ノラ
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
いつものように、お弁当を抱えて屋上の扉を開ける。きっと、やわらかい色の春空がひろがっているはずだ。今日は天気がいい。
そっと開けた扉の形に切り取られた空。その中心に、人の形をした異物が存在した。
その風貌に目を見張る。
「野良生徒?」
私は思わず呟いた。その声に驚いたように振り返った彼は、
「正解」
すぐに笑顔でそう言った。
まだ寒いのに、彼は半袖の体操服を着ていた。野良になる時に制服を没収されたのだろう。体操服のラインとジャージの色が青なので、どうやら私と同じ二年生のようだ。そのジャージの左膝の部分には、大きな穴が開いていた。上履きは履いておらず、裸足だ。ボサボサの髪の毛は赤茶色に染めてあり、根元が少し黒くなっている。
彼は見るからに、野良生徒だった。春は野良生徒が増えると聞いていたが、実際に目にしたのは初めてだ。
「機械科」
私の着ている学校指定の青い作業服を見て、彼は言った。私がこくこく頷いていると、
「何作ってるの?」
唐突に彼は問いを放った。
「え?」
何を問われたのか一瞬わからず、戸惑う。彼は、
「機械科、何か作ってるでしょ?」
と言った。
「あ、うん。駐輪場に設置する、自転車の前輪をガッて置くやつを作ってる」
私の説明が下手だったので、彼は首を傾げた。
私は彼にお弁当箱を差し出す。
「くれるの?」
彼はお弁当箱を受け取りながら、嬉しそうに笑う。垂れた眉が更に下がった。
「ちがう」
否定しておいて、私は空いた手で自転車のハンドルを握る仕草をした。それを前に押し出しながら少し持ち上げる。
「こうやって自転車の前輪をね、ガッと乗っけるの」
「ああ、ガッと」
納得しようだ。
「自転車が倒れるのを防ぐアレ?」
「そう。それを作ってる」
とは言ったものの、溶接の練習としてやっているだけなので、
「でき合いのパーツを溶接でくっつけるだけだけど」
と付け加えた。
「いいねえ」
彼は、うっとりと言った。
自転車の前輪をガッて置くやつが? と言おうとして、彼の意識が明らかに、その手に持った私のお弁当箱に行っているのに気付いた。
「お腹すいてるの?」
尋ねると、彼はにっこり笑う。その顔は、期待に満ち満ちていた。
「ありがとう、みどりちゃん」
私のお弁当を殆んど食べてしまった彼は、そう言いながら満足そうに笑った。
「なんで私の名前知ってるの?」
少し不気味に思って尋ねると、彼は、私の作業服の胸の刺繍、《水谷水鳥》の文字を示した。なるほど。
水鳥を正しく読んでくれたひとは初めてだったので、嬉しかった。彼も、とても嬉しそうだ。
彼が笑うと、垂れた眉が余計に下がり、なんとも言えないおもしろい顔になる。自然と笑いが込み上げてきて、私も一緒にへらへらと笑った。
「おおみず、はやみくん?」
体操服の胸に《大水隼水》とある刺繍を同じように指差して読んでやると、
「正解」
彼は笑った。
「でも、この名前はもう失効してるよ」
野良になると名前まで取られるのか。
どう言葉をかけたらいいのかわからず、私は、
「不便だね」
とだけ言った。つまらなすぎる一言に、自己嫌悪に陥る。口下手なのだ。
「みどりちゃんの好きなように呼んでいいよ」
彼が言うので、私は試しに、
「ノラ」
そう呼んでみた。
「野良生徒だから?」
訊かれて頷くと、
「安易すぎる。愛が感じられない」
と、彼は不満たっぷりに言う。
「愛って」
少し気恥ずかしくなって、私はそっぽを向いた。
以来、お昼ごはんは、いつもノラと一緒だった。屋上へ行くと、必ずノラがいたからだ。
「みどりちゃん、友達と食べなくてもいいの?」
ノラが言うので、
「私、友達いないからいいの」
正直に答えた。
「晴れの日はいつも屋上で食べてたし、いつもどおりだよ」
「そっか」
と、ノラは呟いた。
