも低めの位置に両手があった。
……その胸よりも少し下で擦り合わされているユンの弱々しい両手の拳が、わたくしを拒絶するような構えに見えた。
ユンが扉の近くに立ったまま動く気がなかったから、わたくしは立ったまま話し掛けるしかなかった。
…………部屋にほのかに香る星糖柚子のルームフレグランス。
わたくしと付き合い始めた日には無かった香り。
2年前と変わらない、相変わらず殺伐としたユンの部屋。
何のこだわりもない内装にそぐわないその一点だけの洒落た不自然な要素が、わたくしの最後の確信材料となった。
「約束通り戻ってきたわよ。貴方、少しは落ち着いたかしら?」
「………………、ごめんなさい。……失礼しました。」
どうやら話は通じそうにない。
これ以上ユンの様子を気遣う言葉を掛けたところで、何の意味もないだろう。
わたくしは革製の鞄を両手で持ち直しながら、意を決してさっそく本題に入ることにした。
「ユン。そうしたらデートを仕切り直しましょう?わたくし、あれから考えてきたの。
──……今日この後、わたくしとホテルに行くわよ。それで一晩、一緒に泊まりましょう。
さっき王都最高ランクの五つ星ホテルの最上位ランクの部屋を予約してきたの。
そしてわたくしは一泊分の荷物をすでに用意してきたわ。
…………貴方はこの意味、分かるわよね?」
わたくしの発言を聞いたユンはビクッとしてわたくしを見て、その後すぐにそれを隠すようにわたくしから再び視線を外して、たどたどしく察しの悪いフリをした。
「は、……は?
……いっ、いえ、その……いや、……えっと……」
「白々しいわね。
わたくしがそんなどこぞのくだらない恋愛小説に出てくるような、『清純』と『無知』を履き違えた違和感しかない不自然な馬鹿女じゃないことは分かっているでしょう?
ユン、諦めなさい。わたくしは交際経験こそ貴方一人しかいない『清純な女』だけれど、いい歳して手繋ぎとキスしか知らないような『無知な女』ではないわ。貴方もそれくらい、とっくに知っているでしょう?
わたくしは理解した上で言っているの。
とぼけても時間の無駄。意味がないわよ。」
ユンはわたくしから目を逸らしたまま、無言でもう一度ビクついた。
わたくしはそんなユンに、勿体ぶらずに、そのままわたくしの導き出した答えを投げつけた。
「──ねえ、ユン。
貴方はウェルナガルドの悲劇の日から、ずっと【不眠の症状】を抱えているのでしょう?
それで、学園に通っていた間、ずっとその症状を【適当な女性と寝ることで緩和させていた】のでしょう?
その過去の事実が【わたくしを傷付けた】のだと……さっき、そう思ってしまったのでしょう?
……それで、貴方は今【わたくしと離れる覚悟を決めていた】のでしょう?
どう?わたくしの推理、当たっているかしら。」
わたくしの言葉を聞いたユンは、わたくしから目を逸らしたまま──無言で、静かに大粒の涙をぼとぼとと零した。
…………ユンからの、「正解」の合図だった。
「…………そう。」
わたくしは安堵とともに、目を閉じて一息ついた。
良かった。わたくしの推理は合っていた。
……ならば、もう何の問題もない。
これで、もう大丈夫だわ。
わたくしは涙を流すユンの姿に胸を締め付けられながら、ゆっくりと呼吸をした。
そして、わたくしの方が動揺しないよう、感情的にならないよう、声が震えないように努めながらユンに語りかけた。
「合っていたのならば良かったわ。
それなら話が早いもの。
……ねえ、ユン。だったら、もう今日で終わりにしましょう。」
わたくしは言いながら、最悪な誤解を生みそうな言い回しをしかけていることに気付いた。だから慌てて、ユンが誤解してしまう前に間を置かずに続けた。
言葉選びを間違えてすれ違う破局など、そんなものはくだらない恋愛小説の中だけで充分だ。
「終わりにするというのは、わたくしとユンの婚約のことではないわよ。当然よ。勘違いしないで。
わたくしが言っているのは、ユンの抱えている事情の方。
望まない行為でユンが不眠を誤魔化さなければならなくなる日は、もう二度と来ないわ。
