むし10
許せなかった。
自分を幸せにしてくれなかった博文が。
自分より幸せな小柳が。
自分よりも女として生きている上原が。
自分よりも上にいる静香が。
自分よりも若い少女たちが。
自分には振り向きもしない若い男たちが。
自分を見下す男たちが。
自分を笑い物にする女たちが。
自分を認めない役職たちが。
許せない。
博文は彼女の“愛情”を「無視」する。
娘たちは彼女の“献身”を「無視」する。
小柳は彼女の“プライド”を「無視」する。
上原は彼女の“顕示欲”を「無視」する。
静香は彼女の“努力”を「無視」する。
若い少女たちは彼女の“苦労”を「無視」する。
若い男たちは彼女の“女”を「無視」する。
作業員たちは彼女の“貢献”を「無視」する。
役職たちは彼女の“実力”を「無視」する。
誰もが彼女を「無視」する。
(だから、みんな……死ねばいいんだ……!!)
*
その時、工場内で安陪を見ていた作業員たちは、安倍の体が「崩壊」
する様を目撃した。
「きゃあああああああ!!」
「なんなんだ!?」
「どうなってんだよ!!」
「おい、警察を……!」
「救急車……!!」
作業員たちから、叫び声が迸る。
「虫が……!!」
彼らがそれまで「安倍」と思っていたはずの女の顔から、ボロボロと
音を立てながら巨大なイモ虫が次から次へと床に落ちる。虚ろに開かれ
た口から洪水のように青虫が溢れ出て、眼球からは止めどなくウジ虫が
零れ出る。鼻の穴、耳の穴、制服の袖や襟からも、ありとあらゆる虫が
這い出し、傍にいた森田主任を一瞬で覆い尽くした。
「いやあああああ!!」
「主任ー!!」
「誰か!! 誰か助けてよ!!」
虫に覆われた森田主任の体が床に転げ、のた打ち回る。苦悶の声を上
げながら虫に満ちた床を二転、三転し、やがて動かなくなってしまった。
「ちょっと! 誰か!! 誰か、取ってよ!!」
「気持ち悪い!! 気持ち悪い!!」
「いやああああ!! 虫が入った!!」
阿倍の体から湧き出る虫たちが、その場にいた作業員たちに次々に襲
いかかる。全身を虫にたかられ、森田主任と同じように呼吸器官を塞が
れて上原しのぶは窒息死した。また、伊藤部長は耳から大量のウジが脳
内に侵入し、その場で痙攣しながら死んでいった。
「外へ出ろー!!」
「逃げろー!!」
100人近い作業員たちが一斉に小さな非常口を目指して押し寄せる。
静かだった工場内は、今や恐慌状態に包まれ、誰もが我先に逃げようと
目の色を変えた。
「痛い! 止めて!!」
「早くしろ!! 早く行けー!!」
「きゃああああ!!」
「止めて! 押さないでよ!!」
交差する脚につまづき、年配の作業員が転倒する。桑田、だった。
しかし、その場にいた誰もがそれに気付かず、出口へ向けて殺到して
いた。起きあがろうとした桑田の背中を、18歳グループの少女たち
が次々に踏んでいく。数人の体重が一気に圧し掛かり、桑田は圧死し
た。
「いやああああ!! 誰か助けて!! 助けてー!!」
真っ白なウジの集団に襲いかかられているのは、静香である。彼女
は全身のありとあらゆる場所をウジにたかられ、ついには口や鼻をも
塞がれる。誰も助けようとしない。助けたくても、助けられない。助
けようとすれば、自分が虫にたかられることが分かっているからだ。
「うわああああ!!」
非常口付近にいた若い男性社員が数人、悲鳴を上げながら体を掻き
毟る。服の中に入った虫を取ろうと無我夢中で制服を脱ぎすてた。そ
の体には、無数の毛虫がたかっている。彼らの皮膚は真っ赤に腫れ上
がり、そのうちの何人かがショック症状を呈してその場に倒れる。そ
の体の上を、多人数が踏みつけていった。
「もう、止せ!! もう止めろー!!」
未だその体から大量の虫を吹き出している妻だった女に向って叫ぶ
のは、安倍主任、安倍博文である。
「もう止せ!! 頼むから!!」
彼の体にも、大量の虫がたかっている。それでも、博文は叫ぶこと
を止めなかった。空気を吸い込もうと開いた口、塞ぐことのできない
鼻から虫が次々に入り込んでくる。咽かえり、彼はその場で嘔吐した。
消化中の胃の内容物とともに、飲み込んでしまったらしいウジや青虫
が口から溢れ出てくる。激しく咳きこみ、彼は思わず虫だらけの床に
手をついた。潰れた虫の体液が触れる。その手を伝って、虫たちが彼
の体を這いあがり始めた。
「おい……!!」
払っても払っても、虫たちは彼の体から離れない。頭の中がむず痒
