3 ◆ すれ違う悪役令嬢の大失敗
第五部(18話+幕間2話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
「──…………あっ!ミリアさんですか!
すみません。ちょっといつもと雰囲気が違ったんで、一瞬気が付きませんでした。こんにちは!」
見覚えのある、特徴的な髪型の後ろ姿。
尻尾のような一本に結ばれた襟足の長髪を翻しながら振り向いてきたのは、予想通り、ゼンの弟のユンさんだった。
ユンさんは私をほんの数秒だけポカンとした顔で見て、それから遅れてパッと人懐っこい笑顔に変わった。
言葉の通り、本当に一瞬私だって気が付かなかったんだろうな。
無理もないと思う。だって私とユンさんは、もともとそんなに頻繁には会ってないし。
今日の私は三角巾の中に髪の毛を纏めたエプロン姿じゃなくて、髪の毛をハーフアップにしてリボンまで付けて、綺麗めのワンピースを着てるし……それに実はちょっと、お化粧もしちゃってるしね!
「えぇー?そんなに普段と違って見えます?この格好。」
無理もないとは思いつつも、私は浮かれきった気分で、ユンさんの言葉を拾った。
するとユンさんは、にっこり笑いながらさらっと嬉しい感想を言ってくれた。
「いつもの仕事着もミリアさんらしくていいなって思いますけど、今日みたいな格好だと、また違った感じがして可愛いですね。何だか上品な雰囲気もありますし。
貴族様かと思って、俺、一瞬学園の同級生の誰かかなって考えちゃってました。」
「えー!本当ですか?!
でも、そうなんですよ!ここら辺ってけっこう高級なお店が多いじゃないですか。だから私、ちょっと気合い入れてお洒落してきたんです。
ワンピースも靴もこのリボンも、私の持ってる中では一番いいやつなんです。ユンさんにそう言ってもらえて嬉しいです!」
私がはしゃぐと、ユンさんはくりっとした丸い目で私の髪を見て、面白そうに「あ!」と声を上げた。
「もしかして、そのリボン、ハルさんの色だったりします?」
「えっ?!何で分かったんですか!?」
1年前、ハルとデートをしていたときに、私が雑貨屋で一目惚れしてハルが買ってくれたリボン。
焦茶色のリボンに淡い黄緑色っぽい金糸の刺繍。たしか、クゼーレ王国の何かの伝統的な色使いなんだって。ユンさんが言ってくれた通り、見た瞬間に「これ、茶髪で若芽色の目のハルみたい!」って思って、それでその私の言葉を聞いたハルが「それなら、これをミーちゃんにつけてもらいたいな。」って言って買ってくれたんだよね。
ユンさんに言い当てられたことに私が驚くと、ユンさんはその理由をすんなり教えてくれた。
「学園の高等部の頃に知ったんですけど、貴族のご令嬢にはもともとそういう文化があるらしいですよ。
婚約者の人に、自分や婚約者の髪や目の色の刺繍を贈るーみたいな。贈るだけじゃなくて、自分で身につけたりすることもあるみたいです。ハンカチとか、ネクタイに刺繍を入れたり……それこそミリアさんみたいなリボンとか。
もう学園内では男子も女子も、みんな刺繍グッズだらけでした。だから今も俺、反射的にハルさんを連想しちゃったんです。」
「へぇー!そうなんですか!……あぁーでもたしかに!貴族のご令嬢って刺繍やってるイメージあります!
え〜!恋人同士でお互いの色を贈り合う文化って、何だかロマンチック〜!何で庶民にはその文化が浸透してないんだろう?みんなやればいいのに。」
私がそう言ったら、ユンさんが少しだけ考えてから、ロマンをぶち壊す現実的な指摘をしてくれた。
「んー……庶民はだいたいみんな似たような色だからじゃないですか?
