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念いのかけら  作者: 奥田実紀
17/26

17 母の告白

あっ、という声をあげたのは谷崎だった。

「なに??」

「おれ、明日帰るんだ」

「そうだったね。せっかく知り合ったのに…もうお別れなんて…」

 もう会えない、と思ったら、清良はさびしく感じた。

「ええと…その…実は…」

谷崎はもじもじしている。また何か、シリアスなことを言うのだろうか…。

「???」

「そのう…頼みが…ある…」

 谷崎は意を決して、清良を見た。

「お…お金、貸してくんない?」

「は?」

 お金…。今までとうってかわって、うさんくさい現実が顔を出す。中学生に向かって…お金って…。清良の顔に不審の色を見た谷崎は、あわてて説明を始めた。

「土産を買うお金なんだ。昨日、財布を見たら、もうカナダドルがなくってさ…。日本円を調べてみたら、こっちも成田からの交通費とか差し引いたら余分がほとんどなくてさ…。土産なんて、なければないでいいんだけどさ、やっぱり、両親にはなんか買っていってあげないとさ、ほら、旅行代カンパしてくれたわけだし…。

その…なんで全部使っちゃったんだ、って怒られるかもしれないけどさ…その、もともともらってたお金だって多くなかったわけで…それで農場に住み込ませてもらったってこともあるし…。

 年下の瀬川さんに、会ったばかりの君に、こんなこと頼むなんてあやしいと思われても仕方がない。ごめん、本当にごめん! でも、他に頼める人がいないんだ。

か、必ず返す! 約束する! 必ず返すから! カナダドルでも、日本円でもいい。頼む! お願いします…」

 谷崎が手を合わせて頭を下げた。まさか、お金を借りるのが一番の目的だったのだろうか?詐欺師? いや、そこまでひどい人間だとは思えない。こんな田舎の島に詐欺師が来るはずもない。本当に、気づいたらお金がなかったのだ、この人は。

清良はあきれた半面、かわいそうにも感じた。谷崎の状況を考えて、自分が貸してあげるのが得策だとはわかる。年下の女の子にお金を貸してほしいなんて、普通は恥ずかしくて言わないはず。貸してあげなくても日本には帰れると言った。でも、この島に来た事情を知った今、手ぶらで帰らせてしまうのはいくら何でも冷たすぎるだろう。

困った時はお互い様…。という言葉が浮かぶ。それに、谷崎なら、ちゃんと返してくれるだろうと、清良は思った。清良の母は普段はたくさんのおこづかいはくれないが、今回は何かあったらいけないと、多めにお金を渡してくれていた。

「わかった。困っているんだもんね。谷崎さんを信じて貸してあげます」

「貸してくれんの? ほんとに?」

 谷崎は心から喜んで、ありがとう、ありがとう、と言いながら思わず清良の手を取った。清良はびっくりして手を引っ込めた。

「あ、ごめん…。あんまりうれしくて…。恩に着る…必ず返すから…」

谷崎はひれふすように頭を下げた。よかったら、五千円を、という金額を聞いたあと、清良は走って家に戻り、母から渡された大事な一万円を谷崎に渡した。びっくりする谷崎に、

「弟さんにも、お土産買って帰らなくちゃ」

 と笑った。

「ありがとな…。ちゃんと返す」

谷崎は一万円札をじっと見つめ、大事なことをやっと思い出して顔をあげた。


「君の…瀬川さんの…家、どこ?」

「東京」

「え、おれも東京だよ。何区?」

「練馬」

「! うそだろ、同じじゃん…」

 二人は顔を見合わせた。

「ち、ちゅうがく…は?」

「桜ヶ丘…」

 まさかね、という思いで清良が答えると、

「と…となりの学区だ…」

 谷崎が呆然とした。日本からこんな遠く離れた場所で会った他人が、隣り近所に住んでいたのだ。これは偶然ではなく、巡り合わせともいえるのではないか。


谷崎も清良も、顔はこわばっていた。清良は鳥肌もたっていた。残念ながら、アンが感じるぞくぞくとは違う感覚ではあったが。だが、近いのは好都合だと気づいた。住所や電話番号を教える必要がない。谷崎を疑っているわけではないが、やはり個人情報は慎重にしなくては(と母に言われていた)。

「ね、どうせ来るなら、七月二十二か二十三日にしてよ。学校の文化祭なの。私、ずっと美術部にいるから、そこに返しにきて。ついでに文化祭も見ていってよ。すごく楽しいから」

 谷崎はちょっと考え、そしてうなずいた。桜ヶ丘中は、弟のともだちも通っている学校だ。そいつらに会えるいい機会にもなる。谷崎は、文化祭にお金を返しに行くことを約束して、清良とわかれた。


 夜、母がやってきた。丸六日間、母と離れていたことになる。母のげっそりやつれている姿は、清良から見てもいたいたしかった。しかし仕事をやりきってきたからか、すでに気持ちの整理がついたからか、すっきりした顔をしていた。マリーたちに会っても、電話のときのように、泣き出すことはなかったので、清良はほっとした。干草塚から落ちたことを怒られるかと思ったが、それにはまったくふれなかった。

 マリーの家にはもう部屋はなく、母は清良と同じベッドで寝ることになった。大きなサイズのダブルベッドでも、二人で寝るときつきつだ。落ち着かない清良をよそに、母はあっという間に眠ってしまった。いろいろ話したいことがあったのにな…。

