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念いのかけら  作者: 奥田実紀
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6 初めての海外

学校で、友だちにカナダ行きを話すのがつらかった。危篤(きとく)の人を見舞うという目的だから、行く清良の気持ちは重い。まして、大事な文化祭前である。それが清良のいちばんの気がかりだった。美術部で出す自分の絵もまだできあがっていなかったし、美術部のブースの飾り作りもあったし、文化祭に出すクラス新聞の制作メンバーでもあったからだ。


 クラス新聞は、全クラスが作らなくてはいけない、いわゆるコンテスト新聞である。内容も担当もすでに決まっていて、これから取材をして記事を書く。そんな大事な時に抜けるのは気がひけた。メイン記事は、清良の母親への「翻訳家インタビュー」(清良は反対したが、多数決で決まってしまった)で、来週インタビューが行なわれることになっていた。清良は母親がおかしなことを言わないよう(その可能性は大いにあったから)、立ち会って、監視するつもりだったが、それもできなくなってしまった。


 清良は、自分のいない間の代役を、須藤に頼んだ。母の訳をあれほど気に入ってくれているのだし、須藤だったらしっかりとインタビューをまとめてくれそうな気がした。彼女以外にぴったりの人はいないだろう。

須藤は快く引き受けてくれた。『赤毛のアン』の翻訳者、それも大好きな訳をした人に会える機会を逃すことなどできようか。須藤は満面の笑顔でオーケーしてくれた。

クラス新聞のメイン記事が清良の母のインタビューと知ってからずっと、須藤は新聞制作メンバーになれなかったことを悔しく思っていた。演劇部は準備や舞台設営などに手がかかるのに部員が少ないため、他のことに関わらないよう部長からお達しが出ていた。

でも、代理だったら、いっときだし、事情が事情だし、部長もきっと許してくれるだろう。いや、許してもらうのだ。


それより何より、清良がプリンス・エドワード島に行くとは! アンの大ファンの自分が行けなくて、アンを読んだことのない清良が行くなんて、不公平だ、と須藤は嫉妬した。行く事情はわかっていても、須藤も人間である。「私と代わる?」なんて、清良は半分本気で言ってたけど、もちろん、そんなことできっこないんだもの。仕方がないことだとわかっていても、須藤は清良を見るたび「いいなー、いいなー」と、しつこく連発せずにはいられなかった。それがせめてもの須藤の嫌がらせだった。このかわいらしい嫌みには清良でも対抗できなかった。


「わかった、わかった。お土産買ってくるから、手紙も書くから。お願いだからそのハートキラキラの目で見るの、やめて」

 清良はまとわりつく須藤をなだめすかす。

「ほんと? うれしー。アン人形がいいなー」

 須藤はうっとりと手を組む。アンが大好きな須藤がどんなにプリンス・エドワード島に行きたがっているか、清良にだってわかる。清良の胸は、申し訳なさでいっぱいだ。できる限りのことはしてあげたい、帰ったらわかる限りのことを話してあげるつもりだ。

それと、借りた『赤毛のアン』も、最後まで読まなくちゃね。清良は機内持ち込みバッグに『赤毛のアン』をそっと入れた。須藤がぜひ、この本を持っていってほしいと頼んだのだ。自分が行けないぶん、せめて本をアンの故郷へ…と。

須藤のしつこさのおかげもあって、清良のふんぎりは、もうついていた。


 出発の日。海外旅行初体験の清良が心配でたまらないロバートは空港まで送ってくれ、ぎりぎりのところまで清良に付き添うと言ってくれた。家を出る時だけは、母は部屋から出てきた。いつも以上にこんをつめているのが、よれよれの状態からよみとれる。顔もげっそりして、声にも力がなかった。


「清良…本当にごめん。仕事終わらせてすぐに行くからね。私がPEIにいた時に、一年間ステイしたのが、ミリーの家なの。あのとき七十三歳だったから、もう九十歳ね。

まあ! 本当に時がたつのは早いこと。私のこと、実の娘のようにかわいがってくれたのよ。ミリーがいなかったら、今の私はないってくらいに。その時だけじゃなくて、それから今までずっと、ずうっと…。


目と足が弱くなった以外は特に病気もなかったんだけど…ごはんをなんにも食べなくなったというから…老衰だろうって。ああ、私が間に合うといいけど! もし…もし…間に合わなかったら…」

母は思い出してまた涙ぐんだ。


「会いたがってるって…いつも…いつも大好きだったと…いっぱい感謝してるって…伝えて…」

 清良にはまったく実感がないが、母の思いのたけは伝わってくる。小さくうなずく清良を、母は強く抱きしめた。「頼むわね…」母は耳元でささやく。

 清良とロバートが小さくなるまで、母は手を振っていた。


 成田へ向かう電車の中で、清良はロバートにおそるおそる尋ねてみた。

「お母さんが、プリンス・エドワード島に住んでたってこと、ロバートさん、知ってた…?」

 ロバートは、はっとし、そのあと静かに口を開いた。

「ああ……」

「話してくれる」

ロバートはふっと息をついてからこう言った。

「勤めていた会社をやめて、ワーキング・ホリデーで行ってたそうだ。二十四歳の時って言ってたなあ」

 清良は「ワーキング・ホリデー」が何かわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。


「…私、知らなかったんだよ…お母さんがその島に行ったことがあるなんて」

 それも、一年も住んでただなんて。清良はくちびるをかみしめた。ロバートは困った顔をした。

「じゃあ、お母さんが『赤毛のアン』を訳してたってことも、知ってる?」

「……清良、知ってたのか…?」

「友だちが教えてくれた…」

清良は窓の外を見つめた。ロバートは、私が知らないと思っていた。やっぱり、母は隠してたんだ。清良は嫌な気持ちがした。


「…ロバートさんは知ってて…どうして話してくれなかったの。私、なんにも知らなかったんだよ。お母さんが『赤毛のアン』を訳してたってことさえも。お母さん、訳した本は必ず書棚に入れておくのに、『赤毛のアン』は…『赤毛のアン』だけ、なかったよ。