だいたい7〜8割は茶髪か金髪ですし。残りは灰色とか黒とか?1割くらいはちょっと違う色の人もいると思いますけど……贈り合ったところで、あんまり唯一無二な感じがしないのかもしれませんね。」
「あっ……なるほど。」
…………言われてみれば。
このリボンも、ちょっと金糸が黄緑寄りだから私は「ハルの色だ!」って思ったんだけど……見ようによっては、目の前の「ユンさんの色」だとも言えちゃうかも。
ユンさんは淡い金髪に焦茶色の目の色をしてるし。
ちなみに私は、ちょっと濃い赤みがかった金髪に、灰色っぽい目をしてる。
……うん。たしかに。私とハルとユンさんだけでも、すでにみんな金色持ち。もし刺繍を贈り合うとしたら、まずはその微妙〜な色合いの違いを求めて店を渡り歩いて買い漁る、金糸マニアになる必要がありそう。
いいなぁ〜。特別な色の髪や目の貴族様は。
庶民にはないお洒落〜な文化まであって。
……ま、私はこのハル色のリボンを気に入ってるから、それでいいんだけどね。私の髪にも馴染むし。大人な落ち着いた雰囲気が出るし。
庶民には庶民らしい素朴な色が似合うってことで。
私がそう心の中で開き直っていると、ユンさんが軽く辺りを見回してから、コテンと首を傾げた。
「そういえば、ミリアさんは今日はハルさんと一緒じゃないんですか?一人で買い物ですか?」
「あ、そうなんです。実は私、これから工房に結婚指輪を受け取りに行くんですよ!
でも、ハルがちょっと風邪を引いちゃって。だから今日はとりあえず私が受け取っておいて、それでハルが元気になったら二人で一緒につけようって。」
するとユンさんは、再びにっこり笑って「結婚指輪ですか!いいですねー。ハルさんも早く元気になるといいですね。」と言って頷いた。
「そう言うユンさんも、今日はお一人なんですか?」
と、私が流れで質問をし返して、ユンさんが笑顔のまま「あ、俺は今日は──」と言いかけたとき。
向かい合って話している私たちに、道の反対側の方から、とっても綺麗でよく通る──冷たく鋭い声がした。
「ユン。」
◆◆◆◆◆◆
私が声のした方を向くと、そこには……それこそ私たち庶民では絶対にあり得ないような、長いウェーブがかった綺麗な青藍色の髪に、私たちみたいな庶民のくすんだ色とは違うキラッキラの黄金色の瞳の、もんのすっごく整ったお嬢様がいた。
うわっ!美人!!
……っ、なんだけど──……
ユンさんは私とほぼ同じタイミングで、笑顔のまま彼女の方を振り向いていたけど……私はもう笑顔ではいられなかった。
私はそのお嬢様と目が合った瞬間、まるで氷のナイフを喉元に突きつけられた気分になったから。
第一王女ラルダ様の凛々しい威厳とはまた別の威圧感。圧倒的な身分差を見せつけられている感じ。背筋が凍るような恐ろしい緊張感。
慈愛だとか優しさだとか、そんな温かさは微塵もない。真顔のまま私を黄金の瞳で見つめてくるそのお嬢様は、感情のない精巧なお人形のようだった。
「すみませんでした。勝手に道の反対側に来ちゃってて。見つけ辛かったですよね。」
呑気にユンさんが謝る。
ユンさんのこの慣れっぷり。こうして休日に一緒にいるってことは、彼女が例のユンさんの婚約者なんだろうな。
前にゼンとユンさんから「ユンさんにベタ惚れ」で「笑った顔を彼氏に今まで一度も見せたことがない」ような婚約者──って話を聞いてたから、私は勝手に「ユンさんの婚約者って、内気で大人しい『深窓の令嬢』って感じの人なのかな?」なんて予想をしていた。
シャイで奥手で、好きな人の前では恥ずかしがっちゃって上手く笑えない、とってもお上品なお嬢様。そんな控えめな彼女を、社交的なユンさんが明るく引っ張ってってくれるーみたいな。そんな雰囲気なのかなーって。
…………違った。
美人だしお上品なのは一目見ただけでも分かるんだけど……何というかこう……控えめどころか、私たち庶民を「卑しい愚民。視界に入るだけでも不快だわ。」って見下してきそうなドぎつい雰囲気がすごい。
……彼氏のユンさんには申し訳ないんですけど。
っていうか、今まさにそういう視線を私に向けられてる気がする。
お人形のように整った迫力のある真顔。その黄金色の瞳が、思いっきり私に向かって「何?この女。」って言ってる気がする。
──……あっ!そっか!
