むし5
午後5時。終業のチャイムが鳴る。彼女のラインは、あれからミシ
ンのトラブルがあったり、再びウジ虫が現れて彼女が騒いだりしたた
めに、定時までにノルマを達成することができなかった。
「残業か~」
天井を見上げて、小柳が疲れたように呟くのが聞こえる。
(寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! 正社員でしょ? 自分のノ
ルマが達成できなかったら残業になるのは当たり前じゃない! ハケ
ンとは違うのよ、ハケンとは!)
首を回したり、腕を揉んだりしている小柳を見ながら、彼女は内心
で激しく毒づいた。
「今日こそは定時で帰れると思ってたのになあ……」
その言葉が、更に怒りをかきたてる。
(だいたい、定時で終わらなかったのは、あんたが遅いせいじゃない!
自分のせいで遅れたのに、どうしてそんなにヤル気がないのよ!)
小柳は、正社員としての自覚が足りない。社会人としての常識も欠
けている。そもそもこう言う場合、自分のせいで遅れて残業になって
しまったことを同じラインにいる彼女と静香にきちんと謝罪すべきな
のだ。それに……。
(会社だって残業代をなるべく出したくないのよ!)
不景気の波は、この下請け会社にも押し寄せている。たくさんいた
派遣社員たちが小柳を残して姿を消したのがその証拠だ。それに、会
社の経費を圧迫している最大の支出は、残業代を含む人件費である。
それは一度でも研修を受けた人間ならば誰でも知っている。正社員と
して会社のことを思うなら、定時までにきちんと仕事をこなし、なる
べく残業代を貰わないのが正しい考え方だ。だから……。
「じゃあ、私は帰るわね」
当たり前のことを言ったつもりだったのだが、小柳は呆気にとられ
た顔をした。
「え?」
「私は会社のためを思って残業しないのよ」
「はあ……」
納得していないらしい。もう一度、会社の研修を受けて来い、と彼
女は本気で思った。
「小柳さんも長く務めてたら分かるわよ」
「はあ……」
小柳は、何とも言えない顔をしている。苦笑いというのか、呆れた
ような顔というのか。しかしながら彼女にしてみれば、おかしなこと
を言ったつもりはない。むしろ、正社員として正しい選択をしている
だけの話だ。ものの道理が分かっていない19歳の子供を相手にする
のもどうかと思って、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあね、静香さん! 悪いけど後はよろしく!」
「分かったわ。気を付けてね。今日は早く寝なさいよ」
「分かってます~」
振り返ってみれば、さんざんな一日だったと思う。彼女は出口に向
って工場内を横切りながら、思いきり溜め息を落とした。
(静香さんの言うとおり、今日は早く寝よう。きっと疲れているんだ
わ。ウジを何度も見るなんて。夕飯も簡単に済ませよう。冷蔵庫の中
に何があったかしら)
今は遠い場所にある冷蔵庫に思いを馳せながら、工場を出て右手に
ある駐車場に辿り着く。舗装されていない、石が剥き出しの歩きにく
い地面を進み、自分の赤いコンパクトカーに近づいて行くとポケット
に入れたキーに反応して勝手にロックが解除される。運転席のドアを
開け、シートに座ろうとして、彼女は絶叫した。
「なんで!? ちょっと! いやああああ!!」
ハンドルに、虫がたかっている。
「どうして!? なんでこんなにいるの!?」
ハンドルに群がっていたのは、今日一日さんざんな思いをさせられ
たウジ虫だけではない。太った男の指ほどもある大きなイモ虫に、ア