「機械科、女子が私だけだから、未だに浮いてるの」
この水之江高校は、能力で学科を振り分けられる。自分がどの学科に振り分けられるか、通知が届くまで不明なのだ。
入試は面接だけで、あとは中学三年間の内申書と成績、それから公式、非公式を問わない各種の記録や賞で合否と振り分けが決まる。
私が振り分けられたのは、機械科だった。
昔から手先だけは器用で、物を作るのが好きだった。中二の夏休み、理科の自由研究で、太陽電池とモーターで動く、四足歩行の小さなロボットを作った。そのロボットが、校内で賞を貰ったのだ。それが機械科に振り分けられた決定打だったのではないかと思う。
しかし、私は男子ばかりのクラスにずっと馴染めずにいた。私が女子だからいけないのかと悩み、女子である自分を、いつも持て余していた。
「だから、髪の毛、そんなに短くしてるの?」
ノラは、私のベリーショートの耳の上あたりを、つん、と摘んだ。
「だから、制服のスカート穿かずに、いつも作業服を着てるの?」
ノラが、悲しそうな表情をするのが不思議だった。
「別にそういうわけじゃない。単に作業するのに邪魔だから」
ノラのその表情を見るのがつらくて、私は嘘をついた。
本当は、ノラの言う通りだ。私は確かに、女子である自分を否定することで機械科に溶け込もうとしていた。他に思い付かなかったから、髪を男子みたいに短くした。
ノラは私をぎゅう、と抱き締める。そうしてもらうと、私はとても安心できた。
「大丈夫だよ」
私が言うと、ノラは私の耳元で少しだけ笑って身体を離した。
「ノラは、どこの子だったの?」
話題を変えようと、ノラに話を振ると、
「特進」
吐き捨てるようにノラは言った。
普通科特別進学コース、通称特進は、国公立大学進学だけを目的とする学科だ。猛スピードで高校三年間分の授業を終わらせ、一年生の後半頃から徹底的に受験勉強をする学科だと聞いている。そのハードなカリキュラムの為か、毎年大勢の野良生徒が出る。
「もしかして、その髪?」
野良になった理由をそう尋ねると、
「正解」
ノラは、赤茶の毛を右手でわしわしとかき回した。
「かっこいいかと思って染めたら、捨てられちゃった」
この高校の校則は厳しくない。実際、機械科の生徒の髪の色も、茶や金が多い。
しかし、朝礼で見る特進の生徒の髪の毛は、いつも自然のままだった。白髪の混じっている髪も少なくはない。
「特進は別ルールなんだよ。ほら、校舎も完全隔離されてるし」
ノラは言う。
普通科進学コース、スポーツ科、機械科、情報科、都市デザイン科。五つの科が入っているこの校舎とは別に、特進の校舎は個別に建てられている。四階建てのこの校舎とは違い、特進の校舎は二階建てで屋上もない。噂によると、自殺者が出るのを防ぐ為だという。
特進は、とにかく得体が知れない。ノラも、多くを語ろうとしない。よっぽどつらかったのだろう。そう思うとたまらなくなって、私は、ノラの手をぎゅっと握る。
ノラの手は、いつも暖かい。半袖のくせに。
「今、校内にいる野良は、たぶん、もう僕だけだ」
ある日、ノラがぽつりと言った。
「他の子たちは?」
「校外に出たか、回収されて処理されたか」
回収? 処理?
その言葉の持つ不穏な響きに、言い様もない不安に襲われる。
「処理って?」
おそるおそる尋ねたけれど、ノラは首を傾げるだけだった。
「私が、ノラを飼う」
そう言うと、
「生徒は生徒を飼っちゃいけない決まりだもん」
ノラは少し寂しそうに笑った。ノラのそんな顔なんて見ても全然おもしろくない。
ぐに、とノラのほっぺをつねると、
「いはいよ、みろりひゃん」
ノラはへらへら笑った。
おもしろい顔。
私は、ノラのその顔がとても好きだ。
昼休み、いつものように屋上へ行く。
その日、屋上への扉が開放されていた。嫌な予感がした。扉から屋上の様子を窺うと、人影が動いているのが見えた。誰かいる。
ノラ?
