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念いのかけら  作者: 奥田実紀
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2 母が訳した?

 瀬川月野(つきの)は、清良の母で、翻訳家(ほんやくか)だ。翻訳ペースが遅いので、一年に翻訳できる数は限られているが、十五年ちかくやっているだけあって、家の書棚(しょだな)には今まで手がけた本がずらりと並んでいる。版権の切れた名作もの、特に児童書が多く、母は参考資料に、あらゆる出版社の名作全集を揃えていた。


清良は小さいころから、書棚のそれらの本を、自由に読んで育った。本はいつもそばにあった。読まなくてはならないものではなく、読みたくてたまらないものでもない。毎日友だちと遊ぶように、しぜんと本を読んでいた。清良は、名作といわれる作品のほとんどは小学校のうちにすでに読んでしまっていた。


 だが『赤毛のアン』は読んでいなかった。書棚になかったのだ。清良は気にもとめなかった。なければないでよかった。おもしろい本は他にたくさんあったから。


 清良は今、母が『赤毛のアン』を訳したことを初めて知った。母が『赤毛のアン』を訳していたなんて…。全然知らなかった。母から聞いたこともない。母が訳した本なら、書棚にかならずあるはずなのに、ない(書棚の本は隅から隅まで知っている)。

 どういうこと? 同姓同名とか? それはないはず、翻訳家協会の名簿見たことあるし。

じゃあ、訳してないのに訳したことにしたとか? ううん、仕事にだけは厳しいあの母に限ってそんなことするはずない。訳した本を書棚に置かないことも絶対にありえない。家事はともかく、仕事のうえでのルールはちゃんとしている。

 ってことは…隠してる…?


 もやもやしたまま、放課後になった。掃除当番が終わり、部活へ向かう清良は廊下で「瀬川さん…」と声をかけられた。振り向くと、須藤だった。

「ちょっと…いい?」

 清良はうなずいた。自分からは声をかけづらかったので、須藤から話しかけてくれて、ありがたかった。

「この間、保健室で…ごめんね…。『赤毛のアン』のこと突然言われて、びっくりしちゃっただけなの。荷物、片ずけてくれたんだもん、本見られて当たり前だよね。


私、疑ってるみたいな言い方しちゃったかなって…あとから思って…。そんなつもりなかったの。瀬川さんのこと、ちっとも悪く思ってないんだよ、それをどうしても…言いたくて。瀬川さん、気にしてるんじゃないかと思って…早く言おう、言おうと思ってたんだけど…ごめんね」

 あやまられるとは思っていなかった。めんくらったが、気まずさが解けて、清良はほっとした。本当は須藤と話したかった。須藤が自分が悪かったと思っていただなんて、申し訳ないことをした。顔だけじゃなくて、心まできれいな子なんだな、と清良は感じた。


「そんな…。あやまらないで。私のほうこそ、のぞき見したようなもんだから、(きら)われたかもって反省してたんだ。私のほうこそ、わざとのぞいたんじゃないって、早く言えばよかった、ごめんね」

 清良の言葉を聞いて、須藤はぱっと笑顔になった。


「よかったー。暗い人間だって、瀬川さんに嫌われちゃったかも、って気になってたんだ」

 清良も、須藤も、互いに嫌われたと思って、それを言い出せなかったことがわかり、顔を見合わせてふきだした。

「誤解が解けてよかったー」

「うん」

 緊張がゆるんだ須藤は、秘密を打ち明けるように、そっとささやいた。

「瀬川さん、この間、『赤毛のアン』のこと、聞きたそうだったでしょ。あの本ね…私の愛読書なんだ…。おかしい…?」

 本好きの清良である。おかしいなんて思うはずがない。首を横に振ると、安心したように須藤が続ける。


「いつも持ち歩いてるの。何度も読んでるうちにセリフも覚えちゃった」

 ふうん。あんなに汚れるまで、何度も読んだんだなあ。うちの書棚にも、古い本がいっぱいある。風化して、めくるだけでパラッと紙がやぶけちゃうような年代ものとか、お母さんが何度も何度も読むから手垢(てあか)がついてたり、ページが取れそうになったり、カバーが破れたり…。


 須藤はカバンから『赤毛のアン』を取り出して清良に見せた。

「こんなに古くなっちゃったけど…だからって、新しい本に買い替えるって、いやなの。中はちゃんと読めるんだし…今まで持ってた愛着までが全部、消えちゃうみたいに思わない?」

 須藤は、まっすぐに清良を見つめてたずねた。


本の買い替え。清良の家では一度もしたことがない。古ぼけたまま、破れたままでも、ずっと書棚にある。家族の一員みたいな顔をして。いや、実際、家族の一員なのだ。

 その場所に、おんなじ体裁の、まったく同じ本が並んだら…あるいは、古いほうを捨てたとしたら…。それはもう、瀬川家の書棚ではなくなってしまうだろう。いるべき人がいなくなったようなむなしさ? 