ゲハ蝶の幼虫らしき黒い虫。数えきれない青虫、そして毛虫……。そ
れぞれが肥え太った体をくねらせながら、狭いハンドルの上を埋め尽
くすように蠢いていた。
「やだ! いやああああ!! 誰かあああああ!!」
声の限りに叫ぶ。おぞましさに肌が粟立った。つい視線を向ければ、
アゲハ蝶の幼虫に独特の模様までしっかりと見てとれる。黒い体表に、
赤い斑点。子供のころ、理科の図鑑で見かけて以来ずっと嫌いだった
アゲハ蝶の幼虫が、そのままの姿でそこにいる。
「いや! いやあああああ!!」
大きな毛虫は、動く度に体中を覆い尽くした毛が光を受けて波打つ
様子まではっきりと分かる。青虫、イモ虫は、ブニブニした肉感的な
体の感触がはっきりと分かる。気持ちが悪かった。吐き気がしそうだ。
こういった生き物は、見ているだけで嫌悪感を呼び起こす。ましてや、
ハンドルを埋め尽くす数ともなればなおさらだ。
「どうかしたの?」
声をかけてきたのは、桑田という年配の作業者だった。どうにも見
た目が好きになれないことと、彼にまとわりつく“変態”的な雰囲気
に嫌悪感を感じるせいで毛嫌いしていた男だが、今はそんなことは言
っていられなかった。
「虫……虫が……!」
「虫?」
虫、という言葉を何とか口にすると、あからさまに桑田が呆れた顔
になった。男はみんなこうだ。彼女のように、虫を見て悲鳴を上げる
女を見て、すぐに軽蔑する。
「悲鳴が聞こえたから何事かと思ったら……」
「すごい数なのよ! どうにかしてよ!!」
桑田の声にはあからさまな侮蔑が含まれていた。大量の虫を見て動
転している彼女の耳に、その声は果てしなく腹立たしいものに聞こえ
た。
「どこにいるんだ? どこにもいないよ」
「ハンドルよ! ハンドルにたかってるの! 見えるでしょ!?」
「ハンドル?」
桑田は彼女の車を覗き込む。そして何とも言えない表情を浮かべた。
「ハンドルに虫なんて一匹もいないよ」
「そんなバカな!」
「確かめてみたらいいよ。本当にいないから」
桑田に励まされるようにして、彼女は自分の車に歩み寄る。恐る恐
る中を覗き、そこに見慣れたいつものハンドルを見つけた。あれほど
たくさんいた虫は、1匹もいない。
「ほら、いないだろ?」
いない。食堂と工場内でウジ虫を見かけた時と、まったく同じだ。
自分にだけは見えているのに、他人には見えていなかった。そして、
視線を逸らしてもう一度、見ると跡形もなくいなくなっている。
「あんた、昼間にウジがどうとか騒いでたよな。アレと同じで見間違
いじゃないのかい?」
「……!」
桑田にも見られていたのだ、と知って彼女は血が沸騰するような激
しい憤怒が体中を駆け抜けていくのを感じた。自分が恥をかいた瞬間
を、こんな男にまで見られていたらしい。こんな、出世できず定年ま
で作業員で終えるような、家に帰っても酒を飲んで寝るしか能がない
ような、こんな男に……。
「見間違いじゃないわ! 確かに虫がたくさんいたんだから!」
「だって、どこにもいないじゃないか」
「私が見た時にはいたのよ!」
「だから、どこに?」
「ハンドルだってば!」
ヒステリックに叫ぶ彼女を見て、桑田は大きな溜め息を零す。それ
が、彼女の感情を逆撫でした。しかし、そんな彼女の心境には気づか
ず、桑田は言葉を続けた。
「あんたのダンナ、安倍主任だよな? 同じ職場なんだから、迎えに
来てもらって一緒に帰ったら? あんた、なんか危ないよ」
言われなくてもそうするつもりだった。けれど、桑田のような男に
敢えて言われると、屈辱が増す。
「それじゃ、お先に」
