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むし  作者: 高杉 透
9/10

むし9

 昼休みになった。午前中、小柳と諍いを起こしたことは、すで


に大半の社員が知ることとなり、どういうワケか彼女にあからさ


まな嘲笑の目を向けてくる社員の姿がやたら目についた。


(何よ! みんな小柳の味方だっていうの!?)


 静香と並んで食堂に続く階段を登りながら、彼女はどうしよう


もなく浮かびあがってくる怒りに唇を噛みしめる。上原しのぶの


グループがそういう態度を取ることは分かる。上原たちは彼女を


毛嫌いしているのだから、小柳との諍いを笑いながら見ているの


は理解できる範囲だ。だが、18歳の新入社員グループまでもが


彼女をバカにしたような目つきで見ていることが信じられなかっ


た。


(あんなに世話してあげたのに!)


 彼女の意識の上では、自分は新入社員にとって模範的な先輩社


員であり、仕事も手とり足とり教えて来た。だから当然、自分に


反抗的な態度を取った小柳を除け者にするだろうと思っていたの


だが、彼女たちはこちらをチラチラと見ながら小柳を中心に彼女


の陰口で盛り上がっているようだ。


(許せない!!)


 恩を忘れ、礼儀を知らず、こういった態度を取る若い少女たち


には、言い知れぬ憎しみが湧き上がる。


“あのオバサン”


 どこからともなく、聞こえないはずの声が聞こえてきた。


“由香里、あのオバサンについにキレたの? まあ、仕方ないよ


ね。その気持ち、よく分かる”


“ホント、ホント! ああいうタイプのオバサンって腹立つモン


ねえ! よく今まで我慢してきたよ”


“何かと仕事中に話しかけてくるんだけどさあ、こっちが聞いて


ないとキレてんのがミエミエなんだよねえ。つーか、ホント他人


の悪いところばかり、よく見つけるよね。いっそ感心する”


“そうそう! 早く帰りたいのにさあ! 少しは仕事しろよって


ずっと思ってた”


“言いたくはなかったんだけどね。気が付いた時にはもう、口が


開いてた。だって喋ってばっかりで、全然ラインが動かないんだ


もん。たまには残業ナシで帰りたいし。”


 少女たちの声に、小柳の声が重なった。


“この前もあのオバサンのせいで残業になったんでしょ? 普通


にやってれば残業ナシで帰れたのに、虫がどうのとか騒ぎまくっ


て遅らせたとか”



“呪われてんじゃないの?”



“そうじゃないの? だって。しかもあの人、呪われるような性


格してんじゃん。だいたい何よ、虫って。幻覚ってやつ?”


“私も静香さんも見てないし。幻覚でしょ”


 小柳の声には、あからさまな嘲りが含まれている。そして、少


女たちの一人が、信じられない一言を放った。


“クスリでもやってんじゃないの?”


 麻薬……。幻覚を見るのは麻薬中毒患者に最も顕著に現れる症


状だ。そこにいるはずもない虫を何度も見て騒いだということは、


そう思われても仕方がない。しかし、彼女は自分がそんなモノに


手を出していると疑われ、愕然とした。


“そう言えば知ってる? あのオバサンの娘の名前! プリンセ


スとビーナスって言うらしいよ! アホかっての!”


“マジで!? あの顔でそんな名前つけられたらマジでヘコむわ、


私!”


“自分が美人だとでも思ってんじゃないの? いるんだよねえ、


勘違いしたオバサンって!”


“ケータイの写メで子供の顔、見せられてさ、お世辞で可愛いで


すねって言ったの、本気にしてやんの! バカじゃないのって感


じよ”


“子供の話してる時に、褒めてあげないとキレるでしょ、あの人。


適当に聞き流してたらすごい顔されたもん”


“そうそう! なんかもう、可愛いって言って! 私はこんなに


素晴らしい母親なのよ! ってアピールしすぎでウザかった”


“分かる~! 何かにつけてこう、遠まわしに私を褒めて! っ


て強請ってんのよね! 気持ち悪いよね、いい歳して!”


 笑い崩れる少女たち。彼女は、悔しさと怒りに震える体を何と


か押さえこんで何も聞こえなかったフリをする。


(こんな……)


 自然、浮かび上がってくる涙を、必死で堪えた。


(あんたたちに何が分かるって言うのよ!!)


