むし3
広い工場内に、昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。同時に、
彼女たちは手を止めて一斉に大きく息をついた。
「さあ、お昼だわ」
「早く行きましょう、静香さん」
「ええ!」
作業の進み具合は、この時点で200個とちょっと。彼女の感覚
からすれば、かなりのローペースだが、この分だと何とか定時まで
には終われそうだ。
「静香さん、お昼は何にした?」
「私、からあげ弁当よ」
「そうなの。じゃあ、持って行くから先に座ってて」
「いいの? いつも悪いわね」
階段を登って二階に行けば、すぐそこに食堂が見える。その一画
には作業員たちが注文した弁当が積み重ねてあり、その横には無料
で飲めるお茶とタバコの自販機がある。彼女は作業員たちの間をか
き分けるようにして進み、静香の弁当と自分の弁当を手に取る。つ
いでに、片手だけで器用に紙コップにお茶を注ぐ。この場合、自分
と静香の弁当は重ねて持っているわけだが、当然、下にあるのは自
分の弁当だ。
「お待たせ~! 取って、取って~!」
「ありがとう、あっちゃん」
静香が確保していた席に座り、彼女は弁当を広げ始める。ちなみ
に、なぜ率先して自分が弁当を取りに行くかというと、“静香の夫
は部長”で“自分の夫は主任”だからだ。役職としては、部長の方
が上である。だから当然、妻である自分たちの関係も静香の方が目
上になるのだ。そういうわけで、静香は自分のことを“あっちゃん”
と呼び、自分は静香のことを“静香さん”と呼ぶ。
「なんだか、同じ味ばかり食べてる気がするわね。新作が出ても、
ここの弁当って、中に入ってるモノほとんど同じでしょ? 組み合
わせが違うだけで」
「ホントねえ。でも自分でお弁当の用意するのは大変だし」
「あっちゃんならできるんじゃないの?」
「ムリ、ムリ! 入社した時からずっと、お昼はお弁当を注文する
ものだって感じだったから。あ、静香さん、お茶のおかわり取って
来ようか?」
「いいの? じゃあお願い」
通常業務での、こういった気配りはもちろんだが、プライベート
で遊ぶ時も同じだ。二人でどこかに買い物に出かける場合、優先す
るのは静香の意見だし、車を出すのも当然、彼女だ。家族ぐるみで
バーベキューなどする時は、食材の調達から場所の確保、肉を焼く
ことまですべて阿倍家が担当する。
また、会社の飲み会がある時などは、阿倍家の車で伊藤部長と静
香を送り迎えする。ついでに、そういった飲みの席では、目下の者
は目上の者より派手な服を着ない、というのも常識である。しかし、
だからと言って静香に向かって直接、着ていく服の色を聞くのもル
ール違反だ。あらかじめ静香と一緒に買い物に出かけ、彼女が飲み
会に着ていく服を買うところに一緒にいて、それとなくチェックす
るのが正しい方法なのである。
夫たちはどう思っているのか知らないが、こういった妻の絶え間
ない努力が、夫の出世に繋がっていく……と、彼女は本気で信じて
いる。
「あら?」
静香のためにお茶を用意し、席に戻ってきた時だった。何の変哲
もない長テーブルの上を這う、ふたつの白い物体がある。
「ちょっと、やだ!」
「どうしたの?」
緊迫した彼女の声に、静香が顔色を変えて立ち上がった。
「ウジ! ウジがいる!」
長テーブルを指しながら答えた時、静香が慌てたようにそこを飛
びのいた。周囲で弁当を食べていた者たちも、ただならぬ二人の様
子に何事かと注意を向け始める。
「どこ、どこ?」
静香も典型的な虫嫌いだ。彼女の腕にしがみつきながら、静香は
ウジの位置を確認しようと視線を彷徨わせる。
「そこよ、そこ! そこに2匹もいるじゃない!」
「え? どこ?」
「だから、ここだってば……! あら?」
静香の方に視線を向けてから改めてウジがいた場所を見ると、そ
こには、ついさっきまでいたはずのウジが消えていた。
「え? だって、ついさっきまでここにいたのに」
「いないわよ。見間違いでしょ?」
「そんなはずないってば。ちゃんと見たんだから」
念のために弁当の裏側や、小さなカバンの中、床の上なども調べ
てみるが、ウジ虫らしきものは見当たらない。
「ご飯粒をウジと間違えたんじゃないの?」
静香がそう言った時、二人の様子に注目していた作業員たちから
何とも言えない笑いが漏れた。その中には、当然のことながら小柳
と18歳グループの顔も混じっている。
“大嫌いな小柳の前で”
“自分に憧れている後輩たちの前で”
“バカにされた”
“恥をかかされた”
彼女は一気に血圧が上昇するのを感じる。
(静香さん……分かってて言ったんだわ。何よ! あんなにいつも
いつも気を使ってあげてるっていうのに!)
毎日の苦労の報酬が、こんな扱いなんて吐き気がする。
(許せない! だいたい、こんなことになったのは博文が未だに主
任から出世しないからよ! あの人が伊藤部長よりも上だったら、
私がこんな思いしなくて済むのに!)
彼女は、煮え切りかえるハラワタを何とか宥めながら元通り席に
ついて食事を再開する。天ぷらを咀嚼しても、魚を突ついても、何
の味もしなかった。
(早く博文に出世してもらわなくちゃ! いつまでもこんな扱いを
受けるなんて耐えられない!)
*
昼休みを何とも言えない悶々とした気分で終えてラインに戻れば、
そこにはすでに小柳の姿があった。真剣な表情でマニュアルを読ん
でいる姿は、彼女にしてみれば役職位にある男たちへのアピールに
しか思えない。小柳は静香と自分の存在に気付いて視線を上げた。
にっこりと笑顔で会釈してくる様子が、何だか先ほどの事件を嘲笑
っているようで、気分が悪い。
「勉強熱心ねえ」
彼女の代わりに声をかけたのは静香だった。
「そういうワケじゃ……ミシンの糸がよく絡まるんですよ」
(なに静香さんにコビ売ってんのよ、小柳のくせに! あんたみた
いな女がいくら努力したって、主任どころか班長と結婚することさ
えムリよ!)
すでに既婚者である小柳に向って、内心でそんな嫌味を呟く。て
っきりそこで話を終えるだろうと思ったのだが、意外にも静香は小
柳に向って笑顔で言葉を続けた。
「ああ、糸ねえ。ミシンが古いからよく絡まるし故障するのよねえ」
「そうなんですよ~」
「裏ワザがあってね、本格的に絡まったら保全チーム(修理班)を
呼ばないといけないけど、ちょっと絡まっただけだったらこうして
ね……」
静香は小柳の前で実演を始める。
「こうやって……」
「ここをこうして、こうすればいいのよ!」
静香の言葉を遮り、彼女は勢い込んでそう説明した。たとえ相手
が小柳でも、未熟な人間に何かを教えることは得意だし、好きだ。
静香よりも自分の方がうまく相手に説明できるし、何より後輩に仕
事を教えている姿を曝すことは、自分だけでなく夫の博文の出世に
も繋がる。
「そうそう、そうなのよ」
「へえ~」
彼女が割り込んで説明したことに、静香は特に気にした様子を見
せなかったが、小柳は曖昧な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。参考になりました」
それでも、小柳は軽く頭を下げてみせる。しかし。
“阿倍さんって、何でも知ってるんですね”
“さすが勤続16年ってカンジします”
“安倍さんと同じラインで頼もしいですよ”
そういった言葉は、返ってこなかった。
(せっかく教えてあげたのに!)
彼女は再び、内心に苛立ちを感じた。