「願いを3つ叶えます」 ~恩返しの蜘蛛男はそう言ったのに願いを2つしか叶えなかった~
「私、昨夜、洋子さまに命を救われました蜘蛛でございます」
蝉たちの騒音をバックに微笑む黒タキシードの美青年を見た第一印象は「宅配じゃないのかよ、しくじった」だった。インターフォン越しに聞こえた声が男性だったので「いつものオジさんは? 代理かな?」ぐらいに思ったのが間違いだった。
それで油断して玄関を開けてしまったのが運の尽き、そこには炎天下に在りながら汗ひとつかかずに微笑んでいる細身の青年が立っていた。
「いえ、宗教とか間に合ってますんで」急いでドアを閉めようとすると、白い手袋がスッと隙間に入ってくる。
「待ってください。これでも私、義理堅い蜘蛛でございまして、洋子さまの願いを3つ叶えるまでは蜘蛛の国に帰らないと誓ったのです」
やっぱり新手の宗教だ。神様? 居るんだったらこんな忙しい時間帯にこんなヤツ寄越してくるなよ。
これ以上食い下がるなら警察を、と考えていた時、青年の後ろから緑の帽子を被ったいつものオジさんがひょっこりと顔を出した。
「あれ、来客ですかい、奥さん。今週分の食品、後からもう一度届けましょうか?」
「お客様じゃないですから。ちょっと変な人なんです――」助けてもらおうと声をかけた途端、後ろの部屋から何かが倒れる音と浩子の激しい泣き声が響いた。
ちょっ、ベビーチェアから抜け出そうとしてひっくり返ったっ!?
ふり返ると同時に台所の電子レンジがチンと鳴る。
ああ、もう! 出来たよ、おじや、お昼ご飯! お腹減って我慢できなかったんだよね、ママもお腹減ったよ!
青年とオジさんを押しやってドアを閉めると、私はすぐに奥の部屋に入る。見れば倒れたベビーチェアの隣で浩子がギャン泣きしている。
すぐに抱きかかえて身体の様子を確認する。おでこが擦りむけて赤くなってる。ごめんね、女の子なのに顔に傷つけて。ちょっと目を離してごめんね。傷、残らないよね。
泣きやまない浩子を抱っこして背中をトントンする。浩子の甲高い泣き声が耳元で大きく聞こえ、それが私の心臓を容赦なくえぐってくる。頭が痛い、満足に子どもひとり育てることも出来ないのか、私は。
「あ、食材宅配サービスの食品は全部、家の中に入れておきましたのでご安心を」
浩子をあやしながら部屋をぐるぐるしていたところ、あの青年はさも当たり前のように私の前に立っていた。
「ぎゃあ!」悲鳴を上げた私の手が滑った――と、ずり落ちる浩子を青年が抱きかかえる。
なんでこいつが中にいる? 鍵を閉め忘れた? 分からない。と言うか不審者、犯罪者、何こいつ、怖い。
「どうも洋子さまは色々と大変なご様子。いかがでしょう、1つ目の願いは現状の改善というのは?」
浩子の背中をさすりながら部屋を見渡した青年が微笑む。不審者の割に顔は整ってる。それに気づいた私は、今の部屋の惨状を思い出した。
浩子が遊んでいた積み木やぬいぐるみは取り込んだ洗濯物と混ざり合ってカオス状態、片付けようと思っていた浩一のスーツやワイシャツはテレビをハンガー代わりにしたままだし、何より朝の食器もローテーブルに放置したまま台所に運べてもいない。とてもじゃないが他人様に見せられる状態ではない。
取り乱して洗濯物をかき集める私が余程可笑しかったのか、青年はプッと吹きだした。失礼な奴だ、こんな醜態さらしているので返す言葉はありませんが。
せめてもの反撃とにらみ返すと、青年に抱っこされている浩子が泣きやんでいることに気づいた。それどころか青年を見上げてどこか嬉しそうにニコニコしている。この子、私に似て面食いか。
そういえば、いつの間にか私の頭痛も消えていた。
「ご納得いただけたようですね。それでは1つ目の願い、叶えさせていただきます」
青年は私を見てうっすらと笑みを浮かべた。
蜘蛛男――本人が蜘蛛と名乗るのだからこう呼ぶしかない――の動きはただただ凄いとしかいいようがなかった。
