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むし  作者: 高杉 透
7/10

むし7

「ママ、ママ! 起きなくていいの?」


「ママー! 遅刻だよー!」


 二人の娘たちの声に意識が覚醒する。浮上した視覚が真っ先に


捉えたのは、いつもながら可愛い娘の顔だった。


(やっぱり私に似てよかったわ。プリンセスとビーナスはどんな


アイドルより可愛いもの。将来はやっぱり芸能界に入れるべきか


しら……)


 本気でそんなことを考えていると、娘たちが再び遅刻するよと


繰り返す。はっとして時計を見て、彼女は愕然とした。


「え!? もう7時!?」


 慌てて布団から飛び起きた。いつも起きる時間より2時間も遅


い。完璧な寝坊だった。


「どうしてもっと早く起こさないの! 朝ごはんは食べたの!?


子供に朝食を取らせない母親なんて言われるのは真っ平だわ!!


パパは!? もう仕事に行ったの!?」


「パパが起こして来いって言ったの。下で待ってるよ」


 姫子の言葉を聞いて、彼女は血が逆流するような錯覚を覚えた。


(早く起こせばいいのに! これみよがしに子供を起こしに来さ


せるような真似をして! 寝坊した母親なんて、いい笑い物じゃ


ない! 嫌味にもほどがあるわ!!)


 二人の娘をその場に残し、彼女は自分の寝室を出る。当然のこ


とながら、朝食の支度を丁寧にしている時間はないし、洗濯物を


干す時間もない。


(予定が狂ってばかりだわ!)


 洗面所に駆け込み、顔を洗う。いつも通り化粧水と乳液をつけ、


パジャマを脱ごうとして手を止めた。


(制服がない! どうして!?)


 いつもならキチンと畳んで脱衣所に置いてあるはずの制服が、


どうしたことか今日は見当たらない。


(そうか! 夕べ、シャワーを浴びてそのまま寝てしまったから


洗濯してないんだわ!)


 替えの制服は確か寝室のクローゼットの中にあるはず。彼女は


慌てて階段を駆け上がった。


「私が具合が悪い時くらい、家事を代わってよ……!」


 今ごろ一階のリビングでコーヒーを啜っているだろう夫に向っ


て、彼女はムダと知りつつそう毒づく。


「遅刻しちゃうわ!」


 パジャマを脱ぎすて、防虫剤の匂いが強く染み付いた制服に腕


を通した。そして、前のボタンを止めながら階段を駆け下り、リ


ビングに顔を出す。そこには予想通り、新聞を片手にコーヒーを


飲んでいる夫と、ピンクのランドセルを背負った娘の姿があった。


「遅刻するぞ。さっさと食えよ」


 テーブルの上には一人分のトーストとコーヒーが用意されてい


る。どうやら夫が作ってくれたらしい。


「そんなヒマあるわけないじゃない! プリンセスとビーナスの


髪を結んであげないといけないのに!!」


 金切り声で叫ぶように言うと、夫だけでなく二人の娘たちまで


顔を顰めた。


「今日はもういいよ、ママ。早く行かないと登校班の人たちを待


たせちゃうし」


「そうそう! お姉ちゃんとビーナスはね、いっつも最後なんだ


よ!」


「何バカなこと言ってるのよ! そんな頭で学校に行けるはずな


いでしょ!? 早くここに座りなさい!!」


 自分の可愛い娘たちの髪をセットするために、他人が産んだ薄


汚い子供がどれだけ待とうが知ったことではない。姫子と愛美は、


生まれた時から天使のように可愛いのだから、可愛く装って当然


なのだ、と彼女は本気で思っている。


「もう、いいってば! 早くしないと、みんなが待ってるの!」


「口応えするんじゃないの! いいから早く座りなさい!! す


ぐセットしてあげるから!!」


 姫子の腕を掴んでイスに座らせようとした時、娘の顔に見たこ


ともない怒りが滲む。


「クソババア! 放せ!!」


 姫子の口から出た言葉に、彼女は凍りついた。


(クソババア……?)


 娘が彼女の腕を振りほどいて背を向ける。


「クソババア! クソババア!!」


 愛美が姫子の真似をして、その単語を連呼し始めた。


「あ……!」


 その意味をようやく理解した時、彼女は永久凍土のように凍り


ついていた自分の血液が、灼熱のマグマを孕む火山のように沸騰


したのを感じた。


「あ、あんたたち!! ちょっと待ちなさい!! 親に向かって


何てことを!!」


 捕まえて説教してやらなければ、と思った時には、姫子と愛美


はすでにリビングを抜けて玄関へ駆けだしてしまっていた。慌て


て追いかけたが、二人は全速力で外へ逃げて行ってしまう。


(なんてことを……!)


