16 念いのかけら
「アンドリューさんたち…怒ってる?」
谷崎もそうだが、清良はアンドリューとリタにも大きな迷惑をかけた。体の痛さと混乱にまぎれて、何も言わずに帰ってきてしまった。
「いや、怒ってないよ。とにかく心配してた。昨日の夜、だいぶよくなったっていう電話をおばさんからもらって、ほっとしてたよ。あの子は、アン・シャーリーみたいだって、笑ってたな。ほら、アンも無茶して屋根からおっこちたじゃん」
そういえば…。友だちから「あんたなんかに屋根を歩けるはずがない」と言われたアンは、プライドをかけて屋根にあがり、歩いている最中に落ちて足の骨を折ったっけ。一度気絶してみたいと憧れていたアンは、その時あまりの痛みに気絶し、あとから、思っていたほどすてきじゃなかった、とつぶやくのだ。清良はそれを思い出して、苦笑いを浮かべた。
「まあ…たしかにね…」
そう言いながら、清良はあっと顔をあげた。
「谷崎さん、『赤毛のアン』知ってるんだ?」
男性が…それも、こんな軟派そうな若い男が、アンを読むとは思えなかったのだ。
「なんだよ、変な目で見るなよ。そりゃあ、世界的な名作ですからね、教養のある人間が読んでないわけないでしょうが」
谷崎は偉そうに胸を張ったが、
「う、そ。本当は弟に勧められたから」
と正直に告白した。
「それまで女の子の小説なんて興味もなかったし、そんなもの読む男は暗いオタクだと思ってた。だから、弟の机に『赤毛のアン』があった時は驚いたのなんの。女々しい奴だなって言ったら、あいつ、兄さん、既成概念でものを見ちゃだめだよ、これ、読んでみたらすごくおもしろいんだよ、って言ったんだ。おれはまたまた驚いたね」
「へえ……」
「おれはピンときた。こりゃ、女だなって。その本、彼女から借りたのか? って突いてやったら、赤くなりやがった。おれは彼女と別れたばっかりだっていうのによ。で、どこがおもしろいんだ、って聞いたら、うーんってしばらく考えて、こう言った。全体のトーンかなあ、って」
「全体のトーン?」
清良は首をかしげた。
「古いセピア色の写真に、少しずつ色がついていって、きれいなカラー写真になるような感じなんだとさ。でも、古いセピア色らしさは残ってるんだと。他の本では感じたことないって、そこがおもしろいって言うんだ。ああ、そう、弟は写真が趣味だったから、そういうふうに思ったんだろうな」
セピア色の写真に少しずつ色がついていく…。ああ…そんな見方もあるんだ…。油絵を思わせる表現だ。
「ねえ、弟さんって、いくつ…」
清良はそんな感性を持つ谷崎の弟に興味を引かれた。
「四月から中三になるはずだった…」
「中三…? 私と同じだ」
清良が驚いたように言うと、
「え? 同い年? うそだろー」
と、谷崎も驚く。
「なによ、見えないっての?」
「中学生には見えるけど…でも、三年には…」
清良はどんと谷崎を押した。谷崎がよろけながら、いたずらっ子のように笑う。清良はふと思い立った。
「ね、きれいな景色のところに連れてってあげるよ。特別」
清良は、谷崎をりんごの夢に案内した。谷崎にどうしても見せてあげたくなったのだ。
「うわー、これは絶景だな」
谷崎は心から感動した様子で、目を輝かせた。
「りんごの夢っていう名前なんだ、この場所」
清良は得意げに言った。アンドリューとリタの農場も美しい眺めだったが、りんごの夢だって負けてはいない。
「よし、この風景も目に焼きつけておこう」
谷崎はそう言ってじいっと見入った。
「写真は? 写真撮らないの?」
ふしぎそうに清良がたずねると、
「うん、今回は撮らない。今回の旅は、弟の旅なんだ。だから、この次この島に来たときが、おれの旅。写真はその時撮るつもり」
と谷崎はきっぱりと言った。
「弟さんの旅…?」
「あ、意味不明だよな? まあ、ここまでしゃべっちまったし、隠してても仕方ないから言うけど、笑うなよ」
谷崎は清良がうなずくのを待ってから、根元に腰をおろし、口を開いた。
