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念いのかけら  作者: 奥田実紀
8/26

8 アンの島

目が覚めた時はベッドに寝ていた。カーテンごしに、日差しが差し込んでいる。朝か…。昨日着ていた洋服のままだ。パジャマに着替えないで寝たことは今まで一度もない。これも初体験のひとつになるんだな…と気づいて、清良は飛び起きた。私、プリンス・エドワード島に来たんだ!

 ベッドは真鍮(しんちゅう)でできていて、色とりどりの布を()い合わせた、パッチワークの布団がかかっていた。ベッドサイドのチェストの上には、チューリップの花の形をした、アンティーク風のランプと、聖書が置かれている。

床は板張りで、脚を下ろすとにぶくきしんだ。年季の入った家らしい。清良はカーテンを開け、窓を押し上げた。その窓は、上下に上げ下ろすスライド窓で、たてつけが悪いのか、ストッパーをしないのに途中で止まり、落ちてこなくなった。冷たい空気が一気に流れ込んできた。肌寒い。でも、ひんやり感が心地よかった。


目の前は牧草地だった…緑の草がびっしりとはえ、白や黄色の花も咲いている。昨日降った雨にぬれて、キラキラ輝いていた。ところどころで、牛が草をはんでいる。牧草地はゆるやかに傾斜して、その向こうにまた牧草地が見え、そのまた向こうには海が…青というよりももっと深い青…をした海が広がっていた。牧草地の脇の、海へと下っていく細い小道は、雨にぬれて鮮やかな赤茶色をしている。まるでリボンのようにのびていた。


 うわああ…。きれい…。真夜中に着いて真っ暗で何も見えなかった昨日とは、別世界である。清良はしばらくその風景に見とれていた。アヴォンリーは…アンが住んでいたアヴォンリー村は、こんなふうだったのかしら。

「おい、ちょっと…押すなってば…」

「見せて…あたしにも…」

「ずるい……ばっかり…」

 ひそひそ声が廊下から聞こえてきたかと思うと、ドアが大きく開いて、子どもたちがなだれこんできた。清良がびっくりして振り返ると、女の子や男の子が…床に転がっていた。三、四…五人。いちばん大きい女の子は清良と同じくらいに見える。もうひとりの女の子はまだ三歳くらいで…他はみんな男の子…小学校の低学年から高学年まで並ぶかのように、じゅんぐりに大きかった。

「ハ…ハーイ」

 年長の子がきまずそうに声をかけてきた。

「わ、私たち…」


 そのとき、マリーが子どもたちの後ろからぬうっと現れた。

「あんたたち! 起きてくるまでそっとしてあげて、って言ったじゃないの!」

 マリーの大声に、子どもたちは肩をすくめた。いちばん小さな女の子の目からは、みるみる涙がこぼれた。

「あ、あたし…見たかったんだもん…どんな子か…知りたかったんだもん…」

 自分たちが寝てる間にやってきた見ず知らずの日本人を早く見たくてたまらなかったのだろう。清良は、足音をしのばせて階段を登ってくる彼らの姿を想像して、ほほえましく思った。

「いいんです、気にしてません。私、もう起きてたし」

 清良はマリーに笑いかけた。マリーは泣いている女の子を抱き上げ、

「この子たち、清良が来るのをずっと待ってたのよ」

 と子どもたちの頭をそれぞれくしゃくしゃっとなでた。

みんな、マリーとギャリーの子どもたちで、長女が、清良と同じ十四歳(学年はひとつ下だった)のグレイス、長男が小学校五年生のタイラー、次男は三年生のトラヴィス、三男は一年生のトッド、末っ子で四歳の女の子はゲールといった。

一人っ子の清良には、五人兄弟はものすごい大人数に思えた。みんな清良に興味津々(きょうみしんしん)で、てんでに話しかけてくるので、誰の話に答えたらいいのか、わからなくなる。ゲールのおしゃべりは早口で、ほとんどが聞き取れなかった。

漁師のギャリーはもうとっくに家を出ていておらず、子どもたちだけの朝食は嵐のような騒がしさで過ぎ、ゲール以外の子は黄色いスクールバス(今時珍しいボンネットバス!)に乗って学校へと向かっていった。


「来週には学校が終わるから、みんなで遊べるわね」

マリーは食器洗浄機に皿やコップを片づけながら言う。カナダは日本と違って、新学年が九月から始まる。六月で終わって、二ヶ月の夏休みがあり、九月から新学年。宿題はない。ゲールは九月から二年保育の幼稚園へ行くそうだ。そういえばアンも、六月の終わりにこの島に来て、あと二週間で学校が終わるから、九月から登校することになったって、描写があったっけ。私、アンとほぼ同じ時期に島に来たんだ!そんなちょっとしたことにも、清良は敏感になっていた。


マリーがスイッチを押すと食器洗浄機が鈍い音をたてて動き始める。ゲールがおもちゃの掃除機を持ってきて、お掃除をし始める。ゲールなりに、お母さんを手伝おうと思っているのだ。

「さあて、ちょっと掃除してから母さんのところにいきましょうか」

 マリーは大きな掃除機を引っ張り出して部屋をさっと掃除した。ゲールがマリーのあとをついて回る。かわいい…。清良は昔から妹がほしくてたまらなかったことを思い出し、口元をほころばせた。


