7 赤毛のアン!
この間さわりの部分は読んだが、あれはストーリーを知るためで、味わったわけではない。今度は最初からしっかりと読み始めた。清良は物語の世界にあっという間に入りこんだ。
第一章にアンは出てこないものの、いきなり出てくるリンド夫人は愉快だった。
アン登場。おしゃべりだと聞いていたけど、まったく、本当におしゃべりで、そのおしゃべりには…笑いが止まらない。アンは、初めて見るものに次から次へと疑問を抱いて、どうして、と聞きまくり、うんざりされる。でもアンは全然こたえてなくて、冷たくあしらわれても「これからわかることがたくさんあるのって楽しい」なんて言うのだ。まさに天然の能天気。
「だって、なにもかも知ってることばかりだったら、半分もわくわくしないもの」。
うん、確かに。私、さっき世界中に飛び立つ飛行機を見てて、自分がちっぽけに見えたけど、これから大人になって、いろんな国に行けるんだと思ったら、わくわくしたもの。
きれいなものが好きで、花を見て花嫁さんを想像したり、湖には〝輝く湖水〟、並木道には〝歓喜の白路〟なんて勝手に名前をつけたり。想像力がたくましいんだよね、アンて。私だって、ちょっと前までは、いや今でも…かな、こうだったらいいなあっていろいろ想像するよ。
ぴったりする名前を考えつくと、アンは体がぞくぞくっとするんだって。隣りにいるマシュウに、おじさんもぞくぞくすることある?って聞くと、マシュウは土を掘り起こしたとき白い気持ち悪い虫を見るとぞくっとする、って答える。おかしい! アンのいうぞくぞくって、そういうぞくぞくじゃないのに。たとえば…私が、ブラックの「アトリエⅠ」の絵を見たときに感じた火花みたいなものよね? そうじゃない?
アンっていう名前がちっともロマンチックじゃないから、コーデリアと呼んでください、だって。よりにもよってコーデリア! いくらなんでもそれはシェイクスピアの時代でしょー。いや、人のことはいえない、私もジュリエットっていう名前に憧れたことある。〝清良〟なんて、外人みたいな名前がいやだと文句を言ったことがあったくせにね。
清良は読みながらくすくす笑い、心の中でアンに話しかけていた。
マシュウとマリラが孤児院に頼んだのは男の子で、自分は手違いで来てしまったことを知って、大声で泣きじゃくるアン。かわいそうに! 自分の家ができると、あんなにはしゃいで、あんなに喜んでいたのに。
でも、アンは結局、グリーン・ゲイブルズとよばれるマシュウたちの家に引き取られることになった。そのあたりで、搭乗が始まっていることに気がついた。
飛行機に乗ってからも、話の続きが気になって仕方がなかった。窓の外はもう暗くなってしまって景色は見えず、映画もおもしろそうなものはなかった。清良は続きを読んだ。眠っているときと、食事以外は、本から目をあげなかった。
トロントに着陸。入国審査のあと、プリンス・エドワード島の州都シャーロットタウン行きの飛行機に乗り換える。ロバートはこの乗り換えをとても心配し、domestic(国内)のconnection(乗り換え)という案内をしっかり見て進むように、とメモまで渡してくれた。案内板はたくさんあって、英語ができるとはいえ、案の定、迷ってしまった。空港の職員のような人に聞いて、シャーロットタウンの文字が見えてきたときは心底ほっとした。緊張もしていたし、汗もかいていた。
島に着くまでは落ち着かないし、むやみに歩いてまた迷ったら嫌だ。清良は出発ゲートの椅子に座って、『赤毛のアン』の続きにふけった。待ち時間が四時間もあり、ついに最後まで読み切った。
「『神は天におられ、この世のすべてに問題はない』」アンはそっとつぶやいた。
清良は、最後の一文を読み終わると、ほうっと、満足の吐息をついた。まったく、アンは、男の子を叩くわ、親友を酔っ払わせるわ、髪の毛を緑に染めるわ…問題ばかり起こして…想像力でつらいことを乗り越えたかと思えば、おぼれかけたり、怖い思いもして…そうかと思えば勉強はできて…がんばりやさんで。
マシュウが亡くなる場面では、涙を流し、隣りに座っている人から「大丈夫か?」と心配されてしまった。本に没頭すると、自分の周りが見えなくなってしまう。本の中に入り込んで、登場人物になりきってしまうのだ。
笑ったり、どきどきしたり、スカッとしたり、悲しくなったり。清良はアンの友だちになって、時にはアン自身になって、お話の中をかけめぐっていた。
自分という存在をこんなに忘れてしまったことはなかった。読み終わって現実に引き戻されても、しばらく現実と本の世界との境をさまよっていた。
これは…これは…ああ、なんでもっと早く読んでおかなかったんだろう。おしゃべりな女の子が楽しく過ごすお話だと、たかをくくっていた。…なんていいお話だろう。ありきたりな感想だと自分でも思う。でも、他にうまく表現する言葉が見つからない。ただ、胸がじんとあたたかい。がんばろう、という勇気が指先にまで広がっていた。
あと数時間で、アンの島に着く。アンが愛した場所。アンが、世界一美しい島だと聞いていて、実際に住むようになって深く、深く愛した場所。物語だとわかっていても、清良はアンに会えるような気がして、アンが待っているような気がして、興奮した。あれほど乗り気でなく、母をうらめしく思っていた気分は消えていた。
島へ向かう飛行機は、座席が左右三列ずつしかない小さな飛行機で、気流が悪いために激しくゆれた。窓の外は真っ暗で、さらに不安がます。アテンダントが平然とした顔をして、心配いらないと伝えるが、清良にはそう思えない。パニックにならないようにウソを言っているだけなのでは? 初めて乗った飛行機で私が死んだら、お母さんは自分を責めて狂ってしまうかもしれない。ジェットコースターのアップダウンの激しさが延々と続く。いつ終わるの?てか、落ちる!