これもしかして、私、彼女様に嫉妬されてる?!というか、疑われてる?!
友達以上恋人未満の怪しい女友達みたいな?!
それとも私が初対面のユンさんに「今お一人ですか〜?」みたいに声を掛けて遊びに誘ってる女に見えちゃってる?!休日の昼下がりのナンパ的な?!
あーっ!それでこんなに怖い感じなのかも……!
そのことに気が付いた私は、ユンさんに「あのー……じゃあ、私はこれで──」と言ってそそくさと退散しようとした。
でも、私がユンさんにコソッと声を掛けた瞬間、私の言葉を思いっきり遮るようにして冷ややかな声が被せられてきた。
「ユン。そちらのお嬢様は?
貴方のお知り合いかしら?」
………………っ!
私は思わず身震いしてしまった。
言葉遣いこそ丁寧だけど、言い方に明らかにめっちゃトゲがある。
そしてその声の雰囲気が、やっぱりバッチリ今抱いたイメージ通り、超ドぎつい超高位貴族のお嬢様〜って感じの……庶民には到底出せない声だった。
私が怯えている横で、ユンさんは何でもなさそうに笑顔のまま私のことを彼女様に紹介しようとした。
「ああ、はい。
こちら、ミリアさんです。ミリアさんは兄──……」
と、ユンさんは笑顔のまま言いかけて止まって、それから
「……あ。えーっと、……俺がたまに行ってる大衆食堂のところの娘さんです。」
と着地した。
多分、今ユンさんは「ミリアさんは兄ちゃんが居候してる宿屋の娘さんです」って言おうとしてやめたんだろうな。
我が家「クゼーレ・ダイン」のお客様、ゼン。
そして我が国の第一王女ラルダ様の、非公表の旦那様。
ゼンがクゼーレ・ダインに泊まり続けていることは、世間に知られたらまずい極秘情報。
2年前、ラルダ様たちがウチに来てお話をしてくれた翌週に、わざわざ王宮から仰々しい通達まで届いたもん。
〈ゼンがクゼーレ・ダインに滞在していることは、ラルダ様とゼン、ユンさんと私たち従業員の『身内』、それと魔導騎士団員以外には絶対に口外しないように。〉
って。
ラルダ様がクゼーレ・ダインへの影響を考えて、ゼンだけじゃなく私とお父さんを守るために決めてくださったこと。
だから私もハルに秘密を共有したのは、ハルとちゃんと正式に結婚してからにした。
もちろんハルは幼馴染で恋人で、ゼンともすでに顔見知りだったけど。だからといって「ハル!ねえ聞いて!?うちの居候同然のゼン、実はラルダ様の『非公表の婚約者様』だったの!ラルダ様たちが週末にウチに来たの!もう信じられない!びっくりじゃない?!」なんてペラペラと大切な秘密を喋ったりはしなかった。
口が軽いってゼンに言われてる私でも、そこはちゃんと弁えていたつもり。もちろん、仕事人としても。ゼンはお客様でもあるから。
だから恐らくユンさんも、今お兄さんのゼンのことを思って、咄嗟に伏せようとしたんだろうな。
私とユンさんの関係──じゃなくって、ゼンが実はそこら辺の庶民的な宿屋に泊まり続けてるって事実を。
彼女様は婚約者とはいえ、まだ「身内」って訳じゃないから。一応内緒にしておこうって判断したんだと思う。
私もハルにはそうしてたし。気持ちはよく分かります。
…………でも、ユンさん。ごめんなさい。
今の言い方というか伏せ方が……客観的に見たら、ちょっと。さらにあらぬ誤解を生みそうです。
案の定、ユンさんが言い淀んだところで一気に不快そうな表情に変わった彼女様。
私は蛇に睨まれた蛙のように、足が竦んで棒立ちになってしまっていた。
「…………そう。」
彼女様は私を睨みながらそう一言だけ言い放って、それから今度はユンさんを軽蔑の眼差しで射抜いた。
「貴方、学園の同級生すらもろくに覚えられない割には、たまに行く程度の大衆食堂のお嬢様ごときとは、随分と親しげにお話しするのね。
……同じ学び舎の友人よりも、ただの店の従業員の方が仲良くなれるものなの?それとも、平民は皆そういう感覚なのかしら?」
違うでしょう?何を誤魔化したのよ。
と、続けて幻聴が聞こえてくるようだった。
「……?どういうことですか?
