4 ◆ 嘘で塗り潰された理想像(前編)
第五部(18話+幕間2話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
……言ってしまった。やってしまった。
わたくし、言い過ぎてしまったわ。
いきなりわたくしを抱えて走り出したユン。
わたくしはユンに抱えられながら少しずつ頭を冷やして冷静になって、遅れて後悔をし始めていた。
ユンに不満があったことは事実。
でもその不満を、ミリア様とやらを前にして、誤解をもとにうっかりぶつけてしまった。
そして勢いで、言い過ぎてしまった。
本当はユンはそんな「女遊びが激しいクズ男」ではないと信じているのに。わたくしはユンのことを信頼しているつもりだったのに。
……それなのにユンが、いまだに隠そうとするから。変な誤魔化し方をしようとしたから。
わたくしはあまりにも、わたくしが信頼されていないことが悲しくて、腹が立って──……つい、その言葉を使ってユンを責め立ててしまった。嫌味を言ってしまった。
……本当はユンは、お義兄様のことを隠そうとしていたのだけれど。だから今回は本当に、ただの誤解だったのだけれど。
いつもよりも雑に抱えられてしまっているせいか、ユンの顔が見えない。
そのせいでユンが今どういった表情をしているのか、わたくしは確認することができなかった。
けれど、いつもよりも心なしか走りが荒い気がする。
ユンの呼吸も、少し乱れているような気がする。
気分の悪い中断の仕方をしてしまったデート。
ユンに降ろされたらすぐに、ユンに嫌味を言ってキツく当たってしまったことを謝ろう。
そうして早く仕切り直して、もう一度街に出ればいい。
その程度の思考をしたところで、わたくしたちは一瞬でいつもの場所──ユンが勤務する「王立魔法研究所」の、誰もいない屋上に到着した。
◆◆◆◆◆◆
ユンに無言で降ろされたから、わたくしはちょうど目の前にあったいつものベンチに「座りましょう。」と言って、ひとまず静かに腰掛けた。
無言のユンが隣に座ったのを横目で見て、わたくしはユンに謝った。
「……ユン、ごめんなさい。
わたくし、つい言い過ぎてしまったわ。
貴方があんな風に、変な伏せ方をするから。わたくし、誤解してしまったの。
……ミリア様に言われてしまうくらいなら、最初から貴方が言えばよかったのに。」
わたくしはそこまで言って、またうっかりユンを責めかけてしまっていることに気が付いた。
自分の声音が不貞腐れかけていることに気が付いた。
わたくしは慌ててもう一度謝り直そうとしたけれど、今度はわたくしよりも先にユンの方から、弱々しい謝罪の声が聞こえてきた。
「……いえ、俺の方が……っ、本当に、すみませんでした。…………ごめんなさい。」
「いいのよ。……わたくしの方こそ、ごめんなさい。」
よかった。無事に解決した。
少しヒヤリとしてしまったけれど、喧嘩にはならずに済んだわ。
わたくしはユンとの恐ろしい喧嘩など、一生、もう二度としたくない。
ユンはもともとわたくしにとても甘くて、まったく怒らないけれど。もし万が一、わたくしのミリア様への態度やユンへの理不尽な責め立てに、ユンが冷静になって怒りを覚えていたら……今頃、一体どうなっていたことか。
わたくしは自分がとてつもなく危険な綱渡りをしていたのだと気付き、今になって肝を冷やした。
「はぁ……とにかく、誤解が解けてよかったわ。
それじゃあ、今から仕切り直しましょう。どうする?もう一度先ほどの通りに戻る?