「弟が言ってたんだ。この島に行ってみたいなあ、って。セピア色がカラー写真になっていく様子が感じられるかなあ、ってな。それがかなわずに逝っちまったから、代わりにおれが来てみた。おれが来たってしょうがないんだけどな…。
でも、おれ、来なきゃいけないって気がしてたまらなくなって、飛び出してきた。弟の魂が、おれを導いたんだと思う。弟がこの旅におれを連れてきてくれたと思うんだ。変だと言われても、今は、そう信じられる。この島に来てみて、そう思えた。弟がそばにいるって思えるんだ」
谷崎はそれきり口を閉ざした。じっと遠くを見つめている。
「…私もね、そう思うよ」
清良は熱いものがこみあげ、しぜんと自分のことも話し始めた。
「…私がステイしている家のおばあさんね、この間亡くなったの。私、そのおばあさんの臨終に来たの。おばあさんね、幸せそうな顔をして、安らかに亡くなったの。苦しかったはずなのに、死に顔はほほえんでいた。死を怖がっていなかった。最後に言った言葉はね、神を信じて、自分を信じて、自分を愛してくれる周りの人を信じます、だったよ。…神様のもとに喜んで召されていったんだよ。
おばあさんは、この場所が大好きだったんだって。りんごの夢っていう名前をつけたのも、おばあさん。私、おばあさんのことよく知らないけど、おばあさんがいつもここにいるような気がする。大好きな場所に、いつも笑って立っている気がする。
マリーは、おばあさんは神様のもとへ行ったのよ、って言ったけど、私もそうだとは思うの。でも、おばあさんがここにいるような気がしてどうしようもないんだよね。それは、神様のもとに行ってここにはいないっていう事実とは別のものっていうか…念いのかけら、みたいな…」
うまく説明できないもどかしさに、清良はくちびるをかんだ。
「念いのかけら…か。そうだな、未練っていうのとも違うな。もっとやさしいもの…そんな感じかな」
「うん、そう! そんな感じ」
清良は大きくうなずいた。
「おれ、弟の、そういうやさしい感じの念いを感じ取った時、自分の中の恨みとか怒りとかが消えていくのがわかった。ちきしょー、ちきしょーって、酒飲んで弟を轢いた運転手にも、弟がでかけていったことにも、神様にも、運命だとかぬかす奴にも、すべてが憎くて、許せなかった。
だけど、もしかしたら、弟自身はそんな感情を持ってなかったんじゃないか、ってふと思った。いいんだよ兄貴、って言ってる気がした」
「それは…死を受け入れたってこと…?」
「うーん…よくわかんねえ。弟は死んだ。それは事実だ。そして、残されたおれたちは、悲しくても生きていかなくちゃならない。それも事実だ。現実を受け入れるってことが、死を受け入れるってことなら、そういうことになるかな…おれはやっとそういう気持ちになれたけど、弟はもうとっくに納得してたかもしれない…」
谷崎の目は悲しみをたたえていたが、おだやかだった。
「私、弟さんのことわかんないけど、おばあちゃんと同じように、神様のもとにまっすぐ行ったと思う。自分の死を受け入れて」
清良は息をつめて谷崎を見た。
「ああ…そうだな…そういう奴だったからな…」
吹っ切れたようにつぶやく。
「…ねえ…神様って…ほんとにいると思う? 私、神様のもとに行った、って言ったけど、おばあちゃんやマリーがそう言ったからじゃなくて、宗教とか関係なくて、私は本当に、神様っていう存在は、あると思うんだよね」
「おれも、いると思うよ」
谷崎は清良の問いに、迷わず答えた。冗談の口調ではなかった。
「理屈じゃなく。感じる」
谷崎はうん、とまたうなずいて、
「どこにでも、いると思う」
遠くを眺めたままそう言った。
「ここに来てそう思った?」
「いや…ずっと思ってた」
二人はしばらく黙ったまま、風に吹かれ、灯台を飽きずに見つめていた。知らない間柄だったが、違和感なく、神や心の話ができているのは不思議だった。この島が、そうさせたのだろうか。