まず、玄関先に置いてある食材宅配サービスの荷物を冷蔵庫や備品棚に的確に収納していく。続けておもちゃを片付け、洗濯物は真四角になるように几帳面にたたむ。浩一のスーツは「こちらは夫婦の部屋でしょうから」と言って手を付けなかったけれど。
そうした無駄のない蜘蛛男の動きを見ながら、私は浩子と一緒にお昼ご飯を食べた。ふたりともしらすと野菜たっぷりのおじや。
「塩分の量は控えた方が」洗濯機の終了音を聞いて移動する蜘蛛男がそう呟いたので、私のお椀にはこれでもかと塩をふりかけた。
それにしても蜘蛛の恩返しとは――ベランダで洗濯物を干す蜘蛛男を見ながらスプーンをくわえる。言われてみればそれらしいことを、昨夜、したかもしれない。
『うわっ! 虫! 蜘蛛! 虫!』
帰宅早々、玄関でそう騒いだのは夫の浩一だ。浩子を抱いて駆けつけてみれば、小指の先ほどのハエトリグモが白い壁に貼りついていた。
ハエトリグモ程度で情けない、こんな小さな蜘蛛が人様を取って食ったりしやしない。毒もないし。それよりとっとと中に入って欲しい、その間に私はあんたの夕飯を準備したいんだ。
浩一は騒いでいるだけで蜘蛛を捕まえようともその場から動こうともしないので、私は浩子を預けると両手でひょいっと蜘蛛を捕まえた。近づいた瞬間にピョンと跳ねたのであっという間だった。
『潰す? 殺虫剤?』
見えなくなって安心したのか、浩一が酷いことを言う。私の手の中でそのどちらも勘弁して欲しい。
私は肘を使って玄関を開けると、そのまま蜘蛛を外へと放った。蜘蛛は一瞬にして夜の闇に消えていった。
夜の蜘蛛は親でも殺せ、なんて物騒な言葉もあるけど、私の父親は「益虫だから」と家に入ってきた蜘蛛は逃がしてあげていた。なので、小さい頃からそれを見てきた私は逃がしてあげるのが当たり前だと思っていた。それが当たり前じゃないと驚いたのは浩一と結婚してからだった。
そうした昨夜のことを思い返してみれば、この蜘蛛男は背はスラッとしていて手足が細くて長い。真夏の日差しの下をタキシードと手袋で立っていても涼しい顔をしていたし。
それにこれは今でも信じられないのだが――チャイルドシートの中で嬉しそうにおじやを掬う浩子の綺麗なおでこを見ながら思い出す。
浩子を泣きやました蜘蛛男はあの時おでこも撫でていたのだが、手袋が離れると赤いすり傷が消えていたのだ。
恩返しに願いを叶えるって、本当、なのかな。
「信じていただけたようで何よりです」
ベランダから戻ってきた蜘蛛男は洗濯かごを戻すと私の隣にちょこんと座った。そしてニコニコとしながら私の顔を覗き込む。まるで次の命令を欲しがっている犬のよう。いや、こっちはすっぴんなんだからそういうのはやめて欲しい。とにかく何かお願いして離れてもらおう。
「流しの洗い物を――」
「すでに済ませてあります」
「だったら掃除! そう、トイレとかお風呂場とか」
「ああ、なるほど。では、掃除も願い事の1つ目に加えさせていただきますね」
蜘蛛男は手を叩くと台所へと向かった。
ダイニングキッチンを中心に和室が2部屋にトイレと風呂場、玄関を開ければこれらが全て丸見え。アパートの2階だから日当たりこそ良いものの、建築年数による劣化は寂しさを感じずにはいられない。
これが今の私と浩子の世界の全て。蜘蛛男はそんな私たちの世界に入ってきた異物、なんだけれども――。
「ついででしたので、ダイニングキッチンと玄関周りも清掃しておきました」
食器を持ってダイニングに入った私に、蜘蛛男は胸に手を当てお辞儀をして見せた。
見れば、床はピカピカ、家具は変わってないはずなのに何故か輝いて見えた。驚いてトイレや風呂場も覗いてみると、まるでリフォームしたかのような新品の眩しさを放っていた。なにこれ、魔法じゃん、これも蜘蛛男が言った願い事ってやつなの?