 やり場のない怒りが全身を支配していた。血が滲むほど、彼女


は拳を握りしめる。当分、怒りは収まりそうにない。


「おい、早くしろよ。遅刻す……」


「博文!! どういうことよ!! あんたでしょ!?」


 背後から聞こえてきた夫の声に、火山は爆発し、内部に渦巻い


ていた溶岩が溢れだした。


「はあ!?」


「あんたが余計なこと教えたんでしょ!? 許せない!! どう


して娘にあんなこと教えるのよ!! 信じられない!! それで


も父親なの!? どうして私がクソババアなんて言われないとい


けないのよ!! 私は、あんなにいつも一生懸命がんばってるの


に!! どうしてよ!! いつの間にあんな子になったの!? 


あなたがきちんと子供を構ってないからでしょ!! 生まれた時


は天使のように可愛かったのに!! いつの間にクソババアなん


て言う子になったのよ!! いつもあんなに可愛くしてあげてる


のに!! 親に感謝する気持ちを持たない子供なんて最低よ!!


そんな子を産んだ覚えはないわ!! あんたがあんなふうにした


の!? ねえ、どうなのよ!? あんたのせいなの!?」


 ウンザリした顔をしている博文に向って支離死滅なことを叫ん


だ挙げ句、胸倉を掴んで激しく揺すった。その手を、面倒くさそ


うに振り払われる。


「いいから早く支度してくれ。いい加減にしないとこっちまで遅


刻する」


「私より仕事が大事なの!? ホント、最低な男ね!! そんな


んだからプリンセスとビーナスが非行に走るんだわ!! やっぱ


り、あなたのせいじゃない!!」


「分かったから早くしろ! 会社に遅れる」


「行きたいなら一人で先に行けばいいじゃない!」


「昨日、虫が出たから車を運転したくないと言ったのは誰だよ!」


 言われて初めて、彼女は博文が自分を待っている理由に思い至


った。しかしながら、だからと言って素直に謝るかと言われれば、


当然そんなことはない。


「仕方ないでしょ!? 昨日はいろいろ大変だったんだから!! 


あなたはいいわよ! 仕事に行って帰って来て、ぐうだらしてた


ら何もしなくてもゴハンが出てくるんだもの! 私はねえ! 仕


事から帰って来ても家のことをたくさんしないといけないのよ!