……そういう気分ではないわよね。どこか別のところに行きましょうか。」
わたくしは一安心してホッと息をつきながら、気持ちを切り替えて隣にいるユンの方に顔を向けた。
けれど、ユンはわたくしと違って、まったく安心などしていなかった。
ユンの様子は、わたくしの予想外のものだった。
ユンは静かに泣いていた。
口を曲げて眉を下げて、無言のまま涙を零していた。
ユンが泣きそうな顔をしているのは、これまでに何度も見たことがある。ユンは表情豊かな男だから。
けれど、本当に泣いてしまっているのを見たのは……わたくしはこれが初めてだった。
「ユン?貴方、泣いているの?……どうしたの?
もうお互いに謝って、これで解決したじゃない。」
わたくしは驚いた。
ユンの突然の涙が心配になり、わたくしはそう尋ねた。するとユンは涙を流したまま、無理矢理なんとか作り笑いをした。
「ちっ、違う。……違うんです。ごめんなさい。俺っ……そんなつもりじゃなかったんです。
俺、セレンディーナ様を傷付けるつもりなんてなかった。そんなことするつもりじゃ──」
ユンはちぐはぐな笑顔のまま何故かさらに言い訳を重ねようとして、それから……そこまで言って表情が制御しきれなくなったのか、笑顔を崩して顔を歪ませた。
「ちっ、違う。俺は、だって……だって……、そんなことがしたかったんじゃない。俺はただ、っただ、何とかしたかっただけで──ちがっ、違うんです。……ごっ、ごめんなさい。」
……ユンの様子がおかしい。
一目瞭然だった。
先ほどまでのあたふたとした言い訳とはまったく違う。
壊れたオルゴール人形のように、同じ言葉を繰り返しながらなんとか誤魔化そうとして顔を歪ませるユン。もう一度笑おうとしているのは分かるが、明らかにそんなことはもう無理そうだった。
ユンからガタガタと軋む音が聞こえてきそうなほどだった。本当にユンは壊れてしまった人形のようだった。
もう、決壊寸前のようだった。
「……ユン?貴方、大丈夫?」
見たことのないユンの姿にわたくしは本格的に心配になって、慌ててユンの背中に手を添えながらそう声を掛けた。
するとユンは、それを合図にしたかのように、わたくしが声を掛けた途端に一気に両目からボロボロと涙を溢れさせた。
「うっ、うぅっ……!
……っ、無理だ。無理だ。俺にはもう無理だ。
もう無理だよ。もう、できないっ。うまくできない。俺には無理だったんだ。やっぱり、やっぱり駄目だったんだ……!」
「ユン?ねえ、落ち着いて。どうしたの?
どうしてそんなに泣いているの?何が無理なの?」
わたくしがそう聞くと、ユンはボロボロと涙を溢し続けながら、悲しい言葉を口にした。
「──せっ、セレンディーナ様を傷つけちゃった……!
俺、そんなつもりなかったのに……そんなつもりじゃっ、……うっ、うぅ……!
やっぱり俺には無理なんだ!俺には、セレンディーナ様は……駄目なんだ、無理なんだ、俺なんかと一緒にいちゃいけないんだ……!」
そう言ってユンは泣きながら項垂れて、脚に膝をついて両手で顔を覆い隠してしまった。
わたくしは訳が分からなかった。
先ほどの件はただの誤解だったということで、もう片付いたではないか。あの女性……ミリア様はただのお義兄様関係の知り合いだった。何もやましいことなどなかったと、彼女が説明してくれたばかりなのに。
どうして今さらそんなに思い詰めているのか。何がそんなに問題なのか。
けれど、とにかく今は目の前のユンの姿が辛くて、苦しくて仕方がなかった。
それに何より、ユンの言葉が聞き捨てならなかった。
──「俺には、セレンディーナ様は……駄目なんだ、無理なんだ、俺なんかと一緒にいちゃいけないんだ……!」
……まさか、この男。もう婚約もしているというのに、今さらわたくしから離れようとでもしているの?
今のこの一件で?たった数分だけの誤解によるすれ違いで?