「私にはほんのささやかな幸せを叶える程度の力しかございません。ですが、洋子さまのその笑顔、お役に立てて何よりです」
私に向かって深々と頭を下げる蜘蛛男。
家がこんなに綺麗になるなんて何ヶ月ぶりだ――いい。ここまでしてくれるなら、この際、蜘蛛でも悪魔でもなんでもいい。その力、使わせてもらう。
一瞬、私の世界に違う光の色が差し込むのを感じた。
後ろから浩子の嬉しそうな笑い声が聞こえた。
◇ ◇ ◇
あの日から蜘蛛男は毎日決まった時間に現れて、決まった時間に帰るようになった。
最初の数日は急に現れ急に消えるので、「こっちの心臓が幾つあっても足りないし、浩子の教育にもよくない」と注意すると、「なるほど」と手を打って玄関から出入りするようになった。
一応、人間的な挨拶として、入ってくるときには「おはよう」、帰るときには「また明日」を説明すると、さっそく自分流にアレンジして使うようになった。
「おはようございます、洋子さま。暑い日が続きますね、今日も洗濯日和です」
「本日もお疲れさまでございました。このあと夕立が来ますので、ベランダの洗濯物、お気を付けください」
「洋子さまは今日も元気ですね。おはようございます」
「本日はあまりお役に立てず残念です。明日は挽回しますのでご期待ください」
「浩子さまも一緒に迎えてくださるなんて嬉しい限りです。本日もおはようございます」
「次は洋子さまの買物もサポートしたいところです。また明日お会いしましょう」
これまでの私は、無数にある1日のやるべき事を手が届く順からがむしゃらにこなしていって、それでも出来ない事がたくさんあって、焦ると浩子が泣くし、出来ないと私が泣きたくなるし、順番を間違えればふたりで泣いた。浩子は声に出して、私は心の中で。
そのたびに、私はなんて無能なんだろうと思った。世の中のママは育児も家事も、人によっては仕事だってこなしているというのに、私は家事も育児も中途半端だ。どっちもやろうとしてどっちも失敗してる。気ばかり焦る、世の中敵だらけだ、この狭い2DKの私の世界すら敵だ。
そう思いながら自己嫌悪に陥っていた私に、そのままでいいと言ってくれたのが蜘蛛男だ。
彼は何か言葉にした訳ではない。彼はただ、いっぱいいっぱいになっていた私の隣でうっすらと笑いながらウンウンと頷いているだけで、後は先回りして私がやるべき家事をしてくれるだけだった。そして時々、浩子の遊び相手になってくれた。
蜘蛛男はお風呂場から掃除を始め、トイレ、玄関、流し台と終わったところで、ちょうど止まった洗濯機から洗濯物を取り出してベランダに干す。私は彼の動きを見て、食器を片付け、洗濯機を回し、離乳食の作り置きをする。その間、よちよち歩きの浩子がふたりの間を楽しそうに行ったり来たりするので、なんとなく区切りのいい方が相手をしてやったりしていた。
自分ひとりでは分からなかった、生きていくためにやらなければならないことのリズムが、相手がいることで鏡となって見えてきた。そのことに気づいて自分をよくよく顧みると、なんとまあ無様な姿をさらしてるんだと苦笑してしまう。浩子が生まれてからもうすぐ1年、今まで周りも自分も見えてなかったんだなと思う。
それに気づかせてくれたのはありがたいと思う。だけど、それって蜘蛛男の役目なのかな? 本当は、別の人間がその役目をするんじゃないのかな。
「最近、ずいぶんと楽しそうだよな」
ローテーブルに置いた小鉢の中のホタルイカを箸の先で弄りながら、浩一が酔いに任せて大声を上げる。隣の部屋で浩子が寝てるんだから小さな声で話して欲しい。でもそれを言うと「大声なんて出してないのに」とふて腐れるのが分かってるので、私は無視してお茶漬けの準備を進める。
取引先との接待の夜はいつもこうだ。晩ご飯はいらないと言うくせに、帰ってくれば「緊張して何も食べられなかったから」と言う。飲んでいるので、気も大きければ声も大きい。それを分かってないのは赤ら顔でくだを巻くこいつだけだ。
「それ、食べないんだったら私が食べるから、浩一はこっち食べて」
ホタルイカときゅうりとワカメの酢の物を取り上げると代わりに梅干しを乗せたお茶漬けを押しつける。なんだよ、さっぱりしたものがいいと思って用意してやったのに。どうせ目玉が怖いとか言うんだろ、こんなに旨いのに何も分かってない。
私がホタルイカを無言で食べ始めると、浩一もカチンときたのか背中を向けてお茶漬けをすすり始めた。
視線も合わせずに私たちは食べ続ける。私はホタルイカを、浩一は梅茶漬けを。
「洋子はいいよな。一日中家に居て気ままに家事育児をしてるだけでさ。俺なんて下げたくもない頭を下げて、それでも足りないからって残業させられて」
ポツリと、浩一がひとり言のように呟いたが間違いなく私に対する当てこすりだ。
同じ会社にいたんだから私にだって分かる、働いて生み出した成果より働いた時間の長さの方が評価されるってことぐらい。
だけど、自分の仕事が大変だって事と、私の家事育児が楽って事はイコールにはならないんじゃない? それに浩子って私だけの子ども? 育児って私だけの仕事? だから会社を辞めろって言ったの?
