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むし  作者: 高杉 透
6/10

むし6

 しばらく車の中で泣くと、多少なりとも気分が落ち着いた。泣き


腫らした顔で、彼女は車を降りる。そして憂鬱な気分で玄関の戸を


開き、そのままキッチンへ向かった。


(こんな気分の時にも家事をしないといけないなんて……)


 ダイニング・テーブルの上には朝食の皿がそのまま残されている。


これからそれを片づけ、新たに夕飯の支度をしなければならないの


だと思うと、より一層、気分が沈んだ。


(どうして私だけ……)


 朝の5時に起きて夕飯の片づけをし、朝食を作り、子供と夫を送


り出し、自分まで仕事に行かなければならない。仕事が終わって帰


って来ても、ゆっくり息をつく間もなく夕飯の支度をし、洗濯をし


て、風呂を掃除する。


(他の人たちは人生を楽しんでいるっていうのに……)


 自分だけが不幸な扱いを受けている。そんな気がしてならなかっ


た。彼女は夫と子供のために家庭の犠牲となり、会社たちのために


社会の犠牲となっている。


(私の人生、このまま終わるのかしら)


 何ひとつ楽しいことがないままで、何ひとつ幸せを感じることが


ないままで、ただ年老いて墓に葬られるのかと思うと無性に泣けて


きた。


(私は、被害者だわ!)


 そう思いながらも、ダメな主婦のレッテルを貼られることがイヤ


でテーブルの上の食器をシンクに下げ、洗い始める。家事を始める


と、リビングから流れてくるテレビの音が無性に気になって仕方な


い。


(ホントに、もう! テレビばっかり見てないで、少しは手伝いな


さいよ!)


 真剣な顔でアニメを見ている姫子と愛美にチラリと視線を向け、


彼女はそう思った。しかしながら、娘たちが実際に手伝うと言い出


してもらっても実は困る。


(ダメだわ! 家事は母親の仕事なんだもの! ウチのママは家の


ことを何にもしない、なんて友達に言いふらされたら、近所のいい


笑い物だわ!)


 子供は正直だ。思ったことは、そのまま親に報告する。姫子と愛


美の友達が家に帰って自分の親にそう言えば、翌日、“阿倍さんの


奥さんは”とウワサされることが目に見えている。結婚して12年。


彼女はずっと自分が“完璧”な妻であり、“完璧”な母親であり続


けたと自負している。人は他人の「負」の部分には敏感に反応する


ものだ。10年以上かかって築き上げてきた近所でも評判の“完璧”


な女というイメージを、崩すわけにはいかない。


(ああ、もう何もしたくない……)


 ようやく皿を洗い終え、彼女は重い足取りで冷蔵庫へ向かった。


(とりあえずゴハンを炊かないと……)


 阿倍家では、春の終わりから秋の始まりにかけて、米はミネラル


ウォーターのペットボトルに入れ、冷蔵庫の野菜室で保管するのが


定例である。これは夏に米を常温で保管していると虫がつくからだ。


ウジ虫に似た、5ミリにも満たない小さなコメ虫が水の中から大量


に浮き上がった時の恐怖は未だに忘れられない。以来、彼女はずっ


と気温が上がってからこの方法で米を保存することにしていた。


(おかずは何にしよう。簡単なモノで済ませたいけど、それじゃあ


主任の妻として見栄えがしないし……)