ううん、違う。スリッパの音がした。ノラじゃない。ノラは裸足だ。
意を決して屋上へ出る。
人影の正体は寿だった。寿は、機械科の技術指導担当の教師だ。なんで屋上に寿が? 心臓がばくばく跳ねている。
ノラは?
脚が震えた。
ノラはどこにいるの?
回収されてしまったのだろうか。
「屋上で野良生徒を見たって情報が入ったけど、おまえ見てないか?」
寿が私に気付いて言った。
「見ていません」
私は首を横に振る。
よかった。ノラはまだ捕まっていないみたいだ。
「あそ。見かけたらすぐ教えろよ」
寿はそう言って、あっさり行こうとする。
私は、ふう、と息を吐いた。
寿は扉の手前で振り返り、
「あ、野良に食いもんとかやんなよ。なつくからな」
と言った。
「そうでなくても、野良に関わんのは校則スレスレだ。違反てわけじゃねーけど指導は入るぞ」
知ってる。私は頷いた。
「気を付けます」
寿が行った後、私はフェンスに寄りかかり、再び息を吐いた。
食いモンとかやんなよ。なつくからな。
寿の言葉が胸に刺さった。確かにノラは、私になついている。ノラが私と一緒にいるのは、ノラが私に笑ってくれるのは、私がごはんをくれるから?
軽い絶望感に襲われ、私はその場に座り込んだ。
「行った?」
上から声が降ってきた。顔を上げると、給水タンクの上にノラの姿があった。
「ノラ」
呼ぶと、ノラはタンクから飛び降り、両足で綺麗に着地した。そして、私を見てにこりと笑う。おもしろい顔。
「ノラ」
もう一度呼ぶ。
私の前におとなしくしゃがんだノラの頭をぎゅう、と抱く。体育倉庫のような匂いがした。
「どうしたの?」
ノラは背が高い。だからきっと、この体勢はきついはずだ。でもノラは、されるがままになっていた。
「いい子だね。ノラはいい子だね」
自分でも何を言っているのかわからない。無性にノラが愛しくて、滅茶苦茶にかわいがりたい気分だった。
ボサボサの頭を撫でると、ノラは気持ち良さそうに、くふんと鼻を鳴らした。
「みどりちゃんだって、いい子だよ」
そう言われ、涙が出そうになる。
ノラは、おでこをすりすりと私の作業服の肩に擦り付けてくる。髪の毛が頬に当たってくすぐったい。
「いい子なんかじゃないよ」
私が言うと、
「どうして?」
言いながらノラも、ぎゅ、と抱き返してくれた。
「私、無責任だ。ノラを飼うこともできないくせに、ごはんだけあげて餌付けして」
「ごはんくれるだけでも校則スレスレだって知ってるでしょ?」
ノラは言う。
「みどりちゃん、自分も危ないのわかってて、いつも僕にごはんくれるでしょ」
ノラは、更にきつく私を抱き締める。
「みどりちゃんはいい子だよ。僕、みどりちゃんが好き」
ノラは言った。
「ごはん、くれるから?」
私は不安を搾り出すように尋ねた。
「ちがうよ」
ノラは笑う。
「ごはんくれるのは、確かにありがたいし、嬉しいけど、ちがう」
ゆっくりと、私を安心させるようにノラは言った。
「本当は僕、特進にいた頃から、みどりちゃんのこと知ってた」
「うそ」
「嘘じゃないよ。朝礼で、機械科と特進、隣に並ぶでしょ?」
私は、ただ頷く。
「機械科にね、目を真っ赤にした女の子がいたんだよ」
「…………」
「泣いたのかなと思って気になって、朝礼の度に見てた」
ノラは思い出すように、ふわっと笑った。
「でもよく見ると、その子だけじゃなくて、周りの生徒も目が真っ赤なの」
「それ、溶接焼けだよ」
思い当たって、私は言った。アーク溶接は、いくら溶接面をしていても慣れない間はどうしても目を焼いてしまう。溶接作業の次の日、痛くて目を開けられない生徒もいる。
「うん」
ノラは照れたように頷く。