そしてそれをわたくしのために止めたことでユンが苦しい思いをし続けるのも、もう今日が最後。
──わたくしとユンで、この辛い状況を終わりにしてしまいましょう。
その『答え』が、これよ。
分かりやすくていいでしょう?」
そう言ってわたくしは一泊分の宿泊道具が入ったバッグを軽く持ち上げた。
ユンはそれを見て、涙目のままあからさまに焦ったような顔をした。
「──っ!……ちっ、違……っ!あの、俺は別に、そのっ、大丈夫で──……」
ユンはみっともなく足掻こうとしていた。
わたくしに決定的な言葉を言わせる前に、何とかわたくしの気を変えようとしていた。
けれど、わたくしはそんなユンの必死な抵抗を無視した。
「ユン。いいから、貴方もさっさと支度をして。
これからわたくしとホテルに行くわよ。
──それで今日、貴方はわたくしと寝るの。
わたくしの言いたいこと、ちゃんと伝わったかしら?」
◆◆◆◆◆◆
──……ユンは絶望したような顔をした。
わたくしがミリア様に勘違いをしてしまったのを見たときと同じ表情だった。
「……何よ。その表情。
失礼にも程があるわ。喜びなさいよ。」
わたくしはユンの心情を察しながらも、敢えて気付かないフリをした。
ユンの行動原理を理解した今だからこそ、ユンが何を思っているのかが手に取るように分かってしまった。
そしてユンは案の定、わたくしの予想通りのことを思ったようだった。
堂々と言い切ったわたくしを見て、その目から涙をボロボロ零して、とても苦しそうに顔を歪めた。
それからユンは、その口を震えさせながら開いて、酷く悲しい謝罪を口にした。
「せっ、……セレンディーナ様……ごめんなさい……っ、ぉ、俺のせいで……っ、そんなことを言わせてしまって、ほっ……本当にごめんなさい……!」
──婚約者であるわたくしに、望まないタイミングでの初体験を決意させてしまったことへの謝罪だった。
ユンは、また自分がわたくしを傷付けたと……そう勘違いしていた。
…………馬鹿な男。
自分はタイミングどころか、状況も、相手すらも……何も望み通りにいかなかったというのに。
そんな望まない体験を、何度も、何年も続けて、深く深く傷付き続けていたというのに。
どこにわたくしにそんなくだらない気を遣う余裕があるのよ。
「ユン。貴方ね、勘違いにもほどがあるわよ。
わたくしは貴方に言わされてなんかいないの。同情でも何でもないわよ。
ただ、今日、いま、わたくしが望んでいるからこうして来ただけ。」
わたくしはユンにはっきりと伝えた。
でもユンは、わたくしの言葉を受け取らなかった。涙を流して胸の前で両手を握りしめてガタガタ震えながら、必死にわたくしの言葉を否定した。
「うぅっ、うっ……嘘……っ、そんな嘘っ、つっ、つかなくていいです……!
そんなの、そんなこと……あるわけない……っ!絶対、絶対にダメだっ、そんなの……っ!そんなことは……せっ、セレンディーナ様は──ぉ、俺じゃ、っダメで……!」
………………分からない。
わたくしには到底、理解などできないけれど。
ユンはきっと今、自分が初めて決意した日を──……自分が初めて、ささやかな一晩の睡眠と引き換えに、取り返しのつかない穢れと絶望を手にした日を……鮮明に思い出しているのだろう。
そして、わたくしにそれと同等の苦しみを自分が味わわせてしまうと錯覚して──……その恐怖に怯えているんだわ。
…………わたくしは許せなかった。
まだ少年だったユンをここまで残酷に傷付けた、不眠などという症状が。
初めてユンとともに寝た、どこぞの誰とも知らない能天気な女が。
同部屋にいながらユンの絶望を止められなかった、ルームメイトのオーレンが。
こんなにもユンが辛かったときに側に居てくれなかった……ユンの大切なお義兄様が。
そんな彼を抱きしめてあげられなかった、ユンのことを何も知らなかった……まだ他人だった少女のわたくしが。
全部全部、どうしようもなかったと分かっていても、それでもすべて許せなかった。
…………酷い。酷いわ。
わたくしの愛するユンをここまで傷付けた世界のすべてが憎い。全員、誰も彼も許せない。
