10 ◇ 宿屋の主人ゼルドー
全16話+後日談(数話)執筆済。基本毎日投稿予定です。
「はあ〜ぁ。今頃ラルダ様とクラウス様、王都のどこかにいるのかな〜。見に行きたかったな〜。」
大衆食堂 兼 宿屋「クゼーレ・ダイン」。昼時を過ぎて人がまばらになってきた午後2時。
お客に提供する料理を取りにカウンターに戻ってくるたびに愚痴を溢しているのは、俺の一人娘、ミリアだ。
「ぐちぐち言ってねえでちゃっちゃと働け。」
「ちぇっ。はぁ〜い。」
宿屋の客……もとい居候の魔導騎士団員のゼンから「週末に王女様とクラウス様が王都に出掛ける予定らしい」と聞いて以来、ミリアはずっとこの調子だ。
俺は口では叱咤して働かせているが、娘に嫌われたいわけでも苛めたいわけでもない。人手が足りないから今は仕方ないが、今いる客たちが捌けたら夕飯時まで一時的に店を閉めて、その間自由時間にしてやろう。
俺がそう伝えると、ミリアはあからさまに喜んで張り切り出した。
俺は俺で、可愛い娘のために少しでも早く料理を提供すべく気合を入れた。
◇◇◇◇◇◇
「ねぇ〜!あのお客さんだけ、全然帰らないんだけど!」
ミリアが厨房に来て声を落としながら、俺に愚痴をぶつけてくる。
あれから1時間経ち、客もすっかりいなくなった。ミリアが指摘するその客1名を除いて。
俺が厨房からこっそり覗くと、そこには丸眼鏡を掛けた若い貴族らしい男性が優雅にコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
頭の先からつま先まで胡散臭そうな雰囲気の男で、こんな庶民派の大衆食堂にはそぐわない、違和感だらけの存在だった。……なんだ?このお貴族様は。
「うちは食堂なんですけど!そういう居座り方なら、おしゃれな貴族サマ御用達のカフェにでも行ってよ〜!」
ミリアが小声で喚く。
……ミリアの言う通り、どうやらそのお貴族様は腹が減っているというより、コーヒー一杯で粘って居座ろうとしているようだった。
俺はやれやれといった顔でミリアに声を掛ける。
「ミリア、もう休憩に入っていいぞ。外に出るついでに、ドアに外側から閉店中の札掛けといてくれ。
……あの客は俺が見とく。」
ミリアはぱあっと顔を輝かせてから「うん!」と急いでエプロンと三角巾を外し、札を引っ掴んでホールを駆け抜け、外へ出るべく扉へと手を掛けた。
その様子を例のお貴族様はチラリと見て、またすぐに本に視線を戻した。
そのとき。
カランカラン……ッ。
「キャアァァーーーッ!?!?」
ミリアの悲鳴が店内に響き渡った。
俺のいる厨房からは角度的に扉の外が見えない。俺は慌てて手に包丁を握ったまま厨房を飛び出した。
「どうした?!ミリア!!」
ミリアは扉の手前で腰が抜けたように座り込んでいた。
そしてミリアの先、開いた扉の向こう側には、ミリアが見たい見たいと言い続けていた例の王女様とクラウス様が並んで立っていた。
そして王女様は、まるで王子様かのように片膝をつき腰が抜けたミリアに手を差し伸べながら、ミリアが握りしめている札を見て言った。
「驚かせてしまってすまない。大丈夫だろうか。
……おや、閉店になるのか?少しばかり遅かっただろうか。」
◇◇◇◇◇◇
カチャカチャカチャカチャッ。
「そっ、そそ、粗茶でございます。」
ビールジョッキをお盆無しで8杯一気に運び切り、料理も一気に大皿4枚を捌きまくる給仕のプロのミリアが、みっともなくガチャガチャと音を鳴らしながらお盆に乗せた紅茶を震える手で3人に配る。
どうやらこれまでの人生で一番緊張をしているようだ。
……無理もない。
あの後、王女様は「すまない。少しこちらの店にお邪魔して店主の貴方とお話をしたかったのだが……もう閉店だろうか?」と包丁を持ったままの俺に律儀に聞いてきた。
すると、ずっと不自然に居座っていた例のお貴族様が立ち上がり、俺とミリアに深々とお辞儀をしてこう言ったのだ。
「申し訳ございません。勝手ながら、私が他のお客様がお店を出られたところで彼女達を呼んだのです。他のお客様がいらっしゃるところにいきなりお邪魔してご迷惑をおかけする訳にもいきませんでしたから。」
