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念いのかけら  作者: 奥田実紀
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5 プリンス・エドワード島

「すごく…お世話になったの……娘みたいに…よくしてもらった…」

 母の涙は、とめどなく流れる。

「ああ、どうしよう……すぐにでも行きたいけど……来週締め切りの原稿が…。まだ半分もできてないのに…絶対に遅らせられない……ああ、どうしよう!」

声がかすれる。嗚咽(おえつ)。母は声を殺して泣いていた。自分の仕事の遅さを悔やんでも悔やみきれず、かといって仕事を放り出していくこともできず、何もできない自分に、母はいらだっていた。(ああ、早くカナダ行っていれば。私が決心していれば)。


清良は、映画やドラマを観て泣く母は見ているけれど、こんな切なく泣く母ははじめてだ。よほど大切な人なのだろう、清良にはわからないけれど。わからないってことは、本当に困る。清良は母のそばにかけよって、肩を抱きしめることしかできなかった。母をまともに見ることができない。


「そうだ…せめて……」

母はそういって、ゆっくりと顔をあげ、清良を見すえた。

「お願い、清良、私のかわりに…行って……」

 清良の手を強く握りしめる母。

「え…ええっ…?」

 目を丸くする清良の返事も聞かず、母はふらりと電話へ近づき、かけ始めた。

「ちょ、ちょっと……」

 母は「そうよ…そうするのがいい……それしかない…」とひとりごとをつぶやいている。


電話がつながったようだ。母は英語で話し始めた。手紙をもらってびっくりした……どんな状態なのか……すぐにでも飛んでいきたい……でも延ばせない締め切りがある……。

清良は、英語で日常会話ができるので、会話の内容がわかった。母はロバート以外の外人とも交流があって家によく招いたし、小さいころから〝英語だけを話す日〟があった。


……急いで仕事を終わらせてすぐにかけつける……その前に、娘をそちらに行かせようと思う……。

えーっ。私、行くなんて言ってないよ。急に言われたって、私だって学校あるんだよ。清良は母にかけよって、腕をひっぱった。母は、手で清良を制して、どんどん話を進めていく。…便を調べてすぐチケットを……詳しくはまた連絡するから……。受話器をおくと、

「清良! 一生のお願いだから! ね! ごめん、ごめんね…お願い…」

 母は清良を抱きしめ、また泣き始めた。ああ、もう…。いつもなら怒るところだが、こんな母を前にして断ることなどできなかった。


「わかった……」

 母はさらに強く清良を抱きしめた。時間は十一時を過ぎていた。

「さ、早く準備しなくちゃ。まずはチケット…それから、パスポート! ひゃあ、清良、パスポート取ってたっけ…??」

母は混乱していた。

「あるよ。去年だったか、ハワイつれていくとか言って取ったじゃん。そのあと仕事が入って旅行がキャンセルになっちゃってさ…」

清良の声は沈んでいた。お母さんはいつもそう。自分でどんどん進めて、ぬか喜びさせておいてドタキャンするんだ。母は「よかったー」と素直に喜び、

「荷物は、清良のほうで頼むわ。お母さんの大きなスーツケースに詰めればいいから。今、出してくる」

 と書斎へ飛び込む。


「あのさ……私、どこ行くわけ?」

 清良は母の背中ごしに冷ややかな視線をなげた。

「ピーイーアイよ。あ、あった、あった」

 母はスーツケースを出してきて、清良に渡した。

「ピーイーってどこっ」

 清良は口をとがらせた。さっぱりわかんない。

「ピーイーアイ。プリンス・エドワード(アイランド)の略。カナダの東にある島よ」

 母はそう言って、パソコンを開いた。インターネットでチケットをチェックし始める。清良はスーツケースを持って自分の部屋へ引き下がった。ああいう目つきになった母に、何を言っても無駄(むだ)なのだ。


 清良は部屋の椅子にドカッと身を投げ出した。あーあ、とんでもない展開になっちゃったよ。清良はぼうぜんと机を見つめた。置いておいた『赤毛のアン』が目に入る。今日、須藤が貸してくれた本だ。母が訳した本。私が読んだことのない本。

 清良はパラパラとめくってみた。アンの言葉がぱっと目に留まった。


「プリンス・エドワード島は、世界でいちばん美しいところだといつも聞いていたから、自分が住んでいるって、想像していたの。でも、本当に住めるなんて思いもしなかったわ。想像していた夢が叶うのって、すばらしいわね」

 プリンス・エドワード島だって? 私が今度行くのは、たしか、プリンス・エドワード島だよね?


 清良は最初のほうをざっと読んでみた。孤児(こじ)のアンは、プリンス・エドワード島に住むマシュウとマリラという老きょうだいと一緒に住むことになる。自分の家ができると喜ぶアンだったが、きょうだいが欲しかったのは男の子だった。アンは絶望するが、マシユウがアンを気に入り、最終的には引き取られる。


つまり――プリンス・エドワード島は『赤毛のアン』の舞台なのだ。そして、この島は架空の場所ではなく、現実にカナダにあるわけだ! 私はそこに行くのだ。お母さんの代わりだけど。

お母さんは、アンの島に行ったことがあって、ミリーさんとやらにお世話になった。お母さんがアンの島に行ったことと、『赤毛のアン』を訳したことは、関係しているんだ。そして、それは、自分にも関係のあることなのだと、清良は直感した。


 奥付の、初版発行年月日は、清良が生まれる二年前になっている。お母さんは翻訳家になったのは、このころだったと聞いた。プリンス・エドワード島に行ったのは『赤毛のアン』を訳す前なのか、あとなのか。

私はお母さんの代わりに行くわけだから、聞いておかなきゃ。話が通じないんじゃ困るし…。


しかし、翌朝母はいつものようにぐっすり寝ており、学校から帰ってきたときは、ものすごい形相で仕事をしていた。仕事を早く片づけて島に行こうとしているのだ。迫力がいつもとまったく違う。

台所のテーブルの上には、チケットが置いてあった。出発日は明日だった。明日、十七時〇五分、成田。トロントで乗換え、その日の夜二十三時五十五分に島に着く。二十三時五十五分って…真夜中じゃん…。


【学校には連絡しておいた。ここにあるのは先方へのお土産。悪いけどスーツケースに入れて。空港まではロバートがついていってくれる。私が送っていきたいけど、早く仕事を終わらせて私が行くためには少しの時間もおしいの。ごめんね。十三時ここを出発よ】


 母のメモがついていた。清良はため息をつき、部屋で残りの荷物を整えた。このぶんでは、母からはなにも聞けそうにない。


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