朝ごはんの片づけをして、夕飯を作って、洗濯ものを畳んで、ま


た洗濯して! それでも間に合わないから朝の5時に起きて家事


を片づけているのよ! あなたに分かるの!? 少しは私の苦労


を労わってよ! 今まで一度だって私のために食事を作ってくれ


たりしたことないじゃない! 余所の家では休日には旦那さんが


夕飯を作ってくれたり、家族でどこかに遊びに行ったりしてるっ


ていうのに!! あなたときたら、休日は家でぐうだらしてるか、


一人で遊びに行ってばかり!! 少しは家族のことも考えなさい


よ!!」


 自分に非がある場合、それを隠すためにより一層、口車を回転


させるのが彼女のパターンである。ちなみに、今朝テーブルの上


に用意してくれていたトーストとコーヒーは「見なかった」こと


にしてある。


「先に行くぞ。今日は会議なんだ」


「分かったわよ! すぐ用意すればいいんでしょ!? すぐ用意


しますよ!! それでいいんでしょ!? それで満足なのよね、


あなたは!!」


「ああ、満足だ」


 彼女は足音を立てながら、リビングへ向かった。八当たりをす


るように、思いきりドアを閉める。家中に、激しい音が響き渡っ


た。


                *


「おはよう、あっちゃん。今日はお揃いで出勤なのね」


 出勤途中の車内で、博文に向ってさんざん金切り声を浴びせか


けたせいか、会社に着くころには少しばかり気分が落ち着いてい


た。晴れやかな秋晴れの下、すがすがしい気持ちで、今日も一日


がんばろうと思って工場へ向かったところで、意外な人物に声を


かけられた。


「あら、おはようございます、上原さ~ん」


 嫌いな社員の一人である上原しのぶだ。ようやく晴れたはずの


心が、その顔を見ていると激しく曇って行く。しかし、表面上は


決してそれを出さない。表情だけは、まるで30年来の親友に再


会した時のように喜びに満ちている。


「あっちゃん、聞いたわよ。昨日はいろいろ大変だったんだって


ね。ウジだったっけ?」


「そうなんですよ~。もう気持ちが悪くて、気持ちが悪くて~」


 もう上原にまで話が回っているらしい。嫌いな人間に失敗を知


られることほど屈辱的なことはない。彼女は晴れやかな笑顔の下


に、どす黒い怒りを必死に抑え込んだ。


「主任に迎えに来てもらったんだって? いいわねえ、若い夫婦


は。あっちゃんのところは、本当に仲がいいものねえ」


 上原は相変わらずだ。染色とパーマで痛んだ髪を、これみよが


しに三つ編みにしている。若い子の真似をした化粧も、不快で仕


方がない。なぜこんな女が若い男性社員に人気があるのかどれほ


ど考えても分からない。


「そんなことないですよ! 今朝なんて朝から大ゲンカしました


もん! ホントにあの人ったら、自分では何もしないくせに私に


はああしろ、こうしろって! それに家庭を顧みないでしょう?


父親に構ってもらってないから、子供が不安定なんですよ! 今


日もいきなりキレちゃって! 朝から手を焼かされましたよ」


 二人の娘たちがいきなりあんなことを言い出したのも、すべて


は家庭を顧みない夫のせいであり、自分のせいではない。通勤途


中、本人に向ってさんざん喚いたセリフを、上原に向って再び繰


り返した。


「まあ、そうなの~。大変だったわねえ~。でも主任だって一生


懸命じゃない? あっちゃんの頼みなら何でも聞いてくれるんで


しょう?」


「まさか! そりゃあ、結婚した時はそれなりにワガママを聞い


てくれたりしましたけど~」


 本人の意識の上では「それとなく」他者から見れば「あからさ


まに」彼女は自分の自慢へと話を持っていく。大嫌いな上原より


も、自分の方が女として勝っていることを証明したくて仕方がな


いのだ。


「まあ、そうなの~。久しく男の人にワガママなんて言ってない


から分からないわ~」


「あの人が私のワガママを聞いてくれたのは、本当に結婚式の時


だけでしたよ! だって仏式なんてイヤじゃないですか! だか


ら海が見える教会がいいって言ったんです。それに、婚約指輪の


ダイヤがすごく小さくて! そういうのって腹が立ちません? 


自分が軽く見られてるような感じで!」


 真似したくてもできないだろう、と言葉の裏に込めながら話を


続ける。最初から軽く見られて遊ばれて捨てられるだけの上原と、


主任の妻に納まる自分は格が違うのだということを見せつける。


「それで大きいダイヤに変えてもらったの?」


「当然ですよ! 私はその時、22歳だったんですよ? これか


ら先、どんな出会いがあるかも分からないのに、あの人と結婚し


てあげたんです。それくらいはしてもらわないと割に合いません


よ、ホント」


 夫を下げて自慢話に聞こえないようにしているようで、その実


自分の自慢をする。彼女は上原の表情が僅かに変わったのを見て、


すこぶるいい気分になった。


「まあ、そうなの~。いいわねえ~。それで、具合が悪そうだっ


て静香ちゃんたちが言ってたけど、もう大丈夫なの? 桑田さん


も心配してたわよ」


 他人に噂されるのがイヤだと言いながら、彼女は自分から噂の


ネタを提供する。ただ自慢したいだけで、相手よりも勝っている


ことを確認したいだけだ。その結果、相手が自分をどう思うかま


では考えない。


「もう大丈夫です。きっと疲れが溜まっていたんですよ」


「そうよねえ~。仕事をしながら家事をするのは大変だものねえ」


 経験したことなどないはずなのに、上原は知ったかぶってそう


言ってくる。離婚された女が何を偉そうに、と彼女は内心で毒づ


きながらも、表面上は笑顔をキープし続けた。


「でも上原さんこそ大変でしょう? おひとりで……」


 相手を気遣っているように見せかけつつ、言葉の裏にイヤミを


混ぜ込む。


「気楽でいいわよ。一人身は」


「そうなんですか?」


 あからさまな強がりだ。自分が結婚できないことへの開き直り


だとしか思えない。彼女は勝ち誇った気持ちになった。


「それじゃあ、今日も一日がんばりましょうね。あっちゃん、体


には気を付けてよ」


「はい、がんばりましょう。ありがとうございます」


 ちょうど工場内に着いたこともあって、彼女は上原と別れて自


分のラインへ向かった。嫌いな上原しのぶに勝ったと実感できた


今、今朝の騒動を始め昨日の虫のことがすべてどうでもよくなる。


とても良い気分だった。


(上原さんみたいなのと比べられても困るんだけどね。だって私


は主任の妻なのよ? あんな水商売あがりの女なんて、最初から


私に敵うはずないじゃない)

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