桑田は背を丸め、自分の車に向って歩いていった。ほどなくして聞
こえてくるエンジン音。待つほどもなく、彼が運転するボロボロの軽
自動車が、駐車場を出ていった。
「博文……」
虫を見た恐怖と、桑田にバカにされた屈辱に涙が浮かぶ。こんなと
ころで泣くわけにもいかず、彼女は軽く鼻をすすって携帯電話を取り
出した。
*
「だから、本当にいたのよ! ハンドルのところにイモ虫とか青虫と
か! 食堂の時だって! 仕事の時だってそうなの! でも静香さん
たちには見えてなくて! 次に見た時にはもういなかったの!」
「ふ~ん」
結局、彼女が尋常でない様子で事情を訴えだせいで、博文は残業を
放り出して帰宅の途についてくれた。しかしながら勢い込んで今日の
出来事を話す彼女とは対照的に、博文は始終あいまいな返事をしてば
かりだ。
「絶対おかしいと思わない!? どうして私だけに見えるの? そん
なことあるはずないじゃない! どう考えてもおかしいわよ!!」
帰宅ラッシュで渋滞中の国道は、それそのものが苛立ちを募らせる
に充分な要素を含んでいるのだが、それに加えて博文の反応がこんな
感じだと血圧は上昇の一途を辿り、下降する目途が一向にたたない。
「それに静香さん! あんなに私たちに世話になってるっていうのに、
みんなの前でバカにしたのよ! 信じられる!? おかげで私はいい
笑い物よ!」
思い出したらより一層、血が沸き立った。彼女は目を剥いて前方を
走っている話題の軽自動車をにらみつける。後部に飾られたぬいぐる
みを見て、ドライバーは若い女だと断定した。
(トロトロ走ってんじゃないわよ! どうせ若葉マークが外れたばか
りの子供が運転してるんでしょ!? 化粧ばかり練習してないで、人
並みに車の運転できるようになりなさいよ! まったく、どうして教
習所はこんなヘタクソに免許を取らせるのかしら!)
渋滞中にスピードが出せないのは当たり前だということは、知識で
は知っている。しかし、感情が理解を拒絶する。
「仕事中だってそうだったわ! 私には見えて他の人たちには見えな
かったの! これ、どう思う!? おまけに森田主任からネタにされ
ちゃうし! 下着集めが趣味の桑田みたいな“ヘンタイ”からもバカ
にされたのよ! どうして私がそんな扱いされなきゃならないの!?
私は主任の妻よ!? ただの正社員じゃないのよ! あなた、自分が
バカにされてるんだってこと、少しは自覚しなさいよ! そんなんだ
から、いつまでたっても部長に出世できないんじゃない!」
「……関係ないだろ?」
ひどく押し殺した声で、博文はそう言った。
「関係ないはずないじゃない! 私がバカにされるってことは、あな
たが役職としてナメられてるってことなのよ! 今は不景気だし、い
つまでもそんなんだと、いつヒラの作業員に戻されるか分かったもん
じゃないわ! もうちょっと自覚してよ! ちゃんと仕事して!」
「……だったら虫くらいで呼び出すなよ」
至極もっともな意見であるが、もとより彼女は自分の意見に反対す
る人間が許せないタイプだ。聞く耳など、最初から持ち合わせていな
い。
「それとこれとは話が別でしょ!? 私、もう二度とあの車に乗りた
くない! 想像してみなさいよ! ハンドルが見えないくらいたくさ
ん虫がいたんだから! 気持ち悪いったらないわ!」
「見間違いだろ?」
「違うって何回、言ったら分かるのよ!」
ハンドルを握る博文が、大きく溜め息をついた。赤信号に引っ掛か
り、車は停まる。自宅まで、もう少しだ。ふと、彼女の脳裏に浮かん
だことがある。
“私、呪われてるんじゃないかしら……?”