 そんなことを思いながら、彼女はペットボトルのフタに手をかけ


る。それを回そうとして、彼女は米粒が不自然に動いていることに


気付いた。


「ちょっと!! いやあああ!!」


 見れば、ペットボトルの中には、ウジ虫に似た小さな白い虫がい


る。見覚えがあった。これは米につく虫だ。けれど、その数が尋常


ではない。米粒の間を、数千、数万という数の虫が好き勝手に動き


回っている。米粒の数を越す勢いだ。彼女は、思わずペットボトル


を床に放り投げていた。


「もう、いや!!」


 キャップが緩み、綺麗にワックスがかけられたフローリングに、


米粒と虫が散乱する。背筋を悪寒が走った。耐えきれずに後ずさり


をすれば、背に冷蔵庫が当たる。背後で、何かが潰れる音がした。


「!?」


 慌てて振り向けば、冷蔵庫の壁に潰れたイモ虫が体液を撒き散ら


しながら張り付いていた。太くて、長い、これが本当にイモ虫かと


疑いたくなるような大きな茶色いイモ虫だった。腹部に並ぶ、目玉


のような模様もしっかりと見える。


「ママ、どうしたの!?」


 半狂乱に陥りながら、彼女は着ていた制服を破り捨てるような勢


いで脱ぎ捨てた。慌てて駆け寄って来た娘たちに構っている余裕は


ない。イヤな予感は的中していた。制服の背中に当たる場所には冷


蔵庫のイモ虫が垂れ流す体液と同じ色の液体がベットリと付いてい


る。


「ちょっと、ママ! どうしちゃったの!? ねえ!!」


「もういや!! 耐えられない!!」


 すがりついてくる娘の手を振りほどき、彼女は制服をフローリン


グに投げつける。


「おい、何の騒ぎだ」


 廊下へ続くドアが開き、怪訝な顔をした夫が顔を出すのが見えた。


「虫よ!! 虫がいるの!!」


「はあ?」


 心の底から呆れ果てた声でそんな風に呟く博文を押しのけ、彼女


はバスルームへと走る。


「気持ち悪い!! 気持ち悪い!! きもちわるいー!!」


 イモ虫の体液が、制服を通りこして自分の肌にまで付着している


気がしてならない。このおぞましい感触を消し去るためには、シャ


ワーで洗い流すしかない。


(石鹸で! 石鹸で洗わないと!!)


 冷え切った空気に満ちたバスルームへ服を着たまま駆け込み、彼


女は震える手でシャワーのノズルを捻る。温まり切っていない水が


溢れだした。構わずに頭からかぶろうとして、シャワーヘッドの先


から飛び出してくる白い小さな虫に気付いた。


「どうして!?」


 シャワーヘッドを放り出せば、上を向いた穴から噴水のようにウ


ジ虫が飛び出している。狭いバスルームのタイルが、見る間にウジ


虫に埋め尽くされようとしていた。


「もう、いやああああ!!」


 バスルームから飛び出そうとして、彼女は手を止める。ドアの取


っ手の部分には、黒い巨大な毛虫が数匹いた。ドアを開けたくても、


開けられない。


「お願い!! もう、やめてよ!!」



(呪いだわ……! きっと、そうよ! 誰かが私を呪っているんだ


わ……!!)



 激しく震える指先を何とか伸ばして取っ手に触れようとすると、


毛虫が怒ったように頭を持ち上げて威嚇してきた。彼女は反射的に


手を引く。そうこうしている間にも、シャワーヘッドから飛び出し


てくるウジ虫の数はどんどん増えていこうとしていた。


「来ないで!! 来ないでったら!!」


 あらん限りの声で叫んだ時、排水溝のフタが重い音を立てて動く。


反射的にそちらの方へ視線を向けた。


「きゃあああああ!!」


 暗い、まるで井戸の底のような排水溝の中から溢れるように出て


きたのは、肥え太った大量の青虫だった。


「……」


 霧がかかったように視界が曇る。必死で体重を支えていた膝から


力が抜け、虫で埋め尽くされた床が近づいてきた。重いもので頭を


殴られたような衝撃が襲う。あちらこちらで、虫が潰れる気味の悪


い音が聞こえてきたのを最後に、彼女は意識を手放していた。


                *


 水アカひとつないバスタブに、磨きたてられた鏡、カビが入り込


む隙もない真っ白な天井と、明るいピンクの床。シルバーの装飾に


入れられたシャンプーとリンス、そしてボディーソープ。ホコリひ


とつ見当たらない照明に、窓際に置かれたガラス細工と季節の造花。



 見慣れた、いつものバスルームだった。



 ぼんやりと、彼女はそこに立っていた。何を考えるわけでもなく、


何をするわけでもなく、両手を体の横に垂らしたまま、ただそこに


いる。


(私、何してるのかしら)


 蛇口から一粒の水滴が零れ落ちた。狭いバスルームに、水滴が床


を打つ音が反響する。


(お湯、張らないと……)


 いつもの習慣で、彼女はバスタブに栓をする。そして、緩慢とし


た動作で蛇口を捻った。まるで手足が他人のものになってしまった


ように、やけに重く感じる。


「……」


 清水のような綺麗な水が、湯気を上げながら溢れ出て来る。音を


立てて、水は勢いよくバスタブに溜まり始めた。


(今、何時かしら……)


 最後に時計を見たのはいつだっただろうか。そんなことを考えな


がら、彼女はふと視線を上げた。そこには、何の変哲もないバスル


ーム用の鏡がある。鏡の中の自分と目が合った。


「っああ!! あ!! ぁああああぁあ!!」


 体中に、虫という虫がたかっている。彼女は慌てて自分の体を見


た。しかし、そこには何もいない。再び鏡を見る。鏡の中の自分は、


やはり大量の虫にたかられていた。鏡の中の自分の頬を、巨大なイ


モ虫がゆっくりと這って行く。反射的に自分の頬を触る。当然、そ


こには何もいない。イモ虫を何とか取ろうとするが、そこに存在し


ないものを取れるはずはない。


(誰よ! 誰なのよ! 私に呪いなんてかけているのは……!!)


