コズミック・ラビリンス(CHAPTER3:CLEAR)
……呆然と見守るうちに九玄太ネズミの死体にノイズが掛かり、それが収まると、一瞬で普通の人面ネズミの死体に換わってしまった。これまで散々見てきた、見覚えも無い、ただの髭面の醜男。
気がつくと、さっきネズミに噛まれた跡も綺麗に消えて、噛み千切られたハズの服も元通りになっていた。それにネズミを殺すまでは確かに感じていた痛みも、もう微塵も感じない。
呆然としている内にネズミの死体にもう一回ノイズが走り、それが収まるとネズミの死体そのものが消滅した。これで小部屋の中はすっかり元通り。ついさっきまでの九玄太ネズミとの戦闘を示す証拠は、これで完全に消え失せてしまった。
……元通り。
……消滅。
……綺麗に。
……完全に。
……何が?
……いやいや、何がって事があるか。俺は確かにここで……ネズミと……あれ? 殺したよな? ここで。あの……誰だっけ……とにかくヤツの顔をしたネズミを確かにこのナイフで。
そう、この、ナイフで。刀身は血痕一つ無く、ピカピカなままだが……。まあ、ゲームの仕様だよな。今までのVRゲームでも、一々武器や防具に返り血が付いた事なんて一度も無かったからな。そんな表現は重要な規制違反だ。
……だから、俺は、この、ナイフで、あの、ネズミを、……えーと、ヤツを殺して、ゲームを、元通り、正常に、戻したんだ。
……元通り。
……消滅。
……綺麗に。
……完全に。
……うん。
……身体が重い。頭がダルい。まるで、このゲームを始めたばかりの頃みたいだ。気分が悪い。もうこのままログアウトしてしまいたかったが、この何だか奇妙な体験をした小部屋でログアウトをするのは気が進まなかった。
せめて……あの石碑の間まで戻ってログアウトしたい。自分でも何故だか解らないが、そんな思いに強く駆られて、この小部屋から出る事にした。
さっきまでと違って、身体が思うままに動かせない。お陰で棺の階段を降り損ねて、無様に転げ落ちてしまった。更に石畳の床に叩きつけられた俺の全身を、VRゲームならではの軽い衝撃が覆う。そこに一切の痛みは感じられない。
そうとも、これがVRゲームでの真っ当な体感だ。気味の悪い人面ネズミにかじられても、痛みなんて感じるワケが無いし、そんな事があるハズが無いんだ。これでいい。所詮はVR……“仮想”の現実感なんだ。脳力強化によるVR感覚強化なんてウソッパチだ。さっきのは全部気のせいだ。そうに決まってる。
……本当に?
そんな事をグルグル考えてる内に、どうにか石碑の間まで戻ってこれた。途中で来た道の罠に引っ掛かったり、新手の怪物に襲われたりしなかったのは、幸運と言うより他は無いだろう。
よし、なんか色々と変な目に逢った気もするが、今夜はこれで最後だ。さっさと石碑に触れて、セーブしてログアウトしてしまおう。明日も仕事だし、早く寝ないと
不意に、北側の……まだ探査していない通路から、アイツの声が聞こえた。チャプター2で聞こえたヤツの……ネズミの声みたいに苦悶に満ちた絶叫が……
次の瞬間、俺は何が待ち受けてるかも判らない北側の通路へと、全力でダッシュしていた。いや、そのつもりで走っているのだが、全身に砂袋をぶら下げた様な感覚が全身を覆っているので、思うように先に進めない。
北側の通路の先は、今までの通路の比では無い位に複雑な造りの迷路になっていて、待ち受ける罠や怪物も、その凶暴さを増していたのだが、それでも俺はそれらの障害をどうにか突破していた。
何故なら、俺の数メートル前を先行して進む人影が、本来その先に待ち受けている脅威を、先行してその身に受けていたからであった。
ソイツは、俺と同じ探検服を身に付けていて、同じバックパックを背負っている。そして懐中電灯の明かりを頼りに慎重な足取りで俺の先を進んでいる。
奇妙なのは、そいつの姿が透けて見えるのと、時おりノイズが掛かって、その姿が歪む事。そして、俺の呼び掛けや懐中電灯の明かりを、直接浴びせてみても何の反応も示さない事だった。
時折、予期せぬ怪物の奇襲や罠に掛かって死ぬ事はあっても、その姿はすぐに復活して、その脅威を潜り抜けて先へ進む。その後を俺が通ると、果たして全く同じ奇襲やトラップが発動するので、ソイツと同じ行動を取る事で難なく切る抜ける事が出来た。
落とし穴や、壁から飛び出す槍や矢を飛び越えて、最早お馴染みとなった、喰屍鬼や人面ネズミや夜のゴーント共の攻撃を易々と潜り抜け、複雑な迷路をソイツの動きを頼りに突き進んだ。
だが、どうしても俺はソイツに追い付く事が出来ない。今や俺は、ソイツの後ろ姿や、死ぬ度に上げる悲鳴の声色からソイツの正体をとっくに悟っていて、必死にソイツの名前を呼んでいたが、やはり何の反応も無い。