ユンは今どうやら混乱しているようだけれど、話が通じようと通じまいと、そのまま聞き流すことなどできない。
わたくしは万が一にでもそんなことにならないよう、当たり前のことをユンに訴えた。
「ユン。『駄目』でも『無理』でもないわ。ユンはわたくしの婚約者なのよ。一緒にいていいの。当然よ。お願い、冗談でもそんなことを言わないで。」
しかしユンは止まらなかった。
ユンはもう本当に壊れてしまったかのように、おかしな涙を流しながら狂った言葉を吐き続けた。
「もうやだ、もう嫌だ!もう俺は、もう無理だっ、駄目だ……もう嫌だ!!
違うのに!こんなつもりじゃなかったのに!俺はっ……俺は、こんなっ──セレンディーナ様を傷つけたくてやったんじゃないのに!!」
そしていよいよ狂ったユンは、最後に悲痛な声をあげた。
「おっ、俺はただ──ただっ、普通に寝たかっただけなのに!!──っ、もう嫌だ!!もう嫌だ!!!」
◆◆◆◆◆◆
完全に発狂してしまっているユンの絶叫。
わたくしがこれまでの人生で聞いた、一番辛い叫び声だった。
ユンの叫び声に、わたくしの身が引き裂かれたようだった。
そして訳も分からないまま、わたくしの目には涙が浮かんできてしまった。
…………辛い。苦しい。誰かわたくしを助けてほしい。
わたくしはみっともなく、そう感じてしまった。目の前にいるユンから溢れた感情を、わたくしは一瞬受け止めきれなくなってしまった。
でも、わたくしは急いで首を振ってそんな一瞬の考えを頭から振り払い、自分を奮い立たせた。
駄目よ。わたくしが受け止められなくなっては駄目。わたくしが逃げては駄目。
ユンの発言は恐らく……違うわ。これは絶対に「冗談」なんかじゃない。
よく分からないけれど、ユンは今わたくしから離れようとしている。ここでわたくしが手を引いたら──……わたくしたちは、本当にここで終わってしまうかもしれない。
わたくしの直感が、そう言っていた。
ユンはもう言葉にならないような「無理だ」「駄目だ」「嫌だ」、そしてわたくしへの「ごめんなさい」を繰り返して泣き続けている。
ユンは完全に崩壊していた。
わたくしは訳も分からないまま、死ぬ気で頭を回転させた。
「喧嘩せずに済んだ」などという、先ほどまでの生ぬるい安堵はとっくに頭の中から消えていた。
今のこの状況は喧嘩どころの話ではない。もっと……もっと恐ろしく、最悪な何かだ。
このままでは破局だ。……破局ならばまだましかもしれない。
──ユンが、このままでは本当に死んでしまうのではないか。
そのくらい、目の前のユンは、何かがおかしくなっていた。
わたくしはこの状況とユンの言葉から、本気で、死ぬ気で推理した。
学園の試験のどんな課題よりも、どんな難問よりも厳しかった。何故なら失敗は絶対に許されないから。
でも、ここで「分からない」は許されない。そしてとにかくこのわたくしが、この場を何とかしなければいけないのだ。
◆◆◆◆◆◆
──「セレンディーナ様を傷つけちゃった」。
ユンは、ミリア様との関係を咄嗟に伏せたことに怒ったわたくしを見て、必死に言い訳をしようとしていた。
そしてわたくしがミリア様を「過去の女のうちの一人」だと思ったのを見て愕然としていた。……ということは、ユンは過去の女性遍歴についてわたくしに申し訳なく思って後悔をしている。それは間違いなさそうだ。
けれど絶対に、そんな単純な話ではない。
