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むし  作者: 高杉 透
1/10

むし1

                 むし




 午前5時、シンクに向って洗い物をしていた手が止まる。


「イヤだわ……」


 鏡のように磨きこまれた銀色のステンレスの表面を、這うようにして


移動していたのは一匹のウジ虫だった。


「どうして? ちゃんと掃除してるのに」


 洗い物をする手を止め、顔を歪ませた彼女は少し離れた位置からウジ


虫を眺める。白い小さな体を曲げたり、伸ばしたりしてシンクを移動し


ていくウジ虫。目的地は、どうやら彼女が洗ったばかりの三角コーナー


であるらしい。


「気持ち悪いわね。どうしよう……」


 実は彼女、典型的な虫嫌いだ。カブトムシやクワガタなど、小学生の


男子に人気がある虫は、見る分には何とか大丈夫だ。しかし、ウジ虫や


イモ虫、青虫や毛虫といったものは、そこに存在していると思っただけ


で体中が痒くなるような錯覚に襲われる。


「排水溝に流そうかしら」


 平日の朝。時計の針は刻一刻と家族の起床時間に迫っていく。いつま


でもウジ虫を眺めている暇はない。


「早く、早く、早く行きなさいよ」


 水をかければ流せる位置に、少しでも早くウジ虫が辿り着いてくれる


ように、彼女はひたすらエールを送る。


「もう、早くしてよ」


 洗い物はまだ終わっていない。6時までには洗濯物を干し、家族の朝


食も準備しなければならない。ついでに、今日は燃えるゴミの日だ。い


つもより早く出勤しなければ遅刻してしまう。


「ああ、もう!」


 彼女の願いは届かず、ウジ虫はシンクを半分ほど進んだところで歩み


を止めた。どうやら疲れてしまったらしい。しばらく待ってみたが、進


み出す気配はなかった。てっきり死んだのかと期待したが、近づいて確


認すると頭の先の方だけチョロチョロと動いていた。まるで匂いを嗅い


でいるかのように、小刻みに上下を繰り返す小さな頭。犬や猫のように


目も鼻も無ければ口もない。愛らしさなど微塵も感じないその顔は、見


ているだけで嫌悪感を誘った。


「時間が無いのに……」


 時計とシンクを交互に見やる時間が長くなる。ウジ虫が止まっている


分だけ、時計の針は進んで行く。意を決して、彼女はダイニング・テー


ブルの上に常備してあるティッシュを手に取った。薄い紙を10枚ほど


箱から引き出し、万が一にも潰れたウジ虫が自分の手に触れることがな


いように、充分な厚みを持たせる。その上で、彼女はシンクに歩み寄っ


た。


「なんでウチにウジ虫なんて出るのよ」


 小さく毒づいて、彼女は素早くウジ虫をティッシュに包み、指先で思


い切り潰した。そのまま、ティッシュを指定のゴミ袋の中に放り投げる。


蛇口をひねって水を出し、食器洗い洗剤を手にブチ撒けた。手の平から


指の間、手の甲、爪の間、手首まで念入りに洗う。それでも気が済まず、


彼女はインフルエンザ対策のために買っておいた揮発性の消毒液を、ま


んべんなく手にすり込んだ。


「もう、最悪の一日だわ」


 時計を見れば、予定時刻よりも15分ほど遅れている。この調子では


洗濯物を干す時間は無さそうだ。ウジ虫のおかげで、予定が狂った。そ


う思うと、腹が立つ。苛立ちを汚れた皿にぶつけるように、彼女は音高


く洗い物を再開した。


                  *


 今朝のメニューは、北海道産ポタージュスープに茨城県産の有機野菜


をたっぷり使ったサラダ、イギリス製のバターを塗ったフランスパンに、


カスピ海のヨーグルト。夫と自分にはドリップしたコーヒーをブラック


で、二人の子供には搾りたてのオレンジジュースを用意する。


 ホコリひとつ落ちていないテーブルに人数分のランチョンマットを引


き、フォーク、ナイフ、スプーンを真っ直ぐに並べる。テーブルの中央


には真っ赤なバラを飾り、夫の席には新聞を用意する。BGMにクラシ


ックをかけ、これで準備万端である。


「早く起きて来なさいよ! 冷めるじゃない!」


 午前6時、ようやくダイニングへ顔を出した夫へ向って、彼女はまず


そう言った。


「こっちは朝5時から起きて準備してるのよ!? 冷めちゃったらおい


しくなくなるじゃないの! 子供じゃあるまいし! どうしてあなたは


いつもいつも寝坊してばかりなの!? 少しは私の苦労も考えてよ! 