 結婚もせず、子供もおらず、一人で気ままに生きている少女た


ちが知った風な顔で悪口を言うのが許せない。しかしながら、怒


鳴り込んでいくかと言えば、そんなことはない。自分の味方はい


ないと知っている以上、ケンカを売ることはしないのだ。


「静香さん、いつもの?」


 何でもない顔をして、彼女は隣を歩く静香に問いかけた。


「うん。からあげ弁当~」


「取って来るわね。ちょっと待ってて」


「ありがとう」


 理不尽さを感じながらも、彼女はいつものように静香と自分の


弁当を取りに行った。からあげ弁当とのり弁当を取り、ついでに


無料のお茶を紙コップに注いで席に戻る。


「はい、お待たせ~」


「どうも~」


 静香も表面上はいつも通りだ。その心の内で何を考えているの


かは分からない。けれど今は彼女を拒絶するつもりはないらしい。


 何だかんだ言っても、彼女にとって静香はこの会社で唯一の友


人と呼べる存在だ。心の中では嫌いだと思っていても、一人にな


る勇気はない。おそらく静香も同じなのだろう。女同士の付き合


いなんて、言ってしまえばそんなものだ。


「おなかすいた~! 今朝、朝ごはん食べてないんだもの!」


 さっそく、真っ白なごはんを箸で取って口元に運ぶ。


「そうなの? 体に悪いわよ、あっちゃ……きゃあああああ!!」


 静香の言葉に、悲鳴が重なった。


「何? どうしたの、静香さん?」


 咀嚼しながら、彼女はただならぬ様子でその場を飛びのいた静


香に問いかけた。突然の悲鳴に、食堂にいた社員たちが何事かと


集まり始める。


「あ、あ、あっちゃん……! む、むし……! むし……!!」


 虫、という言葉に背筋がゾッとした。同時に、集まって来てい


た社員たちも口々に「虫」という言葉を叫び出す。少女のうち何


人かは、静香と同じように悲鳴を上げてそこから飛びのき始めて


いた。


「何よ! 何なの!?」


「あんた! 弁当! 弁当を見ろよ!!」


 年配の男が目を見開いて自分の手元にある弁当を指差す。はっ


として視線を落とせば、ついさっきまで「ごはん」と思っていた


弁当の米が、大量の虫に変わっていた。


「いやああああああああああ!!」


 ようやく彼女も事態を理解した。悲鳴を上げ、弁当を置いた長


机から離れる。


「何よ! 何よ、これ!!」


 5センチほどの細長い虫には、ところどころに鋭く長い毛が生


えていた。頭の先だけ焦げ茶色をしているが、全体的に薄いクリ


ーム色をしている。互いの体を絡め合うように、発泡スチロール


の中を泳ぎ回っている様子が、何とも気味悪くて仕方ない。その


時、ふと口の中に違和感を覚えた。


「うえ……!」


 未だに飲み込めずにいた「ごはん」が、何やら口の中で動いて


いる。頬の肉が、内側から刺されるような感触がした。舌の上で、


何か小さなものが無数に蠢きまわっている。


「おえっ!!」


 反射的に、彼女は口に含んでいた「ごはん」を吐き出していた。


予想通り、彼女の口から出てきたのは「虫」だった。


「あんた、虫を喰ったのかよ!」


 傍にいた社員たちが、一斉に彼女から距離を取る。その中には、


静香の姿も含まれていた。吐き気がする。どうにも、堪えられそう


にない。


「おい、これ、どうすんだよ! 誰か始末しろよ!」


 年配の男が叫ぶ声を聞きながら、彼女はトイレに向って走り出し


ていた。


                  *


 結局、彼女は昼休みのほとんどをトイレで過ごすこととなった。


もともと空っぽの胃袋には、吐く物など何も残っておらず、彼女は


便器に向ってひたすら胃液と唾液だけを吐き出し続けた。


(虫……気持ち悪い……!!)


 口の中に虫たちの感触が未だに残っている。洗面台でどれだけ口


を漱いでも、いっこうに気持ちの悪い感触は無くならない。体が震


える。背筋がぞっとする。何もかもが、気持ち悪くて仕方がない。


(仕事に、戻らないと……!)


 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いていた。工場に戻らな


くてはならない。しかし。


(今日は、もうムリだわ……!)