俺は「『呼んだ』?このお貴族様は店なんか一歩も出なかったぞ?」と訝しんだが、王女様とクラウス様が頷いているのでどうやら本当のようだ。
お貴族様だから魔法でもちょちょいと使ったんだろうか。
とにかくこの丸眼鏡の男性客が、店の他の客が出払ったタイミングで王女様たちに何らかの合図を送ったらしい。
俺はそれで、とりあえず包丁をしまい、ミリアが持っていた「閉店中」の札を表にかけて扉を閉め、一番傷が少なくてマシな大テーブルに椅子を並べて、王女様たち御三方と向かい合う形で座ったのだった。
「ああ、お気遣いありがとう。……独特な香りだな。面白い。この紅茶は何という種類のものなのだろうか。」
王女様はミリアに笑顔を向けながら、紅茶の香りを優雅に楽しんだ後に当たり前のように質問をした。
紅茶の銘柄を聞くのが貴族流の挨拶なんだろうか。
「そっ!そ……そこら辺の業務用の紅茶です……すみません。」
ミリアが申し訳なさそうにしゅんと萎んでいく。
俺は娘を抱きしめてやりたい衝動にかられた。
大丈夫だ、恥じることはない。お前はよくやっているぞ、ミリア。
すると王女様は少し慌てたように申し訳なさそうな笑顔で弁明した。
「ああ、すまない。悪く捉えないでくれ。私はただ紅茶が好きなもので、つい癖で聞いてしまっただけなのだ。
どのような銘柄であっても、私はすべて好ましいと思っている。
それに、香りだけでも分かる。貴女は紅茶を淹れるのが上手いのだな。ありがとう。美味しくいただこう。」
ミリアが驚き感動したように目をまん丸にして、顔を茹で蛸のように真っ赤にした。
「貴女も、もし時間があるのならば、少しこちらに掛けて話を聞いてくれないか。」
王女様が手のひらで丁寧に俺の隣の椅子を指し示す。
ミリアが俺の方を見てきたので、俺は頷く。
「いいぞ、座れ。盆を置いてこいミリア。」
そうして、クゼーレ・ダインには不釣り合いな、不思議な時間が始まったのだった。
◇◇◇◇◇◇
まず、口を開いたのはやはり王女様だった。
「改めて、突然の不躾な訪問、誠に申し訳なかった。本来であれば事前に話を通し日付を決めておくべきことなのだが……なにぶん私は私事については調整をつけ辛くてな。確実に訪問できる確約もなかったのだ。」
そう言って頭を下げる王女様。
俺とミリアは慌てて頭を上げるように言った。
「そんなに畏まらないでくだせえ!」
「らら、ラルダ様?!そんな、頭を上げてください!」
すると王女様は、頭を上げてミリアの方を見て少し微笑んだ。
「ああ、さすがに私のことは知られていたか。申し遅れた。私はクゼーレ王国第一王女、ラルダ・クゼーレ・ウェレストリア。
……こちらの二人はクラウス・サーリとアスレイ・オーネリーダ。どちらも私の魔導騎士団の同期の友人だ。」
するとクラウス様と例の客……アスレイ様が「初めまして」と言いながら一礼してきた。
俺とミリアも慌てて礼を返す。
「俺はここの店主のゼルドー、こいつは一人娘のミリアだ。」
「っ、ミリアです!初めまして!お初にお目にかかれて……えっと、光栄です!」
すると王女様は嬉しそうに言った。
「ああ、話はゼンから聞いている。いつもお二人には良くしてもらっている、と。」
その言葉を聞いてミリアが思わず声を上げた。
「お、お父さん!ゼンだって!え、ってことはゼンとラルダ様たちが同期って、やっぱり本当だったんだ!」
俺は「おい!」とミリアを小突こうとするが、王女様が笑って静止をする。
「先ほど貴方が言っていたことだが、お二人こそ、本当に畏まらないでくれ。お邪魔させていただいているのはこちらの方なのだから。」
そうは言ってもなぁ……と、頬を掻きながらどういう態度を取るべきなのか決めあぐねていると、ミリアが遠慮がちに俺の服の裾を引っ張りながらこそこそ小声で話しかけてきた。
「ね、ねえお父さん。……何でラルダ様たちがウチに来たの?」
「何って、お前、そりゃあゼンの話に決まってんだろ。うちに関係あるっつったら。」
「やっぱりそうなのかな。ゼン、なんかやらかしたのかな?……ついに逮捕されちゃった?」
「馬鹿!どう考えてもあの話だろう!」