わたくしは初デートの日から違和感を持っていた。そして確信していた。
ユンのそれは、ただの乱れた遊びではない。何か事情があるはず。
だって、ユンはお義兄様を裏切るような真似はしないもの。ユンはそんな不誠実な男じゃない。わたくしはよく知っている。
ユンに何か理由があったとして、わたくしは初デートのあの日からこれまで何も考えてこなかった訳ではない。
ユンが「望んでもいないのに女性と寝なければならなかった」理由。普通ならば、そんなものはない。けれど、ユンにはある。そのことについては、ずっと考えてきていた。
──【金銭的な困窮による身売り】か、もしくは【性依存】。
わたくしは恐らく前者だろうと予想していた。
後者であれば、わたくしと付き合ってきたこの2年の間に決定的な不義理があってもおかしくない。それか、わたくしに何か要求してきてもおかしくない。
でも、ユンにはそんな様子はなかった。こちらがもどかしく思うほどに、ユンは奥手だった。それどころか、未だに全然、わたくしが言わなければろくに手を出してくれない。……腹立たしいほどに。
であれば、わたくしと付き合う前──というより、学園を卒業するまではそれが必要だったと考えるのが妥当。
素直に考えるのならば、その違いは金銭面だ。
ユンは魔法研究所に就職してからは、庶民としては充分過ぎるほどに稼いでいる。デートのときの様子を見ていても、あの程度の金銭感覚なら、研究員としての稼ぎだけで充分足りるだろう。
だから、わたくしはこれまで「ユンは過去に学費のために【身売り】をしていた時期がある」のだと、そう捉えていた。
けれど、今ユンの悲痛な叫びを聞いて……わたくしのこれまでの予想は外れているような気がした。
──「ただ、普通に寝たかっただけ」。
ユンはたしかに、そう叫んでいた。
……やはり、女性と寝たかっただけなのか?依存症なのか?
そうなると「普通に」という言葉が、若干引っかかる。文脈的にあり得なくはないけれど。「普通に女性と寝たかった」という意味でも一応、通じはする。……あまり一般的な感覚ではないけれど。
……でも、違うわ。
これもただのわたくしの勘だけれど。ユンはきっと、もっと素直な、もっと純粋な意味で言っている。
……となると、ユンは「本当に、ただ普通に寝たかった」だけ。
…………ユンは、【不眠症】を抱えている?
…………………。
それでも一応、辻褄は合う。……むしろ、こちらの方が話の筋が通る気がする。
…………そうだわ。それかもしれない。
ユンが不眠症だと仮定すれば、一つ一つに納得がいくもの。
女性と寝たのは、男性の生理現象としての眠気を誘発させるため。不眠による精神の不調を誤魔化すためという理由もあったのかもしれない。
ユンがその手段を取ったのは、他の手段が使えなかったから。
まだ実際に見たことはないけれど、ユンはどうやら酒を飲むと眠気がくるよりも先に一杯程度で吐いてしまう体質らしい。
酒は酒で依存症になり得るからどちらが良いとは一概には言えないけれど、どちらにしても眠るための手段としてはユンには使えなかったのだろう。
病院……には、行ったけれども改善が見込めなかったか。それとも、平民のユンにはその発想すら無かったか。
ただ、どちらにしろ役には立たないのだろう。
そういった精神面の症状を扱う医者もここ数年で出てきたとはいえ、まだ各症状の治療法は確立されておらず、研究もあまり進んでいない。