可能性はいくらでもある。彼女と同じ工場で働く女たちは、誰も彼
もが平気で他人を呪うような人間ばかりだ。今朝から続くおかしな出
来事が誰かの呪いだとしても、何の不思議もない。
「……森田主任から話は聞いたよ。仕事中にウジが出たとか言って、
何度もラインを止めたんだってな」
真剣に自分に呪いをかけた相手を思い描いていた時、博文から軽蔑
の混じった眼差しが向けられた。その言葉に、彼女は憤慨する。
「仕方ないじゃない! ウジが製品の上に乗ってるのに作業ができる
はずないでしょ!? だいたい今日、残業になったのは小柳さんが遅
いせいよ! あの子がいつまでたっても仕事を覚えないから! だか
ら残業になったんじゃない!」
「小柳さんは仕事ができる子だよ。遅刻、早退、欠勤もない。飲みこ
みも早いし、素直でいい子だ。仕事に対して熱心だし、ひとつの作業
ができるようになるペースも他の新入社員より確実に早い」
信じられなかった。夫が小柳を庇っている。その事実に、彼女は目
がくらむような嫉妬を覚えた。
「何よそれ! じゃあ私のせいだって言うの!? 私のせいで残業に
なったってあなたは言いたいの!?」
「違うのか?」
「違うに決まってるじゃない! 私は正社員で、16年もこの会社に
務めてるのよ!」
博之が何か言いかけたが、それを遮って彼女は溜めこんでいた(つ
もりの)文句を洪水のように吐きだす。
「だいたい、なんで小柳さんを見て仕事ができるって思うのよ! あ
の子のこと知らないの!? 自分が遅いせいで残業になって静香さん
と私に迷惑をかけるっていうのに、すみませんでしたの一言もないの
よ!? 不景気で会社もお金がないんだから、なるべく残業せずに定
時までに仕事を終わらせるのが正社員の役目でしょ!? だいたい、
旦那と二人で悠々自適の生活してる、ふざけた主婦と、子供がいる私
を同じにしないでほしいのよ! だいたい、あの子は家事だってしな
いし、遊んでばかりだし、19歳かそこらで結婚してるのよ! まと
もな子じゃないのは目に見えてるでしょ!? それに結婚してるって
いうのに、髪を染めたり、派手な化粧したり! ピアスを付けたり、
指輪をはめたり! 私だってお洒落がしたいわ! でも結婚してるし、
子供もいるから我慢してるんじゃない! なのに、どうして小柳さん
が仕事ができるって思うのよ! 普通は結婚したら、家族のことを思
って自分のことは我慢するのが当たり前でしょう!? この前の飲み
会の時の服装だって見たでしょうが! とても結婚している女のする
格好じゃなかったわ! 職場の若い男に色目を使ってばかりで! 仕
事なんてちっとも覚えない! それでどうしてあの子がそういう評価
になるのよ!!」
「……仕事には関係ない。客観的な事実で評価してるんだ。このまま
いけば来年あたり、班長になるかもな」
私道に入った車が、蛇行した道を進んで行く。ひどい車酔いに似た
眩暈を感じた。
「ウソ、でしょ?」
「本当だ。今年いっぱいで徳本さんが定年だろ? 代わりになる人材
を誰にしようかと話していた時、小柳さんが適任じゃないかというこ
とで話がまとまっているんだ。大沼さんという意見もあったが、大沼
さんが抜ければ別のラインが動かなくなるし。今のところ小柳さん以
外に候補はいない」
見慣れた我が家が見えた。築10年の、まだまだ新しいピンク色の
外装が、夕陽に照らされている。丁寧に整えられた庭に、コスモスの
咲く花壇、塵ひとつ落ちていない玄関。いつも通りの家なのに、どこ
か違って見える。
「そういうわけだから、伊藤部長の奥さんと喋ってばかりいないで、
お前も、もうちょっとマジメに仕事してくれ」
コンクリートで舗装された駐車場に車をバックで停め、博文はエンジ
ンを切った。
「ひどい……」
彼女を残して車から降りていく夫の背を見送り、彼女は消え入るよう
な声で呟く。
「こんなのって、ないわ……!」
堪えていた涙が、落ちた。
(あんなに一生懸命、働いてきたのに! プリンセスとビーナスを妊娠
してる時だって、ギリギリまでラインに立ってあげたのに! 産後休暇
もそこそこに仕事に復帰してあげたのに! 毎朝5時に起きて家事をし
てるのに! プリンセスとビーナスの髪だってきちんとセットして恥ず
かしくないように学校に送り出しているのに! お洒落したくても我慢
して仕事と家庭を優先させてきたのに! なのに……!)
なぜ小柳のような女が優遇されるのか、どんなに考えても理由が分か
らない。辛かった。今までの自分の苦労と努力と我慢を、すべて否定さ
れたような気分になった。
(私、不幸だわ……)
きっと世界中のどこを探しても自分より不幸な人間はいない。そう思
うと無償に泣けてきた。
(幸せに、なりたい……)
彼女は、自分よりも幸福な人間を許せない。同時に、自分が誰よりも
不幸でなければならない。そういう人間だ。