「え!?じゃ、じゃあお父さんの迷推理、ほんとに当たってたってこと?!」
「だから言っただろうが!」
俺とミリアは声を潜めながらやり取りしていたが、さすがに目の前に座っている御三方には全部聞こえていたようだ。
クラウス様とアスレイ様が耐え切れなさそうにクスクスと笑い声を漏らした。
「まあ、ゼンはたしかにいつ逮捕されてもおかしくないでしょうね。」
「うん。実際、入団1ヶ月目にやらかして本来なら終わってたからね。」
ゼンの奴……何やらかしてんだ。
俺たちのやりとりを興味深そうに聞きながら紅茶を楽しんでいた王女様が、純粋な眼でこちらを見つめ、首を傾げながら質問をしてきた。
「あなたたちは、ゼンから何も聞いていないのだろうか?」
王女様の言葉に、ミリアが頷く。
「はい。何も……っていうか、ゼン、アイツすっごく口堅くて。」
王女様は頷く。
「まあ、確かにそうだな。」
ミリアはその相槌に乗せられるようにそのまま続けた。緊張はしているものの、本来のお喋りな性格が少しずつ抑えきれずに出てきているようだった。
「それで、今週もゼンにラルダ様のご婚約の話を聞こうとしたんですけど『言わねえよバァーーーカ』って言われました。そもそも、そのときまでゼンがラルダ様たちと同期だってことすら知らなかったし。」
クラウス様とアスレイ様が頷く。
「アイツなら言いそうだな。」
「うん、言いそう。」
ミリアは続ける。
「……なんなら私、その『ラルダ様たちと同期だ』っていう話を聞くまで、実はゼンって『自分は魔導騎士団だ』って妄言吐いてるだけのただの野良不良冒険者かもって、ちょっと疑ってました。」
クラウス様とアスレイ様が堪えきれないといったように「ブフッ!」と吹き出した。
俺はさすがにミリアに軽く拳骨を喰らわせた。
「こら!ミリア!さすがに言い過ぎだ!」
ミリアは両手で頭を抑えながら「だってぇー!ゼンって、それっぽい団服を着てる以外、騎士団要素ゼロなんだもん!」と抗議の声を上げる。
ミリアの言葉に、王女様が不思議そうな声をあげた。
「そうなのか?客観的に見たら、ゼンはそのように映るものなのだろうか。」
俺が「いや、そんなことは──」と訂正を入れる前に、御二方が茶々を入れてきた。
「ああ、そんなものだ。ラルダはゼンを買い被りすぎだ。」
「あははっ!まあ、そこまで酷くはないかもしれないけど……多少はね。ゼンは他人からどう見られているか全然気にしないから。」
ミリアは調子づいて頷いた。
「そうですよ!そもそもこんな宿屋にずっと居候してるなんて、魔導騎士団員にしては変テコ過ぎますもん!私が疑っちゃうのも無理ないです。」
すると御三方は、ミリアの言葉に少しハッとしたように反応して話を仕切り直した。
「ああ、そうだ。……そうだった。すまない。いきなり話が逸れてしまったが、私が今日あなた方に会いにきたのは、他でもない。ゼンがこちらにずっと滞在し続けている件についてだ。」
ミリアがぼそっと「なーんだ。やっぱり婚約者の件じゃないじゃんお父さん。」と呟いてくる。俺は無言でミリアをもう一度軽く拳骨した。
ラルダ様はそんなミリアに笑いかけながらあっさりと口にした。
「もちろんその件でもある。私の婚約者はゼンだ。」
「うぉぅえぇえええぇーーーっ?!?!嘘っ?!?!お父さんの迷推理がほんとに当たっちゃった!!」
ミリアが緊張も何もかもすっ飛ばして素で驚きの声を上げる。俺はミリアを叱った。
「いちいちうるせえぞ!ミリア!話が進まねえだろうが!!これ以上邪魔するならつまみ出すぞ!」
「よいのだ。ご主人。ゼンに、お二人に事前に話を通しておくよう伝えていなかった私の落ち度だ。突然驚かせてしまって申し訳ない。ミリア嬢。」
ミリアは名前を呼ばれて大袈裟にビクッとしながら「いえいえラルダ様はとんでもないです!」と絶妙におかしな文を口走った。
王女様はそれを柔らかい笑顔で聞き流してから、今度は凛とした、いかにも王女様という顔で俺の方を向いた。
「ご主人。今しがた言った通り、私はゼンとこの度、婚約することとなった。今日は婚約者のゼンが長くお世話になっている宿屋のお二人にご挨拶させていただきたく伺ったのだ。
