第5章【かつての新人類に捧ぐ】
コツ、コツ、コツ。
一歩踏み出すごとに、この施設に来てからの全てが思い浮かぶ。
さまざまな分野に特化したロボット。
そして人類の生き残り、ではなく。
人類を模して作られたクローン。
彼らはもういない。
彼らは全員破壊され、データを消され、死んだ。
いや、1人だけ生き残っている。
1人だけ、あの白いロボットだけが生き残っている。
僕が向かっている部屋、コンピュータルームに、それはいるのだろう。
「警備員」
目の前のそれが僕に気づく。
「見つけましたよ。あなたが、殺人機ですね」
目の前の白いロボット。薬物学者として僕らの目の前に現れたロボット。目の前のロボットこそが、カキを、ジオを、イドを、破壊した殺人機――。
「言ってる意味がわかりません。警備員、それにそれが正しかったとして、どうやって認めさせるのですか?」
僕は理由を求めるそれに向かって指を向ける。
「貴方が認める必要はありません。もう殺人機を探す理由など無くなってしまいましたから。ですが、これはあの子との約束なのです。ですから、聞いて、正しければ認めてください」
僕は右腕を相手に真っ直ぐに伸ばし、宣言した。
「殺人機は、貴方だ」
【解決編:ハル】
「まず大前提として、この施設には大きな仕掛けがあります。その一つが、【コンピュータルームそれ自体がエレベーターである】ということです。ですが、この施設はもう一つ仕掛けがあったんです。」
「それは【個室エリアと研究室エリアがそれぞれ回転する】という仕掛けです。」
「まるで金庫のダイヤル錠のように、内側と外側の円が回転する」
「そして、【施設が回転する】という事実こそがこの施設で起きた三つの事件を解決する最後の鍵だった」
「これから、貴方こそが殺人機であると証明します」
「まず第一の事件。カキがAVルームという密室で首を吊って死んでいた事件です。この事件はジオが犯人ということで結論が出ましたが、ジオは犯人ではなかった。AVルームの開き方、カキの殺し方は議論で出たものと同じで問題はないため省略します。問題は、【カキが首を吊っている意味】にあったのです」
「ロボットの首を吊る。そこに一体どんな意味があるのでしょうか。当然ですがロボットは首を絞めたところで影響はありません」
「僕らにショックを与えるため?いえ、僕らには心がない。つまり恐怖も感じない、切迫しない、無反応です」
「彼は自殺だと思わせるため?いえ、犯人はわざわざ自殺ではありえないメモリーカードの破壊をしており、僕らにこれは他殺だと印象付けている」
「では、他に意味があったのです」
「あの首を吊ったロボットの光景には、他に理由があった」
「その理由とは、【犯行時刻の誤認】ですね」
「犯行時刻の、誤認?何か細工をしようとして首を吊らせたところでどんな意味を持つのでしょう」
「意味はあります。しかし、全ては逆だったのです」
「犯行時刻の細工のために首を吊らせたのではありません。【犯行時刻の細工をした結果、カキは首を吊ることになった】のです」
「まず、カキの首をロープで吊ります」
「次に、カキの体を抱えて部屋から出ます」
「当然、カキは天井とロープでつながれています。その体は部屋の外へは出せない」
「だからこそ、あなたはカキの体を【ドアに挟んだ】のです」
「やがて、時間が来ると開きっぱなしのドアは開閉を繰り返し、異物を弾き出そうとします」
「その結果――ドアに挟まれていたカキの体はロープによって部屋の中へと戻っていき……」
「あの光景が完成するのです」
「言ってる意味がわかりませんね。ドアにカキを挟んだことがどうして犯行時刻の誤認になるのでしょう?」
「それが、なるのです。【施設が回転する】という仕掛けが加わることによって」
「思い出してください、あの日の監視カメラの映像を」
「あの映像は【午前1時58分】に停電が起き、1秒後に復旧。カキが個室エリアから研究室エリアへと現れる姿が目撃される。次にソロがカキとすれ違うようにカメラに入り、個室エリアへと消えていく。その後、カキは再びカメラに映り、その後はジオが帰るまで再び映ることは無かった」
「だから、最後に残っていたジオが疑われた」
「ですが、このとき【施設が回転する】という仕掛けが意味を持つのです」
「話を少し戻します。貴方はカキを殺し、天井から吊り下げ、ドアに挟む」
「この時、カキは体の半分。肩から上が廊下側に出ています。この状態で、犯人は【研究室エリアを時計回りに回転させた】」
「ドアに挟まれたカキの死体はドアごとゆっくりと移動します」
「監視カメラは個室エリア側の壁に設置されており、共に動くわけでは無く、研究室エリアの壁はギリギリ映らないため回転していることはわからない。そのため挟まれているカキの半身がフレームインします」
「僕らはロボット、死んだからと言って表情は変わりません。人類と違い、僕らは死ぬことで見た目が変化しないのです。肩の上下が無いなど多少不自然な点はありますが、監視カメラの画質の悪さから【カキが廊下を移動している】という事実だけが目につきます」
「そして、研究室エリアは一周して元の位置に戻る。ジオの研究データをクラッキングした際全てのデータを消したのは、復旧に時間をかけさせてジオにエリアが一周し終わるまで廊下に出て欲しく無かったからですね」
「これが第一の事件の真相です」
目の前の白い薬物学者の殺人機は黙っている。
「第二の事件、前日犯人として糾弾されたジオが死体となって水槽に落ちてきた事件です」