診てもらったところで、話を聞いた医者から慰め程度のアドバイスをされて、気休め程度の香油でも勧められるだけだろう。
いずれ役立つ日が来るかもしれないが、現時点で頼りになるとはわたくしから見ても到底思えない。
……そう。そうよ。そう考えればすべてが繋がる。
ユンの学園時代のルームメイト、あの子爵家長男のオーレン。彼が言っていたこと。
── 「僕は、ユンのことを……すごい人間だと思っています。」
──「僕だったら絶対に無理だ。僕だったら絶対に耐えられなくてすぐに死んでる。でもユンは今もちゃんと生きてる。」
──「……僕はユンに出会えて、友達になれて、本当によかったと思っています。」
平々凡々で無難をこよなく愛していそうな、人畜無害そうな子爵家長男。あの彼の印象からして、ユンの事情がもし【性依存】であれば、もっと彼のユンへの尊敬の度合いは下がっていそうだ。
それよりも、ルームメイトだからこそ知り得たこと。それは【不眠】。だとすれば、分かりやすいではないか。
オーレンは7年間、寮の同室でユンの不眠を見続けていた。そして、その結果ユンが対処法として女性と寝ていたことも知っていた。
それでも、オーレンは「ユンはすごい人間」だと感じるほどだった。ユンを不潔だと感じるよりも、倫理観がないと非難するよりも……尊敬の念の方が上回っていた。
……つまり、それほどまでにユンの不眠は深刻だった。
そういうことではないか。
ユンが深刻な不眠症を抱えているとして、原因はすぐに思いつく。
──【ウェルナガルドの悲劇】。
十中八九この事件がきっかけだろう。
ウェルナガルドの悲劇は夜に起きたとされている。純粋に「夜」がトラウマになっていて眠れない可能性はある。
ユンは兄弟でウェルナガルドから脱出した後、放浪生活が安定するまで子ども二人での野宿生活を強いられていた。身の安全が確保されていない中で、意識を失う睡眠という行為は相当怖かったに違いない。「眠ること自体」に恐怖心を抱いている可能性もある。
それか、「悪夢」。ウェルナガルドの悲劇の光景が、悪夢となって毎晩ユンを苦しめているのかもしれない。
どれかは分からない。すべてかもしれない。でもいずれにしろ、ユンが不眠になるには充分すぎる理由。
不眠だとすると、わたくしが見てきた学園時代のユンの行動も、今さらながら少しずつ、一つずつ理解できてくる。
ユンが「木の上」なんて変なところにいたのを見つけた日。ユンは言っていた。「寛げそうな場所を探していた」「ここが落ち着く」と。
……あれは、誰にも見られずに日中少しでも休める場所を求めた結果だった?
ユンはたまに隣の席で授業中にうたた寝をしていた。
魔法学園でうたた寝なんてことをする学生は、ほとんどいない。いても成績が下位の方の、学業自体を諦め気味の者がやっている印象があった。
わたくしはユンのそんな姿を見て、平民らしく図太い態度だと思って呆れていたけれど……よく考えたら、ユンは成績は上の方だった。授業もいつも楽しそうに受けていた。
……あれは、不眠の蓄積によって一瞬意識を飛ばし、気絶しかけてしまっていた姿だった?
思えば、学園時代だけじゃない。
今わたくしたちが座っているこの魔法研究所の屋上のベンチ。最初ユンは「ここでよくゴロゴロしている」と言っていた。
ここもユンの、木の上と同じ……勤務時間中の臨時の休息場所になっている?