……気がつくと、俺とソイツの幻は石碑の間以来の新しい大広間に到達していた。そこは、ちょっとした体育館くらいの広さで、今の俺でも全力でダッシュすれば、対面の大袈裟な装飾が施されたアーチに向かうソイツに辿り着く事が出来るだろう。
ただ、問題は行く手を遮る喰屍鬼の群れに、背後から殺到する新たな怪物の群れ。ソイツと同じく数十秒遅れで、俺も全く同じ危機に見舞われると言うマヌケな有り様に、思わず自嘲的な苦笑いが漏れる。
だが、今までのイベントに掛かった体感時間を吟味してみれば、恐らくここが、このチャプターの締めくくりだろう。ならば、この勢いを駆って一気にアーチを潜り抜けた方が得策だ。
ソイツもそう思ったらしく、まずは威嚇として天井に向けて拳銃を一発ぶっぱなす。喰屍鬼が怯んだスキに、身体能力を生かして一気に広間の真ん中まで突破した。ソイツは俺と違って、まだ軽快に動ける様だ。
そうして難なく対面のアーチに辿り着くかと思った瞬間、広間……いや、この迷宮を揺るがす程の振動が、この広間を襲った。
この衝撃で、怪物共が更に怯んでその動きを止めたのだが、次いで床の石畳を突き破りながら、無数の赤黒い触手が床から飛び出して、手近な怪物共を次々に絞め殺したり、引き裂いたりしたので、周囲はたちまち血と肉片と規制のボカシにまみれた地獄絵図と化した。
そんな中で、俺は成す術も無く呆然としていたのだが、あと一歩と言う所で例のアーチにたどり着けそうだったソイツが、床から飛び出した触手に捕まって苦痛に満ちた絶叫を上げたので、俺は残った力を振り絞りつつ、その名前を叫びながら、振動と触手によって崩壊しつつある広間の床を蹴って、出口のアーチに向かって、持てる力を振り絞って一直線に飛び込んだ。
「アルベルトォォォォォォ!!」
床から次々に現れる触手の位置は、ソイツ……アルベルトが身を持って示してくれる形になっていたので、難なく回避出来た。そうして、触手に絡まれたアルベルトとの距離を一気に詰めたのだが、その手前でまさにそのアルベルトを捕らえたのと同じ触手が俺の眼前に飛び出した。
一発拳銃を撃ってみたが、大してダメージを負っている様には見えない。どうしたら良いか判らずに途方にくれる俺に、数十秒先の触手の幻覚に絡まれてるアルベルトが、この広間の出口を指差して……声は聞こえないが、確かに逃げろと絶叫した。
次の瞬間、床が崩落して触手もアルベルトも地下の暗闇へと落下していった。その直後に再生した床は、再び同じ崩落を始めた。
……すまない……限界だ。俺は床が崩落する前に触手を潜って、出口のアーチにたどり着いた。その直後に、さっきと全く同じエフェクトで床が崩落して、触手と瓦礫だけが地下の暗闇へと消えて行った。そして、視界が次第に暗くなり、このチャプターをクリアした事を示すメッセージが現れた。
結局、アルベルトを助ける事は出来なかった。意識が遠くなる……。これで良かったのだろうか?
……いや、良かったも何も、これは幻覚だ。オフラインのVRゲームで見知った顔が出てくるなんて有り得ない。これは悪夢か……何かの間違いだ。
とにかく今夜はこれでログアウトしよう。明日になればきっと元通りだ。おかしな現象も起こらない。オフラインのVRゲームで、見知った顔が現れたり、声が聞こえたり、まして死んだりする事も無い。VRゲームに掛けられた呪いも存在しない。そう。これで、全部、元通りだ。
……元通り。
……消滅。
……綺麗に。
……完全に。
……本当に?
それは解らないが、明日になれば判る事もある。明日、またアルベルトとサキトにStormのラウンジで会う様にメッセージを入れてみよう。それでまた無事に会う事が出来れば、全部俺やアルベルトの取り越し苦労だって事でオチが付く。で、そいつをネタに、また皆でラウンジで一緒に騒いで、それで終わりだ。
……そうとも、それで全部終わりだ。
俺は自分にそう言い聞かせながらログアウトして、精神的な疲労の為に、VRヘッドセットも取らずにそのまま寝てしまった。ロータスの香炉もそのままにしていたので、悪夢を見る事も無かったが、非常に寝苦しい一夜を過ごしてしまった。
……翌朝。またゲームの開始時みたいな倦怠感に包まれて、万年床から身を起こした。頭がすごく重い。ヘッドセットを脱ぎ捨てた俺は、テーブルの上のパーソフォンを取って時間を確認した。
まだ四時か。仕事までもう一眠り出来る。そう思ってパーソフォンをまたテーブルに置こうとした時、Stormからメッセージが一件受信している事に気がついた。さては、アルベルトがサキトか?
残念ながら送信主は、どっちでも無い匿名のユーザーからだった。メッセージはたったの一行。しかし、今の俺にとっては致命的な一行だった……
“馬鹿め、アルベルトは死んだわ”