気持ちが悪い。あまりの揺れに、酔ってしまったようだ。両手がしびれ、冷や汗が出る。額から汗がふきだし、寒さにふるえた。だが、周りの人はだれも取り乱していない。なぜそんなに平然とできるわけ? 大人だから? 本当に安心だと思ってるから? 清良はありったけの自制心で冷静さを装った。
目をつぶり、『赤毛のアン』を胸に抱きしめて、広い草原を思い浮かべた。そうだ、想像力はこういうところで使わなくちゃ。もし落下して死ぬ運命にあっても、気持ちいい景色を想像して、その中で死ぬほうがいい。
アンが窓から眺めたような、タンポポやクローバーが咲き乱れる丘…私はそこにいる…。大風が吹いてきて、私はその風に乗って空に舞い上がる。ゆれているのはそのせい…。清良は自分の世界を作ることにだけ、神経を集中させた。
飛行機は、シャーロットタウン空港に着陸した。清良はいつしか眠ってしまったので、怖い思いはあの時だけですんだ。無事着いたとわかると、肩から力が一気にぬけた。心の底からほっとした。窓の外は相変わらず真っ暗で様子がわからなかったが、窓にあたる水滴で、雨が降ってるのがわかった。
空港はびっくりするほど小さくて、ひっそりしていた。夜中の十二時を過ぎていた。金髪の巻き毛の女性と、女性より背が低く小太りの男性が、清良に気がつくとまっすぐに歩いてきた。
「セーラ…? セーラでしょ?」
女性が間違いないとばかりに念をおす。
「はい」
清良が返事をすると、女性は思い切り清良を抱きしめた。
「あー、一目見てそうだとわかったわ。ツキノにそっくりだもの。ねえ?」
相槌を求められた男性はにっこりとうなずき、自分の番だとばかりに清良を抱きしめた。ずいぶんと長い間一人で、そしてずっと座った姿勢のままだったので、清良の体は固まっていたが、二人に抱きしめられて、緊張がほどけた。やっとたどり着いた…という安心感で、身体に力が入らない。
「私はマリー。ミリーの娘よ。こっちは夫のギャリー。セーラは私たちのうちに泊まってね」
「ありがとう」
二人がとても感じがよく、笑顔で迎えてくれたので、清良も笑顔で応えられた。
「疲れたでしょ。おなか、すいてない?」
おなかはすいていなかったので、そう答えた。ギャリーは清良のスーツケースを持って車に入れてくれた。
真夜中という時間を別にしても、島はまっくらだった。マリーの家へ向かう道路には、街灯がなく、ハイビームで高速並みのスピードで車を飛ばしている。対向車はまったくこなかった。丘をのぼったかと思うとすぐくだり、また丘をのぼっていく。目をこらしても何も見えない。どんな風景が広がっているのか、清良は見たくてたまらなかった。
「今日はゆっくり休んでね。母さんは…ああ、ミリーのことね、落ち着いてはいるの。明日会ってちょうだいね」
「はい…」
「はるばる来てくれて、うれしいよ」
ギャリーが清良のほうを振り返って言った。もごもごしゃべるので、ちょっと聞き取りづらい。なまり…というものか。
「ほんと、母さんもとても喜んでたわ」
運転しているマリーは、バックミラーごしに清良に笑いかけた。マリーの言葉はハキハキしているので聞き取りやすい。
「本当は母が来るべきなのに…すみません。お世話になります…」
清良が申し訳なさそうに言うと、マリーさんはノー、ノーと言った。
「なに言ってるのよ。セーラがきてくれて、うれしいんだから。みんな会いたがっているのよ。子どもが遠慮なんかしないの。ね、ギャリー」
マリーの言葉に、ギャリーは「そうだ、そうだ」とあいづちをうった。
「セーラはお客じゃなくて、仲間なんだから。なんでも言って、ね?」
その言葉には、社交辞令や気遣いはまったく感じられなかった。清良はじんとした。初めて会ったのにこんなにやさしい…仲間なのは母で、私じゃないのに…でも、やっぱり仲間みたいなものなのかな…。友だちと仲間はどう違うんだろ…。そんなことをぼんやり考えていたら、意識が遠のいていった。清良は家についたときにはぐっすり眠っていた。十二時間という時差もあるし、飛行機の中で『赤毛のアン』を夢中で読みすぎたせいでもあった。