13 谷崎尚吾
ミリーが亡くなり、葬儀が終わって、集まった人びとが一斉に帰ってしまうと、誰もいない家の中の静けさがひしひしと迫ってきた。あるじをなくして、家のほうもさびしがっているようだった。
子どもたちは学校へ行き、マリーと清良は、ミリーの家を片づけていた。ゲールは手伝ったり、遊んだり、気まぐれに、行ったり来たりしていた。
マリーがふと目をやると、ゲールは、清良のスケッチブックを床に広げて、手を動かしている。マリーがのぞきこむと、ゲールは昨日清良が描いたりんごの夢の絵に、いたずら書きをしていたのだ。黒い鉛筆で、草原の真ん中に、くねくねとした、わけのわからないものを描き込んでいる。
「ゲール! なにしてるの!」
マリーの険しい声に、ゲールは驚いて泣き出した。その声を耳にし、清良が居間にかけつけた。
「どうしたんですか?」
マリーは答えずに、真っ青な顔をして、清良のスケッチブックを手に立っていた。ゲールはただただ泣きじゃくっている。
近づいた清良は、落書きに気づき、思わずスケッチブックを取り返した。自分の描いた絵の真ん中に、黒い線がぐちゃぐちゃに書きなぐられている。体が凍りつき、声が出なかった。
「ゲール…なんてことを…セーラの描いた絵なのよ…人の絵にらくがきするなんて、いけないことなのよ…」
マリーは怒鳴りたいのを我慢して、ゲールに言い聞かせる。ゲールはまだ泣き止まない。
「こんなことしちゃいけないって、わからなかったの…? …ああ、セーラ…ごめんなさい…なんてことを…」
マリーはうなだれ、こめかみを押さえた。
「ち…がう…! ちが…う! ちがうったら…!」
ゲールはうわずった声をあげた。
「泣いて…たんだよ…絵が…だれも…いないって…」
しゃくりあげる。
「だれもいない…って、どういうこと?」
マリーが怪訝そうにたずねると、
「だれもいないから…悲しいって…絵が…泣いてたんだよ…」
そうゲールが訴える。
「ひっく。だから…あたし…ここにセーラを…描いて…あげたんだ…」
ひっく、ひっく。ゲールは鼻をすすった。
「まあ……」
マリーは返す言葉がなかった。
だれもいないのが悲しいって、絵が泣いていた…? 清良はじっと絵を見つめた。私が描いた風景の中には誰もいない。わざとなにも描かなかった。そういう、しんとした静寂感を出したかったから。
清良ははっとして、その前の日に描いた絵をめくった。そこに、落書きはされていなかった。
「ねえ、ゲール。こっちの絵は、泣いてないの?」
清良は怖がらせないよう、やさしい口調でゲールにたずねた。ゲールはうなずいた。
「そっちは泣いてないよ。だって、カモメさんがいるもん。さびしくないって」
何かがストーンと体の中を走りぬけていった気がした。誰もいない…それが当たり前だと、風景画を描いたけれど、あの時、そばにはグレイスたちがいて、笑い声が響いていた。誰もいないように見えるけど、そこには、描いている自分がいた。
住んでいる人がいて…生きている人たちがいて…あの風景はできあがっている。風景の向こうの見えないところに、人の息づかいがある…無邪気なゲールの言葉は、清良にそのことを気づかせた。人を描いたことのない清良。ことごとく静物画に徹してきた清良に。
「そうっか。泣いてたんなら、助けてあげなくちゃいけないもんね。私が気づかなくちゃいけなかったね。ありがとう、ゲール…」
清良はゲールの頭をなでた。ゲールは落ち着きを取り戻して、にっこり笑った。
「セーラったら…そんなふうに…。本当にごめんなさいね…」
マリーは申し訳なさそうにあやまる。
「いいんです。まだここにいるんだもの、描きなおせます。描きなおしたほうがよくなるって、ゲールが教えてくれたんです」
清良はすがすがしい気持ちだった。
午後。絵をもう一度描き直そうと、清良はりんごの夢に向かった。道路に人の姿があった。男性が一人、汗をふきながら、自転車をいじっている。トラブルをみてとった清良は、思い切って近づいていった。
「どうかされましたか?」
顔をあげた男性は、若い日本人だった。大学生くらいだろうか。真っ黒に日焼けし、汗がしたたり落ちている。清良の顔をくいいるように見つめ、
「ジャパニーズ?」
とたどたどしい英語で聞いてきた。清良がうなずくと、「うあー、ラッキー! 助かったー」と大喜びした。