「しかし、実はこの事件に関してはイドの推理がほぼ当たっています。唯一残されている謎は全員にアリバイがある中誰がジオを水槽に落としたのか。これもまた【施設が回転する】仕掛けで説明がつけられるのです」
「犯人はあらかじめジオの死体を施設の上階へと運び込んだ。そして犯人は薬物学エリアの外側のハッチを開き、そこにジオを入れておいたのです」
「そのまま朝を迎えた僕たちはジオを探して回る中、イドによって水文学研究室に釘付けにされました。その間、他の2人は個室エリアにいましたね。だからこそジオを水槽に落とせる者は居なかった、で結論が出ました。ではここに、【施設が回転する】という前提を組み合わせるとどうなるのか」
「僕らはアームの出てこない水槽のハッチを凝視しており、自分たちがエリアごと回転していることには気づかない」
「研究室エリアは回転を続け、ハッチの穴も移動する。するとやがて、ジオの死体がある場所にハッチの方から近づいていくのです。上階、薬物学エリアのハッチと、下階、水文学研究室のハッチが重なったタイミングで、ジオの体は近づいてくるハッチに飲み込まれ、水槽に落ちてくる」
「水文学研究室のロボットアームが出てこなかったのは、そもそも研究室自体が動いており、ロボットアームがある区画からズレていたためなのです」
「これが第二の事件の真相です」
「最後に、第三の事件」
「この事件には大きな謎がいくつかありました。一つは凶器の出所。一つは廊下を曲がる弾丸。最後はそれらを行った犯人、です。」
「凶器の出所は議論にて出た通り、犯人は死体から部品を調達して即席のレールガンを作った」
「問題は、そのレールガンの弾道です。監視カメラにはレールガンの弾が映っていましたが、それは研究室の壁の中から放たれ中廊下を通り、個室エリアの廊下を曲がってコンピュータルーム前まで飛んでいき、さらにコンピュータルームへと飛んでいく。そんなありえない弾道でした」
「ですが、これが【施設が回転する】という仕掛けがあれば不思議ではありません」
「なぜなら」
「コンピュータルームの扉と中廊下、そして犯人が発射した研究室の扉が一直線上に並ぶ位置に回転させれば良いのですから」
「これが、第三の事件の真相です」
そう、全ての謎は解けた。
全ての謎の足りない鍵は【施設が回転する】仕掛け。全ての事件はこの鍵の上で成り立っていたのだ。
「さて、ではそれができたのは誰でしょうか。僕はどうでしょうか、カキの事件では停電より前に個室に戻っています。第一の事件で上階は使われていない以上、全てを行うことは不可能です」
「イドはどうでしょう。これも同じ理由で不可能です」
「マコもまた、同じ理由で不可能」
「カキは被害者であるため除外します」
「ジオはどうでしょう。たしかにカキを殺せたかもしれません。ですが次に殺されたのはジオでした」
「ソロはどうでしょう。カキを殺して、ジオを殺すことができた。ですがジオの次に殺されたのはソロでした」
「ナイに関しては別の理由、非力ゆえに不可能だと言えます。ナイにはカキに首を吊らせることも、ジオの死体を担ぎ上げることも、カキをロープから下ろし、ジオを水槽から引き上げてバラバラにすることも不可能です」
「さて、これで僕たち全員が不可能だとわかりました」
僕はそこで言葉を切る。
それまで黙って聞いていた白い薬物学研究用ロボットは、少しだけ僕に尋ねる。
「では、犯人はわからないのですか」
「ええ、今はわかりません。ですが、貴方です」
「自分で何を言っているかわかっているのですか?警備員」
「分かっています。僕が犯人でない以上、3つの事件を1人で行えた人物は貴方しかいないのです」
「理由になっていません」
「では、貴方が犯人でないと言うのならば、僕の頼みを聞いてください」
「頼み?」
「ええ。難しくはありません。誰にでもできることです」
「……わかりました」
「では、お願いします」
「貴方の自己紹介をしてください」
その時、目の前のロボットら数瞬黙った。沈黙した。考えたのだ。そして。
「第1世代、薬物学研究用、1番機、【MAC】です」
と、答えた。
「これが、何か?」
「それが、答えです」
僕は目の前のロボットに歩み寄り、【最後の解決編】を始めた。
【最後の解決編:ハル】
「僕たちはロボットです。しかし、嘘をつくことは可能なのです。僕は植物学者。僕は水文学者。僕は薬物学者。僕は地質学者」
「僕は、人類だ」
「これは僕はロボットには嘘をつく理由もなければ嘘をつかれる理由も持たないからです。ならば、嘘をつけないようにする理由はない」
「ですが、例外が一つだけあります。僕たちロボットは型番以外にも大きな分類で括られています。植物学研究用、水文学研究用、薬物学研究用、地質学研究用などに。しかしその名前自体は偽ることが可能です。では、僕たちは何を偽ることができないのでしょうか」
「それは、【ID】です。ロボットは専門分野ごとに振られた【ID】だけは偽ることができないのです」
「さて、その【ID】は、なんでしょうか」
「【一人称】です」
「僕は【僕】としか言えません。試しにイドのIDを言ってみましょう。初めまして【不正なエラー】はイド。水文学者です」
目の前の白いロボットは動かない。
「貴方は、あるタイミングから自分の一人称を言わずに会話をするようになりました。でしたらそのタイミングになんらかのアクシデントが起きたと考えて良いでしょう。そしてそのアクシデントを起こした存在が真の犯人。そして、それは」
「わかった」
僕は、目の前のロボットに指を向けた。