胸に蠢く黒い感情を感じながらも口にしてはいけないと思ったので、私はこの場を平穏に終わらせようと箸を置いた。
「はは、いつも楽させてもらってまーす。浩一のお陰だよー」
消しても消しても浮かび上がる思いを飲み込んで、私は自分に妥協できる言葉を口にする。先に謝ればいい、それが私たち夫婦の形、それで浩一の世界は保たれる。
「なんだよ? いつも最後はヘラヘラして。俺に文句があんだろ? だったら言えよ」
浩一のねちっこい目が向けられてくる。いつもだったら私が謝れば「稼いでるのは俺なんだよ、分かればいいんだよ」なんて言って上機嫌に戻るのに今日はやけにしつこい。
答えに困って愛想笑いを浮かべると、浩一は叩きつけるようにお椀と箸をローテーブルに置いた。
「なぁ洋子、俺が嫌いか?」
「なによいきなり。そんなわけないでしょっ」
「お前、この前まで『浩子が大変、育児が大変』って愚痴ばっかりだったくせに、なんか最近、楽しそうじゃないかよ」
「楽しそう楽しそうって、さっきからなんなの?」
「だってよ……洋子、化粧してる」
そう言って浩一はローテーブルに突っ伏す。
はぁ? 私が化粧しちゃいけないわけ? これまで買いに行けなかったから化粧品がなかったんだよ。蜘蛛男が来てからだよ、ようやく近所のドラッグストアに自分の物、買いに行けるようになったの。それまでは行きたくても行けなかったのはどうしてだと思う? ――喉元までこみ上げてくる感情を抑えながら、私は別の言葉を口にした。
「浩一は私が綺麗になるの、反対?」
「お前、好きな男が出来たのか?」
ローテーブルに顔を伏せたままの浩一が小さく呟く。
なに言ってんだ、この男は! 好きでもない男と結婚して子どもを産むほど私の人生ひまじゃない。駄目な部分ばかり見えてくるから、そんな部分ばかり見せて欲しくないだけなんだ。私の選択は間違ってないって証明して欲しいだけなのに。
「まさか、本気で言ってる?」
「そうじゃなかったら、どうして俺ばかり苦労してんだよ……お前は子育てだけで化粧する暇があるくせに、いつも口を開けば大変だーやることいっぱいだーって愚痴ばかり。一日中、家に居て何が大変なんだよ、俺の方が金稼いで何倍も大変じゃんかよ」
浩一は顔を上げることなくひとり言のようにブツブツと呟き続ける。その後頭部を見ながら、私は頭に血が上ってくるのを感じた。
言っていいことと悪いことがある! 浩子は誰の子? 私たちの子どもだよね!? だったら私たちふたりで育てるもんでしょ、それが子育てでしょ。それなのに何? 平日の育児は全部私に丸投げ、休日はといえばいつも寝てるかスマホでゲームばかり。口を開けば「休日くらい休ませろ」。数時間、浩子を見て欲しい時だって、引き受けときながら私が出かけるときには寝てるじゃない。そんなんじゃ怖くてひとりで出かけるなんて出来ないよ。
私はね、自分のことなんて二の次三の次。化粧品だって洋服だって買いに行けない、美容院だって行けてない。それもこれもお金を稼げない私が悪いの? 私だって浩一に気を使いながら迷惑かけないようにって、仕事に専念してもらいたいから、家事も育児も頑張ったよ。だけどやっぱり、ひとりじゃ駄目なんだよ、全部中途半端になる。ひとりで頑張っても家族のリズムは作れないんだよ。