ちぐはぐだったユンという人物像が、一つずつ繋がってきた。
ユンはずっと【お義兄様をこよなく尊敬していて、お義兄様の期待に応えるべく、前向きに日々奮闘していた】という印象だった。
それなのに同時に裏で女遊びをしていた。そこがおかしかったのだ。
でも、それが【学園にきちんと通い続けてお義兄様を安心させるために、不眠をなんとかするための最終手段として、裏で不本意ながら女性と寝ていた】ならば、何もおかしくない。
ユンの行動原理は何もぶれていないのではないか。
ユンは、お義兄様のためにも、何とかして日中起きて学園に通い続けたかっただけなのだ。
──〈眠れない夜は、人肌が恋しくなるものだ。〉
2年前の初デートの日。あの日のわたくしの直感は正しかった。
──……ユンはただ、ずっと普通に寝たかっただけなのだ。
◆◆◆◆◆◆
一度ユンの過去の真実が見えてきたら、今のユンの涙もするすると読み解けていった。
それで何故、今こんなにもユンが狂って壊れて泣いているのか。
それはきっと、わたくしが初デートの日に「わたくしを最後にしなさい」と言った、あの言葉。
ユンはわたくしに言われた通りに、他の女性と寝るのを止めて……それで、この2年間で、不眠が徐々にまた蓄積してしまって、精神的に追い詰められているのかもしれない。
…………そうよ。
だって、まさに、ついさっき。
カフェでユンに、わたくしの話を聞いていないことを指摘したとき。ユンはこう返してきたじゃない。
──「ごめんなさい。えっと……最近、ちょっと寝不足気味で。少しボーッとしちゃいました。」
って。
わたくしはあのとき、ユンが「嘘」をついたのだと思ってしまった。
あのカフェで、過去に遊んだことのある知り合いの女でも見つけたのかと……そう疑ってしまった。
妙にユンの気が散っていたから。ユンが不自然に周りを見渡していたから。
……でも、あれは本当に、ただ言葉の通りだったのね。
ユンは昔の、学園の授業のときのように……さっきもわたくしの目の前で、本当に意識を飛ばしてしまっていたんだわ。
……………………。
初デートの日、わたくしはユンに聞いた。
──「貴方はどちらなの?大切な人には手を出すの?出さないの?」
と。そのとき、ユンはこう答えていた。
──「時と場合と相手によります。」
2年間、ユンと付き合ってきた今のわたくしなら分かる。考えるまでもない。
ユンは、「大切な人には簡単に手を出さない」。
口ではなんと言っていようと、顔がいくら笑っていようと……ユンはそういう男だ。
──【ユンはお義兄様を裏切るような真似はしないもの。ユンはそんな不誠実な男じゃない。】
わたくしがさっき思ったこと。
……そう、そういうことだわ。だから当然ユンは、
【婚約者のわたくしを裏切るような真似もしたくない。そんな不誠実な男でいたくない。】
と思っているに違いない。
ユンは一貫して、誰よりも【愛する相手に一途な男】。敬愛するお義兄様にも、婚約者であるわたくしにも、誠実であり続けようとしている。
けれど……過去はもう変えられない。やってしまったことは無かったことにできない。それで今、
【「不特定多数の女性と寝ていた」という変えられない過去の事実がわたくしの心を傷付けた──その光景をさっき見てしまったことで、ユンは「わたくしを裏切らずに誠実でいることは、もう既に実現不可能なのだ」と確信してしまった。】
そしてユンは、もうどうしていいか分からなくなってしまった。
焦って、必死になって、なんとかしようと慌てふためいて、空回りをして──……ついに自分の心を誤魔化しきれなくなって、わたくしの前で取り繕えなくなって、こうなってしまったんだわ。
ユンはとうとう限界になってしまったのだ。
──「俺には無理だ」「駄目だ」「もう嫌だ」。
──「セレンディーナ様を傷つけちゃった」「そんなつもりじゃなかった」。
…………そういうことだったのね。
◆◆◆◆◆◆
ようやく答えに辿り着いたとき、わたくしはただ、強く思った。
──ああ。なんて、いい男なのかしら。
ユンは最高の男だった。わたくしの見る目は正しかった。ユンは世界で一番愛おしい、素晴らしい存在だった。
ユンを好きになったわたくしは、何も間違っていなかった。
……だから、泣かないでほしい。お願いだから、そんなくだらないことで壊れないでほしい。
お願いだから、そんな悲しいことで、わたくしから離れようとしないでほしい。
わたくしは今、ユンに抱いた想いを愚直に伝えた。
「ユン。貴方は素晴らしい男だわ。
……さっきはわたくしが勘違いをしてしまっただけなの。本当に、ごめんなさい。
貴方は何も悪くない。貴方は間違えてなんかいない。わたくしは何も傷付いていないわ。
ユン、だからもう大丈夫よ。安心して。わたくしはこれからも貴方と一緒にいたいわ。」
……でも、一度壊れてしまったユンにはまったく伝わらなかった。
「そっ、そんなの……!そんなの嘘だ!