「泣いたんじゃないんだと思ったら、すごく安心したんだ」
ノラの笑う振動が私の身体にも伝わって心地いい。
「朝礼で見るみどりちゃんは、度々目を赤くしてたし手には火傷の跡もあった。爪の間も油で黒く汚れてた」
そんなところまで見られていたのかと思うと、羞恥で顔が熱くなった。
「でも、目が死んでなかった。僕なんかより、ずっと生き生きしてた。この子は機械科が好きなんだと思った。その頃の僕は、もう本当まるごと死んでたし、特進にいる理由がわからなくなってた。毎日毎日、死にたいって思ってた。だから、僕は野良になった」
「うん」
「捨てられたって前に言ったけど、本当は逆。髪の毛染めて、捨てられるように仕向けた。僕のほうから捨てたんだ」
ノラは続ける。
「特進から抜け出すには野良になるしかないって知ってた。でも、みどりちゃんを知るまでは、野良になる勇気もなかったんだ」
ノラの声は淡々と響く。さっきみたいに笑ってほしいな、と勝手なことを思った。
「みどりちゃんに会いたくて、こっちの校舎に忍び込んだ。中にいると捕まっちゃうから屋上にいた。そしたら、みどりちゃんが来てくれて、ごはんもくれた」
ノラの身体が揺れた。
あ、笑った。
「僕、みどりちゃんのこと、ずっと好きだったんだよ」
ノラのその言葉で、とうとう涙がこぼれた。何か言おうと口を開くけど、言葉が出てこない。
ノラと一緒にいたいと強く思った。でも、どうすればいいのかわからない。
「居場所がバレた。僕はもうすぐ回収される」
ノラは言う。
「わかってたんだけどね。ずっと《ノラ》じゃいられないって」
ノラの腕に力が入る。
「どうせ回収されるんだったら自主回収されたほうが、後々の処理がスムーズだって聞いたことがある」
ノラは私から身体を離し、
「行くね」
と笑った。
「回収されに?」
「正解」
ノラはにっこり笑い、扉に向かって走った。
「ノラ!」
呼ぶと、振り返って手を振った。
「またね」
そう言って、ノラは階段を飛び降り、見えなくなった。
ノラの、おもしろい笑顔が脳裏に焼き付いている。
ノラ。「またね」って、本当?
ノラが自主的に回収されてから、一ヶ月が経った。
ノラがどうなったのかが気になり、駐輪場の作業がほったらかしだ。
このままでは駄目だと頭ではわかってはいるのに、気持ちが付いていかない。ノラがいないとお腹もすかない。
それでも私は、お弁当を持って屋上の扉を開ける。
誰かが、いた。
彼は、新品らしい青い作業服を着ていた。
ちゃんと上履きも履いている。赤茶の髪は根元まで綺麗に染め直され、短くカットされていた。
「ノラ!」
呼ぶと、彼は眉を垂らして、おもしろい顔で笑った。
「ノラじゃないよ」
彼は、胸元の刺繍を示した。私は、頷いて呼び直す。
「はやみ」
「正解」
隼水は両手を広げて、私を抱きすくめた。体育倉庫の匂いはせず、石鹸の香りがした。照れくさくて身をよじる。隼水は楽しそうに笑って、私の身体を離した。
「この一ヶ月、大変だったんだよ」
隼水は言った。
自主的に回収されたということで、隼水は今後の希望を提出することができた。その希望が通り、隼水の処理担当は寿になった。
隼水は、機械科に飼われるべく能力開発に勤しみ、寿の指導のもと、基本技術を徹底的に学んだ。
「それが、処理?」
「そうみたい」
隼水は頷く。
「大変だったけど、楽しかった。自分で物を作ったり直したりって、すごく楽しい」
私は、ただ頷いた。
隼水の、おもしろい笑顔をまた見ることができた。もう、それだけでいい。
隼水は言った。
「みどりちゃん。自転車の前輪をガッって置くやつ、一緒に作ろう」
了
ありがとうございました。