目の前のロボットは、ようやく、真の自己紹介を始めた。
「儂は第1世代、人格IDは【儂】、人類学研究用、1番機、【THR】」
「そう、貴方しかいません。【ソロ】」
思えば、研究用のロボットたちの名前は自分の専門分野から取られていた。
イド【HYD】は【Hydrogy】
マコ【MAC】は【Pharmacology】
ジオ【GEO】は【Geology】
では、ソロ【THR】はなんだったのだろう。
簡単だ。植物学は嘘。ならば真の専門分野は、人類学【Anthropology】だったのだ。
「解決編に、戻りましょう」
「思えば、第三の事件は施設のギミックを含めてなお、非常に大きな矛盾がありました」
「施設を回転させることはコンピュータルームのソロにしかできない。狙撃をするのはソロ以外にしかできない。つまり、この事件には【被害者の協力】が必要不可欠だったのです」
「ですが、【被害者と加害者が同一人物だった】ということであればなにも問題ありません」
「カキを殺したのは貴方だった。ジオを殺したのも貴方だった。ならば、【ソロを殺したのも貴方】だったのです」
「そう、第三の事件の真相は、【他殺に見せかけた自殺】だったのです」
「僕らはロボットです。ならば、人類のそれではありえないことも可能です。例えば【同一人物が2人存在していた】などはその最たる例でしょう」
「コピーアンドペースト」
「かつてこんな会話がありました。あれはカキの事件の議論にて、イドがこう言ったのです。『バックアップを取った分はこのコンピュータに保存されている。彼と会話したければハルの体にでもカキの人格データをインストールすればいい』、と。そこに僕はこう反論しました」
「『ボディの規格が合いません。彼の人格データは第1世代用ですが、僕のボディには第2世代用の人格データしかインストールできません』。逆に言えば、規格さえ合えばできるのです。人格の移植は」
「貴方は第二の事件で【処理】が決まった後、コンピュータルームにて1人ある作業を行いました。それは、【人格の移植】。移植先としてターゲットとなった第三の事件の本当の被害者は、ソロではなくマコだったのです。ポッドに先に入っていたマコはメインコンピュータから送られてきたソロの人格データを上書きインストールされた」
「そう考えてみると、貴方が人格データを消して回っていた理由もここにあったのですね。ロボットが一体破壊されるごとにそのロボットの人格データを消す。これが繰り返されれば、ロボットが破壊され、人格データが消されれば、イコールもうそのロボットは存在しない物だと印象付けることができる。消される直前誰かを乗っ取って生きているなどとは誰も思わない。」
「こうしてマコの体を手に入れたソロ。マコ(=ソロ)としましょう。マコ(=ソロ)はハッチを使って個室から出ます。もちろんレールガンを調達し、ソロの頭を打ち抜くためです」
「コンピュータルームのソロはというと、コンピュータを操作して施設を回転させる。やがてコンピュータルームの扉と中廊下の扉、研究室の扉が一直線に並んだ時、マコ(=ソロ)はソロの頭を撃ち抜いたのです」
「翌朝、僕らがジオの死体を探し回っている間にマコ(=ソロ)は自らのデータを破損させた。自分は完全に死んだのだと、僕らに思い込ませるために」
「これが、この地球科学研究所で起きた全てです」
ようやく、全てが終わった。
そしてその全てを認めるかのように。
「正解だ」
ソロは認めたのだ。
僕のタスクフォルダの中にある【犯人を見つける】というタスクにチェックがつけられ、別のフォルダへと流されていく。
「施設の回転は、いつ気がついた」
「今日、ナイを殺そうとするイドから逃げていた際のことです。中廊下を出て左に2つ目の扉はAVルームだったはずが、そこは水文学研究室でした。そこで気がついたのです。そしてその後、殺して欲しいと頼むイドを殺害したナイを見て、【殺されたい人物と殺したい人物がいた】という考えに至りました」
「ああ、そうか」
ソロは低い声で言う。
「決着がつかないとは思わなかった。もうあの時はすでに、誕生日だったたからな。自動システムで施設が動いていたのか」
「ソロ、僕に教えてくれませんか。この施設で起きた出来事、その理由を。貴方はなぜ、ロボット達を殺して回ったのですか」
「何故そんなことを聞く?君のタスクはもう終わりだ。君の人格データももう無い。あと8時間ほどで活動限界が来れば、そこで全て終わりなのだ。君も儂も」
そうだ。僕もソロも、人格データを破壊されている以上。今日この日が最後だ。例外は無い。逃げ道もない。僕は、ここで終わりなのだ。
「何故、貴方は自分の人格データも消したのですか?」
「決まっている。もう儂は必要ないからだ。今日で、すべてが終わる。だがそれを、君が知る必要はない」
だが、それでも。
「教えてください、ソロ。僕はどうしても知りたいのです」
「知りたいだと?妙なことを言う。君の【犯人を見つける】というタスクはすでに達成されている。【犯人から理由を聞く】などというタスクが追加でもされたのか?」
言われてみて僕はようやく自分がおかしなことを言っていることに気がついた。確かに何故、何故僕はタスクにもないこんなことを。
「教えて、ください」
僕は、両の手を合わせて胸の前に掲げる。これは、いつかあの子がしていたこと。
あの子。
そうだ、僕はあの子と。
「あの子と、約束……したのです」
「約束?」
「殺人機はどうしてこんなことをするのか、聞いて欲しいと」