──って、………エッ?」
ピリついた態度の彼女様の様子を見て、ユンさんはようやく気が付いたようだった。
誤解によるすれ違いが発生し始めている、この若干不穏な空気に。
ユンさんが遅れて状況を把握して、ハッとして慌てながら
「えっと、あの……ミリアさんは全然、ただの知り合いで……本当にただそれだけですよ?」
と追加で彼女様に念押しをする。
でも彼女様はそれを聞き流しながら私を死んだような目でチラッと見て、それから呆れ返ったような目でユンさんを睨んでから、盛大に溜め息をついて目を伏せた。
「はぁ……いいわよ。もう分かったわ。
ユン。わたくし、ただ取り繕うだけのくだらない説明なんて聞きたくないの。
わたくしに何も言いたくないのなら、そう言えばいいじゃない。」
「エッ?いや、『何も言いたくない』なんて──」
「じゃあ何故誤魔化したのよ。」
「は?……アッ!えっと、あれは別に誤魔化したとかじゃなくって……」
「ねえ。もう『分かった』って言っているでしょう?
そちらのミリア様とやらは、『婚約者のわたくしには教えられない関係』の、『今でも楽しくお話ができる』程度には『たいへん仲のよろしいお友達』だということでしょう?
そうでなければ、『とっても大切な昔の彼女様』なのかしらね。
……それでいいわよ。わたくしはそれで納得しておくから、もうそれでいいじゃない。」
棘を増した彼女様の、私を疑う誤解の言葉。
ユンさんはその言葉を聞いて、愕然とした。
「──っ!
い、いや……その、だからミリアさんは本当に違くって……!」
…………ユンさん。
焦ってるところ申し訳ないんですけど、その「ミリアさんは」の「は」が、ちょっと……弁明になってるようでなってない気がします。
何だか既視感のあるこの状況。
私はユンさんがハルと初めて会ったときのことを思い出していた。
初対面のハルがユンさんを警戒して嫉妬しかけている中で、ユンさんがわざと誤解を深めそうな発言ばっかりしてきた、あのとき。
──ゼンとユンさんに煽られて、ハルが私にプロポーズしてくれた、あの日のこと。
いつもの私だったら、調子に乗って意地悪く「前にハルをいじめた仕返しです!」って、ちょっと怪しい発言の一つや二つしちゃってたかもしれない。
それで逆に、ユンさんと彼女様を煽り返しちゃおうかなー!なんて。
……でも、今はそんなことができそうな雰囲気じゃなかった。
単純に彼女様が怖すぎて。
それと、ユンさん自身がけっこう墓穴を掘っていて。
私は足が竦んで動けない状態のまま、必死に気配を消そうと頑張っていた。
そしてそんな私の目の前で、ユンさんと彼女様の会話は、私とハルのときよりも何倍も恐ろしい方向に向かっていった。
「……何よ。何の文句があるの?わたくしがどう捉えようと、貴方には関係ないでしょう?
だって貴方、わたくしに何も教えてくれないんだもの。
これまでもそう。今もそう。貴方は2年間、ずっとそうだったわよね。……その女が何なのかくらい、言い淀まずにさっさと正直に言えばよかっただけなのに。
……わたくし、事あるごとに思っていたのですけれど。
貴方って、本当にわたくしのことを信頼してくださらないのね。」
彼女様が仰々しい敬語になった瞬間、空気がまた一段と凍りついたような気がした。
…………こっ、怖い。
ユンさんの彼女様、ものすごい怖すぎる。
「──……っ!……えっと、違っ──!
あの……っ、だからミリアさんは本当に違くって……っ!」
ユンさんが顔から血の気を引かせながら、何とか言い訳を試みる。
でも相当焦っているせいか、ユンさんはさっきから同じことしか繰り返せていなかった。
「何が『違う』のかしら?何を焦って隠す必要があるの?
