むし8
「……と、いうワケなのよ! 上原さんってば、もう、口では大変
ねえ~なんて言ってるけど、心の中では私のことよく思ってないの
が見え見えだと思わない?」
仕事が始まってから数分が経過した。彼女は隣で手を動かす静香
に向って、夕べから今朝にかけての出来事をすべて語り終えている。
当然、それで話は終わらない。事実報告の後に必ずと言って付け加
えられるのは、彼女独自の考察だ。
「だいたい、最近の子供って親が親じゃない? ウチの子があんな
言葉を覚えてきたのは、きっと学校で友達に教えられたからなのよ。
親がちゃんとした教育をしてないから、子供が親に向って平気でク
ソババアとか死ねとか言えるのよ!」
「そうよねえ」
先ほどまで娘たちに「クソババア」という言葉を教えたのは夫の
博文だと断定していたが、今は学校の友達ということになっている。
主張に一貫性がないということは、考えもしない。その時そう思っ
ていることが、彼女にとっては決して揺らぐことのない「正しい事
実」なのである。
「そう言えば、あっちゃん。もう大丈夫なの?」
ふいに、彼女の言葉が切れた瞬間を見計らって静香がそう聞いて
きた。自分のスキをついて話の主導権を持って行かれたことに、不
快な思いをしないでもないが、相手が静香なのでそこは我慢する。
「昨日、いろいろ大変そうだったじゃない?」
「ああ、もう大丈夫よ。何だか疲れて夢でも見てたみたいなの」
「そう? だったらいいんだけど。きっと誰かのイタズラよね」
「きっと、そうよ。ホント、嫌になっちゃうわ」
そう言ったところで、彼女は自分に恨みを持つ人間の顔を思い
浮かべていく。自分自身が嫌われている、という実感はあった。
「誰かしら。そういうことをする人って」
今ではもう派遣社員の数は少ないが、かつてこの工場が大量の
派遣社員を雇っていた時、何かにつけて嫌味を言っていたら一人、
二人と辞めていった。
“阿倍さんは何人も辞めさせている”
特定の誰かではなく、会社の雰囲気的にそう言われていること
も知っている。ただ、これは彼女に言わせてみれば仕事ができる
自分への嫌味に過ぎない。
“安倍さんは主任の妻だから、大きな顔をしている”
博文が主任になった時から、そう言われることは覚悟していた。
これもまた、彼女に言わせてみれば主任どころか班長とさえ結婚
できなかった女の妬みだ。ましてや、上原しのぶのように離婚さ
れた女であれば、なおさらだ。
「心当たりはないの?」
「分かんないわ」
多すぎて分からない。そういうことだった。嫌われているとい
うことは注目されていることだ、と彼女は解釈している。自分が
他人から嫌われるのは仕事ができるせいであり、主任の妻だから
であり、完璧な女だからである。だから同僚たちは自分を妬む。
つまり嫌う。
「いい迷惑よねえ~。でも、どうしてあっちゃんには見えて私に
は見えなかったのかしら」
「それが不思議なのよねえ」
そればかりはどう考えても分からない。その時、彼女の脳裏に
ひとつの仮定が浮かんだ。
(もしかして、静香さんもグルなんじゃないかしら……? そう
だとしたら、見えてないフリをするのなんて簡単よね)
隣で黙々と作業をしている小柳も同じだ。静香と組んでそこに
いる虫を見えていないフリをしていたとすれば、辻褄があう。
(本当の味方がいないなんて、私ってなんて可哀そうなのかしら)
静香も共犯者だ。そう思うと、何だか妙に納得できるものがあ
った。
(そうよね。イタズラよね。呪いなんてあるはずないんだし)
それに、今日は一匹も虫を見ていない。昨日の出来事は夢であ
り、誰かのイタズラだということにしておいた。
「そう言えば、小柳さん」
虫の件が一段落ついたところで、彼女はふと昨日、博文が言っ
ていたことを思い出した。
「なんですか?」
声をかけられ、小柳はミシンを動かす手を止めないまま返事を
してきた。彼女の方を振り向きもしない。そういう態度が腹が立
つ。呼ばれれば顔くらい上げるべきだ。
「もうすぐ班長なんですってね? おめでとう。さすが、派遣あ
がりは違うわね」
「は? 班長?」
あからさまに滲ませた嫌味には反応せず、小柳が驚いた顔で彼
女の顔を見た。どうやら、本人は知らなかったようだ。
「あら、知らないの? ほら、私のダンナはこの工場の責任者で
しょ? 主任の妻だから。そういう情報はすぐ入ってくるのよ」
「そうですか」
気のない返事をしながら、小柳は再び手元へ視線を落とした。
“安倍さんは、主任の奥さんなんですよね”
“さすが、主任の奥さんとなると違いますね”
彼女の望む言葉は、待てど暮らせど一向に小柳の口から出て
こない。あまりの無関心さに、彼女は唇を噛む。
「すごいわよね。入社1年目で班長に抜擢されるなんて。静香
さんでさえ8年かかったのに。でも、そんなに気負うことはな
いわよ。班長は責任者って言っても、たいした役職じゃないか
ら」
「へえ~」
班長職を虚仮下ろすことは、隣にいる静香をも侮辱すること
になるのだが、彼女はそこまで深く考えていない。むしろ、一
向に関心を示さない小柳が腹立たしくて仕方なかった。
「そう言えば小柳さんの旦那さんは銀行に勤めてるって本当?」
「本当ですけど」
「さすがねえ~。もう課長とか? それとも部長?」
「一般行員です」
「あら、そうなの。入社1年で班長になれるような小柳さんの
旦那さんでしょ? てっきりもう役職なのかと思ったわ。私の
場合、結婚した時には旦那はもう役職だったんだけど」
「へえ~」
