ワタシしか触れられない
キミはある日、普通の姿で街を歩く普通の男性として、普通にワタシの視界に入り込んだ。
キミは何処にでもいるようなTシャツにジーパン、短髪に眼鏡、薄い顔にスラッとした体型の青年だった。
キミはワタシを普通の女性として見て、ワタシもキミのことを普通の男性として見ていた。
キミは話してみると普通ではなく、キミの第一声は特に普通ではなかった。
キミは迷子のワタシの視線に気づき、驚いた表情をした。
キミは雑踏のなかで、すがるように会釈するワタシにゆっくりと歩み寄ってそっと声を出した。
「キミは周りに可笑しい人だと思われてるから、動かない方がいいよ」
「道に迷ってますけど挙動不審でした?」
キミはハッハッハと誇張しすぎた高笑いを辺りに撒き散らした。
「恥ずかしいのでやめてください。みんながワタシたちを見てますから」
「キミは見られてるけど、ボクは見られてないから恥ずかしくないよ」
「普通の男性ですよね?あっ、野球場です。野球場探してるんです。何処ですか?」
キミはワタシの恥ずかしさが移ったかのような笑い方を見せた。
「キミはボクが見えるけど、キミ以外はボクが見えないから黙った方がいいよ」
「早く言ってくださいよ。ワタシ完全に可笑しい人じゃないですか」
キミは耳を塞ぐ仕草をしてワタシの大きい声へ不快を示した。
「キミは言ったことを理解する能力がないね。見られてないけど見られてるみたいに恥ずかしくなってきたよ」
「詳しく教えてください。あっ、野球場もですけど、何で周りに見えないかを先に」
「キミは物分かりが悪いから、説明するだけで一日終わっちゃうよ」
「あっ、もうこんな時間ですね。急いでるんです。ワタシ、コンサートに出るんですよ」
「キミは全然学ばないね。ボクの声も周りには聞こえないんだよ。小声で喋るとか、電話をかけている振りをするとか出来ないのか?」
「あっ、はい」
キミはワタシが右ポケットから電話を出して耳に当てるのを確認すると息を吐いた。
「キミはボクが責任もって送ってあげるから。それで、何時からなんだ?」
「えっと、16時です」
「キミはコンサートに出るって言ってたけどアイドルか何か?まだまだ結構余裕あるけど準備とかあるのか?」
「はい、観る準備を」
キミは下がり気味だったオシャレ眼鏡を右手で元の位置へと上げながら苦笑いをした。
「キミは敬愛という意味では、アイドルと呼んでも差し支えなさそうだな」
キミは電話を持っていないワタシの左手を握った。
キミはワタシを引っ張りながら人混みを縫って歩いた。
「死んでます?生きてます?触れられるということは生きてますよね」
「キミはボクを幽霊やら化け物やらと一緒だと思ってるのかい?」
「いえ、普通人にしか思えません」
キミは人間的な喋り方と声質をしていた。
キミは何処からどう見ても外見が地球上で普通に生活している人間そのものだった。
キミは肌質も暖かさも握力も人間の男性以外の何者でもなかった。
「キミはボクを人間扱いしてくれる最初で最後の女性かもしれないな。ありがとね」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「キミは可愛いよ」
キミは突然、ワタシをぎゅっと力の限りに抱き寄せた。
キミは初めてワタシに優しくしてくれた人であり、初めてワタシを人間扱いしてくれた人だった。
キミは優しさと温もりと愛をワタシにくれた。
「キミはボクを感じることの出来る唯一の存在らしい。そのような人間は一人しかいないと聞いている」
「ワタシを人間だと思っていてくれてありがとうございます」
「キミは面白い」
キミはワタシより人間らしく、笑顔でワタシと手を繋ぎ野球場へと歩を進めた。
「男性と二人で並んで歩くなんてデートみたいですね」
「キミはそうかもしれないが、キミとボクがカップルだなんて誰も思わない。誰にもボクは見えず、キミがいなければボクは無だからな」
キミは額に汗を浮かべながら、Tシャツをぱたぱたさせて身体に空気を送った。
「ワタシのことをキミと呼んでますけど、どうしてですか?」
「キミはキミと呼ばれるのが嫌いなのかい?」
「ワタシ、親以外に名前で呼ばれたことが一度もなくて」
「キミは孤独なんだね」
キミはワタシの言葉で笑顔に歯止めがかかってしまった。
「キミは悲しい顔が似合わない」
キミはワタシの嬉しさに気付いていなかった。
「ワタシの名前はキミっていいます」
キミは少し間が空いた後、フフッと柔らかすぎる含み笑いを見せた。
「キミはボクが意図的ではないにしろ名前で呼んだのが嬉しかったわけか」
「はい」
「キミはキミというのか。いい名前だね」
「ありがとうございます」
キミは野球場に着いたらワタシの前からもいなくなってしまう。
キミは離れても平気だろうけど、ワタシは離れたくなかった。
「野球場でやるアイドルのコンサートを一緒に見ませんか?」
「キミはボクが暇だと思ってるのかい?」
「いいえ」
キミはワタシ以外誰にも聞こえない癒しのボイスでかわした。
キミは、ずっと声を聞いていたいワタシには儚く夢のようなものだった。
「キミはボクにとって唯一無二の存在だが、それまでだ」
「そうですか」
キミはワタシに必要だった。
キミはワタシにとって愛を含んだ唯一無二の存在だった。
「キミはボクのことを一度も呼んでいないが、どうしてだ?あなたとかお兄さんとかもないだろ?」
「恥ずかしいんです。呼ばなくてもいい日々だったので」
「キミは嫌かもしれないけど、ボクのことをキミと呼んでみたらどうだ?ボクがキミを呼ぶみたく」
「はい。呼んでみます」
キミは嫌だったかもしれないが、野球場が視界に入った頃、ワタシは離れていたキミの手を握った。
「ワタシのこと好きですか?ワタシはキミが大好きです」
「キミは会って一時間も経ってないのに好きと言える可笑しな人だ」
「ずっとキミと一緒にいたいです」
「キミはボクの何倍もの人と触れ合えて何倍もの人と感じ合うことが出来る。だからボクは必要ない」
キミはワタシが野球場に着いたらいなくなる。
キミはワタシがいなくても平気みたいだがワタシは違った。
「どうしても駄目ですか?」
「キミは生きているけど、ボクは生きていないようなもの。キミには理解出来ない事情というものがある」
キミは野球場に着くと、ワタシの手を解いた。
「ワタシはキミと逢えてよかったです」
「キミはいつまでもキミだよ」
キミは指でワタシの涙を拭いキスをした。
キミは柔らかい唇をしていた。
キミは笑顔でワタシにさよならを告げた。
「さようなら・・・・・・キミ」
キミはいなくなり、ワタシは電話を耳からゆっくりと遠ざけた。
キミは人間とさほど変わりない。だから、このキスをファーストキスにカウントしても神は許してくれるに違いない。