なんで、なんで隠すの…。友だちは、お母さんが訳した『赤毛のアン』が大好きだって、言ってた。そんないい本なら、隠すことないじゃない。むしろ、すすめるべきじゃないの。


これから行く島だって、アンの舞台じゃない。そんな大事なことも黙ってる。お母さんだって、『赤毛のアン』が好きだったんじゃないの? それなのに、どうして話してくれないのよ。自分が行けないからって、なんで私が行かなくちゃいけないの。なんにも知らないのに…お母さんは勝手だ…」

 清良は一気に不満をぶちまけた。ロバートは目をふせ、しばらくしてから言った。

「話したくても話せなかったんだよ…」

「そんなの、納得できない。勝手だよ……大人は」

「うん、清良からすればそうだよね…。でも、今度は…話してくれるさ…」

 ロバートはうなだれる清良の頭に手を乗せた。清良の心の中はまだふつふつと沸き立っていた。ロバートの手のぬくもりが、少し落ち着きを取り戻させた。


月野(つきの)の口から直接聞いたほうがいいから、ぼくはこれ以上は言わないけど、でも、清良が島に行く前に、これだけは話しておくよ。

月野は小さいころから『赤毛のアン』が大好きだった。それで会社を辞めたあと、あの島に行ったんだ。そう、アンの舞台になった、憧れの島にね。そして一年暮らして、島がもっともっと大好きになった。住んでみてわかったこともいっぱいあった。

月野は、自分の言葉で『赤毛のアン』を訳してみたくなった。自分が肌で感じた感覚で、アンを伝えたいと思ったんだね。月野は、夢だった翻訳家になろうかどうしようか迷っていたんだけど、とにかくやってみようと決心した。


日本に帰って、訳した原稿をあちこちの出版社に売り込んで、断られた。だって翻訳家としてはまったく名前もない素人同然だったんだからね。でも、やっと受け入れられたんだ。『赤毛のアン』は、月野が初めて翻訳した小説で、翻訳家としての第一歩だったんだよ」

 清良はじっと聞いていた。少しずつ、つながりが見えてきた。初めて翻訳した小説…。そんな記念すべき本を、母はどうして隠していたのか。まだまだ疑問があったが、ロバートがそれ以上話そうとしなかったので、清良もふれないことにした。


 ロバートは清良が海外旅行が初めてだということをチェックインカウンターで熱弁し、客室乗務員が搭乗ゲートまで案内してくれることを確認すると少しほっとした表情をした。保安検査場の入り口で清良と分かれなければならないロバートは、うるんだ瞳で清良を抱きしめたあと、やさしく言った。

「月野は…清良は違うっていうと思うけど…しっかりした人だよ。清良は、月野のほんの一面しか見えてないだけさ。人にはいろんな面がある。いろんなこと抱えてる。それを隠して必死に生きてるんだ…」

「……」

「ほら、清良の好きなジョルジュ・ブラックの絵。いろんな面から見た姿を一枚の絵に描いているだろう? あれと同じなんだよ。キュビズム…。人間はキュビズムなんだ」

清良はブラックの絵を頭に描いた。自分はブラックが好きだと言っていながら、母のことはほんの一面しか見ていないのだろうか。

「難しいかなあ…」

ロバートは頭をかいた。


「何を言おうとしてるか自分でもわかんなくなっちゃったけど…でも、月野は清良のこと愛してるんだよ。それだけは、忘れちゃだめだよ。なにもかも一緒にして、怒っちゃだめだよ」

 ロバートは、グッドラックの印をした。清良も同じようにし、「ありがと!」と手を振った。本当にやさしい、ロバートさん。ロバートさんがお父さんだったらいいのに。


 出発ゲートは開いていない。まだ一時間半もあるのだ。待合所には誰も座っていない。ロバートが念には念を入れて、早めに(だいぶ早かったが)清良をゲートから送り出したのだ。とりあえず、場所はわかった。十七:〇五 トロント。間違いない。清良は表示を確認してひとまずほっとした。

そして、初めて乗る飛行機に目をやった。飛行機に荷物を積み込む係の人間たちが、小人みたいにちいさい。ちょこちょこと動くさまは、ロボットみたいである。日光を浴びて照り輝く機体は、新品みたいにまっしろで、それに乗り込む自分は、特別待遇のお姫様のようだ。


あれは…ニューヨーク行き。こっちは…シドニー。こっちはコペンハーゲン。コペンハーゲンって、どこの国にあったっけ…。清良にとっては今回が初めての海外。清良は細長くのびる出発ゲートを、順番にのぞき込みながら、世界の大きさにふれていく。自分が知らない国、行ったことのない国がたくさんある。

トロント行きの出発ゲートに戻ったが、まだ開く気配はない。空港の探検にもあきたので、清良は椅子に座り、カバンから『赤毛のアン』を取り出した。お母さんが訳した、初めての本。表紙をゆっくりと手でなぞった。自分の言葉で訳したかった…自分が肌で感じた感覚でアンを伝えたかったんだね…。ロバートの言葉が浮かんでくる。清良はページをめくり、読み始めた。


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