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念いのかけら  作者: 奥田実紀
10/26

10 風に吹かれて

雲ひとつない、真っ青な空だった。清良は、なかよく並び立つモミの木立を抜け、海に向かって草原をゆっくりと歩き出す。白や黄色やオレンジの野の花が、風にゆれてうなずいている。隣りは農家のようで、まっすぐ張られた木の柵の向こうで、まだらや茶色の牛が、草をはんでいた。

草原はすぐに下り坂になった。斜面を下る清良の足はしぜんと速くなり、やがて風に背中を押されて勢いづき、低いくぼ地に向かって走っていた。両手を広げて下っていくうちに、わーっと大きな声で叫んでいだ。気持ちよかった。


くぼ地にたまった雨はまだ乾いておらず、土は湿っぽかった。つやつやした小さな黄色い花が、群れて咲いている。キンポウゲ…英語の名前はバターカップス。清良はその花を摘み、次の丘をのぼっていこうとした。

その時、ぬかるみに左足がはまってしまった。運動靴はズボッと、足首まで泥の中に沈んだ。靴の中に、冷たい泥が入り込み、どんどん足が重くなっていく。

「ぎゃー!!」

ばっかだなあ、私。清良は左足を力いっぱい、引き揚げようともがいたが、うまくいかない。何度も試すがなかなか抜けないのはどうしてか。右手に握っていたバターカップスの花を放り出し、清良は両手で左足を思い切り引っ張った。左足はやっと抜けたが、その拍子に清良はバランスをくずして、後ろにひっくり返った。「あ、あ、あああーーー」。ドスン。しりもちをついてしまい、清良のスカートは泥で汚れ、顔にも泥がかかった。

「な、っさけなー」

 清良は袖で泥をぬぐい、よろよろと立ち上がった。気持ちが悪いので、靴は脱いだ。(いさぎよ)く両足とも。スカートは脱ぐわけにいかないのでそのままだが、まあ、しばらくしたら乾くだろう。

裸足になった清良は、子どもみたいなドジをした自分が笑えてきた。フ、フフフフ。クスクス、ハハハハ!アッハッハ!人っ子一人いない外国の、田舎のくぼ地で、清良は心の底から大声で笑った。笑いすぎて、最後は涙が出てきた。なによ、なによ、バカ、バカ!!


清良は次の丘を裸足でかけあがった。濡れた地面と、そこに咲く白いキクや、オレンジ色の花を踏んだりかすったりする感触を感じながら。

頂上に着くと、目の前に青い海がひらけた。空と海と、他にはなにもなかった。水平線がとても遠く思えて、別世界にきたような気がした。振り返ると、丘の上のモミの木立の合間からミリー家が見えた。右手にはマリーの家。そこに知っている人がいると思うと、安心する。


清良はそのまま丘の頂上に腰を下ろし、しばらくぼうっと海を眺めていた。風が、冷たい。周りに咲いている花を摘んで、花束も作った。これをミリーにあげよう。ミリーは花が好きだよね。お庭があったし、いろんな花が植えられていたもの。清良は、レンガで囲まれたミリーの前庭を思い浮かべた。

丘を下ればすぐ砂浜で、誰もいない砂浜に、波は何度も何度も寄せては帰っていった。清良の窓から見えた赤い道も、砂浜に消え、海の青に変わっていく。赤い道ぞいに植えられた防風林も、砂浜のところで終わっている。しかし、その向こう側に、赤い崖がぐるっと海に張り出しているのがわかった。

崖の先端には、白い灯台が建っていた。砂浜はゆるくカーブして、岬につながっていたのだった。清良が窓から見たときは、防風林に隠れて見えなかった。草原、砂浜、海、海に張り出す赤い岬、先端の白い灯台。灯台はキラッ、キラッと規則的な光をなげかけ、カモメが群れをなして横切っていった。


鳥肌が立った。そう、アンのいう、あのぞくぞくである。描きたい…。清良は手がむずむずした。このきれいな風景を、絵に描きたいと強く思った。風景を描きたいと思うなんて、自分でも意外だったが、思ったらいてもたってもいられない。スーツケースの中にはちゃんとスケッチブックと色鉛筆がいれてあった。絵の道具は、どんなときでも忘れずにカバンの中に入れてある。

丘をくだって、のぼって、脱ぎ捨てた靴を回収し、清良は裸足で、一目散にミリーの家に戻った。気持ちは高揚し、また、さっきも感じた、草原の中を駆け抜けていく快感を再び味わった清良は、上気した輝く顔で、勝手口から中へ飛び込んだ。