「自転車がさー、チェーンがはずれちゃって。道具もないし、勝手もよくわかんなくってさ。おれ、日本じゃママチャリなわけよ。こーゆー自転車、まったくだめでさ、困ってたんだよ」
男性は日本語がしゃべれることに安心したのか、一気にしゃべった。ずいぶんと長い時間、自転車と格闘していたようだ。
「私も自転車のことはわかんない。聞いてみる」
清良は男性を連れて家に戻った。マリーも自転車のことはわからないと首をふり、自転車に詳しい弟のボブを電話で呼んでくれた。
清良は男性と一緒にボブを待つことになった。男性は英語がほとんど話せず、清良がいないと話が通じないことがわかったからだ。
男性の名前は、谷崎尚吾、大学一年生。一人旅で来ていて、マリーの家から三キロほど離れた、隣村の農場に泊まっているという。農場を手伝うかわりに、家賃と食事をただにしてもらうよう交渉した。島にはバスや鉄道が走っていないので、自由時間には、農場のおじいさんから借りた自転車で島を走り回っている。
その日は、グリーン・ゲイブルズに行った帰りだった。作者のモンゴメリがアンの家のモデルにした家で、現在は物語にあわせて家の中が整えられ、観光客に一般公開している。家の外には、〝雪の女王〟や〝恋人の小道〟など、アンが名づけた木や小道もある。
グリーン・ゲイブルズのことは、須藤から話を聞いていた。清良も行きたくてたまらなかった場所である。そのグリーン・ゲイブルズが、マリーの家から数キロ先と聞いて、そんな近くに自分はいたのかと思うと、胸が躍った。行きたい気持ちがはやる。
谷崎は、英語が話せる清良がうらやましくて仕方がないようだ。
「やっぱさ、話が通じないっていうのがいちばん困るよな。こっちは単語並べたり、絵を描いたりして、なんとか言いたいことを伝えるんだけど、おそらく伝わってるとは思うんだけどさ、それに対して相手が何言ってるか、わかんねえんだよ。ぽかんとしてると、もういいわ、って顔されて、なんか、情けなくってさ。
こういうふうに言いたいとか、こういう話がしたい、って思っても、話すことも聴くこともできないんじゃ、なんにもならないじゃん。食べ物に困ってても、そのことさえ言えなくってさ。毎日毎日、じゃがいもばっかり食べさせられてうんざりしてんのにさ。いくらじゃがいも農場だからって、三度のメシにじゃがいも出されてみろよ、食べる気もなくなるって」
谷崎はため息をついた。
「毎日じゃがいもが出るの? ほんとに?」
清良は目を丸くして聞いた。
「大げさじゃなくて、本当に朝、昼、晩、じゃがいもが出る。あそこにお世話になって一週間になるけど、じゃがいもが出なかったことは一度もない。一度もだ」
谷崎は力をこめていった。
「じゃがいもが主食だってことはよーくわかった。だけど、マッシュ・ポテトとベイクド・ポテトがじゅんぐりだぜ。その量がすごいんだ、肉なんかぽっちり。おれ、店でこっそりサンドイッチとか買って食べてんだぜ。それでやっとしのげてるんだ」
「たまにはちがうもの出してくださいって頼めばいいじゃない」
「だからさー、英語でどういえばいいのか、わかんねえって言ったじゃん。お前みたいに英語できないんだよ、おれは」
谷崎はむっとして言い返した。
「あ、そっか…」
「まあ…おれのほうから頼み込んで泊めてもらったわけだから、文句言える立場じゃないしね…」
清良は、なんだかいらいらしてきた。英語ができない、立場が違う、というもっともらしい理由は、言い訳のような気がしてきた。谷崎が頼んだとはいえ、居候ではなく、農場を手伝って働いているのだから、フィフティーフィフティーだろう。不満があったら言えばいい。英語ができないといいながら、泊めてほしいと頼むことはできたのだ、食べ物のことが言えないはずがない。大胆なんだか、小心者なのか、さっぱりわからない。
「私、そういうのいやだな…」
「え?」
「言いたいことがあったら言わなくちゃ。せっかく来たのに、我慢ばっかりしてたら、いやな思い出作ってるのと同じじゃない。日本に帰ってあの島はいやな島だった、って周りに悪い感想広めるの? それって、卑怯じゃない? 話し合ったほうがいいよ、そうじゃない?」
谷崎は、初めて会った人間に、ずけずけとものを言ってくる清良にたじろいだ。こいつ…きっつー。
「そりゃあ…そうだけどさ…英語が…」
「だから、それは逃げだよ。泊めてくれって言えたんでしょ、なんでじゃがいものことは言えないわけ?」
