2話:犬と獅子
そもそも、どうしてこの世界がおかしいと思うようになったのかというとだ。
簡潔に言えば、俺には前世で日本で暮らした記憶があったのだ。
と言っても、最初から全てを思い出していたわけじゃない。
デジャブのような感覚と、小さな違和感があっただけだ。
自分の前世を完全に思い出したのは中学2年のバレンタインデーのことだった。
デジャブのせいか、絶賛中二病であった俺は、女になびかない硬派な男に憧れていた。
そのため、チョコを持ってきたチヒロに『いらない』と言ってしまったのだ。
詳しくは思い出したくないが、簡潔に言えば俺は心臓を奪われたのだ。物理的に。
そして、そのときのショックで前世の記憶を完全に思い出して、今に至る。
「おい工藤。筆箱から包丁が落ちたぞ」
「ありがとうございます、斎藤先生。危なかったです」
「本当にな。包丁は女性のたしなみだから大切にしろよ」
「そうですね。よく研いでいつでも使えるようにしておかないと、いざというときに使えませんからね」
朝の会も終わり、過去を思い出していた俺の耳にこの世界では何気ない会話が聞こえてくる。
そう、この世界では包丁は女性のたしなみなのだ。勿論料理ではない。
ついでに言うと、平安時代では包丁で意中の男性を刺すことが女性からの告白だったらしい。
……この世界の男性は良く子孫を残せたな。
「イッテツ君! 一時間目は美術室で授業だから一緒に行こ!」
『そう言えば美術の授業か。分かった、今準備する』
遠くの席から大きな声で呼びかけるチヒロに返事をして、ロッカーに道具を取りに行く。
だが、立ち上がったところで、何者かに背中から抱きしめられ動きを止められる。
「イッテツさーん!」
そして、ゴロゴロと喉を鳴らす、甘える猫のような声。
ああ、振り返るまでもなく分かる。
これはいつものあいつだ。
それでいつも通り次の瞬間には。
「カプッ!」
『いだだだッ! だから首を噛むなって何度も言ってるだろ、猫林ぃッ!』
「あーん、そんな。苗字で呼ぶなんて他人行儀な。口内を通して伝わる肌の温度のように温かく、そして愛情を込めて、レオナって呼んでください」
『会う度に、俺の頸動脈を狙ってくる奴に愛情を込められるか!? 後噛むのだけじゃなくて舐るように舐めるのもやめろ!』
こいつ、猫林レオナに首筋を噛まれながら叫び声をあげる。
猫なんて名前についているが、こいつは獅子娘、ようするにライオンだ。
甘噛みだとしてもめちゃくちゃ痛い。後、相手の性的興奮も感じられて気持ち悪い。
「愛情表現の一種ですわ。私の歯型をイッテツさんにつけるのはマーキングのようなものです」
『ほぉ? 勢い余って喉笛を食いちぎって俺を血の海に沈めたのもマーキングだと言うのか?』
「あ、あれは初めてのことで力加減を間違えただけですわ。お恥ずかしい……でも、あの時の温かくて柔らかな感触は癖になりそうです」
ジト目の俺に対し恥ずかしそうに頬を染めて熱っぽい視線を向けてくる猫林。
スレンダーな体つきに、長く優雅な金髪、そしてエメラルドのような瞳。
ライオン耳としっぽがついていても、その容姿は良いところのお嬢様にしか見えない。
実際に良い家の人間なのだが、毎日噛みついてくるので俺の中での評価は低い。
『正直に言わせてもらうと、痛いから噛まれたくないんだが』
「ご安心を。私も淑女です。イッテツさんの体液に塗れるという欲望を押し殺して甘噛みで我慢します。何度も噛みついていけば、いずれは痛みを感じさせずに跡だけ残せるようになりますわ……恐らく」
『おい、俺の目を見て言ってみろ。というか、仮に出来てもそこにたどり着くまでは痛いだろ』
「そうは言われましても、イッテツさんの種族は跡を残すのも一苦労なんですから、数をこなさないことにはどうしても……」
少し、伏し目がちにそう言ってくる猫林に思わず口をつぐんでしまう。
確かに俺の種族は回復力というか、再生力が凄まじい。
そのせいで噛まれてもすぐに跡が消えてしまうのだ。
確かに一度だけで完璧に跡を残すのは難しいだろう。
「まあ、だからこそ燃えるのですが。壁は高い方が乗り越えがいがあるものですわ」
『俺としては切実に乗り越えて欲しくないがな』