ユン。どうせだからこの機会に指摘させていただきますけれど。……貴方、これまでにも何ヶ所かあったわよね?わたくしと歩くのを意識的に避けていた場所や通りが。
どうせその避けていたところに、貴方の今までのお遊び相手の彼女様方でもいらっしゃったのではなくって?
わたくしが気付いていないとでも思って?まったく、舐められたものね。」
ふんっと鼻を鳴らして、呆れたようにユンさんを再び睨む彼女様。
彼女様と目が合ったユンさんは、顔面蒼白になって胸の前で両手を握りしめて縮こまって、喉を「ヒュッ」と鳴らした。
「別にいいじゃない。もともと『貴方がそういう男だった』なんて、交際初日の時点で既に分かっていたことだもの。
それに貴方、ご自分でそうおっしゃっていたじゃない。『女遊びが激しいクズ男』って。違うのかしら?
……今さら何よ。何がしたいの?今さら隠そうとするくらいなら、最初からもっと上手く隠しておきなさいよ。」
「えっ?……うわ……」
──あっ!すみません!
私はこの場の空気に怯えながらも、彼女様から聞こえてきた意外な言葉に、思わずちょっと引いてしまった。
うっかり漏らしてしまった自分の声にハッとして、慌てて口を閉じながらも……私はユンさんの今までとの印象とのギャップに、一人で困惑してしまった。
ゆ、ユンさん……「女遊び激しいクズ男」って……
……それ、自分で彼女様に言っちゃってたんですか。
というか、ユンさんの「惚れっぽいからいろんな人を好きになってきた」って……そういう感じだったんですか。
そうしてこの陽気な午後のひとときが、完全に修羅場と化してしまったところで。
彼女様は、泣くのを堪えるようにして目元にグッと力を込めながら、最後にユンさんにこれまで溜め続けていたのであろう不満をぶつけた。
「……っ、もういいわよ。……もうやめて頂戴。
わたくし、もう何も貴方に期待なんてしていないの。
だから貴方はわたくしの前で、わざわざ取り繕う必要なんてないはずよ?違うかしら?
…………ねえ、ユン。
ミリア様のことをそんな風に雑に隠して、わたくしを騙せるとでも思って?
そんな馬鹿みたいな『嘘』をついて、それでわたくしが喜ぶとでも思って?
そんな嘘、わたくしは微塵も望んでいないのだけれど。
むしろ、他の有象無象の女と一緒にされているようで、かえって不愉快だわ。」
少し震える声を誤魔化すようにして言い切った彼女様。
彼女様がそうしてふいっとユンさんから視線を外したのを見て、
…………ユンさんの様子が、明らかに変わった。
さっきまでは何とか声を出していたユンさん。でもユンさんはもう、何も喋れなくなっていた。
ユンさんは彼女様の姿から視線を外して、その瞳を明らかに動揺しながら彷徨わせていた。
そして、それから目に見えるくらいに震えながら浅い呼吸を必死にし始めた。
…………ううん。これは「動揺」じゃない。もうユンさんは明らかに「パニック」になりかけていた。
「──あっ、あの!すみません!
私、本当にユンさんとは何もないんです!
えっと……その!実は私、ユンさんのお兄さんの知り合いで!
えーっと、ご存知ですか?お兄さんが宿屋をずっと利用していること。
私、その宿屋の娘で、お兄さんとユンさんとは10年来の知り合いなんです。
ユンさんは多分、お兄さんのために咄嗟に伏せようとしただけで。全然!やましいことなんてありません!
それに私、もう結婚してますから!」
私は一瞬迷ったけど、極力ゼンのことをぼかしてラルダさんには一切触れないようにしながら、彼女様に事実を伝えた。
このくらいなら通行人に聞かれたとしても、全然問題はないはず。
咄嗟の判断だった。
でも、第三者なのに横からしゃしゃり出て極秘情報を暴露して──なんてことは言ってられない気がする。私のせいでこの二人が破局したら本当にどうしようって、ユンさんの様子を見て思ってしまった。
すると、いきなり割り込んできた私の声を聞いた彼女様は、私を見て拍子抜けしたように目を丸くした。
「あら。そうなんですの?」
そこで彼女様の纏っていた怖かった空気が、ふっと和らいだ。
……よ、よかったぁ〜……。
私はとりあえず一旦ホッとした。
私と目を合わせてキョトンとしている彼女様は、もう冷たい威圧感のあるお人形みたいな顔じゃなくって、すごく美人なんだけどちょっと可愛らしい感じになっていた。
なっ、何とか誤解は解けた……!
