はじまりのうた
春の陽光がカーテン越しに差し込む。重いまぶたを力を込めて持ち上げる。キッチンからは、朝食を作る音が可愛らしい鼻歌まじりで聴こえてくる。少女と一緒に暮らすようになって三か月になる。少女は桜と名乗ったが、姓は教えてくれなかった。桜から申し出があってすぐに、その時点での保護者を探そうと試みた。おそらくは親戚か施設に預けられているのだろうと思い、桜から聞き出そうとしたのだが桜は何も話してはくれなかった。近隣の施設にも問い合わせてみたが成果は無く、警察にも行ってみたが捜索願も届けられておらず、当面は僕の家に住まわせることになった。
桜は十三歳だという。しかし、学校には行きたがらないので、僕が勉強を見ることにした。僕は働いてはいなかったが、莫大な親の遺産のおかげで、無茶な浪費さえしなければ、僕ら二人くらいなら充分暮らしていけるだろう。
食卓に行くと黒地に猫の絵が描かれたエプロンをつけた桜が朝食の準備をしていた。
「おはよう、今日は和の雰囲気で作ってみたんだけど、どうかな?」
言葉どおり、テーブルの上には、ご飯、味噌汁、玉子焼き、焼き海苔が並んでいる。
「うん、すごく美味しそう」
「えへへ、食べて食べて」
玉子焼きに箸をつける。
「美味いよ」
「ほんと?嬉しい」
桜は本当に嬉しそうに笑う。
「ごちそうさま、美味しかったよ。後片付けは自分でやるから早く準備しておいで」
「じゃあ、お言葉に甘えて、おじさんも早く準備してね」
僕は片手を挙げて応える。
二人は、準備を済ませ図書館へ向かった。途中、猫を見つけ二人は釘付けになった。図書館に着いた。
図書館は異様に静かで咳一つためらわれる程だった。僕はウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』を、桜はジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』をそれぞれ読んだ。『ロリータ』はロリータ・コンプレックスという言葉の語源になっており世間からは大いに誤解されているが、世界文学の頂点といっても過言ではないほどの傑作である。
中ほどまで読み進めたところで昼になり僕らは図書館を出た。そして、ファーストフード店に入りハンバーガーを食べた。本当は、もっといいものを桜には食べさせたかったがハンバーガーがいいと言ってきかないのだ。
その後僕たちは古書店を含む書店巡りをした。僕は元々本が好きだったし、桜も僕と暮らすうちに読書が好きになっていった。
「あー、楽しかった」
「それは良かったよ、でも桜が本好きになるなんてね。出会った頃からは想像もつかないよ」
「そうだよね、私も自分でびっくりしてるもん」
「うれしいよ、桜と本の話が出来るんだからね」
「喜んでもらえて何よりです」桜は冗談交じりに言った。
僕は笑った。桜も笑った。こんな時間がいつまでも続けばいい。僕はそんな風に思った。
帰り道、また猫を見つけた。朝見た猫と同じ猫だった。