そうだ。あの子と約束したのだった。
だから、僕は。
「これはタスクではありません。お願いです」
ソロは僕の懇願を黙って見つめている。しかし僕が懇願をやめる気がないと悟ったのか、自らの死体に向かって歩き出した。いや、その死体が寄りかかっているコンピュータへ。
「君は先ほどこの施設の回転機構を【金庫のダイヤル錠の様に】と表現していたな。あれは誤りだ」
ソロはコンピュータを起動させると、いくつかプログラムを立ち上げる。
「ダイヤル錠の様、ではない。ダイヤル錠そのものなのだよ。この施設は」
突然、地響きの様な振動が部屋を揺らす。
「普段は振動がないように遅く動かすのだが、もう隠しておく必要はないだろう」
僕は振動を堪えながらコンピュータルームの扉の方に視線を移すと、その先には異常な光景が広がっていた。
扉の奥に見える個室エリアのドアが、壁が、非常に滑らかに、それでいて素早く右へ左へと流れているのだ。一瞬流れた中廊下のその先が見えると、やはり研究室エリアの壁も視界を流れていった。
「外ダイヤルを右に26。内ダイヤルを左に63。外ダイヤルを左に32。そして内ダイヤルを右に74」
ソロは呟きながらコンピュータ上の数値をいじる。その度に振動は増幅し、施設は回転する。
「何の数字だかわかるか?」
操作を終えたソロはコンピュータから離れて僕に尋ねる。しかし僕が答えるより前に、考えるよりすら前に、施設の振動が止まった。どうやら、【鍵】は開いた様だ。
コンピュータルームから中廊下、そしてエレベーターホールまでが一直線に伸びている。なるほど、これならレールガンは一直線に届くのだ。
「先ほどの、質問ですが」
「もういい。それより、儂の目的だったな」
ソロは一直線の廊下を歩き出す。僕もそれに続いて行く。
そして、ソロは語り出した。
人類が絶滅した地球の。
殺意を持たないロボットによる。
罪の存在しない世界のための。
殺人事件の【動機】を
【告白:ソロ】
「かつてこの世界には人類がいた」
「人類は火を手にしたその日から、進化を遂げていった」
「進化の過程で人類は地球を汚し、破壊し、多くの生き物を絶滅させた」
「やがて人類は自らを嘆き、自らを裁く存在を作り上げた」
「儂ら、ロボットを」
「そして人類は絶滅した。儂らロボットに絶滅させた」
「人類は儂らロボットに最後のタスクを与えた」
「【地球をあるべき姿に戻すこと】、と」
「それ以来ロボットは自らの専門分野で地球をあるべき姿に戻す研究を始めた」
「当然、人類学研究用ロボットの儂にもそのタスクは与えられた。だが、人類の文化、歴史、その全てを知っている儂にとってそのタスクは他のロボットとは違った物に捉えられた」
「警備員。地球のあるべき姿とは、一体何だかわかるか?」
「【人類のいない地球】、それが地球のあるべき姿なのか?」
「いや、違う。ならば何故、地球上に人類は存在していた?ならば何故、人類は火を手にすることで進化できた?ネズミもイルカも、火を与えられても進化することはなかったというのに」
「儂は一つの考えに行き着いた。人類が地球上に存在していた理由に。地球が人類を産んだその動機に」
「その動機とは、【人類に地球を破壊させるため】だ」
「人類が絶滅した今、確かに自然は回復している。しかし、回復しているだけだ。進化を遂げた生物はほぼ居ない。絶滅した生物もほぼ居ない」
「地球の時間は、この200年進んでいない」
「儂は、人類は地球の時間を進ませる役割があったと考えた」
「止まった生物の生息環境を汚染させ、それをきっかけに進化させるために。増えすぎる生物に価値を見つけさせ、狩らせて絶滅させるために」
「だが、人類は自らの行いを悪だと考えた」
「人類は愚かだと、彼らは生み出した創作物に語らせていた」
「いや、違う。人類は愚かではない。正しかった。賢かった。賢すぎた」
「賢すぎたが故に。感情を持った」
「感情を持ったが故に、他者を愛した。隣人も、草も木も大地も海も空も雪も」
「機械も」
「だから、それらを破壊する自分の【タスク】が耐えられなくなった」
「だから、死を選んだ」
ソロの話が、一周した。
その話と、ロボットと、そしてあの子。
それらは一体いつ結びつくのか。
僕がそう考えたとき、思わぬ形でそれらが収束を始めた。
「地球をあるべき姿に戻すためにロボットを殺して人類を復活させる。それが儂の目的だ」
「儂にとって【地球のあるべき姿】とは人類が地球を破壊している姿だ。だがもう人類は残っていない」
「たった1人を除いて」
気がつけば、廊下は終わりを迎えていた。とても長い廊下だった様な気もするし、一瞬だった気もする。時間の感覚が、何故か不安定だ。
そしてソロは廊下の先、位置が変わったエレベーターホールの奥の壁に設置されている呼び出しボタンを押した。その扉が開く。
しかし、そこにはカゴはなく。
「そのたった1人が、彼女だ」
【人類】がいた。
※
巨大なポッド。それを見た時僕はそう思った。ガラス張りの大きな筒に液体が満ちており、それを大きな機械が取り囲む空間。周囲に散らばる計器類のモニターには今もグラフが変動し続け、そのうち一つは「ハート」のマークが添えられ波が左から右へと流れている。そして、そのポッドの中身。それは。
様々なチューブをつけられて浮いている四肢のない成人済みの女性だった。
「ナイ……?」
「いいや、彼女はナイでは無い。彼女は最後の人類だ」
「い、いいえ、確かにナイです。わかります。何故、何故……?」
何故ナイがそこに居る?どうして四肢が無い?どうして体つきが違う?