 そう思った時、頬をゾロリと何かが伝っていく感触がした。思わ


ず頬に触れれば、何やら粘着質な液体で濡れている。しかし、イモ


虫はいない。


「あぁああぁあああぁ!!」


 声にならない悲鳴を上げ、彼女は狂ったように頬を掻きむしる。


ヒフが破れて血が滲んだ。爪の間に、こそぎ落ちた肉と血が入り込


む。痛いとは思わなかった。それ以上に、鏡の中に映る自分にたか


っている虫が取りたくて取りたくて堪らない。


「……い! ……い! ……ろよ!」


 どこからともなく、聞き慣れた誰かの声が聞こえてきた。


「おい! 起きろ!!」


 水の中から聞いているように、はっきりしなかった声は、次第に


明瞭となり、彼女の耳に届き始める。


「おい、しっかりしろ!」


 ぼやけていた視界が澄んで行った。博文が、心配そうな顔で自分


を覗き込んでいる。


「あなた……」


「まったく……」


 周囲を見渡せば、そこはいつものバスルームだった。床にも天井


にも、どこにも虫はいない。鏡を覗き込んでも、蒼白な顔をした自


分がいるだけだ。ただ、右の頬には引っ掻いたような傷が深々と残


っている。どうやら、夢を見ていたらしい。


「私……どうしちゃったのかしら……」


「それは俺が聞きたいよ。いきなり風呂場に走って行って大声を上


げたかと思えば床で倒れてるし。具合でも悪いのか?」


「……そうかも、しれない」


 そう言われれば、そうなのかもしれないと思う。体調が悪いので


なければ、あんな経験をするはずはない。それに、虫にたかられる


夢を見るなど疲れている証拠だ。もしくは、誰かが呪いをかけてい


るのか……。


(夢、よ。夢に決まってる! 呪いなんて現実にはあるはずないん


だもの!)


 自分の考えを否定し、大きく溜め息をついて顔に手を当てる。自


分で付けた傷が、ヒリヒリと痛んだ。


「だったらこのままシャワーでも浴びて、さっさと寝てくれ。今日


一日お前に振り回されてウンザリだ」


 夫の口から出た言葉に、彼女は思わず唖然とした顔を向ける。し


かし、博文はそんな彼女を何とも言えない顔で見降ろしたまま、吐


き捨てるように言って、バスルームを出ていってしまった。


「ひどい……」


 ひとり残され、彼女は押し殺すように呟いた。


(私はバスルームで倒れてたっていうのに!)


 救急車を呼ぶなり、せめて労わるなりしてくれてもいいはずだ。


それなのに、あっさり放り出して「さっさと寝てろ」とは……。自


分の扱いはまるで使い捨ての使用人だ。


(ひどいわ! 頭を打ってたらどうするのよ! 頭を打った時って


すぐには症状が出ないのよ! 時間を置いて一気に来るんだから!


私に何かあったら博文のせいよ!)


 どこかで聞きかじった医学情報を引き合いに出しつつ、内心で激

 

しく夫を責め、彼女はシャワーのコックを捻った。服を着たまま頭


からお湯を被って、後から後から溢れ出てくる涙を隠す。 


(ひどいわ、博文! 私、あんなにあなたのために尽くしてきたじ


ゃない!!)


 結婚生活12年の代償がこんな扱いなんて、納得できない。近所


の目を気にして完璧な主婦であり続け、同僚の目を気にして完璧な


社員であり続け、子供たちには理想の母親であるために完璧な母親


であり続けた。それなのに……。


(どうして誰も認めてくれないのよ!! 私はこんなに頑張ってい


るっていうのに!!)


 自分の不幸を呪った。ついでに、自分を幸せにしてくれない博文


に言い知れぬ憎しみと怒りを覚える。シャワーに打たれながら、彼


女は握りしめた拳に力を込めた。 


(みんな、大嫌い……!!)

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