19 文化祭の絵
須藤へ出した手紙が着くよりも先に、清良は日本へ帰国した。帰国してから文化祭までは三週間をきっており、泊まりにきた須藤に島での出来事を語り明かした以外、思い出にゆっくりひたるひまもなかった。清良の毎日はあわただしく過ぎていった。
クラス新聞の記事はすべて書き上げられていて、清良にはその記事をパソコンでレイアウトしてまとめる仕事が回ってきた。なれないパソコン操作につまずきながら、夜遅くまで、清良は新聞にかかった。
もうひとつの大仕事、そう、美術部の展示作品。描きかけの大作を仕上げなければならないのだが、なぜか気分がのらない。島に行く前と、帰ってきてからとでは、絵に対する思いが大きく違っていた。自分の絵が暗いだけの作品に思えて、清良の筆はほとんど進まなかった。文化祭を最後に引退なので、絶対によいものを出したいと、あせればあせるほどだめだった。
気分を変えるため、途中で止まっていた、島の風景画を取り出した。りんごの夢を描きなおしていたものだ。その絵を見たとたん、清良は島に引き戻されていた。風のそよぎ、草のにおい、波の音。グレイスたちの笑い声。においも、色も、はっきりと思い出すことができる。清良は今、あの丘に座っていた。深呼吸をすると、もんもんとしていた気分は消えていった。
清良はすがすがしい思いで、続きを描き始めた。この絵を先に仕上げたかったのだ、といわんばかりに、手はどんどん動く。この絵が描きたかったのだ、と清良自身もはっきりとわかった。
そうして出来上がった絵は、りんごの木の下で、白髪の老女と、小さな女の子が手をつないで遠く海と灯台を眺めている景色だった。白髪の老女はミリーおばあちゃん、小さな女の子はゲールだ。意図して描いたのではないのに、いつのまにか二人を描いていた。
でも、あるとき、老女がマリラに、女の子がアンに見えたことがある。あるときは、母と自分に見えたこともある。清良はどきっとした。見る人によって絵の中の人物は誰にでも変身するようだった。絵がひとり歩きしているようだった。
清良が文化祭用に描いてきた、今までの絵よりもずっと小さくて、画材も色鉛筆とパステルを織り交ぜた、淡く、ぼんやりとした、インパクトに欠ける絵ではあったが、清良はこれほど描き終わった時に満足感を感じた作品はなかった。この絵を展示しよう――。題名はもちろん「りんごの夢」だ。
文化祭の日を迎えた。雲ひとつない青空。気温もあがりそうだ。昨日まで準備に忙しく、興奮して睡眠不足でもあったが、気温とともに清良の気分も高揚していた。最後の文化祭だと思うと気合いも入る。
清良は、谷崎が美術部を訪ねてくるまで、彼のことはすっかり忘れていた。お客様に声をかけたり、美術部の説明をしたり、感想ノートを勧めたりと、やることはたくさんあった。来年度の新入生だとわかったら、美術部への入部勧誘も、三年生として忘れてはならない。
「よお!」と元気いっぱいに声をかけてきた谷崎は、島で出会ったときと変わらず、Tシャツにジーンズというラフな服装で、ちゃらい、とぼけた表情もそのままだった。日焼けはあの時より薄くなった感じ。あれから早いものでもう一か月もたった。
お金の入った封筒を、賞状でも渡すように丁寧に清良に差し出す谷崎。清良はお金を貸したことを思い出した。
「助かったよ…ほんとにありがとな」
谷崎は深々とお辞儀をした。清良は約束を守って、ちゃんと文化祭に、それも初日に来てくれた谷崎を見直した。思っていたほど軽い奴ではないのかもしれない。
「夜逃げして、返しにこないかと思った」
清良がいや味を言うと、谷崎はまじめな顔をして、
「おれはそんな無責任な男ではない」
と主張し、「で、打撲のほうはいかがなんですかね?」と切り替えした。
「おかげさまで、すっかりよくなりましたわ」
清良はかしこまって答え、ぷっと吹き出した。「おもしろおかしく私の醜態を周りに話してないでしょうね」と清良は小声で谷崎にささやいた。
「せいらー、おまたせー」
「あ、キクだ」
須藤が教室にかけこんできた。二人は一緒に昼休みをとる約束をしていた。須藤が清良の家に何泊かしてから、二人は名前で呼び合うほど仲を深めていた。
演劇部の公演を終えた須藤は、興奮気味で、顔はうっすら赤みがさし、美しさが際立っていた。しかし、谷崎の顔を見た瞬間、表情が一転した。石のように立ち尽くし、顔はみるみる青ざめていく。
「キク…?」
須藤は清良の前で、またもや――倒れてしまった。
保健室のベッドで眠る須藤のかたわらに、清良と谷崎が座っている。いつもの貧血だとわかってはいるが、今日の須藤は様子が変だった。谷崎を見たとたん、幽霊でも見たような、恐怖の色を浮かべていた。
「ねえ、この子のこと知ってるの…?」
清良はそれとなくたずねたが、谷崎はまったく知らないという。
「おれ、なんかしたかなあ…おれの顔、そんなに怖いか??」
谷崎は清良にたずねる。それは絶対にない。顔だけで冷静に判断すれば、谷崎はイケメンに入る。清良も谷崎も困ってしまった。
やっと、須藤がゆっくりと目をさます。清良の顔をみとめ、横にいる谷崎へと目をうつす…はっとした顔をし、目をそらした。
「大丈夫?」
清良が問いかけると、横を向いたまま、「うん」と答えた。何かを決めかねている感じだったが、顔を谷崎のほうへ静かに向けた。
「…谷崎…さん…ですか…?」
須藤はじっと谷崎を見つめた。驚いたのは、谷崎と清良だ。