むし2
彼女が務める会社は、車のシートを作って大手自動車メーカーに納
品している。俗に言うところの下請け会社だ。
「間にあったわね」
指定の駐車場に車を停めて、工場に駆け込んだ時、毎朝の日課であ
るラジオ体操の音楽が鳴っていた。同じ制服を着た、さまざまな年齢
の男女が、それぞれ思い思いの場所で音楽に合わせて体を動かしてい
る。何食わぬ顔で、彼女は壁際に置いてある出勤表に名前を記入し、
傍に置いてある昼食の注文用紙に希望の弁当を書き込んだ。ちなみに
弁当代は給料から天引きされる。それがイヤなら自分で弁当を作って
くればいい。
「おはよう、あっちゃん」
「おはよう、静香さん」
大量のミシンが並ぶ工場内を自分の持ち場に向けて歩いていると、
聞き慣れた声がかけられた。顔を見なくても分かる。声をかけてきた
のは伊藤静香だ。年齢は彼女と同じ34歳で、小学校2年生になる女
の子の母親でもある。入社した時期が同じで、同年齢の子供を持ち、
同じ会社に勤める夫を持つ。価値観も同じだから、静香とはプライベ
ートでもよく会っている。
「今日も滑り込みセーフね、あっちゃん」
「そうなのよ~。子供がいるから朝の準備に手間取っちゃって」
ゴミのチェックをしていたことは敢えて言わず、とりあえず子供
のことを持ち出した。理由はともあれ、子供がいることを強調して
おけば、角が立たない。それに、静香とは家族ぐるみの付き合いで
ある。彼女から静香へ、姫子の「お下がり」を回し、逆に静香の一
人娘である心愛から次女の愛美へ、姫子のお下がりを含
む古着を回してもらうこともよくある。無論、無二の親友とはいえ、
大事な娘に古着を着せるようなことはしない。けれどそこは「付き
合い」というやつだ。
「あ、そうだ! ちょっと、静香さん! 聞いてよ」
「どうしたの?」
「今朝、夕飯の片づけをしてたら、キッチンにウジが出たのよ!」
「ウジ!?」
音楽に合わせて適当に体を動かしながら、彼女は今朝の出来事を逐
一、静香に語って聞かせた。
「ウジって、ハエの幼虫でしょ? なんであっちゃんの家にそんなも
のが出るの? あんなに綺麗にしてるのにねえ」
静香の言葉に、内心で満足を覚えながらも、表情だけはこの上なく
顰めて見せる。
「気持ち悪いったらないんだから! ウジとか青虫とか、ゴキブリよ
りキラいなのよ、私!」
「分かる、分かる! あの見た目が気持ち悪いのよねえ!」
「そうなのよ!」
ラジオ体操の音楽が終われば、全体朝礼が始められる。彼女と静香
は雑談しながら、ミシンと在庫の間に作られたスペースに足を向けた。
「ええ……おはようございます。今日は不良の報告が3件ほどありま
す。まずは……」
マイクを手に気のない声で話し始めたのは、伊藤部長。静香の夫で
ある。その横には役職順に、鈴木工場長、小林部長、安田部長、佐藤
事務長、原口主任、森田主任、安倍主任と並ぶ。最後の安倍主任は、
もちろん彼女の夫だ。ちなみに、安倍という苗字だから、彼女は静香
たちから「あっちゃん」と呼ばれる。
「先日、メーカーからですね、ウチの工場で作った……」
彼女の隣で固まっているのは、上原しのぶのグループである。今年、
50歳を超えるはずなのに、上原しのぶは年甲斐もなく髪を三つ編み
にして肩から垂らしている。化粧もきっちりしていて、いったい誰に
“女”をアピールしているのかと聞きたくなる。周囲にいるオバサン
たちも、似たりよったりの女ばかり。ちなみにしのぶは、東北地方の
出身だと聞く。そこで結婚に失敗し、子供を連れて遠く離れたこの地
に引っ越してきたらしい。しかしながら、上原しのぶは若い男性社員
を始め、様々な年齢層にやたら人気があった。その理由は、彼女には
分からない。
(あんな顔して、あの性格じゃ、再婚はムリね)
続いて目を向けたのは、今年、入社してきたばかりの18歳グルー
プである。ほとんどの少女たちは彼女のことを「阿倍先輩」「阿倍さ
ん」と呼んで慕ってくれる。それぞれ思い思いにセットした明るい色
の髪型で、枯れたオジサンばかりの職場にもきちんと化粧をして出勤
する。彼女たちと話をしていると“流行のアイテム”情報が手に入る。
それは二人の娘たちの髪を結ってあげる時などにも非常に役立つし、
可愛い装いをした女の子たちを見るのも好きだ。だから問題はないの
だが……。
(小柳のヤツ、また詩織ちゃんたちのグループに混じって! 自分の
顔を見なさいよ、鏡で! いくら詩織ちゃんたちと仲良くしたからっ
て、可愛くなんかなれないんだから!)