私は仕事してるのよ!? 専業主婦じゃないのよ!? おまけに子供だ


ってまだ小さいんだから!! いいオトナでしょ!? 自分で自分のこ


とくらいしてよ!!」


 うんざりした顔で、夫は言葉だけの謝罪を口にする。そして、自分の


席へ座るなりコーヒーに手を伸ばした。その姿を見て、彼女は再び苛立


ちが募るのを感じる。


「ちょっと! 朝食は家族全員でって何度も言ってるじゃない! 子供


を起こすまで待ちなさいよ!」


「……冷めたらマズイって言ったじゃないか」


「それはあなたが早く起きて来ないからでしょ!?」


 捲し立てる彼女に、夫は小さく溜め息を零してコーヒーをテーブル


に戻した。気まずい雰囲気に耐えられなかったのか、彼は黙って新聞


を広げる。


「ホントにもう!」


 吐き捨てるように言って、彼女は廊下に続くドアのノブに手をかけ


た。


「サイテー!」


 盛大な足音を立てて階段を登りながら、彼女は吐き捨てるように呟


いた。


「もう!! いいかげんにしてほしいわ!!」


 夫の博文とは結婚10年目になる。今年34歳になる彼女より5歳


ほど年上の彼は、同じ会社に勤める上司だ。もともと社内恋愛を嫌う


風潮がある会社だったが、ヒミツの逢瀬を重ねた挙句に見事ゴールイ


ンした。18歳で入社したばかり、初々しさと若さに溢れる22歳の


夏だった。


(結婚する前は楽しかったのに……)


 ウワサ好きの女たちに話が伝わらないように、車を何時間も飛ばし


てデートしたり、当時はケータイが普及していなかった時代なので、


すれ違いざまにメモを交換したり、互いの家に電話をするのはもちろ


ん、休憩時間中にこっそり会ったり、両親に結婚を反対されたり……


とまるで恋愛ドラマや映画のようなシチュエーションに酔い、時に涙


など流したりしながらも何とか結婚に漕ぎつけた。


(あのころに戻りたいわ……)


 しかしながら、あれほど燃え上がっていた上司との禁断の愛も、い


ざ結婚して四六時中、一緒にいるのが当たり前になると、液体窒素で


もかけられたかのように急速に冷めていった。今では、博文のどこに


魅力を感じていたのかさえ分からない。


(もっとイイ人がいたかもしれないのに……)


 最近、結婚を早まったかもしれないと思うことが多々ある。若さゆ


え、とでも言うのだろうか。上司との禁じられた愛に溺れ、(本人な


りに)必死で荒波を泳ぎ切り、ようやく岸に辿り着いたというのに、


その先に待っていたのは、平凡な日常でしかなかった。何だか、騙さ


れたような気分である。


「朝よ! 起きなさい!!」


 階段を上がってすぐ右手にあるドアの向こうは子供部屋だ。勢いよ


くドアを開いて、そう言うと、女の子らしくピンクの装飾が施された


ベッドの中から長女の“姫子”がノソリと起きあがるのが見えた。


「早くしなさい、プリンセス! ごはんが冷めるわよ!」


「まだ眠い……」


 夢と現実の狭間を行き来している娘の顔を見て、彼女は自分の中で


苛立ちが募るのを感じた。


「だから早く寝なさいって言ったじゃないの! ママの言うことを聞


かないで遅くまでテレビを観てるからでしょう!? もう大きいんだ


から、自分で起きて来なさい! 桜庭さん家の晴香ちゃんなんて、ま


だ幼稚園なのにちゃんと自分で目覚ましをかけて、お洋服も着替えて


降りてくるって奥さんが自慢げに言ってたのよ!? プリンセスはも


う3年生でしょ!? いつまでもいつまでもママに起こしてもらえな


いと学校に行けないなんて、恥ずかしいと思いなさい! そんなんだ


から、一学期の保護者懇談でプリンセスちゃんは集中力がないって担


任の先生に言われるんじゃないの!?」


 そこまで言って、ようやく姫子はベッドから這い出した。緩慢とし


た動作でパジャマを脱ぎ、クローゼットの中にかけてある制服に袖を


通し始める。もう一言、二言、お説教が必要かとも思ったが、今日は


平日の朝。限られた時間をこれ以上ムダにするわけにはいかない。そ


れに、未だに起きて来ない次女“愛美”のこともある。


「プリンセス、ビーナスを起こして来なさいよ」


「はーい……」


                  *


 ようやく家族全員がダイニングに揃った時、時計はすでに6時30


分を告げていた。四人ですっかり冷めてしまった朝食を取り、姫子と


愛美の髪をセットしてから、彼女は自分自身の身支度に取りかかる。


パジャマを脱いで洗濯籠に入れ、色気も素気もない会社の制服に袖を


通して、洗いざらしの髪にクシを通し、後ろで束ねる。化粧水と乳液


を付ければ完了だ。


 化粧はしない。客商売ではないから会社側から化粧しろと言われる


ことはないし、そんな時間はない。ついでに、あまり色気づいた様子


を見せれば職場の同僚たちから男を狙っているとウワサされるのがオ


チだ。夫と子供を持つ身で、そんなウワサが纏わりつくのは耐えられ


ない。それに……。


(化粧なんてしなくても、私は充分キレイだわ)