……。谷崎は言葉に詰まった。その時、ボブの車が道路から入ってきたので、話は中断した。ボブはあっという間にチェーンを直し、はずれたらどう直したらいいか、コツを丁寧に教えてくれた。長い間使っていない、さびた自転車だったので、あちこち不具合が出ているという。
「これ、どこで借りたの? レンタルじゃないね」
ボブの質問を清良が谷崎に伝え、谷崎の答えを清良がボブに伝える。じつにまどろっこしい。
「アンドリューとリタさんの農場です、ここを三キロほどまっすぐいった…」
「ああ、アンドリューね。あそこに泊まってる? 自分で頼み込んだんだって? そりゃあ、あの二人は喜んだだろ? 子どもたちはみんな家から出ていってしまってさびしいだろうからね。彼らは温厚で、真面目で、働き者だよ。よろしく伝えてくれ」
谷崎はサンキューベリーマッチと言い、深々と頭をさげた。ボブはマリーのお茶に呼ばれ、家に入っていった。谷崎も誘われたが、これ以上お世話になるのは気がひけると断った。
「…じゃあ、帰るよ。ありがとな、いろいろ…」
谷崎はヘルメットをかぶり、自転車にまたがった。
「私が…言ってあげるわ」
「え…?」
「じゃがいものこと。私が代わりに言ってあげる。私、うじうじしてるの、いやなの」
「え…お…おい…」
谷崎がどう対応したらよいか考えている間に、清良はマリーからさっさと自転車を借りてきた。
「さ、後をついていくから先に行って」
清良はヘルメットのベルトを固く締めた。谷崎は肩をすぼめ、
「わ、悪いからさ…。おれ、あさってには日本に帰るし…もういいんだ」
とやんわりと断った。つもりだったが、
「だったらなおさら言わなくちゃ。後味悪いのいやじゃない」
と切り返された。清良の決心が揺らぎそうにないと悟った谷崎は、しぶしぶ自転車をこぎ出した。押しの強い女だな!
清良が島に来てから数日がたったが、マリーとミリーの家から離れたのは葬儀の時だけだった。初めて、自分の足で、遠出している。ペダルをこぐ清良のほほを、風が楽しげに吹き過ぎていく。景色は、どこまでも農場や草原ばかりだったが、ちっとも退屈ではなかった。
はじめはまっすぐだった道は、すぐに下り坂になった。下ったかと思うとまた上り坂になり、必死でペダルをこいだ。急勾配の丘をのぼるのはきつい。丘の上までやっとたどり着くと、そこからは防風林に囲まれた、幾重にもつらなる丘が見下ろせた。
青いリボンのような川が横切っており、川べりに白い教会がたっている。その風景も、丘をすべり降りていくのとともに見えなくなり、下りきったくぼ地では、牛がのろのろと群れていた。
家はぽつり、ぽつりとしかたっていない。道路を歩いている人の姿はなく、清良たちの横を通り過ぎていく車の数もまばらだった。田舎にいるのだということをしみじみと感じ、流れる汗も気持ちよく、清良をさらに解放的にさせた。
前を走っていた谷崎が、丘の上に自転車をとめて、清良を待っていた。追いつくと、
「あれがアンドリューさんの農場だよ」
と指差した。坂を下りきったくぼ地を横切るように川が流れ、木の橋がかかっていた。橋を通って赤い道が、奥まった家まで続いていた。マリーの家のような、古い木造二階建ての白い家で、広いテラスがついている。その横に、赤茶色の納屋がいくつも並んでいた。家をいだくように森があり、その裏の丘一帯は全部じゃがいもの白い花で埋め尽くされていた。反対側の丘は、丈の高い緑の草でおおわれ、吹く風に気持ちよさそうに葉をゆらしていた。
「うわっ、きれい…」
名画のようなロケーションに、清良は息をとめた。
「だろ? おれも一目見て気に入っちゃって、ここに住まわせてもらおうって決めたんだ」
谷崎はうれしそうに笑うと、そのままスイッと丘を下っていった。
アンドリューとリタは食事をすませ、お茶を飲んでいるところだった。二人とも小太りで、日に焼けて赤ら顔をしていた。人のよさそうな顔つきで、笑い皺ができている。嫌な印象どころか、好感が持てた。
「おかえり、グリーン・ゲイブルズはどうだった?」
ダークグレイの短い髪をカールさせたリタが、はちきれんばかりの笑顔で谷崎を迎えた。
「あー…そのー…グッド、ベリーグッド」
谷崎は苦笑いしながら答える。
「あー、ディス イズ…セーラ…。えっと、マイ フレンド」
「オー!」