18歳グループの中にただ一人、19歳の少女が混じって伊藤部長
の話を聞いていた。小柳由香里だ。かのリーマンショックの影響で、
国内の自動車会社とその下請け会社を不景気の波が襲った時、この工
場にいた派遣社員もほとんど姿を消した。しかし、小柳由香里だけは
残され正社員として登用されたのだ。仕事ができるわけでもなければ、
見た目が可愛いわけでもない。性格も悪い。なぜそんな小柳由香里が
特別扱いされなければならないのか、彼女としては腹に据えかねる出
来事だ。
(何かしたに決まってるわ。工場長に色目を使ったとか、金を渡した
とか。後ろ暗いこと何もしないで、どうしてあんなヤツが正社員にな
れるのよ!)
ついでに小柳由香里は19歳ですでに既婚者である。夫は2歳年上
で、大手銀行に務めているイケメンと聞いた。彼女が結婚したのは2
2歳の時。今まではこの工場内で一番早く結婚したのは自分だった。
それが一種のステータスだったのに、小柳が来てから自分は“二番”
になった。
(夫が銀行員? イケメン!? ふざけんじゃないわよ! なんであ
んたみたいな女がそんな男と結婚できるのよ! 世の中、間違ってる
わ! 信じられない! 私は毎朝、5時に起きて家族のために朝ごは
んを用意して、掃除して、洗濯して、プリンセスとビーナスの髪をセ
ットして、その上で出勤してきてるっていうのに! 家事はしない、
夫に任せきり、やりたい放題のあんなヤツが……!)
ちなみに、小柳は同僚の質問に対して“家事は夫と分担でしている”
と答えているのだが、彼女にしてみればそれは“手抜き”以外のなに
ものでもない。
(休日には二人でデート? 連休には旅行? 何よ、ブサイクのくせ
に! 調子に乗って!)
これまた同僚の質問に対して小柳は“子供ができたら自分の時間が
ないと聞くので、今のうちに二人の時間を楽しみたい”と答えている
のだが、彼女にしてみれば“ノロケ”にしか聞こえない。
(ブサイクのくせに……!!)
小柳のことを考えていると、苛立ちが募る。更に悪いことに、小柳
と彼女は同じラインで働いている。顔を見ているだけで腹が立って仕
方なかったが、夫にどれだけ訴えても小柳を違うラインに回してくれ
ることはなかった。
「それでは、今日も一日、ケガをしないように……」
就業のチャイムが鳴った。伊藤部長はキリのいいところで話を切り
上げ、固まっていた作業者たちはそれぞれのラインへ戻って行った。
「さあ、やるか~!」
仕事はいわゆる流れ作業である。最初の工程に小柳。次に彼女。最
後に静香がいる。3人で共同してひとつのシートを完成させるのだ。
隣にいる小柳に向って、彼女は敢えて明るい声でそう言った。
「阿倍さんって、元気ですよね」
最初の製品を手に取りながら、小柳が感心したように呟く。本日の
ノルマは若干、少なめ。よほどのことが無ければ、定時で終われる数
字だ。
「そりゃあ、そうよ! だって朝の5時から起きてるんだもの!」
「5時? 何してるんですか?」
「いろいろよ。仕事が終わって帰ったら、もう疲れてるでしょ? だ
から、夕飯の片づけとか掃除とかは朝やることにしてるの。もう、夜
はテーブルの上も何もかもメチャクチャよ!」
「へえ~そうなんですか~」
小柳は気のない返事をした。どうやら小柳の全神経はシートに向い
ているようで、彼女の話を聞くつもりはないらしい。
“阿倍さんって、すごいんですね”
“私なんて家事ほとんどできないんですよ”
“見習いたいです”
“旦那さんと子供さんが羨ましい”
目の前の仕事に集中している小柳からは、そういった答えが返って来
ない。それが、腹立たしい。
(こっちから話しかけてやってるっていうのに!)