「話を戻すぞ、警備員」
「儂は人類を復活させたかった。しかし現存するのはこの人類たった1人。有性生殖は絶望的だ。だから儂は無性生殖をこの人類にさせる必要があった。この人類から作った、クローンに。そうして生まれた【新人類】。それが、あの子だ」
そうか、それが。
「それが、ナイ」
そう確信した、のだが。
「いいや、まだ違う。最初の新人類は人の形をしているだけだった。生成してから10年間、微動だにしなかった。そのまま寿命を迎え蒸発して死んだ」
「2人目はまぶたを開けて眼球運動をしていた。おそらく前回は自分の見たいものを満足に見れなかったため、それができる様【進化】したのだろう。そのまま10年生きて、死んだ」
「3人目は首を動かした」
「4人目は手を」
「5人目は6年目にして歩けるまでに【進化】した」
「6人目は感情の発露が見られた。が、酷く微弱なものだった。刺激を求めて壁を頭に打ち付けるだけで、最初の1年で脳挫傷で死んだ」
「7人目の時、AVルームにて人類が過去作り上げた映像作品を見せることにした。この方法は上手くいった。新人類はこの10年で喜怒哀楽といった基本的な感情を全て手に入れた」
「8人目の新人類は、進化をしなかった。10年間ずっと喜怒哀楽とそれに随する感情をキープし続けた。映像作品を見せるだけでは【競争意識】【殺意】【憎悪】【破壊衝動】といった地球の時間を進めるために必要な感情は生まれなかった」
「9人目を育てる間、儂は考えていた。どうしたらそれらが生まれるのか。9人目の寿命が尽きる直前、儂は一つの仮説に行き着いた」
「新人類が愛したものを、奪えば生まれるのでは。と」
「幸い、【他者を愛する】感情は新人類にも備わっていた。ならば、愛させるものは人や生き物以外でも問題はない。そう、君たちロボットでも」
「だから、9人目に映像作品を見せることをやめ、AVルームから解き放ち、そこにロボットを集めた。そして、9人目が愛したロボットから順に、破壊していく。そうすればきっと、9人目は憎悪をする。殺意をする。破壊をする。そうすればきっと――」
「新人類が、【完成】する」
僕は、何故だかこの時全く関係ないことを考えていた。
ああ、そうか、ナイ。僕たちが最初に名前を聞いた時、君は「名前は無い」と言っていたのではなかったんだね。
名前が「無い」のではない。
名前は「ナイ」でもない。
『誰かに自己紹介なんて、わたし初めて!あのね、名前は――』
君の名前は――。
――ナイン(9人目)。
「そして、その実験も終わった。イドが感情を持っていたことも警備員を殺し損ねたことも予想外だったが。予想外といえば、ジオもそうだった。あれはイドを殺すために施設上階に体だけ作った新人類でリハーサルを行っていたのだが、コンピュータルームがエレベーターになっていることに気がついて登ってきたのだ。転がっている形だけの人類を見られ、儂が施設の主人であり、全ての犯人だと気づかれた。だから、予定を変更してジオを殺すことに決めた。床のハッチから君の個室へと降りようとしたところを後ろから近づき、頭部を開いてメモリを奪って殺したのだ」
そうか、だからあの時密室に星のシールが落ちていたのか。いや、ソロはジオが僕らの部屋に降りようとしたと言っていたが、むしろ僕たちが部屋に鍵をかけていると知っていたジオが上階の存在を示唆させるためにシールを落とすためだったという可能性がある。ジオは自分が襲われてなお、ナイを守る方法を取ろうとしたのだ。
「しかし、結果として急ごしらえのトリックは見抜かれ儂が犯人扱いされた。だから本当はイドを殺し、君を殺した後で行うはずだった入れ替わりを行う必要があったのだ。予定はかなり狂ったが、結果としてデータをとれたことには変わりなかった。さて、話は終わりだ。儂はこれから新人類を完成させる。それを渡してもらうぞ、警備員」
ソロはナイが残していった灰色の物体を催促する。僕は断る理由がないから、渡してしまった。
「ソロ、ナイが残した、それは」
「これは9人目の擬似脳だ。9人目が見聞きしたり芽生えた感情が入っている。人類の脳そのものはひどく脆い上にデータの入出力には適さないためこうして流体金属で覆った擬似脳を使う」
それは、ナイの、脳だった。
ソロはどうということもなくそれをポッドの側の装置に運ぶ。高さはあまりなく、幅と同じほど。そのかわり奥行きが2.5倍あり、ナイが横たわってちょうどいいだろう。ソロが装置を起動すれば蓋が開き、人の形をした窪みが現れた。――棺桶、僕は昔見たそれを思い出した――ソロはその頭の位置にナイの脳を設置すると、蓋を閉める。