 こんな気持ちで、働けるはずはない。どう考えてもムリだ。あん


なに大量の虫を見せられた挙句に、口の中に含んでいたのだ。まと


もな精神状態でいられるはずはない。帰って休もう、と彼女は決め


た。


(森田主任に、早退の報告をしないと……)


 この時間なら工場内にいるはずだ。さすがに黙って帰るようなこ


とはしない。早退するならば、その旨を役職に報告するのは義務で


ある。彼女は、ふらつく足取りで食堂の横にあるトイレを後にした。


(誰も心配して様子を見に来ないなんて……!)


 食堂を飛び出してから30分近く。様子を見に来るどころか、普


通にトイレを利用しにくる者さえいない。昼休みはごった返すのが


女子トイレの常だ。これは、トイレに用がある者はわざわざ一階に


あるトイレを使っているとしか考えられない。全員が、彼女を意図


的に避けている結果だ。


(みんな……みんな、大っきらい!!)


 静香にしろ、18歳の新入社員グループにしろ、彼女から貰った


恩は大きいはずだ。それにも拘らず、いざ彼女の立場が傾けば誰も


が一斉に逃げていく。手を差し伸べようとする者はいない。声をか


けようとする者もいない。理不尽だと思う。


(森田主任、どこにいるのかしら)


 何とか階段を降り、彼女は工場に向かう。そこはフォークリフト


やミシンが動く雑音に満たされ、その中を作業員たちが一心不乱に


働いていた。彼女にとって、16年間、毎日のように見続けてきた


「いつもの工場」がそこにある。ただ、そこに彼女が足を踏み入れ


た瞬間、日常が瓦解した。


「ちょっと!! 何よ、あれ!!」


「きゃああああ!!」


「来ないで!!」


 工場内を進んでいた彼女に目を止めた作業員たちから、一斉に


悲鳴と拒絶が漏れる。


「阿倍さん!! 虫が!!」


「あっちゃん!! 早く、早く取りなさい!!」


 虫、という言葉ですべてを理解した。しかし、慌てて視線を巡


らせても、虫の姿はどこにも見えない。


「どこ!? どこにいるのよ!?」


「どこって……!!」


 見えない。どこにいるのか分からない。けれど周囲の反応を見


る限り、彼女の周囲に虫がいるのは確かであるらしい。それも、


顔を見た瞬間に悲鳴を上げられるほどなのだから、よほどの数だ。


全身を虫にたかられた自分……。夕べ、バスルームで見た夢の光


景が思い浮かぶ。


「あの人、アタマおかしいんじゃないの!?」


 どこかで誰かがそう言った。


「おい、どうしたんだ」


 騒ぎを聞きつけて森田主任がやってくる。彼女の顔を見るなり、


“あの”森田主任までもが顔色を変えて一歩、後じさりした。


「安倍、お前……」


「何なのよ!? 虫がいるの!? どこに!? 早く取ってよ!!


私には見えないのよ!!」


 無意味に手を振り回しながら、彼女は自分の体についていると思


われる虫を探し求める。見えない。どこにも虫などいない。周囲に


いる人間がなぜこんなに大騒ぎするのか分からなかった。


「ちょっと、じっとしてろ!」


 森田主任が歩み寄って来る。言われた通り、彼女は動きを止めた。


「虫がいるの!? 早く取ってよ!!」


「分かったから!」


 彼の手が頭に伸びてくる。そして、ゴミを払うように頭の上で手


を動かした。


「いやあああ!!」


 床に、無数のウジが散らばって行く。一匹、二匹ではない。森田


主任が手を動かす度に、数えきれない数のウジが床に落ちてのた打


ち回っている。森田主任の手が頬を払えば、床の上に巨大な毛虫が


落下した。遠巻きに様子を見ている作業員たちから、悲鳴が漏れる。


「早く! 早くしてよ!! まだなの!?」


「ちょっと待て!」


 森田主任の声に焦りが浮かぶ。どうやら払っても払っても、虫は


湧き出てくるらしい。


「おい、何の騒ぎなんだ!?」


 人混みをかきわけてやってきたのは、彼女の夫である博文だった。


「お前……いったい……」


 博文は彼女を一目見るなり顔色を変える。12年という歳月を共


に過ごし、二人の子供まで儲けたはずの妻から、一歩、二歩と距離


を取っていった。


(博文……! あなたまで……!)


 そんな夫の反応を見て、彼女は絶望より先に怒りを感じた。


(あんなに尽くしてきたのに……! あなたのために私はあんなに


犠牲を払ってきたのに……!!)


 彼女の内に、どす黒い感情が渦を巻く。

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