4 最後の文化祭
部活を終えて家に帰ると、母の友人のロバートが来ていた。
「おかえりー」
ロバートは紺色の作務衣姿にエプロンをつけ、清良を出迎えた。
「わあ! ロバートさん、来てたんだ!」
清良はロバートに抱きついた。
ロバートはアメリカ人で、英会話学校の先生をしている。来日してはや十五年。日本の伝統文化をこよなく愛している。日常生活でも着物や作務衣を着て、下駄をはき、剣道を習っている。
日本語はペラペラで、日本が気に入っているだけでなく、ついに日本人の奥さんまでもらってしまった。奥さんは、お花の先生。国際結婚なんてだめだと、最初は反対していた奥さんのご両親も、ロバートに実際に会ったら、日本人よりも日本男子たるロバートをすっかり気に入ってしまったのだという。何度も会って話したり、お酒をくみかわすうちに、ロバートの外見だけでなくて、内面にも惚れたそうだ。奥さんのお父さんは、国際結婚に偏見を持っていたことをロバートに謝ったんだって。
お母さんとロバートのつきあいは、ロバートが日本に来てからだから、ロバートは私を生まれた時から知っている。おむつを何回替えたことか、としょっちゅう言われて子ども扱いされている。
清良の家が母子家庭で、母親の月野があまり料理を作らないのを見かねて、時々家に来て、料理を作ってくれる。一人暮らしが長かったので、ロバートは自炊もお手のものだ。ロバートが来てくれると、清良は夕食を作らなくてすむので助かるし、何より料理が断然、自分が作るよりもおいしい。ロバートは自宅では台所には立たないが、あえてそうしている、奥さんをたてているのだと言った。
「今日のごはん、なに?」
「肉じゃがと、ほうれん草のごまあえ」
鍋を開けてみると、だし汁がたっぷりしみこんだじゃがいもから、湯気がのぼった。
「おいしそー! ね、早く食べよ。お母さんはまだ寝てるの?」
「うん。五時くらいから部屋にこもりっきり」
「まったく!」
清良が母親を起こしに行こうとすると、ロバートは、
「じゃあ、ぼく、帰るね。ハニーが待ってるから」
そう言ってエプロンをはずした。ロバートが帰るという時は、奥さんが家で料理を作って待っている時。奥さんが仕事でいない時は、清良たちと一緒に食べていく。
清良はロバートと一緒にごはんを食べるのが楽しみだった。ロバートは話題が豊富で話していて楽しいし、母と二人の食事は味気ないものではあった。ロバートが帰ると知って、清良はがっかりしたが、顔には出さなかった。
「ありがとう! いつも助かってるよお。今日は特にね…くたびれちゃって。文化祭に出す作品の追い込みで、神経すりきれたー」
清良は大きくのびをした。
「おお、文化祭! セーラの学校は七月でしたね」
「うん。来月だよ。二十二、二十三日。私の力作、見にきてくれるでしょ」
「もちろん! ハニーと二人で行くよ。今年もまた油絵かい?」
「そう。今年は最後だからね、大きいサイズに挑戦してるんだ」
美術部の清良をはじめ、文化部の三年生は、文化祭を最後に引退し、受験体制に入る。文化祭を、秋ではなく夏休み前に行うのは、受験勉強のためだ。夏期受験講習でついた生徒達の受験への意欲を、文化祭で切らせないためだ。暑い時期の文化祭は、生徒の間でも評判はよくないが、清良は気に入っている。梅雨が明けてすぐだから、雨の心配はほとんどないし、緑が生き生きしていて爽やかだ。
それに、梅雨の間、作品をゆっくりと仕上げられるのもいい。油絵の具はもともと乾燥がゆっくりだが、梅雨はもっと乾くのが遅くなるので、清良のように、じっくり考えながらぽつんぽつんと描いていくタイプにはありがたい。雨の音を聞きながら、静かな部屋で絵を描くムードも好きだ。雨はもともと、きらいじゃない。
中学校最後の作品は、百号という大きさに挑んだ。描くのは美術部の部室。清良は静物画が好きで、風景や人物を描いたことはほとんどない。好きな画家ジョルジュ・ブラックが大いに影響していて、使う色も暗い。勝気で、元気がよい清良が、なぜ、性格的に似ているピカソより、地味なブラックの絵が好きなのか、部員たちには理解できないようだ。
巨匠ピカソの親友だったブラック。二人はキュビズムという新しい絵画の世界を作り上げた。キュビズムというのは、一つのモノを、一つの視点ではなく、別々の角度から見たイメージを一つの絵の中に合成する技法。いったい何が描かれているのかわからないと、当時は理解されなかったという。何事も最初にやった人はあれこれ言われるものなのだ。
ピカソとブラック。絵は似ているが、清良の目から見るとまったく違う。ピカソの存在で影が薄いが、淡々と自分を見つめ、現実を見つめるブラックの絵のほうが、清良は好きだった。自分にないものに人は憧れる。ブラックの絵で、清良はバランスを保っているかのようだ。リビングには、清良が模写したブラックの「アトリエⅠ
」が掛かっている。
「グッドラック! 楽しみにしてるよ!」
ロバートは人差し指と中指をクロスさせた。清良も同じしぐさを返した。帰りぎわ、「あ、それと、速達が来ていたので電話のそばにおいておいたから。月野に渡してください」と言って出て行った。
清良が速達のことを思い出したのはお風呂上りだった。夕食やら片づけ、宿題などをしているうちに忘れてしまっていた。速達は、外国からのエアメールだった。
「お母さん、速達来てた…カナダ…だって」
「はーい」
母は無造作に受け取り、封を開けた。読み進むうちに、母の顔はこわばり、血の気がひいていく。手から、手紙が机に落ちた。母は顔を手でおおって、うめいた。
「どうしたの?」
清良が聞いても、何も言わない。母の手の間から、涙が流れ落ちていった。
「お母さん!」
清良はびっくりした。
「ミリーが危ないって……もう時間がないだろうって…」
危ない、時間がない…つまり、死ぬということだろう。だが、ミリーってだれ? カナダから来た手紙だから、カナダ人なのだろうが、清良には心当たりはない。清良が知る限り、母はアメリカやイギリスには行ったことがあったが、カナダはなかった、はず。