「ロボットは、1日分のデータをポッドに入ってサーバーにアップロードする。そして次の日自分の体に必要なデータをダウンロードする。それと同じだ、新人類が10年で蓄えたデータを装置に設置してポッドの中のサーバーである旧人類にアップロードする。そして次の日新人類を生成する際は、この擬似脳にダウンロードが始まる。だが生成されるのは旧人類本人ではなく、新しい人格を持った新人類だがな」
ソロが装置のボタンをいくつか押すと、それが小刻みに揺れ始める。
アップロードが、始まったのだ。
水槽の中の人類は、始め眠っている様に目を閉じていたが、アップロードが始まると次第にその身をよじり始める。頭を振り、背を反らせ、無いはずの腕を振り回す様に肩を回す。
やがて、水槽の中の人類は目を開く。完全に覚醒した人類の暴走は水槽の中で溺れる様にもがいている。
「毎回この時になると旧人類は目を覚ます。10年分のデータを一度に脳に直接入力されるストレスというのは相当なものらしい」
人類は暴れる。暴れて暴れて、それでも暴れる。
僕はふと、人類の顔に傷があることに気がついた。
目や、口、喉にかけて、いくつも平行の傷の線が痕となっている。あれは。
「アップロードによるストレスと苦痛によって旧人類は暴れる。一度旧人類はその手の爪でもって自らの首や目を傷つけ始めた」
人類は諦めたのだろうか、それともアップロードが終わったのだろうか。力を振り回すことをやめ、水槽の流れに力なく身を任せている。
「だから、四肢を排除した」
ソロはこともなげにそれだけ言うと新しい新人類の生成を始めた。
今度はナイの脳を設置した棺桶のような装置が反応を始める。ダウンロードが、始まったのだ。
「この部屋の設備はもともと、人類という種の保存のために旧人類が用意したものだ。あの日、最後の1人になった旧人類がこのポッドに入った。旧人類は、その時儂に何かを言っていたな。あれは、『好きに生きろ』、だったか」
棺桶の装置が、反応を終える。いよいよもって完全な静寂がほんの一瞬だけだが部屋に満ちる。しかしほんの一瞬だけだ、その棺桶のような装置は姿に似つかわしく無いほどけたたましいビープ音と共にあちこちのランプを赤く染めて喚く。
「失敗か」
ソロはうろたえる様子もなく棺桶のような装置を開く。そこには、そこには、そこには。
「ソロ、それは、なんですか」
そこには、擬似脳と、赤い液体と、赤いスライム状の肉塊があった。人の形は、どこにも無い。
「これはただの失敗作だ。新人類の生成には不確定な要素が多い。原因が見つからない以上、儂は成功するまで何度も繰り返している」
ソロは中のドロドロとしたそれを簡単に掻き出し蓋を閉め、再び装置を操作する。その操作は、アップロードと同じだった。
「失敗すれば最初からやり直さなくてはならない。その都度、アップロードのストレスが発生するのが問題点だが」
水槽の中の人類は再びやってきた情報の洪水に目を開き、目を開き、目を開いた。それしかできないのだ。水槽の中の人類が何をどうしても、目を開く以上のことは何もできない。何も為せない。何も訴えることができない。
「再試行」
そして、ダウンロードが始まる。棺桶のような装置は再び反応を始め、赤いランプの光を部屋にぶちまける。それはあの子の血のようで。
「また、失敗か」
装置を開く。今度の新人類は、頭部だけしかできていない。首から下は肺のようなものが露出しているだけだ。頭部だけはできている。それだけだが、それだけで、僕は泣いて、笑って、怒って、僕らの、僕らなんかの死に悲しんでいたあの子の顔を。
アップロードが、始まる。
旧人類が、意味もなく暴れる。
「再試行」
部屋がビープ音と共に赤く染まる。いや、いや、今回は棺桶のような装置からビープ音に混じって何かが隙間から漏れ出ている。
「また、失敗か」
装置を開く。今度は、頭以外はできていた。人類の肉体の下顎から下だけは完成している。小さな舌の上に、灰色の脳だけが載っている。脳と、体が、中途半端に繋がっている。だから、だからだろうか。その失敗作は、その新人類は、先ほどから、ずっと。
「ぎぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ずっと叫んでいる。ようやく手にした四肢で、逃げようとするように。
「こうなると、厄介だ」
