1 『赤毛のアン』を知らない私
中高生の愛読書ベストテンには、かならず『赤毛のアン』が入っている。百年以上も読み継がれてきた名作。アニメにも映画にもなった。教科書に採用されたこともあった。
誰もが一度は読んだことがあるといわれる有名な小説なのだが、瀬川清良は中学三年になった今まで、読んだことがなかった。そう、あの子と仲よくなるまで――。
体育が終わり、英語の授業が始まってすぐのことだった。清良の前に座っている須藤菊子が、教科書を音読中、ふらりと揺れて――倒れた。ガタガタ、ガターン。
一瞬の沈黙、そのあとに続く驚きのざわめき。清良は瞬間的に立ち上がり、須藤の様子をうかがう。須藤は真っ青な顔で、気を失っていた。
先生がゆっくりと抱き起し、清良と、クラス委員の河野が手伝って、須藤を保健室へ運びこんだ。保健の先生はあわてた様子もなく、慣れた手つきで須藤をベッドに寝かせ、脈や熱をはかった。息をひそめて見つめる清良たちに、「大丈夫よ。いつもの症状だから」と、笑顔で安心させた。ふうーというため息が三人の口からもれた。まさか…死んだ…んじゃないよね?と、清良は気が気でなかった。
そんなふうに思ったのは昨日の夜、遅くまでミステリー小説を読んでいたからだろう。分厚い本は数時間では読破できず、連続毒殺犯はまだ判明していない。
目の前で人が倒れるのも、死んだようにぐったりしている人を運ぶのも、清良にとっては初めてだった。大丈夫と言われても、頭から離れない。給食になっても須藤は戻ってこなかった。
食後の片づけが始まったとき、担任が教室に入ってきて、河野を探した。いないとわかると、清良に声をかけた。
「瀬川、悪いが須藤の荷物をカバンに入れて、保健室に持っていってくれないか。もうすぐお母様がいらして早退することになったから」。
「はい」と答え、清良は須藤の机の中のものをカバンにつめた。お母さんが迎えに来るなんて、思ったよりも重いのかな…。
「先生、須藤さん、大丈夫なんですか」と、割烹着姿のミカリンがたずねる。
「ああ。ただの貧血だ。よくあるそうだ。ま、今日は大事をとって家で休んでもらうことになったから」
よかった…。心の中でつぶやき、清良は最後の一冊を取り出した。それは教科書ではなく、本だった。『赤毛のアン』と書いてあった。
「瀬川、おわったかあ?」
「あ、はい!」
『赤毛のアン』を急いでカバンにしまい、体操着の入った巾着袋をつかむと、清良は先生について保健室へ向かった。
須藤はベッドの上に、青白い顔のまま、座っていた。サラサラとしたセミロングの黒髪が少し乱れ、うれいをたたえていた。血色が悪いとはいえ、白い肌はきれいで、整った顔立ちをさらにきわだたせていた。須藤さんて、本当に美人だなあ…。清良はほれぼれと眺めた。色黒、ショートカットで、男とも間違われることもある自分。同じ女子なのに、何という違い。嫉妬なんてするレベルじゃないよね。
担任と清良に気づくと、須藤は決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。
「どうだ、気分は」
「はい…おきられるようになりました…」と、かぼそい声で答えた。まだ本調子ではないようだ。清良がカバンを渡すと「ありがとう…。ごめんね」と申し訳なさそうに言う。清良は首を振った。
「平気?」
須藤は静かにうなずいただけで、下を向いている。担任はまだ保健の先生と話している。清良も須藤も、決まり悪そうにもじもじと、黙っていた。なんか…しゃべらなくちゃ…。清良は気になっていた『赤毛のアン』のことを切り出した。
「須藤さん…あの…『赤毛のアン』の本…」
どう言葉をつないでいいのかわからなくて途中で詰まってしまう。
「あ……見た…?」
須藤はどぎまぎしている。静かで、気まずい空気が漂う。あちゃー、言わないほうがよかったかな…。話題を変えようか?何に?ええと、ええと…清良が頭をフル回転させている間に、須藤の母が保健室に入ってきたので、須藤と清良はそのまま分かれた。二人はお互いに気になりながら、どちらからも話しかけることができず、数日が過ぎた。
「清良、あたし当番だから先に行くよー」
親友の唯が、理科の実験準備のために、急いで教室を出て行った。
「うん、あとでいくー」
机の上を片づけていた清良のノートが、須藤の椅子の上に落ちた。拾おうと手を伸ばしたとき、須藤の机の中から、斜めになった本が、半分飛び出て落ちかけていた。タイトルは…『赤毛のアン』!
ひえー、また持ってきてるし…。
清良は苦々しげに、その本を眺めた。色があせていて、きれいとはいいがたい。明らかに古本。麦わら帽子をかぶった、三つ編みの女の子。赤い髪の毛、そばかす。本を抱えて、夢見るような表情をしている。
「原作 ルーシー・モード・モンゴメリ」。そしてその下には…「瀬川月野・訳」と書いてあった。
「えっ、うっそ!」
清良は思わず声をあげた。なんで…なんで…“お母さん”の名前があるわけ?