――気づけば突っ伏している浩一から寝息が聞こえてきていた。
もしかすると、勢いに任せて幾つか口にしてしまったかもしれないし、それを聞かれてしまったかもしれない。絶対に言うまいと1年もの間、我慢し続けてたのに。
でも、もういい。
私は、浩一の後頭部を見ながら心が急激に萎んでいくのを感じた。
◇ ◇ ◇
あの夜から3日、浩一とはろくに会話をしていない。完全に避けられている。あの時あふれ出した感情が言葉となって飛び出してしまい、聞かれてしまったのだと思う。全てではないにしても。
私から話しかけてみたけれどそっぽを向いて返事もしない、スマホでメッセージを送ってみたけど既読スルー。朝ご飯も晩ご飯も手を付けず、帰って来るなり布団を引いてさっさと寝てしまう。まるで子どものような拗ね方。私にも悪いところはある、だけど無視するって態度が頭にくる。
昨夜の冷しゃぶを乱暴にゴミ箱に捨てながら自分を落ち着かせようと深呼吸をする。けれど、意識すれば意識するほど動悸が強くなって浩一の顔が脳裏にちらつく。頭が痛い、イライラしているのが自分でも分かるのに抑えることが出来ない。
蜘蛛男は相変わらず決まった時間にやってきて家事をサポートしてくれた。
私の状態を気づいているはずなのに、うっすらと微笑むだけで特に何も言ってこない。問題は浩子だ。
表面には出さないようにしているけど、やっぱり何か違うのかもしれない。事あるごとに私に抱きついては「ママー、ママー」と甘えてくる。不安にさせてるんだと思う。
だから、やっぱり今もよちよちと近づいてきた。
「こっち来ないで。いま鍋やってて危ないから」
台所に入るのが見えたので、離乳食用に野菜を煮ているのを気にしつつ強めに注意する。さっき深呼吸をしたのに声がうわずったままだ。それがよくなかったのかもしれない。
「ママー」前のめりになりながら、予想もしなかったスピードで浩子が走り寄る。
「危ないでしょ!」脚に絡み付かれた衝撃と私が身を翻したのはほぼ同時だった。
私の脚に密着するのがあまりに早かったからかもしれない。台所から離れようとした動きと、抱きかかえようとした動きがどっち付かずになって、浩子に伸ばそうとした手が鍋に当たった。
指先から伝わる激痛に思わず手を引くと、私の目の前で鍋が宙を飛んだ。
それはスローモーションを見ているかのように空中でひっくり返ると、次の瞬間、浩子に落下した。
「…………!!」
鍋が床に転がる音と同時に浩子の泣き声が耳をつんざく。
浩子を抱きかかえて身体を触る。熱い、左腕から肩にかけて煮汁を被ってしまってる。
冷やさなきゃ! 脱がせる? 違う、とにかくすぐ水だ。こうしている間にも浩子の泣き声は大きくなっていく。なんで浩子がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
「私が居ながら申し訳ございませんでした」気づけば蜘蛛男が隣で私の顔を覗き込んでいた。「洋子さま、すぐに2つ目の願いを私に命じてください、早く」
そうか! 願うよ、だから浩子を助けて!