わたくしは自分の中のやり場のない怒りを鎮めるために、目を閉じてまたゆっくりと深呼吸をした。
息が怒りで震えてしまっていたけれど、何とかそれが収まるまで深呼吸を続けた。
そして何とか落ち着いて気を立て直し、今度こそユンに伝わるように懸命に、言葉一つ一つにしっかりと思いを込めながら話しかけた。
「……ユン。落ち着いて。わたくしの話を聞いて。
わたくし、本当に嘘なんてついていないわよ。
本当に、わたくしは貴方に言わされてなんかいないの。同情なんてしていないわ。無理もしていない。
わたくしが今日こうして決意をして来た理由は、たった一つしかないわ。」
わたくしは一息ついて、ユンに絶対に伝わるよう、全力で思いを込めた。
「……ねえ、ユン。
わたくしは今日、壊れて泣いてしまった貴方を見て──そのとき貴方のことを誰よりも、何よりも、今までで一番、世界で一番『愛しい』と思ったの。
今まで通りじゃ足りなくなってしまったの。もっと貴方を抱きしめたくなって、貴方が欲しくなって仕方がなくなってしまったの。
……それだけよ。だから決意をしたの。
わたくしは今の貴方を見ても、愛しさと幸せへの期待しか感じない。負の感情なんて一つもない。
わたくしは『今日』がいいの。『今』がいいの。これがわたくしの望んでいる瞬間なの。何も妥協なんてしていないわ。」
言葉にしたら、その言葉通りの感情が溢れ出てきてしまった。
わたくしは溢れ出た感情と衝動のままに、ユンのことを強く抱きしめた。そして抱きしめたまま、全力で、渾身の思いを込めた。
「ユン。わたくしはユンを愛しているわ。
だから大丈夫よ。わたくしは、貴方がいいの。
他の男じゃダメなの。今じゃなきゃ嫌なの。
……だから、ちゃんとわたくしの言葉を聞いて、受け取って頂戴。そんな風に泣かないで、ただ素直に喜んでほしいの。
…………お願いよ。」
◆◆◆◆◆◆
ユンはわたくしの腕の中で、ガタガタと震えながら涙を零していた。
でも、わたくしが思いを込めて伝えた言葉を、ようやく、時間をかけて聞き取ってくれたようだった。
ユンは鼻を啜りながら一生懸命息をして、震えをだんだんと収めていった。
そしてしばらく無言でぼろぼろと涙を零して、わたくしの肩を温かい涙でべしょべしょに濡らして……ようやく、時間をかけて一言だけで小さく応えた。
「……ぁ、……ありがとうございます。」
…………良かった。やっとわたくしの本心が伝わった。
わたくしはほっとしながら、ゆっくりと腕を解いてユンを解放し、姿勢を直してユンに向き合った。
ユンの顔は涙でびしょびしょに濡れていて、視線は下に落ちていて、眉はへにゃりと下がっていて、その口はぎゅっと結ばれていた。
まあ、表情は何でもいいわ。ちゃんと私の言葉を受け取ってくれたなら。
わたくしは心の底から安堵した。
長かったわ。
でも、ようやくこれで前に進める。
──ようやく、この男が手に入るんだわ。
わたくしはいきなり心の中に浮かんだその言葉に驚いた。
我ながら、なんて野蛮で醜い感情だろう。
でも、少し理性的になって考え直してみても、他に適切な言葉が見当たらなかった。
…………そうね。そうよ。
野蛮ではないし、醜くもないわ。ただの事実だもの。
わたくしはようやく、ユンを手に入れることができるんだわ。
掴みどころのないユンという男を、これまで理解できなかった難しいユンという男を、他でもないこのわたくしが今日ついに掴んだ。理解した。
そしてわたくしはやっと、ユンを手に入れるのだ。
ああ、なんて素晴らしい日なのかしら。……最高だわ。
わたくしは内心そっと悦に入りながら、落ち着き始めたユンに対して声を掛けた。
「落ち着いたかしら?
そうしたら、準備をして行きましょう。」
…………すると。
もうすっかり悦に入っていたわたくしを興醒めさせるような、ユンのあり得ない発言が耳に飛び込んできた。
「そっ、……それは駄目です。こんなの、駄目です。
ぉ、俺は……行きたくありません。」
それは、簡単には手に入れさせてくれない厄介な男ユンによる、厄介な足掻きの2回戦目の開始の合図だった。