母の寝息を聞きながら、清良はこの六日間に起きたことを思い出していた。短い間にさまざまなことが立て続けにあった。勝気で元気ないつもの清良はかげにかくれていた気がする。初めてのことばかりで…英語を話せても、どこか不安だった。落ち着かなかった。自分がここにいることが場違いな感じで、夜になると寂しくなった。清良は、母を追いかけるように、眠りについた。この島に来てから初めて深く、眠った。


 翌日、マリーに案内を頼み、母はミリーのお墓に花をたむけに行った。お墓の前に立った母は、長い間目をつぶっていた。何を祈っているんだろう。清良は母の胸にあふれている思いを想像した。一目会いたかっただろうな…間に合わなくてどんなにつらかっただろう。きっと亡くなった知らせを受けたときも、取り乱してパニックして、泣いてたんだろうな。

あとで話してあげなくちゃ。ミリーの最期を。それから、聞きたい。今まで母が話してくれなかったこと、聞きたくても我慢していたこと、思い切って母にぶつけてみるんだ。ロバートさんは、母が話してくれるだろう、って言ってたけど、いつ話してくれるか探りながら待っているのはいやだ。自分から一歩を踏み出さなくちゃ始まらないと、清良は思った。


 だが、マリーが母と二人で話したそうだったので、清良はりんごの夢に、スケッチブックを手にでかけた。黒い線が書き込まれてだめになった絵を、もう一度描きなおしたかった。今度は絵が寂しがらないように、人物を入れるつもりだ。

今まで人物を描いたことがなかったことを思い出す。人物を描くのは苦手だった。手の関節、顔のつくりなど、何度デッサンをやっても、うまく描けず、人物をあえて避けた。でも、それだけだったのだろうかと、清良は自分に問いかける。ゲールに誰も人がいない、絵が泣いていると言われた時のあの衝撃は、痛いところをつかれた、触れてはいけないところに触れられた犯人の気持ちがした。自分は、逃げていたのかもしれない。でも、今度は逃げない。


 絵に夢中になっていて気づかなかった。

「やっぱり、ここだったんだ」

母がそばに立っていた。

「このりんごの木、大きくなったなあ…十年以上来てなかったんだものね、当然かあ…」

 母は大きく伸びをし、清良の横に腰を下ろした。

「あのね…」

 二人は同時にそう言い、顔を見合わせた。

「あ、いいよ、お母さんから」

 清良はぱっと目をそらした。いざとなると、なかなか言い出しにくいものだ。

「うん…」

 母も言い出しにくいのか、しばらく黙っていたが、重い口を開いた。

「ごめんね…清良…。隠してたこと…。昨日、清良のクラス新聞のインタビューがあって、『赤毛のアン』の話が出てね…」

 須藤だ。清良は思わずしゃべりたくなるのを必死でこらえた。

「お母さんが『赤毛のアン』を訳したのは、もう知ってるわよね。清良は怒ってると思うけど、お母さん、確かに隠してた。アンに関する本も、全部…。

お母さん、この島に来て、この島が大好きになって、どうしてもなりたかった翻訳家の道を進もうと決めて、初めて訳した、大事な、大事な本だったけど、隠した…。隠して、目に見えないようにしないと、すぐに思い出しちゃうから…。


この島のことを思い出すと、お父さんと出会ったことも思い出しちゃうし、そのあと結婚して幸せだったことまで、全部つながって思い出しちゃうから。お父さんのこと思い出したら、つらくて、悲しくて、泣いてしまう。泣いたら、止まんなくなっちゃうでしょ…。

思い出さないように、泣かないように、隠した…話すのもやめた。自分の中から消してしまえばそうできるって思ったの…。本当に…ごめんね…」

母は泣きそうな顔をした。


「…そんなに…お父さんのこと…思い出したくないくらい、嫌いになったの?」

 清良は母が父をそれほどまでに嫌いになったとは思いたくなかった。二人の愛が真逆になったとは、信じたくない。母は大きく首を振った。

「違うわ…今だってお父さんのこと大好きよ…」

「じゃあ、なんで?」

 清良にはさっぱりわからない。

「お父さんと離婚したのは、嫌いになったからじゃなくて、仕方なくなの。お父さんの友だちが借金をした時、お父さんはその保証人になったの。私は反対したんだけど、お父さんは友だち思いだから。でもその友だちは払えなくなって逃げてしまったの。お父さんはそれを肩代わりすることになったのよ。

私たちが住んでいた家も土地も借金の肩に取られて、それでもまだ払いきれなかった。このままでは、妻の私にも借金の取立てがくるから、お父さんは協議離婚にふみきったの。お母さんは嫌だったんだけど、お父さんは残る借金を払い切ったら、必ず戻ってくるからって言って、責任を全部かぶって出て行ったの。


一年たっても、二年たっても、お父さんは帰ってこなかった。でも、生活費をね、毎月少しだけど、銀行に振り込んでくれてるのよ。私はお父さんを信じている、今でも待ってる。もう九年にもなるのにね、おかしいでしょ。でも、お父さんは帰ってきてくれるって信じてる」

母が一息ついて、続ける。

「…たぶん…借金はもう返済し終わっていると思う…。なのにどうして帰ってきてくれないんだろう…。あとちょっとかな、ちょっとかな、って待ってるのが、つらくて。もしかしたら、お父さんは責任を感じて…家族に迷惑をかけてしまった自分を、許せなくて…合わせる顔がないのかもしれない…。

 でも、もう…もう帰って来たくなくなったのかも……」

母はさびしそうに目を落とした。


清良はやっとわかった。うやむやだった空白がつながって、今にいたる状況がのみこめた。父と母は、憎みあって別れたのではない。父がいつか帰ってくると言った母の言葉は、嘘ではなかった。母は今も、父を信じて待っている。


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