私が頷くと、蜘蛛男は浩子の腕から肩をゆっくりと撫で始めた。彼の手袋の先から光の粒子のようなものが注がれていき、浩子の体温が下がっていくのが分かった。浩子の泣き声が徐々に収まり呼吸が落ち着いていく。
「ママー!」浩子が抱きついてくる。私は浩子を抱いたままへたり込んだ。
痛かったよね、熱かったよね、怖かったよね、こんな思いさせてごめん。ママ、ほんと駄目だよね。こんなんじゃ、ママ失格だよね。
「もう大丈夫でございます。やけどの跡も残りません」蜘蛛男の優しい声が背後で聞こえる。
よかった、浩子が無事で本当によかった。私は浩子を強く抱きしめた。
娘を危険にさらす親ってどうなんだ? そんな親、この子に必要なのか。私たち夫婦が一緒にいることでかえって親の役目を果たせないなら、そんなの一緒にいる意味がないじゃん。
ぽろり、と、浩子を抱く腕に涙が落ちたのに気づいた瞬間、私の中で何かの糸が切れる音がした。
「ねぇ」私は蜘蛛男に背を向けたまま尋ねた。
「3つ目の願い事、私と浩子のふたりだけで生きていけるようには、出来ないかな?」
「それは――」
躊躇いが混じった蜘蛛男の声、そして少しの沈黙の後、
「かしこまりました。試してみます」
私の後ろで蜘蛛男の動く気配がする。彼はひとりだけのはずなのに、それ以上の数の手足がモソモソと何かを掻いているような手繰り寄せているような、そんな感じがした。ただ、きっとそれは見てはいけないものだと思ったので、私はただ浩子の穏やかな顔だけを見ていた。浩子は目を細めて笑い返してくれた。
「――洋子さまの願い、やはり私の力をはるかに超えておりました」
何かが終わったのか、蜘蛛男が悲しそうに答えた。
「そっか、蜘蛛男が叶えられるのはささやかな願いだけだもんね」
「ご期待に添えず誠に申し訳ございません」
蜘蛛男の声は本当に悲しそうだったけど私は別に気にしてなかった。多分そうだろうなと心のどこかで思ってたから。平凡だけど家族と幸せでいたいという私の願いは、やっぱりささやかじゃないんだね。
「洋子さま」蜘蛛男の手が私の背中に触れる。人間とは違う、柔らかい不思議な感触が伝わってくる。
「どうやら私、勘違いをしておりました」
「勘違いって?」
「洋子さまの近くでお仕えすることが救われた命の役目だと思っておりましたが、それでは恩返しにはならなかったということです」
蜘蛛男の手は温かいのに、その声は淡々としてなんの感情も感じさせない。
それって、私が変なお願いを言ってしまったから?
「そうではありません。洋子さまを近くで支えるべきは別の方だということです」
やっぱり私のお願いのせいじゃない。
別の誰か、の顔が脳裏に浮かぶ。だって、ここ数日、ろくに話だってしてないのに。
思わずふり返ると、蜘蛛男は初めて出会ったときのように胸に手を当て恭しく一礼した。
浩子も気づいたのか蜘蛛男に向かって手を伸ばした。
「だ、だったら、3つ目のお願いを考えるからそれまで――」
「いいえ。3つ目の願い事は失敗で終わってしまいました。ですので、私は蜘蛛の国に帰らねばなりません」
「蜘蛛の国って、どこにあるのよそんな国」
「そうですねぇ。蜘蛛の国ですので、雲の上あたりかと」
「なにそれ」
思わず吹き出してしまった。それに釣られたのか、浩子も声を出して笑う。
そうした私たちを見ながら蜘蛛男はうっすらと微笑む。そしてゆっくりと後ずさる。
そうと気づいて私が立ち上がると、蜘蛛男は指を鳴らす。バン、と玄関のドアが開いた。
入り込んだ風が蜘蛛男の周りをグルグルと回って宙に浮かす。
「ため込むのはよろしくありません。どうか、浩一さまとたくさん喧嘩をしてください。そして、それと同じだけ浩一さまの話に耳を傾けてください。洋子さまは真面目すぎますので、ぶつけてから聞くぐらいでちょうど良いかと思います」
渦の中で蜘蛛男がもう一度お辞儀をする。「アー、アー」と浩子が腕の中で声を出す。私は何を言えばいいのか分からなかった。
よほど情けない顔をしていたのかもしれない。蜘蛛男は私に目を落としてニコリとすると、
「洋子さまは、今は少し余裕がないだけ。どうかご自身でご自身を嫌いにならないでください。貴女が思うより貴女はずっとお優しい方です。その優しさで救われた命がありましたことをどうかお忘れにならないでください」
そうか、本当にお別れなんだ。そりゃ、こんな夢みたいな事がずっと続くとは思ってなかったけど、終わるときはこんなに急で、こちらにはなんの準備もさせてくれないのか。