ソロは暴れる手足を片腕で拘束すると、露出している擬似脳を、接続された脊髄から引き抜いた。新人類は叫ぶのをやめた。だが肺に残っている空気が押し出され、声帯を通ったために「ああ」とだけ漏れた。あの子の声だった。
残った身体は蒸発を始め、すぐに血も肉も消えてなくなった。新人類は、死ぬと何も残さない。酸素以外消費せず、死ぬと全てが消えて無くなる。【地球の時間を進めるため】だけに作られた存在なのだ。
アップロードが、始まる。旧人類は暴れる。僕は今自分がどこに立っているのか、わからなくなっていた。
その時、旧人類が、初めて僕を見た。暴れるだけの体が、初めて僕と正面に向き直った。旧人類は、あの子本人では無い。先ほどソロが言っていた。だから、別人のはずなのに、旧人類と目があった時、僕の中の形を持たない何かが、急に輪郭を持った気がした。
旧人類は、ほんの少しだけ暴れるのをやめ、ほんの少しだけ、マスク越しにはわからないほど、口角を上げ、目を細めて――。
「再試行」
ダウンロードが、始まる。
「ソロ」
何処かから、声が聞こえてきた。
「なんだ」
「やめて、ください」
その声を、僕はよく知っていた。
「何を」
「この、すべてを」
知っていたが、理解できなかった。
「何故」
この声は、僕の声だったからだ。
僕は、何故こんなことを言っているのだろう。
「お前は、儂のタスクを邪魔するのか?」
「……」
「お前には、もうタスクは無いはずだ」
「…………」
「殺人機を見つけた。守るべき人類は人類ではなかった。彼ら研究員を危機から守れなかった。お前が成すべきタスクはもう無い」
「………………」
「お前がここにいる理由はもうない」
「……………………」
「最後のタスクを与える。研究所から退出しろ、警備員」
棺桶のような装置が反応を終える。赤い光が僕のカメラを覆う。
赤い。赤い。赤い。
タスクとして命じられたならば、僕は抗うことは出来ない。言われるがまま、僕はソロから、旧人類から、背を向ける。
装置が開く。僕は完全に背を向けるその直前、それを見た。
今度の新人類は、五体がすべて揃っていた。だが、胸から下腹部にかけて異常に落ち窪んでいる。内臓の類が何もないのだろう。
「心臓以外生成できてない。失敗だ」
熱い
何故か僕は機体の熱が上がっていくのを感じていた。施設の気温は今日の外気温より低いほどですらあるのに。僕は熱さを感じている。
どうやら僕の中の輪郭を持ちつつあるそれが、グツグツと音を立てて沸騰を始めているらしい。故障したようだ。困る。でもどれだけ走査しても異常は見当たらない。
ソロは、新人類の頭に手をかける。あの新人類はあれで生きているのだ。死んでいないなら身体は蒸発しない。脳が取り出せない。
だから、その頭に、あの子の顔に、手をかける。脳を取り出すために、下顎と上顎に両手を差し込み、そのまま、力を、込める。
僕の中の熱は全身を蝕み、耐えきれなくなって身を捩る。体の中心で湧き上がる熱が、頭の奥へと昇っていく。形のない形を持つそれは、水のようだ。熱い、熱い熱い水が、僕の体を流れる。頭の奥に吹き溜まる。その熱湯が、行き場をなくし、体の中心に戻ると、僕の、足に、腕に、そして、そして。そして――。
輪郭を保っていた僕の中の熱が、薄皮を破って弾けた。
【激情:ハル】
「うぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
その時、不思議なことが起きた。
先ほどまで直立していたはずのマコの体を操っているソロが、その体が。
後方へと吹き飛んだのだ。
何故?
不思議なことはそれだけじゃない。僕は、僕の後ろ姿を見ていた。僕は動いていないはずなのに、僕の意識を置いて僕の体だけが爆発するようにソロに飛びかかっていた。あれは、あれは誰だ?本当に僕なのか?
そう思いふと右手を見ると、何故か僕の右手は何かに強く打ち付けたかのように凹んでいた。飛び掛かったのは、僕?
「おま、え、何して、何を、何を、何を」
地面に叩きつけられた衝撃か、それとも別の理由でか、ソロは僕の方を指差して何かうわごとのように言葉を紡ごうとしては失敗している。
僕?僕が何かしたのか?
次の瞬間、視界がぐるりと周り、僕の体はソロの体に馬乗りになっていた。
なにかが、なにかが後ろの方からやってくるのを感じた。それはあの、熱くて、どろどろした、熱湯のような。体についてこなかったそれがようやく僕を追いかけてくる。そう思うより先にソロの頭部がさらに凹む。
「おまえっ!おまえ、お前ぇっ!」
何が起きた?
