挿話最終話「アイズ ホワイト アウト」
そこは、白という言葉が相応しかった。
白であり、白でしかなく、白だった。
白という言葉がゲシュタルトの崩壊を呼び、白では無い色がじわりと錯覚を起こす。
そこでようやく全て終わったのだと、私は理解する。
何が?何が終わった?
1秒前までそこにあった世界の形が遠い昔のようにふわふわと形を崩していく。いや、実際はそんな世界などなかったのかもしれない。私は最初からここにいて、ここ以外の所などなかったのかもしれない。もしくは。
上も下も無い。右も左も奥も手前もない白の世界。白の闇。黒い光。世界は最初からそうだった。
ふと、遠くから声が聞こえた気がした。
わぁん、と子供の泣きじゃくる声のようだった。誰だろう、ここに私以外の人がいたのか。私はその声の元へ行こうとして、ようやく自分に足があることを思い出した。
足、というものを久しぶりに思い出し、ならば腕もあるんじゃないかな、と思った次にはもう一歩と共に腕が振られ、同時に胴体のことを思い出して、私は私の姿を思い出した。せっかくなら背はもっと高くて、お腹周りもすっきりと。と思ったところで何も変わらなくて少しだけガッカリしたのを覚えている。俗だなあ、私。
わぁん、と子供はまだ泣いている。どうしたのだろう。転んだのかな、悲しいのかな。聞くだけでこちらも悲しくなる声の元へと歩き出せば、白い世界に今更色が混じり出す。
青。
赤。
緑。
それから土の色。
世界は忘れていた色を思い出していく。いや、世界が思い出したわけではないのだと私は思い出す。思い出すたびに世界に色がつき、世界に形ができる。
白が晴れる頃私は気づいた。ここは、世界だった。ありふれていて、どこにでもあって、ここだけの世界だった。視界一つに世界の全てがある。朝日と夕焼けが溶けあって、月と夜が添えられている。鉄は海に混じり、砂の花が生きている。
その世界の中に1人の少年が蹲っている。確かにそこにいるのに姿だけが無く、わぁんわぁんと泣いている。どうしたの、と声をかけると、姿のない少年は黙って泣き腫らした瞳を目の前に向ける。
そこには、トラムがあった。
それもほとんど土と植物でできたトラムだ。
トラムのそばには草に覆われた土で作られた小さな山があり、これはトラムのホームだと私はなんとなく想像がついた。
窓は水の薄い膜でできていて、手をかざせば迎え入れるように波紋が広がり木の窓枠に反射して幾何学的な模様になる。
フレームも木でできているが、何故だろう、触れた途端そこから腐って壊れてしまいそうな危うさがある。人が触ってはいけない。何故だか私はそれを知っていた。
車輪は土。上等な陶器の様に艶やかで、非常に頑丈そうではあるがほんの少しヒビ割れてこのトラムが何度もこの世界を走ってきたものだと想像するのは容易だった。
それらを、鮮やかな葉と色とりどりの花が覆っている。
そして、ドア。
私はこのドアに見覚えがあった。
いや、それは正確ではない。このような土でも木でも水でもない素材でできたドア、私が見覚えがあるのはその取手だ。
取手の親指が触れる部分にセンサーが付いていて、赤いランプがついている。
私はそれに手を伸ばして、握ってみる。
いとも簡単にランプは緑に変わりロックが外れ、ドアはそれが当然だと言わんばかりにスライドする。
わぁん、と背後の泣き声が大きくなる。姿のない少年は立ち上がり私が手を離した取手に手を伸ばし――。
ランプは赤いままだ。ドアは開かない。
姿のない少年はようやく初めて泣き声以外の言葉を発した。
最初に、ごめんなさい。
次に、ひどいことを言ってごめんなさい。
そして、恨んでるなんて全部嘘。ボクもみんなの所へ行きたい。
その言葉がきっかけとなり、堰を切ったように次々に少年の口から言葉が溢れていく。
謝るから。
全部全部謝るから。
もう一人は嫌だ。
また会いたい。
またみんなの声が聞きたい。
お願いだよ。ボクにもこころがあるなら、そっち側に逝かせてよ。
それからしばらくドアを開こうとガタガタと揺らすがそれも叶わず、わんわん泣いては最後に、「博士」とだけ呟いてしゃがみ込んでしまった。
私は、この子を知っている気がする。
私と、"わたし"が知っている気がする。
ねえ、と私は姿のない少年に声をかける。
一緒に逝かない?
姿のない少年はようやく私に気がついたらしく、私の目をじっと見つめてくる。私はそれを了承とみなし、少年の手を握る。反対の手でドアを掴む。ドアのランプは緑に変わり、開く。
姿のない少年は恐る恐るステップに足をかけ、トラムへと乗車する。
不思議なことに、その時少しだけモーターのような音が鳴った気がしたが、姿のない少年がドアに飲み込まれるにつれて消えて無くなっていく。
ドアの向こう側へと渡った少年は、もう泣いていなかった。涙を拭い、家族に再会できた迷子のような顔で笑う。
博士、待っていてくれたんですか。
少年は私の目に見えない誰かと抱擁を交わす。
謝らないでください。貴方はボクを家族だと、忘れていたのはボク。ボクこそ。よかった。嬉しい。今度こそ。今度こそずっと共に。
また会えて、よかった。
私はそれを見て、なぜか私も救われたような気がして、ステップに足をかける。
一歩、また一歩と昇るに連れて、私は私を捨てていくのがわかった。
体が軽くなっていく。重たい思いが落ちていく。私は軽くなって、トラムに乗車する頃には地に足がついていない感覚だった。それなのに、安心感がある。心が安定している。
その時、少年が私の元へ駆け寄ってきて。
どん、と私の胸を軽く突いた。
私の体はホームへと戻され、目の前のトラムの扉が閉まっていく。
どうして?私の問いかけに少年は答える。
キミは、まだダメ。
まだってどういうこと?
キミが一緒に連れて逝くのはボクじゃない。
キミじゃないなら、誰?
もう1人、最後の1人が来る。
扉は完全に閉まる。だけど少年の声はまだ聞こえている。
最後の1人?
そう。
トラムは音もなく滑り出す。
大丈夫、トラムはまた来る。だけど最後の1人はボクと同じように1人では乗れないだろう。
最後の1人?
彼は、キミが待っててあげてくれ。
ねえ、最後の1人って、いつ来るの?
少年は優しく、それでもいたずらっぽくにっこり笑って、最後に私に告げた。
彼が来るのは、もうほんの少し後だよ。きっとずっとは待たないさ。
私は、それが誰なのか思い出せそうな気がして。
わたしは、彼の名前を思い出した。
さよなら、人類。