気の利いた言葉なんて出てくるはずもなく、私は意味もなく何度も頷きながらただひと言、
「ありがと、蜘蛛男」
「はい、さようならです、洋子さま」
優しい声が私の耳元をかすめたかと思うと、一陣の風となって玄関を駆け抜けていった。
蜘蛛男は本当に律儀だ。最後まで、きちんとお願いしたとおりに玄関から帰っていったのだから。
いつも必ず言っていた「また明日」という言葉を口にすることなく――。
◇ ◇ ◇
「ご時世だよね。俺にも育休取れだってさ」
頭を掻きながら浩一がそう言ったのはその日の夜だった。
頭を掻くのは何かを誤魔化すときによくやる癖だ。渡された洋菓子屋の紙袋を受け取りながら、私は短く「そう、なんだ」と答える。
浩子は寝かしつけている。蜘蛛男に言われて今晩もめげずに話しかけるつもりだったけど、まさか、浩一の方から話しかけてくるとは思わなかった。
「取れっていわれて改めて考えてみるとさ、俺って洋子に浩子のこと任せきりで、何やっていいんだか分からないことに気づいてさ」
冷蔵庫から取り出した発泡酒を一気に喉に流し込んだ浩一は、缶を持ったままローテーブルの前に座る。私は紙袋を持ったまま浩一の前に座った。
「あ、それ、洋子と浩子のだから」
浩一に言われて中身を取り出してみるとプリンが2つ、ターミナル駅で店を構える洋菓子屋のなめらかプリンだ。そういえば、私のご機嫌を取る時には付き合ってた時からこれだった。
「浩子には、まだちょっと、早いかな」
「そ、そうなのか!?」
「んー、もう少し経ってからの方が安心かな」
「そう、なんだ」
目の前でうな垂れる浩一を見て、付き合っていた頃を思い出す。こうやって気を使ってくれるくせにいつも要領が悪い。今だって三日も経ってからだし、1歳にならない浩子にプリンだし。だけど、思った時にすぐ行動できる、そういう素直なところがいいなと思ったんだっけ。
「そう。だから、これは浩一が食べよ」
そう言って前にプリンを置くと、浩一は目を見開いて驚いた。いやいや、驚きすぎだろ。今まで私はどれだけ鬼嫁だったんだ。
固まっている浩一を尻目に、私は蓋を取って一口、プリンを口に含む。それは舌の上ですぐに溶け、程よい甘味が口の中いっぱいに広がった。濃厚で、それでいてすぐに消えていく、プリンの味。そうだよね、こんな美味しものがある世界に目を背けていたのは私なんだ。
「浩一が育休取るなら、私、職場復帰しようかな。確か、ジョブリターン制度あったよね?」
「えっ!?」
「だって浩一が育休取るなら、そのぶん私が稼がなきゃ」
「いや、俺が育休取ったのって、その、洋子が大変だってやっと分かったから」
しどろもどろになる浩一がなんだか可愛い。分かってるって、だって私も居た会社だよ。男が育休なんて取ったら出世コースから外れることくらい。でも、それでもいいって思ってくれたんでしょ?
会社からの命令だ、なんて下手な嘘までついて。
「一緒に子育てしたい、そういう事なんだよね?」
「そうそれ! 洋子、俺、頑張るから、俺に子育て教えてくれ!」
頭を下げる浩一は、もう少し下を向いていたらプリンを押しつぶしているところだった。天然だな、こういうところ。
「子育てって頑張ってするもんじゃないと思うよ」
自分で言った言葉に私は思わず苦笑した。そんな風に思わせてくれたのはあの男だ。片意地張って、自分ひとりで何もかもする必要はない、そう教えてくれた。
「うわっ!」
急に浩一がうわずった悲鳴を上げる。何事かと思って視線の先を追えば、畳の上に小さなハエトリグモが居た。
「虫! 蜘蛛! 虫!」
少しだけ見直したのにやっぱりこれか。
ハエトリグモは私を見ながらじっとしてる。なんだがお辞儀をしてるみたい。それを両手でひょいっと捕まえ玄関へと向かう。
「浩一、今度はこいつに負けないでね」
私はふり返って言った。
了
ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。
いま子育てを頑張っているママ、パパへの応援小説
です。
3週間前の夜、玄関で蜘蛛と遭遇し、「書けよ。
俺のこと書けよ」と言っているような気がしたのが
書くきっかけでした。
よろしければ、ブクマやいいね、評価をつけて頂け
ますと嬉しい限りです。
画面下段の【☆☆☆☆☆】よりお願いいたします。
また、他の作品にご興味がございましたら、
作者をお気に入り登録いただきますと
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ご検討ください。