推理という言葉があったが……ご主人の方はご存知だったのだろうか。」
俺は頷いた。
「まあ、アイツから直接聞いた訳じゃねえが。何年も見てりゃなんとなく分かるさ。
娘のミリアはアイツをだいぶ過小評価してるがな。
ゼン……アイツは大した奴なんだろう?騎士の御三方から見たらよ。俺は戦いについちゃからっきしだが、俺みてえなド素人でも分かるさ。アイツはすげえ化けもんだ。違うか?」
横でミリアが呆然としながら俺を見ている気配がするが、大人しくなったので俺は気にせず話した。
俺の問いかけに、王女様を含む御三方は笑顔で肯定した。王女様はどこか誇らし気に口にする。
「ああ、ゼンは本当に凄い男だ。」
そして王女様は、一息ついてまた真剣な顔付きに戻った。
「それで……ご主人は、彼の背景についてもいくらかご存知なのだろうか。」
「まあな。王女様の言う『背景』ってのが、アイツが『ウェルナガルドの悲劇』の生き残りだっつうことなら、知ってるよ。
アイツが来たての頃……俺が気付いて、ゼンに話しかけて、何度かその話をしたことはある。」
ミリアが横で「えっ?何それお父さん!」と驚愕する。俺は王女様の方に顔を向けたままミリアに教える。
「ミリア。ゼンの部屋に壊れた銃が二つ転がってるだろ。」
「う、うん……あのどっちも錆びて曲がってるやつでしょ?銃身全体に柄が彫ってあるやつ。」
「ありゃ、ウェルナガルドの猟師の銃だ。あの特徴的な彫りはウェルナガルドの伝統工芸だ。」
「え……そうなの?」
「ああ。宿屋っつう職業柄、今までいろんな土地の奴を見てきた。……ミリア、お前がまだ小せえ赤子だった頃にな、ウェルナガルドの猟師の奴らがウチに来て、俺に教えてくれたことがある。
ウェルナガルドなんて相当遠いからな。一度しか会ったことはねえが……大雑把で気のいい奴らだったさ。
もしかしたら、ゼンの親父もその中にいたかもな。」
俺はぼかしたが、恐らく……いや、絶対にアイツだろうという奴がいた。
16年前だか17年前だか、数えてはいないが昔、ウェルナガルドの猟師たちがこの宿屋に数日泊まったことがある。
毎晩宴会をして、酒に酔って盛り上がっていた。
その中に、今のゼンに瓜二つの、一目見たら忘れられないようなとにかく目立つ色男がいた。俺が背負っていた赤子のミリアを見て「親父の仕事の邪魔をしねえ、利口な子だな。俺にも小せえガキが二人いるんだけどよ、ウチは男二人で毎日暴れて手がつけられねえんだ!」と言って笑っていた。
間違いない。アイツがゼンの親父だった。
「俺が銃のことを聞いたら、ゼンが言ってたよ。『親父の形見だ』ってな。」
「……そうだったんだ。ゼン……言ってくれたら、掃除のときもっと丁寧に扱ってあげたのに。」
ミリアが深刻そうな顔をしてそんな事を言うものだから、俺は笑った。
「いいんだよ。そんな大事なもんをそこら辺に転がしとくアイツが悪いんだ。捨てられても文句は言えねえさ。」
そして俺は王女様に続きを促した。
「で?背景っつうのは、そういうことか?」
俺の話を静かに聞いていた王女様は、頷きながらもう一つ聞いてきた。
「ああ。それと、もう一つ。ゼンの不眠についてだ。ご主人はそちらもご存知だろうか。」
◇◇◇◇◇◇
ミリアが横でまた「……え?アイツが不眠?」と戸惑う声をあげたが、俺は気にせず肯定した。
「ああ。もちろんだ。
……それこそアイツがここに来たての頃さ。
深夜に宿屋の受付をして廊下を歩いてたらアイツにばったり会ったり、早朝に仕込み作業しようと思って店の表に出たらアイツが宿屋の周りをフラフラ歩いてたりしてな。宿屋の裏方作業をやっている変な時間帯でも、アイツにはよく会った。
さっきの銃の話も、そんときに聞いたよ。」
「そうだったの?……全然知らなかった。」
「まあ、来て1年くらいでアイツはすぐ部屋で寝るようになったからな。ミリア、お前はまだ子どもで、夜は早く寝てたから気付かなかったんだろうな。
あの頃のアイツは寝ねえくせにあんまりにも暇そうにしてるもんだから『ほっつき歩くついでに美味い猪肉でも狩ってこい』なんて冗談で言ったこともある。