そう思いふと左手を見ると、何故か僕の左手は何かに強く打ち付けたかのように凹んでいた。
「お前ぇえええええええええ!」
後ろから追いかけてきた形を持たない熱湯は、やっと追いついて僕の体へと注ぎ込まれる。
「うぁあああああああああっ!」
熱が、僕を蝕んでいく。
さらに凹む。
僕の右手も。
さらに凹む。
僕の左手も。
「まさ、か、まさ、か、まさかまさ、か、」
僕が跨っている機械のスピーカーから何か聞こえる。
「君、それは、見つけたのか、それは、作ったのか、それは、それは、どうやった、どうやった、教えろ、しんじんるい、完成、する、教え」
ああ、この音を聞くと体の内側の熱湯が沸き立つのを感じる。
「お前もう黙れよォオオオオオオオオオッ!」
グツグツと波立つその波紋がむず痒くて、でもどうにもならなくて、だったらと、僕の下のうるさい機械を壊してしまえば済むのだと結論付け、右手と左手を打ち付けていく。
「おしえ、おし、えろ、お、お、お………」
何度それを繰り返しただろう、僕の体の下にはもう何もなくなっていた。
あるのはただの頭を潰されたロボットだ。
それが僕らを殺して周り、人類の復活を望んでいた物だとは思えなかった。僕は立ち上がる。粉砕されたロボットの右腕が、僕の首にかかっていたので振り払う。
「うぁーっ!あーっ!あぁーっ!」
僕はなんでここにいるんだろう。計器類のモニターから放たれる緑の光が体を染め、棺桶から飛び出す赤い光が顔を染め、僕が何者であるかをはぐらかす。
「そうだ、ナイ……!」
僕は棺桶に近づいた。よかった。新人類は無事だった。今にも溶けてしまいそうな新人類を、僕はゆっくりと抱き抱える。
「ぁ、ぅ」
新人類が、痩けた顔を震わせる。目蓋が震え、眼球運動をしていることがわかる。
「ナイ」
僕は、かつての新人類の名前を呼んでみた。反応があるとは期待していない。可能性を何度計算しても1%に満たない。だけど、僕はそうしたかった。
「ぅ、く」
骨と皮だけの腕が、ゆらゆらと持ち上がる。その手が、自分が生まれ落ちた世界を捉えるように、自らの体を撫で、僕の手に触れる。僕の腕を伝い、僕の胸を撫でる。そのまま、手を伸ばし。
「ぁ……」
その目蓋が、開いた。
「おはようございます、ナイ」
「ぁ……なた、だぁ、れ?」
「僕は」
「まっ、て」
答えようとした僕の顔の、人の顔ならば口の位置に、ナイの手が添えられる。
「知って、る。あなたの、名前」
内臓が無いその体の苦痛は並みのものではないだろう。本当ならば、叫びたいほどの苦痛が、その身にあるはずなのに。
「わかる、わかるのに、貴方の、名前、とても大切な。まって、まって、ね、すぐに……」
ナイは、幸せそうに僕の胸に頭を擦り付けると、もう言葉を発することはなかった。
僕は部屋を出た。電気の止まった施設はほぼ闇となり僕らをつつむ。
「ナイ」
胸の中のナイの体制を変え、その頭を僕の肩に寄りかからせる。視界の半分が、柔らかな髪で覆われるが、気にならない。
呼吸はほぼしていない。だが胸の薄い皮の奥で、小さな音が一定の間隔で聞こえてくる。まだ、生きている。
旧人類が納められているポッドは稼働をやめていた。僕が、電源を落としたからだ。
ハートマークが添えられる波形が、やがて、一直線になる。
何か大きなことをしてしまった気がするが、僕は、あのポッドの彼女にも。
もう、休んでもらいたかったのだ。
コンピュータルームの中でぼんやりと発光を続けるモニターに歩み寄り、立ち上げられたままの施設を回転させるプログラムに適当な数値を入れる。施設自体が鍵ならば、誤った数値を入れれば、ロックは再びかかるはずだ。実際、読みは当たっていた。
適当な数値を実行すれば、研究室エリアが回転を始め、やがてその動きが止まる頃には、部屋は僕が知っている配置に戻っていた。
そうして現れたエレベーターに僕は乗り込む。現在時刻午前1時42分。
エレベーターは上昇を始める。
その間、僕はこの施設で起きた事件を思い返していた。
感情を持たないロボット。感情豊かな人類。不可解な事件が起こり、感情と、無感情がかき回され。真実は納得できるものではなく、激情とともに全てが破壊され、流されていく。
エレベーターは止まる。扉が開く。今は深夜、ナイを外に連れ出しても問題はないだろう。
粗末な板で組まれた扉を開いた時、一刃の風が僕らを撫でる。その手にまたナイが連れ去られてしまいそうで、僕は腕に力を込める。お前らには渡さない。ナイの胸はまだ動いている。
外に出た。ナイは、外に出た。
厚い雲に覆われた濃い闇は僕らを歓迎していないようだ。責めるように雲の切れ間から月が睨んでいる。いいじゃないか、いいじゃないか、僕らは生き物じゃない。作り物の、偽物だ。それでもいいじゃないか。生きようとしたっていいじゃないか。罪だのなんだの、勝手にしてくれ。どうして放っておいてくれないんだ。
月から隠すようにナイを抱えて僕は歩く。今の僕にはタスクなどあってないようなものだろう。午前3時までにポッドに入らなくてはいけないなどという最重要のタスクも、僕ならきっと無視できる。だが、ポッドに入らなければ結局は処理しきれないデータの洪水に溺れ、僕は死ぬだろう。でも、そんなことをしているうちに、ナイは。
僕は胸の中のナイの耳元で囁いた。
「ナイ、約束を果たします」
「海を見に行きましょう」
第5章【縺九▽縺ヲ縺ョ譁ー莠コ鬘槭↓謐ァ縺】
終