そういって二人は立ち上がった。清良は握手をした。谷崎の自転車が壊れて、清良がステイしている家の前で立ち往生していたこと、自転車はボブが直してくれたこと、ボブはアンドリューたちのことを知っていることなど、事情を説明する。リタは、
「ほら、やっぱりあの自転車はポンコツだったのよ。古いのは危ないって、言ったじゃないの」
と、アンドリューに文句を言ったが、無事に谷崎が帰ってこれたので口調はそれほどきつくはない。
「お昼食べたの? まだ? 一緒にどう?」
テーブルの上には、マッシュ・ポテトと、ゆでたニンジン、グリンピース、ピクルスが乗っていて、ハムのスライスがおまけのように二枚添えられていた。谷崎がうらめしそうな表情で、清良をみやった。三十分以上自転車をこいできたので、おなかはすいていた。清良はわかったわよ、と目で合図し、お昼をいただくことにした。
食べながら、谷崎は何度も清良の顔を見やる。本当に言うのか、と心配しているのがありありとうかがえる。なによ、いくじなし。清良はすました顔で口を開いた。
「このじゃがいも、とってもおいしいですね」
毎日食べていない清良には、マッシュ・ポテトは実際、おいしかった。アンドリューとリタは顔を見合わせて、ほほえんだ。
「だろ? うちで育てたじゃがいもは逸品さ。PEIポテトの中でも最高品質。なあ、ショー」
ぎくりとしたのは、突然ふられた谷崎だけではなかった。清良の心臓も激しく鳴った。ショー。お父さんもそう呼ばれていたっけ。清良は写真たてに飾られていた、父親の顔を思い出した。
「え、あ、あの…」
「ここのじゃがいもは逸品だって、あんたに同意を求めてるのよ」
清良は説明する。
「オー、オー、イエース」
「なによ、調子いいんだから」
清良は日本語で谷崎にそう言い放ち、二人に向かって話し始めた。むきになるとけんか腰になってしまうので、清良はできるだけしおらしく話そうと気をつけた。
「あの、すごくおいしくても、毎日、三食にじゃがいもっていうのは飽きてくると思うんです。ほら、私たち日本人はお米を食べる民族なんですよね。じゃがいもを食べなれてないっていうか、変化がほしいっていうか、お米とか、スパゲティとか、その、ときどきは違うものを出していただけると、彼ももっと喜ぶと思うんです…」
アンドリューとリタが目を丸くしたので、
「あの、お手間なら無理にお願いはできないですけど…」
と、つけ加えた。
「手間もなにも、ショーはじゃがいもがいいって言ったのよ。ねえ?」
リタはアンドリューの同意を求める。アンドリューは大きくうなずいた。
「そうだよ。おれたちは日本人と暮らしたことないから、どんな料理がいいのか、って聞いたんだ。おれたちは、畑でじゃがいも作ってるし、どうしてもじゃがいもが多くなってしまう。おれたちはいいけど、若い男の子はじゃがいもばっかりじゃ飽きるんじゃないかと思ってね。他にどんなものを出してほしいのか、好き嫌いはないか、って聞いたんだよ」
「そしたら、じゃがいもでいい、じゃがいもが大すきだって、ショーが言ったのよ。他に出してほしいものも言わないし、それならじゃがいもでいいわね、って」
うそ…。なに、それ。清良は谷崎にアンドリューとリタが言ったことをそのまま通訳した。
「えー、他に何がほしいか、なんて聞かれたっけ…好き嫌いのことなんて…ごめん、おれ、聞かれたのかもしれないけど、理解してなかった…。じゃがいも、じゃがいも、って何度も言われたから、じゃがいも大好きだ、って答えたのは覚えてるけど…」
谷崎は口をすぼめ、頭をかいた。清良は、よくわからないくせに調子よく返事をする谷崎の姿を、ありありと想像することができた。適当に答えてしまったのだ。英語の意思疎通ができなかったために、誤解がうまれ、その結果が、毎日三食じゃがいもになってしまったわけである。
「ごめん…おれ…自分のせいなのに、二人のこと悪く言ってた…」
谷崎は「アイム…ソーリー」と、しゅんとした顔でお詫びした。「どうしたの?」と尋ねる二人に、清良が事情を説明すると、二人は同時に笑った。
「なあんだ、お互いに誤解してたってわけか。じゃがいもが生んだ悲劇だな」
アンドリューが愉快そうに言う。
「お互い誤解してたのがおかしいってさ。じゃがいもの悲劇だって」
清良がそう言うと、谷崎は二人の顔を見て、ジョークを理解し、やっと顔をゆるめて笑った。