そうしたら、小一時間と経たねえうちに本当にでけえ猪を背負ってきて『腹減ったからどうせなら鍋でも作ってくれよオッサン』なんて言われて、たまげたもんだったよ。」
ミリアがハッと思い出したように言った。
「あ!それ覚えてるかも!お父さんが朝っぱらから猪捌いてて、それから2日間3食ずっと猪鍋になったときじゃない?ゼンが『飽きた』って言ってお父さんが『お前が狩った奴がデカすぎたんだ!』って怒ってたやつ。」
「それだ、それ。」
「え?でも小一時間って、そんなの猪を狩ってくるどころか王都からも全然出られないじゃん。……何?どういうことだったんだろう。」
ミリアが不思議そうに思い出していると、アスレイ様が穏やかに補足してくれた。
「ゼンは走ると馬よりも早いですからね。本気を出すと素人では肉眼で追えないほどです。」
「えぇ、嘘ぉ……。」
「ふふっ、今度背負って走ってもらうといいですよ。振り落とされないよう気をつけてくださいね。」
冗談なのか本気なのかいまいち分かりにくいアスレイ様の提案に、ミリアは素直に引いた。
「え……遠慮しておきます。それが本当だとしても、ゼン絶対私のこと落っことすし。ゼンに命を託すなんて怖いもん。」
そして、俺が王女様に話を戻そうとしたとき、ミリアがまた余計なことを言った。
「んー、でもやっぱりゼンが不眠なのは信じられないなぁ。まあ、夜更かししてることはよくあるけど。
ゼンってむしろ寝汚いから、逆だと思ってた。」
◇◇◇◇◇◇
お前はそうやって何度話の腰を折る気だ!
と、俺は思ったが、御三方はそうではないようだった。
今日は俺もミリアもずっと驚きっぱなしだったが、今のミリアの言葉に、クラウス様とアスレイ様、そして王女様は、今日一番の驚き顔をしていた。
王女様が、信じられないといったようにミリアに問いかける。
「……そうなのか?ミリア嬢。ゼンはそんなにもよく寝ているのか?」
ミリアは腕を組んで頭を捻りながら頷いた。
「はい。だってアイツ……ゼンは、さっき言ったように夜更かししてることもあるけど、どっちかっていうとすぐ『寝る』って言って部屋に戻ってグースカ寝ちゃう印象の方が強いです。
休日なんか、私が客室清掃に行くといっつもベッドから片足落っことして、お腹丸出しにして爆睡してるし。私が周りで清掃を始めてもずーっと寝てて全然どこうともしないんですから。」
王女様はその茜色の瞳を揺らしながら、言葉を詰まらせつつ聞いた。
「そうか……そうなのか。……それで、ミリア嬢。ゼンはこの宿屋で起きるときは、どうなんだ?辛そうにしてはいないか?」
ミリアは恐らく王女様の意図とは全然違う捉え方をしたようで、バツが悪そうに答えた。
「うっ!その、辛そう……っていうか、あんまりにもいつもゼンが起きないから、その……」
「どうしているんだ?ゼンは、大丈夫なのか?」
ミリアの躊躇いがちな言い方に、王女様が心配そうな顔をする。
……なんだか噛み合っていない気がするぞ、この二人。
ミリアはぐっと腹を括って、宿泊客であり、目の前の王女様の婚約者でもあるゼンへの日頃の暴虐を自白した。
「……休日はいつも敷いてあるシーツを引っ張って、ゼンを床に転がして落っことして起こしてます。……ごめんなさい。」
「………………。」
俺を除く皆が呆然とする中、ミリアは目をぎゅっと瞑って、膝に両手を置いて手を握り締め、肩を竦めながら続ける。
「それで……いつもゼンに『ってーな!普通に起こせバカ!頭打っただろ!』って言われてます。だから……辛いっていうか、ちょっと痛そうです。」
ミリアがさすがに怒られるのかとビクビクしていたが、俺はミリアを落ち着かせるようにそっと背中をポンと叩く。
大丈夫だ。王女様たちの反応は、そういう意味じゃ無い。
客への雑な扱いについての良し悪しは、また別の話だ。
「………………そうか。」
ラルダ様が少し長めの沈黙の後、少し低めにぽつりと呟いた。
──次の瞬間、外からそんな沈黙を霧散させる明るく大きな声がした。
「あれぇー?ねえ兄ちゃーん!!『閉店中』って札かかってるよー?!本当に入って平気なのー?!」
それは、年に何度か宿屋に兄貴を迎えに現れる、いつも元気な弟の声だった。