いのは、大量の虫が頭皮の上を這いまわっているせいだ。博文は鼻と
口から空気を一気に吐き出し、潜り込んで来ようとする虫を一時的に
吹き飛ばした。
「おい! 聞こえてないのか!」
妻に向って叫ぶが、もちろん答えなど返ってこない。意を決して、
博文は虫が湧きだす妻に向って駆け出した。
「おい! もう止めてくれ!!」
太く、長い、巨大な毛虫に躊躇しながらも、博文は彼女の肩を掴ん
で揺さぶる。顔面にたかっていたイモ虫が数匹、ボロリと落下した。
「……!!」
イモ虫が剥がれた彼女の目を見て、博文は絶句した。
「そんな……まさか……!」
つい先ほどまで確かに眼球があったはずの場所には、大きな空洞が
ある。毎日のように手入れしていたはずの肌も、腐ったようなどす黒
い色に変化し、虫に食い破られ、かつての面影は全く残っていなかっ
た。考えるまでもない。妻だった女は、すでに死者なのだ。
「うわ……!」
初めて見た人間の死体に、それが妻であったことを忘れ、博文は思
わず後ずさりしていた。しかし、足元に纏わりつく巨大なイモ虫が、
それを止めた。
「くそ!!」
イモ虫たちは、まるで博文を妻から離さないように、堅くしがみつ
いている。踏んでも、蹴っても、一匹が死ねば別の一匹が纏わりつい
て、彼がその場を逃げることを許そうとしなかった。そして、その中
の一匹が、博文の体を這い上り始めた。
「っ!!」
ゆっくりと体を這い上ったイモ虫が、博文の首にその巨体を巻き付
ける。博文には、虫たちがまるで妻の化身のように思えた。
「う!!」
首に巻き付くイモ虫の数が徐々に増えていく。その間に、足元から
登って来たウジ虫や青虫たちが口や鼻に入り込んだ。白目を剥く直前、
博文は死体であるはずの妻が、微かに笑ったのを見た気がした……。
薄れていく意識の中で、博文は妻と過ごした12年の結婚生活のこ
とを思い出していた。
(どこで、間違ったんだ……?)
かつての妻は明るい性格で、それでいて夫を立てる理想的な女だっ
たと思う。その性格に惚れこんで、結婚した。それなのに、いつの間
にか妻はあんな女になってしまった。
(ちゃんと話を聞いてやらなかったからか……? それともお前のワ
ガママをすべて聞いてやらなかったからか……?)
今となっても、博文には理由が分からない。自分は自分なりに、夫
としての務めを果たしてきたつもりだ。同じ会社で働く以上、聞いて
やれるワガママと、そうでないものもあった。それに、家庭のことに
は口を出すなと本人から言われたから、そうしただけだ。
(なんでなんだよ……?)
結局、理由には思い至らないまま、博文は意識を完全に閉ざしてし
まった。
彼女は、自分の思い通りにならない世の中を憎んだ。自分が幸せで
ないのは、周囲にいる人間のせいであり、社会のせいだと思い込んで
いた。
そして最後まで、幸せである人間は、自らが幸せになろうとした結
果であることを知らなかった。
彼女は「呪われて」いたのではない。
彼女は「呪って」いたのだ。
その代償に、自らの体を虫に食われただけの話だ。
そして望み通り、最も憎むべき人間を道連れに、自らも人生の幕を
閉じていった……。
終劇
お疲れ様でした。ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。無事に完結いたしました。
ここで、ちょっとホラーなことを書かせていただきます。
この話に登場する「彼女」ですが、実在の人物をモデルにしています。
もちろん「安部」さんではありません!!
世の中には「彼女」以上に衝撃的な方がいらっしゃるのかもしれません。ただ、ハンマーヘッドが以前、勤務先で出会ったオバサ……いえ、先輩社員は、これまで出会って話をしてきたどんな女性よりも、まさしく「衝撃的」でした。ここは敢えて、衝撃の「人間」ではなく「女性」と限定させていただきます。
これはネタにするしかない! と意気込んだのですが……なにぶん、普通の人には想像もつかないようなシナプスの繋がり方をする女性ですので……心情の描写には本当に苦労させられました。
何を考えていたのか、未だに分かりません(泣)
なにはともあれ、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。よろしければ、感想などお聞かせください。こんな衝撃のオバサンを知っている! なんて意見もぜひ(笑)
それでは、失礼いたします。