「お帰り」

 マリーが出迎えてくれた。ゲールは台所の隅のソファで眠っていた。

「あらあら!なんて恰好!転んだの?」

 マリーは泥だらけの清良を見て、愉快そうに笑った。三人の男の子を育てていれば、こんなこと、しょっちゅうだ。「着替えてらっしゃい。洗ってあげるから。靴は外に置いておいて」とてきぱきと指示した。

「おなかすいたでしょう? お昼はとっくに過ぎてる。ここにあるサンドイッチ食べない?」

「おなかはすいてないんです、ありがとう。それよりこれをミリーに…」

 清良は切れた息を整えながら、マリーに摘んできた花束を差し出した。

「まあ! 摘んできてくれたの? ありがとう。ミリーは花がだいすきだから喜ぶわ、このところずっと、外に出てないから…」

 マリーふっと黙った。

「本当はセーラから手渡してもらったほうがいいのだけど…さっきからずっと眠ったままなの。花瓶に入れておきましょうね」

「はい」


 清良は花束を渡したあと、マリーの家に行って着替えをした。泥はすっかり乾いていた。靴は明日、泥を落としてから洗おうと、玄関の隅に置いた。感動が冷めるのがこわくて、すぐに絵の道具を取ると、再び海へと走っていった。違う靴を出してきてはく時間もおしく、裸足で飛び出した。そして、岬がよく見える場所を探して腰をおろすと、すぐに鉛筆で下絵を描き始めた。


 時計をもっていなかったから、どのくらいたったのかわからない。下絵が終わり、色をつけていると、清良を呼ぶ声が、後ろから聞こえてきた。振り返ると、グレイス、タイラー、トラヴィス、トッドの四人が走ってくるのが見えた。清良は手を振った。学校から帰ってきたのね。もうそんな時間…。日差しはだいぶ傾いていた。

「絵、描けた?」

 グレイスが聞き、追いついた三人も清良を囲むようにスケッチブックをのぞきこんだ。

「うん、もうすぐできあがり」

 よく見えるように清良がスケッチブックをあげてみせると、

「じょーず!」

「きれい!」

「すごい!」

 と、いっせいに歓声があがった。

「あ、ありがとう…。でも、風景も、色鉛筆も、あんまり得意じゃないんだ…」

 清良が照れくさそうに言うと、

「そんなことない! 上手! 私なら無理」

 グレイスは目をまんまるにしている。男の子たちも、風景と絵を見比べながらほめちぎった。これほど大げさに(と清良は感じた)絶賛されると、本当にできがいいような気がしてくる。

「ありがと…」

清良は恥ずかしいやらうれしいやら、ほほをゆるませながら、仕上げの手をせっせと動かした。グレイスは清良の横に座ってその様子を眺めていた。男の子たちは浜辺までおりていき、砂浜で遊んでいたが、やがてそれにも飽きて、戻ってきた。そして、今度は野いちごを探しては口にほうりこんだ。

「あー、私にもちょうだい」

 グレイスがねだると、タイラーはしばらく探し回った後、両手いっぱいの野いちごを抱えてやってきた。「はい」と、清良にも野いちごを差し出す。東京育ちの清良は、野原で野いちごをとってたべたことはなかった。

「このまま食べるの?」

「うん。甘いよ」

「食べてみなよ」

 トラヴィスたちにうながされ、清良はおずおずと、一粒、口に入れた。甘酸っぱさが口の中に広がる。売っているいちごのような甘さはまったくないが、これはこれでいける。

「おいしい…」

 子どもたちの顔が輝いた。清良は今度はいくつかまとめて口に放り込んだ。

「ねえ、ねえ、今度はりんごの夢(アップルズ・ドリーム)も描いてよ」

タイラーが清良の前にしゃがみこんだ。野いちごがいっぱい入ったほほが、大きくふくらんでいる。

「そうね! あそこからの眺めもすてきだもの」

 いい提案だとばかりにグレイスが賛成した。次男のトラヴィスは、

「そうさ。”りんごの夢″は特別な場所なんだから」

と、真顔でうなずく。

「アップルズ・ドリーム?」

清良がきょとんとした顔をすると、

「教えてあげるよ!」

 と、トッドが清良の手をひっぱった。「すぐそこだから!」

「でも、もう帰らないと。ごはんの時間よ。明日にしましょ、明日は土曜日で学校ないんだし」

 グレイスがとめたので、トッドはむくれた。でも、たしかに、みんな、おなかがすいてはいた。お昼を食べなかった清良も、ごはんと聞いたら空腹感がこみあげてきた。やっとわかったかと、おなかがぐうーっと鳴った。野いちごぐらいじゃ、ものたりない。食い気に負けた子どもたちは、猛ダッシュで家に走った。清良もあわてて道具を片づけて、それを追った。


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