「そ、それは私との触れ合いが減るのが嫌という意味で…?」
『純粋にやめて欲しいと言っているのがなぜ伝わらないんだ…?』
恥ずかしそうにチラチラとこちらを見つめながら、盛大に勘違いする猫林に戦慄する。
正直、一度こいつの頭をかち割って覗いてみたい気分だ。
……一瞬、チヒロなら喜びそうだと思ってしまった自分が憎い。
そんなことを心の中で呟いたおかげか件の人物が援軍に現れる。
「ちょっと、イッテツ君に変なことしないでよ、この泥棒猫!」
「……あら、またうるさい雌犬が邪魔立てを」
グルグルと唸りながら、俺を守るように割り込んでくるチヒロ。
そして、それを見た瞬間、瞳の温度が氷点下になる猫林。
どう見ても一触即発の光景だが、このクラスでは見慣れた光景のために俺以外は反応すら示さない。
「また、イッテツ君の嫌がることをしてたでしょ?」
「スキンシップと呼んでいただきたいですわね。尤も犬風情には理解できないでしょうけど」
「ふーん、てっきり猫は猫らしくぼっちでいるのが好きだと思ってたんだけど違うの?」
「…………」
「…………」
誰でも一目見れば分かるようにこの二人は仲が悪い。
仲良くしてもらいたいと言ったら、原因のお前が言うのかという冷たい目で見られるので言わないが、それでも毎度喧嘩をされるのは疲れる。
まあ、口を挟んだらそれこそお前が言うなとキレられそうなので何も言わないが。
「大体、イッテツ君とたった2年の付き合いしかないくせに馴れ馴れしいのよ、泥棒猫」
「愛とは過ごした時間に比例するものではありませんことよ? そもそも私はイッテツさんとは前世からの恋仲ですわ! そうですよねイッテツさん!?」
「な!? そ、それなら私は前々前世からイッテツ君の傍に居るわよ! ね、イッテツ君!?」
『精神病院なら3丁目にあるぞ?』
というか、残念なことにどちらも記憶にないからな。
転生した記憶がある俺が言うんだから間違いない。
「いつにもまして辛辣なイッテツ君……でも、そこがいい!」
「あぁ…この全く興味がないような態度……やっぱり壁は高い方がいいですわね!」
こいつら本当は気が合うんじゃないだろうか。
揃って頬を赤らめて興奮する二人を見ていると思わずそんなことを思ってしまう。
「と、話を戻しましょうか。そもそもですが、わたくしの愛の形を否定する権利などあなたにはないはずですが?」
「権利はないけど嫌いなものは嫌いなのよ。あなたはいつもいつもイッテツ君を傷つけて最低ね。あなたとイッテツ君が一緒になったってDV妻になるだけよ、ディー・ヴイ」
「そういうあなたこそ、いつもいつもイッテツさんに虐められて喜んでいるドMじゃありませんか。きっとご近所から嫌なうわさが流されて家庭崩壊…なーんてことも」
「……へー、猫の癖に言うじゃない」
「獅子です。それにあなたの方こそ犬コロの分際でよく言いますわね。いいでしょう、ここでハッキリさせておきましょうか」
どこまでも険悪に、そして俺に見せる態度とは真逆のものを見せる二人。
もしも、これが初見だったら大いに引いていたかもしれないが、生憎俺にとっては見慣れた状況のために溜息しか出ない。
そもそも、この二人はなんだかんだ言って殺し合ったりはしない。
ヤンデレというと対抗馬を殺すイメージがあるがこの二人にはあまりそういう気が見られない。
……ただ単に殺してもすぐに蘇生するのが分かっているせいかもしれないが。
「いいよ、私の行動はあんたみたいな猫とは違うって教えてあげる」
「あなたこそ私の愛に打ちのめされて後で吠え面をかかないことですわ」
何やら自分達の行動原理の崇高さについて語り合おうとしている二人。
こうなったらこいつらは止まらないと判断して俺は教室から出て行く。
そして、そんな俺の背中に二人の言葉が重くのしかかってくる。
「私の行動は全てイッテツ君への―――」
「わたくしの行為は全てイッテツさんへの―――」
「「―――愛!」」
『どっちも傍迷惑だって自覚はないのな』
深いため息を吐きながら俺は一人で美術室に歩き出す。
いつもの喧嘩だ。チャイムが鳴り始める頃には焦って走り始めるだろうから心配はない。
そう心の中で逃げるための理論武装をしながら、俺は立ち去っていくのだった。