ゼンの秘密は仕方なく言っちゃったけど……まあ、もう婚約者様だから。……「身内」みたいなもんだよね。
私は少し遅れてやってきたモヤモヤに一生懸命心の中で言い訳をしながら、ひとまず目の前の修羅場を乗り越えたことの方を喜んでおくことにした。
彼女様は、そんなモヤモヤと安堵の混ざった中途半端な表情をしている私を見て「そうでしたのね。……失礼いたしましたわ。」と、軽くお上品に謝ってくれた。
そしてそれから、呆れたように溜め息をついて、
「はぁ……それならばそうと早く言えばいいじゃない。
何よ、貴方。本当にわたくしには全部隠そうとするのね。」
と言いながら、ユンさんに視線を戻した。
──……そこでようやく、彼女様はユンさんの異変に気が付いたようだった。
私も彼女様の視線に合わせて、もう一度ユンさんを見た。
一連の私と彼女様のやりとりを聞いていたはずのユンさんは──……誤解はもう解けたはずなのに、私とは違って全然ホッとしていないようだった。
ユンさんはまだ顔面蒼白のまま。
何も喋れなくなったパニック状態のままだった。
「………………ユン?」
彼女様がユンさんを見て戸惑いの声をあげた瞬間。
ユンさんは目に涙を浮かべて、瞳を揺らしたまま顔を歪めて、それから定まらない視線で彼女様と私の顔を交互にサッと見て──
──それからいきなり彼女様をガバッと横抱きにして持ち上げて、私が驚く間もなく彼女様を抱えたまま一気に飛び上がって消えてしまった。
……………………
………………えっ?
今、ユンさん…………飛び上がった……んだよね?
ユンさん、彼女様を抱えたまま……ジャンプしたってことだよね???
私は辺りを見回してみたけど、通りの両側には2階建てのお店がズラッと並んでいて──……ユンさんの姿はお店の軒先テントの上には見当たらないし、建物の上は私からの角度じゃ見ることができなかった。
「………………すごっ。」
私は呆然としながら感想を漏らした。
ゼンもユンさんも魔法使いで魔導騎士団の人だから、「ものすごく強いんだ」ってことは、知識としては知っていた。
……それにしてもユンさん、ハルよりも細身なのに彼女様を抱えて建物の上まで一瞬で飛んでいけちゃうなんて。信じられない。
本当にすごいんだなぁ。魔導騎士団の人たちって。
………………
…………っていうか、ユンさん、……大丈夫かな?
私は現実逃避のような感想を終えて、じわじわとユンさんのことが本格的に心配になってきてしまった。
……だ、大丈夫かな?ユンさん。……かなりヤバそうだったけど。
今あったことをゼンに言った方が……いや、言わない方がいいよね。彼女様とのプライベートのことだし。私もユンさんも彼女様も、もういい年齢なわけだし。
うん。まあ、心配だけど余計なことはしない方がいいよね?お二人の問題だから。
……うん。それに、彼女様の誤解は最後に解けてたわけだし。ユンさんが落ち着けば、あとは大丈夫なんじゃないかな。
彼女様は「ユンさんにベタ惚れ」らしいし。もう家族同士の顔合わせも済んでるんだし。
お付き合いしてれば、喧嘩やすれ違いの一つや二つ、絶対にあるもんだし。……たまたま私が今、目撃しちゃったってだけだから。
…………うん。大丈夫だと信じよう。
………………うわぁ……やっちゃったかなぁ。私。
っ、ああ〜!どうか!無事に円満に解決しますように……!
週末のお洒落な通りでの意外な遭遇。そして悲劇。
うっかり火種になってしまった私は、これから二人が寝覚めが悪くなりそうな申し訳ない展開にならないようにとにかく祈って、自分に「大丈夫」って言い聞かせて気持ちを切り替えるしかなかった。