 ミリーの家は、マリーの家の隣りだった。ほんの数十メートルしか離れていない。なだらかな丘の上に、並んで建っている。幹線道路は、丘をくだった低い位置にあり、玄関側の部屋からは、道路を通ったり家に入ってくる人や車がはっきりと見てとれる。玄関と反対側の部屋からは、清良が眺めたように、草原とその向こうの海が見下ろせた。

木造二階建てで、建てられたのは一八九〇年代だという(マリーの家はそれより新しくて一九四〇年代の家。新しいといってももう六〇年以上昔の家だ)。マリーの家はミントグリーンに壁がぬってあり、屋根はえんじ色。ミリーの家は白くて、三角の切り妻屋根と窓枠は、緑色をしていた。緑…グリーン…切り妻…ゲイブルズ…? 屋根を見つめている清良に気づき、マリーが笑いながら言った。


「ツキノがね、緑にしろ、緑にしろってうるさいから、根負けして母さんが緑に塗りなおしたのよ。あれからもうずいぶんたつけど、塗りなおしの時期がきても、母さんは他の色ではなく緑にしてきたのよ。ツキノががっかりするといけないからって。グリーン・ゲイブルズのアンよ、知ってるでしょ。この家は、ツキノのグリーン・ゲイブルズなんですって」

 清良は深くうなずいた。

日本では『赤毛のアン』という題名だが、英語ではAnne of Green Gables、グリーン・ゲイブルズのアンが正式な題名だ。どきどきした。〝グリーン・ゲイブルズ〟と聞くだけで、アンの世界がすぐそこに現れたかのようだ。ミリーの裏手の森の木々が、風で揺れている。小鳥の声も聞こえる。清良に、いらっしゃい、とあいさつしているみたい。いつまでもつったっている清良の手を、ゲールがひっぱって家の中へ案内した。

 ミリーの部屋は、二階の奥。窓際の木製のベッドでミリーは静かに眠っていた。そばには清良の母くらいの女性が座っていた。ゲールがその女性に抱きついてキスをした。それから、寝ているミリーにも、そうっとキスをした。女性は、清良に気づいて、にっこり笑った。

「セーラ?」

「はい。はじめまして」

 清良は手を差し出して、女性と握手した。

「母さん…どう…」

 マリーが小さな声で尋ねる。

「落ち着いてるわ…でも、眠る時間が長くなったみたい…」

「代わるわ…休んで」

女性は「ありがとう」と返事をし、部屋をそっと出て行った。マリーは椅子に座り、ミリーの手を抱きしめた。ミリーはそれに反応して、ゆっくりと目を開けた。


「母さん…起きた? セーラが来てくれたわよ。ツキノの娘のセーラよ。日本から母さんに会いにきてくれたのよ」

 マリーは清良をミリーのそばへと押した。ミリーは清良をしばらく見つめたままだった。真っ白い長い髪は三つ編みにたばねている。青く、透き通った瞳。長いまつげ。もともとやせた人のようだが、ほほがこけ、目がくぼんで、やつれている。顔に刻まれたいくえもの(しわ)。血色がなく、生命力が弱っていることは、清良にも感じ取れた。

「ツキノ…娘…」

ため息のような、静かでかすかな声だったが、顔もすこしずつゆるんでほほえみがうまれた。

「日本から…来てくれた…まあ…日本から…」

 いくぶん力が出てきたようだ。母のことを思い出したのだろう。


「清良です。ツキノの娘です…」

 清良はミリーの手をやさしく握った。ミリーには握り返す力がなかったが、そうしようとがんばっているのが、指のかすかな動きでわかった。骨ばった手。力を入れたら折れてしまいそう。清良は目がうるんでくるのを感じ、視線を上に向けた。

「大きくなって…ツキノに…そっくりね…目が…」

 ミリーはそうつぶやきながら、細い手で清良の顔にふれる。

「母さん、ツキノももうすぐここに来るって。母さんに会いたいって」

 マリーがミリーの耳元でささやく。ミリーはほほえんだまま、かすかにうなずいた。


「ツキノ…。ツキノは…元気なの…」

 ミリーは清良を見つめる。深い、深い瞳。

「母は、元気です。必死に仕事をしてます。あなたにとても会いたがってました…。…いつも大好きだったと、伝えてくれと…。いっぱい感謝してるって…」

 清良はミリーの手を握り締めたまま、ゆっくり、聞こえるくらい大きな声で、母の伝言を伝えた。ミリーは目をとじて聞き入っている。

「ツキノ…私も大好きよ…」

 ミリーはとぎれとぎれにそうつぶやいた。疲れてしまったのか、もう目を開けようとしない。清良は胸がどきどきし、いたたまれない気持ちになった。ああ、お母さん!

「母さん、お水飲む?」

 マリーはミリーの上体を少し起こして、口元に水をふくませた。ゲールはもう下に行っていなかった。

「下の台所でジーンが…ああ、姉のジーンよ、さっきいた女性。お茶の準備をしていると思うから、先に行って待っててくれる?」

「はい…」

 清良はマリーに言われたとおり、部屋をあとにした。ミリーはまた眠ってしまったように見えた。マリーは母親の手を両手で包み込んでいた。


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