お、ぉ、俺はっ、セレンディーナ様を傷つけちゃった!……やっちゃった、やっちゃった、もう駄目だ……!
俺は駄目なんだ、無理なんだ……!もう、もう無理だ、もうやだ……っ、もう嫌だ!
セレンディーナ様が俺に気を遣ってる。俺のために嘘をついてる……どうしよう。どうしようどうしよう、何とかしなきゃ。……っ、何とか、なんとかしなきゃ!
でも、っもう無理、むり、どうしよう──……」
ユンは震えた声でそう言いながら、頭を掻きむしっていた。
「ユン。わたくし、嘘なんてついてないわ。ねえ、落ち着いて。そんなに自分を責めないで。」
わたくしは泣きたくなった。
今、ユンの事情を推理して、ユンの行動原理がようやく理解できたからこそ、わたくしは苦しかった。
こんな状況でもわたくしを必死に何とかしようとしているユンの姿が、愛しくて辛くて仕方なかった。
わたくしの方が、ユンを何とかしなければいけないのに。ユンの方がとっくに限界なのに。
ユンはきっと、自分のことをずっと後回しにして、自分の心身を粗末に扱って──お義兄様と、わたくしをずっと優先していたのだ。
………………そうね。
だったら、今度はわたくしがユンのことを何とかする番だわ。
何とか……何とかしてあげたい。
目の前で壊れて泣いている、わたくしの大事な婚約者を。
「…………ユン。
わたくしを下まで降ろしてくれるかしら?
貴方が無理そうであれば自力で降りるから、研究所の建物の鍵を貸してちょうだい。
わたくしは一度、公爵邸に帰るわ。」
わたくしはユンに伝わるよう、そっと話しかけた。
それを聞き取ったユンはこちらを見ることもせずに、頭を抱えたまま無言になって、床にぼとぼとと大粒の涙を溢した。
そしてしばらくして、ようやく震えた声で、言葉にならない「分かりました」と「ごめんなさい」を絞り出した。
……きっと、わたくしがユンから離れるつもりなのだと──わたくしがついにユンに愛想を尽かしたのだと──そう勘違いしているのね。
馬鹿な男。
なんて……なんて馬鹿で鈍感な男なのかしら。
わたくしは本当に泣きたくなった。もはや怒りすら湧いていた。
どうしてこの男はこんなにも馬鹿なのか。
わたくしがユンから離れるわけないじゃない。今のユンの姿を見て、わたくしがユンを愛せなくなるわけがないじゃない。
貴方は、どうしてそんなにも自分の素晴らしさに気付けないのよ。
どうしてわたくしがこんなにも貴方を愛しているのに、素直に全部受け取ってくれないのよ。
何も考えずに愛されてくれればいいじゃない。笑ってわたくしの想いを受け止めてくれればいいじゃない。
それで、二人でただひたすら幸せになればいいじゃない。
…………何故、そうしようとしてくれないの。
わたくしは悲しみと怒りをぐっと飲み込んで、ユンに伝えた。
「ユン。聞きなさい。
わたくしは一度帰るけれど、すぐにまた戻ってくるわよ。1時間後に、魔法研究所の職員寮に行くわ。
だから貴方は絶対に職員寮で待っていなさい。勝手にどこかに行ったら許さないわよ。
……それで、わたくしが来るまでの間、貴方は何も考えなくていいから、とりあえず温かい紅茶でも一杯飲んで落ち着いていなさい。
いいこと?分かったかしら?」
ユンは俯いたまま肩を揺らして泣いていた。
「ユン。わたくしの今言ったことを絶対に守って。分かった?返事をして頂戴。」
「………………はい。」
ユンの掠れ声のような返事を聞き取ったわたくしは、ユンの代わりにしっかりと頷いた。
そしてわたくしは、強い決意を胸に、急いで公爵家へと帰った。