内心で舌打ちしながら、彼女は渡された製品に自分の過程を施し、次
の過程を待っている静香に手渡した。勤続16年のキャリアは伊達じゃ
ない。仕事はできると自負している。実際、この会社に入ってきて一年
も経っていない小柳に比べると、ひとつひとつの仕事が格段に速い。
(仕事できないくせに……)
工場には合計7つのラインがあり、それぞれ違う自動車メーカーに製
品を納入している。当然、ラインが違えば作業工程も違う。小柳がこの
ラインに入ってきて、まだ3日だ。しかしながら、彼女は自分のペース
に付いて来れない小柳が許せない。
(ハケンとは違うのよ、ハケンとは! 周囲が甘やかすから、いつまで
経っても仕事ができないのに、調子に乗るのよ!)
正社員と派遣社員は別モノなのだ。いつまでも派遣社員気どりで甘え
てもらっていては、周りにいる自分たちが迷惑する。
(もっと早くしなさいよ、もう!)
たどたどしい手つきでミシンを動かす小柳の手元をそれとなく睨んで
いた時、右隣にいる静香が顔を寄せてきた。
「ねえ、あっちゃん。聞いてよ」
「なに、静香さん」
最初の工程にいる小柳が遅いので、後ろの静香たちもヒマになってし
まったらしい。
「上原さんと原口主任が二人で飲んでたらしいわよ」
「うそお!?」
原口主任は46歳で、もちろん既婚者だ。専業主婦の妻との間に、地
元の進学校に通う18歳の長男、公立の工業高校に通う16歳の次男、
中学校1年生の長女がいる。彼自身は中越の出身だが、こちらの大学に
進学した。そして卒業後、この会社に就職し、喫茶店で働いていたある
女性に一目ボレして猛アタックし、ついにその心を射止めた。式場はホ
テルで、婚約指輪には給料2か月分のダイヤモンドを用意。長男の妊娠
が発覚したのは結婚して半年後のこと。出産した病院は地元の赤十字。
逆子で32時間に及ぶ難産だったが、母子ともに無事退院……というこ
とまで知っている。そんな原口主任が、あの上原しのぶと二人で飲むと
は、浮気としか考えられない。
「原口主任、何考えてるの? あの人、奥さんも子供もいるじゃない!
何が悲しくて上原さんなのよ!」
「でも、ほら、新入社員の歓迎会の時に、上原さんってば、ずいぶん原
口主任に絡んでたじゃない?」
「そう言えばそうだったわね。原口主任、奥さんとご無沙汰なのかしら」
「きっとそうね」
なるほど、と彼女は納得する。妻に相手をしてもらえないから、鬱憤
が溜まって手近なところで発散しようとしたわけだ。それにしても、な
ぜ上原なのか。実際に原口主任に言い寄られても困るが、上原のような
女が“女性”として見られているのに、自分はそういう扱いをされない
ことが、悔しいとも思う。
「言われてみれば、最近、休憩時間になったら上原さん、一人でトイレ
に籠もることが多くない? 今までは福山さんたちと話してたのに」
「そう言えば、そうね」
彼女の指摘に、ふいに小柳が顔を上げた。
「阿倍さん、よく見てますね」
小柳の白い顔に、何とも言えない苦笑いが刻まれている。何だか自分
が見下された気分になった。しかし、ここは表情に出すべきではない。
仮にも“主任の妻”である“正社員”の自分が、“ハケン上がりの子供”
を本気で相手にしてはならないのだ。
「まあね。でも向こうだって私たちのこと、よく見てるのよ」
「そうなんですか~」
女が多い職場によくあることだが、作業員たちは常に話題を求めて他
人の行動を監視している。ちょっとでも目につくことがあれば、たいて
い、その日のうちには誇張した内容が職場中に広がっている。そんなも
のだ。