あるいは、他人に入り込まれて落ち着きがなくなっちゃう、みたいな。他人…そうだ、新しい本というのは、ある意味他人なのかもしれない。

同じ本だからといって、前の本と同じ愛着を持てるかどうか、清良には見当がつかなかった。


「何度も読んでる本って、読んだ場所や、時間や、季節や…そのとき感じた(おも)いとかさ…そういうものをすべて、共有しているんだよね…」

清良はぽろりとつぶやいた。

「そうなの! ああ、まったくそのとおりなの。ああ、瀬川さんはやっぱりわかってる!」


清良は須藤と今まで同じクラスになったことはない。美人だが無口でおとなしい須藤と今まで何となく距離を感じていたが、今、こんなに親しく本のことを話している。本が好きで、本への思い入れ方も同じ。清良はなんだかうれしくなった。

「瀬川さんも本が好きだろうって、思ってたんだ」

 須藤は今まで清良が見たことがない笑顔になった。

「好きっていうか…当たり前みたいに家にあったからね…。あ、でも…『赤毛のアン』は…実は読んだことないんだ…」

 清良は正直に告白した。

「え…?」

 須藤は意外だという表情をした。

「お母さんが訳した本なのに…?」

 今度は清良が意外な表情をする番だった。

「知ってるの?」


「うん。友だちから聞いた。みんな知ってるんじゃないのかな、瀬川さんのお母さんが翻訳家だってこと。かっこいいって」

 かっこいい…翻訳家が? 清良は思わずふきだした。化粧もせず、髪をかき乱しながら、うず高く積まれた本にはさまれて、奇声を発したり、英語とも日本語とも聞き取れないようなふしぎな言葉をぶつぶつつぶやいている母。

夜型人間で、私が朝学校に行くときだってぐーぐー寝てんのよ。学校から帰れば、料理も作らずに仕事に夢中になってるし。家の料理人が、中三の娘だなんて、信じられる?

「地味な仕事だよ、ほんと。なにがかっこいいんだか…。もし須藤さんが翻訳家になりたいと思ってるなら、やめたほうがいいって、自信を持ってアドバイスします」

 清良は先生みたいな口調で言った。須藤はきょとんとし、

「そうなの? まあ、毎日一緒にいる人がそう言うんなら、アドバイスをありがたく受けとくわ。もちろん、翻訳家になりたいと思ったことないけど」

 と、くったくのない笑顔で答えた。アハハハハ。清良も笑った。なんだか、前からの友達みたい。


「翻訳って、何が楽しいのかな、って思うことあるんだよね。だってもともとは、外国の、誰かが書いた小説でしょ。自分が書いてはいないわけよね。書かれたものを忠実に日本語に直すだけなのよ。日本語に訳されたその本がおもしろい、って評価されても、結局は、それを書いた外国の作者の力じゃない?

 だったら、誰が訳してもいいわけだし…自分で小説書いてそれが売れたほうが断然楽しいんじゃないか、って思うんだよね」

 清良はため息をついた。


〝訳す〟という意味がわかったのは、小学校の三年生くらいの時だった。「お母さんはなんで自分で本を書かないの?」と聞いたことがある。素朴な疑問だった。母はまゆをひそめ、「それにはもっといっぱい勉強しないといけないのよ」と言った。あれからもう何年も過ぎて十分に勉強したと思うのだが、母はやはり自分で本を書いてはいない。

母子家庭だから、仕事が優先なのはわかるけど…たまには…いいんじゃないの? 『たのしい川べ』とか『ピーターラビット』とか…『ピーター・パン』みたいに、誰かのために――つまりは私のために物語を書いてくれたらって、ずっと夢見てたのに。

お母さんが翻訳してる横で、静かに書棚の本を読んでいた私は、それはそれで楽しかったけど…でも、寂しかった。同じ部屋に、同じ空間にはいても、遠くに感じていた…。

清良は小さい自分を思い出して、胸がちくんと傷んだ。須藤はうーん、と考え込むしぐさをし、慎重に話し始める。

「『赤毛のアン』ってね、いろんな人が訳してるけど、私が最初に読んだのは瀬川さんのお母さんが訳した本だよ。小学校の三年生くらいの時だったかな。あっという間にひきこまれて…すごくおもしろくて…大好きになった。アンみたいな女の子になりたいって憧れた。憧れだけで…その通りにはなれなかったけどね。そのあともいろいろ本を読んだけど…やっぱり、アン以上にのめりこめる物語はなかったなあ。

 瀬川さんのお母さんの『赤毛のアン』を何度も何度も読んで…。そんなに好きなら続きを読みなさいって、母から『アンの青春』を渡されたの」

「え、赤毛のアンって、続きものだったんだ」

清良は驚いて口をはさんだ。


「そうなの。私もそのとき初めて知ったの。でも、アンにまた会えると思ったらうれしかったな」

須藤はさらりとそう言って話を続けた。

「訳した人は別の人だったの。でも、そんなこと、小学生にはわからないし、どうでもいいことじゃない? 瀬川さんのお母さんが訳したってことも、中学になってから知ったことで、それまでは気にとめてなかったし…。あ、こんなこと言って、失礼だよね…」

清良は頭を振った。訳者の名前なんて、誰も気にとめてないのはわかっている。私だって、お母さんがそういう仕事をしていなかったら同じだもの。須藤はほっとした様子で続けた。

「それでね、お母さんからもらった『アンの青春』を読み始めたんだけど、なんだか、雰囲気が違うんだよね。アンの周りの人もだけど…特にアンのおしゃべりがね、アンの言葉に思えなかった。別の女の子みたいだった。つっかえるっていうか…ところどころでぱたっと止まっちゃうのよね、なぜか。

それでも最後まで読んだんだけど、なんだか肌にあわないっていうのかな、『赤毛のアン』のときのような興奮がなくて、がっかりしちゃって、母に、これ、アンじゃないみたい、って正直に言ったの」

須藤はひといきついた。


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