小柳の声にはひたすら熱が入っていなかった。
“役職に就いている人に結婚を申し込まれるなんて、すごいで
すね”
“銀行に勤めてるって言っても、私の旦那は一般行員ですし”
求める言葉は返ってこない。
「恋愛結婚だったのよね? 旦那さんのどこが良かったの?」
「さあ……」
「いいわよねえ。確かまだ19歳でしょ? よく親が許した
わよ。私の時なんて22歳で結婚するって言ったら、親が反
対して大変だったんだから。旦那さんは2歳年上だったわよ
ね? まだ21歳じゃないの。その年でよく家庭を持つ気に
なったわよ。よほど小柳さんが魅力だったのねえ」
「阿倍さん」
ふいに小柳が顔を上げる。ウンザリしたその顔を見て、よ
うやく嫌味が通じたかと内心でニヤリとしたのだが、小柳の
口から出たのは意外な言葉だった。
「阿倍さん。お願いですから喋ってばかりいないで仕事して
ください。昨日も一昨日も残業になってるんです。今日は定
時で帰りたいんですよ。数字を見てください。もうすでに予
定よりかなり遅れてますよ」
はっきりと言われて、彼女は面食らった。今まで主任の妻
である自分に向ってこうもはっきりものを言ってきた者はい
ない。だが、当然ここで素直に謝る彼女ではない。
「遅れてるのは小柳さんが遅いせいでしょ?」
「遅れないようにがんばってるんです」
ここぞとばかりにその言葉を使うが、小柳は特に顔色を変
えない。それどころか、正論を返された。
「でも安陪さんに回せなくて待っている時間の方が長いんで
す。正社員ですよね? 申し訳ないですけど、もうちょっと
仕事してくれませんか。会社だって残業代を出したくないっ
て昨日、自分で言ってたでしょ?」
「だから私は残業しないで帰ったじゃないの」
「このラインは3人いないと回せないんです。安倍さんが帰
った後、森田主任に残業を頼んだんですよ。阿倍さんが帰っ
ても森田主任が残れば同じことでしょ?」
ついでに1時間あたりの残業手当は一般社員である彼女よ
り、森田主任の方が高いのは当たり前だ。
「こうやって話してる間にも時間は過ぎてるんです。仕事す
る気があるなら、早くしてください」
言いながら、小柳が製品を回してきた。そして手元に視線
を落とし、再び黙々と作業を開始した。
「あっちゃん、早くしましょ」
思わず固まった彼女の背に、追い打ちをかけるような静香
の声がかけられた。会社の先輩であり、主任の妻である彼女
を、新入社員の小柳が侮辱したというのに、小柳を咎める様
子は全くない。それどころか、彼女を急かすように両手を伸
ばして製品を待っている。
(静香さん! やっぱり小柳とグルなのね!?)
彼女の脳内で、シナプスが結合した。そうとしか考えられ
ない。他の可能性は、微塵も浮かばなかった。
(二人して私を追い出す気なんだわ! 小柳が班長になるこ
と、きっと静香さんは知ってたのよ! 私にだけ教えないな
んて! サイテー!!)
静香に話をする意志がないと分かれば、もう黙って手を動
かすしかない。彼女は苛立ちを隠そうともせず、乱暴な動作
で製品に自分の工程を施し始める。その様子を、左隣で小柳
が何か言いたそうな顔で見つめていた。
(何よ! 言いたいことがあるなら言えばいいじゃない!)
彼女は忘れているが、自分たちが扱っている製品はすべて
“売り物”なのである。生産者として、乱暴に扱うことは許
されない。当然、乱暴に扱った結果、傷が付けばそれは不良
品として処理される。売り物にならない不良品が増えれば、
当然、会社の負担も増える。しかし、今更だが彼女はそんな
ことまで考えない。
(最悪! 静香さんと小柳がグルなんて! だいたい何よ!
旦那が銀行員? ふざけんじゃないわよ! なんであんたみ
たいな女がそんなのと結婚できるのよ! 遊んでばかりで家
事はしない! 仕事もできない女に! どうせ離婚されるに
決まってるわ!)
きっと、そうなる。
(私が残業しないのは子供のためよ! あんたみたいに夫婦
で気楽に暮らしてるワケじゃなのよ! 子供には母親が必要
なのよ! 仕事してるんだし、ムリにでも時間を作らないと
やってけないのよ! 子供ができたら分かるわ! 子供がい
ない人に、分かるワケないんだから!)
そうに違いない。
(派遣あがりのくせに調子に乗って! 今に見てなさいよ!
博文が工場長になったらクビにしてやるんだから! 私は役
職の妻なのよ!? あんたみたいなただの一般社員とは違う
んだから! だいたい静香さんだって! 結婚した人が偶然、
博文よりも上だっただけじゃない! あんたが班長になれた
のは仕事ができるからじゃないわ! 部長の妻だからよ!)
そうでなければ、ならない……。
(なんで静香さんが部長の妻なのよ! 私の方が仕事ができ
るのに! どうして!? どうして私は役職になれないの?
間違ってるわ! 主任と部長だったら、そこまで仕事の内容
は違わないはずよ! 博文は私を推薦したはずだわ! なの
にどうして!? きっと静香さんが部長に何か言ってるんだ
わ! だって、主任の妻の方が先に出世したんじゃあ格好が
つかないもの! そうに決まってる! どうしてよ! どう
して私だけ……! こんなに……こんなにがんばってるって
いうのに……!)
彼女は自分が世界中の誰よりも不幸だと感じた。努力も実
力も認められず、彼女が必死で上げた成果も他人が持って行
ってしまう。こんな不幸は、他にない。
(こんな会社……辞めてやるわ! 私がいなくなって、みん
な苦労すればいいのよ!)