 鏡に映った自分に向って微笑み、彼女は洗面所を出た。 


「それじゃあ、行ってくるわね!」


 ノロノロと身支度をしている夫と娘に向ってそう言って、彼女はあ


らかじめ玄関先に用意しておいた燃えるゴミを持って家を出る。庭に


停めてある赤いコンパクトカーに乗り込み、後部座席にゴミを乗せて


エンジンをかけた。


                  *


「あ! いるいる!」


 家の近所にあるゴミ置き場にやって来た彼女は、フロントガラスの


向こうに目的の人物を発見して無意識に目を輝かせた。ほっそりした


ジーンズに、ボーダーのTシャツ。薄手のジャケットを羽織って、燃


えるゴミを出している女は、相沢美奈子。


「おはようございます」


 相手も気付いたらしい。車からゴミを持って降りてきた彼女に向っ


て、明るい声がかけられた。


「おはよう。今日は秋晴れね」


 当たり障りのないことを口にすれば、美奈子はにっこりと笑って空


を見上げる。


「そうですね。でも朝と夜はすっかり寒くなってしまって」


「ホントね。まだ暖房は出すには早いしねえ、この季節はいろいろ迷


うのよね」


「そうそう、迷うんですよね。子供が小さいから、部屋の温度とかす


ごく気を使っちゃって」


「そりゃあ気を付けないと~。小さな子供はホントに、すぐ熱を出す


んだから! ウチの子も何度も熱を出したのよ」


「そうなんですか」


「ええ、そうよ! それで慌てて病院に連れて行ったら、医者にはす


ごくイヤな顔されたんだから!」


「まあ、本当に?」


「そうそう!」


 その時どんな態度を取られて、どれだけ傷ついたのか語ろうとした


のも束の間、美奈子はわざとらしく腕時計に視線を落とした。


「あ! いけない! もうこんな時間! すみません、子供を保育園


に連れていかないといけないもので」


「まあ、それはいけないわね! じゃあ、また」


「はい、また今度」


 美奈子はペコリと頭を下げて、自分の車に乗り込んで行った。彼女


は指定の場所にゴミを置きながら、それとなく、遠ざかって行く軽自


動車の様子を窺う。


「もういいわね」


 美奈子が運転する車が完全に視界から消えたのを確認し、彼女は相


沢家のゴミ袋に手をかけた。


「ちゃんと分別してるんでしょうね」


 小さく呟きながら、彼女は他人が出したゴミ袋の中身を漁る。使用


済みの紙おむつ、丸めたティッシュペーパー、どこかの店からの勧誘


ハガキに、使い古したゴム製のサンダル、新聞紙に包まれた生ゴミ、


携帯電話や公共料金の領収書などが、乱雑に詰め込まれていた。この


地域で規定されている「燃えるゴミ」に違反しているものは何もない。


「ちゃんとしてるのね」


 しかし、それはそれでおもしろくない。彼女は携帯電話などの領収


書を手に取って中身を確かめる。


「あら。旦那さんより奥さんの方が使用料金が多いわ。あの奥さん、


いったい誰と話をしてるのかしら。まあ、水道代が2万円も! いっ


たい何に使えばそんなに水道代がかかるの? ウチじゃあ考えられな


いわ」


 続いて、彼女は乳幼児向けのオモチャの箱に目を止めた。


「まあ、こんなどこにでもある安物のオモチャを買うなんて! 子供


が可哀そうだわ。ウチのプリンセスとビーナスには、3000円以下


のオモチャを買ってあげたことなんてないのに」


 子供には最上のものを与えるように、彼女は常日頃から心がけてき


た。服も、お人形も、何もかもアメリカの一流メーカーが手がけたも


のばかりだ。間違っても、こんな全国チェーン店のオモチャなど買お


うと思ったことはない。おかげで自分の服や化粧品が買えず、食事も


質素にして、我慢に我慢を重ねてきた。


「まったく相沢さんったら、仕事してるくせに自分のことばかりで子


供には何もしてあげないのね。これだから最近の母親は……。どうせ


子供に離乳食を食べさせるのが面倒臭いって言って、レトルトばかり


食べさせているのよ」


 溜め息交じりに呟いて、彼女はゴミ袋の口を閉じる。時計の針は午


前7時30分を指していた。ここから会社まで車を飛ばせば30分で


着く。全体朝礼は8時から。そろそろ行かなければならない。


「私がこうやってゴミをチェックしてあげているおかげで、最近はゴ


ミの分別が進んできたわね。市の職員に、感謝してもらいたいくらい」


 とてつもなくいいことをした気分で、彼女は自分の車に乗り込んだ。

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