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渋柿の心得

作者: マグロ頭

 昼下がりの喫茶店で女の子と二人、向かい合ってコーヒーを飲むのって、結構幸せなことだったりするんじゃないかと思う。窓際の、冬の柔らかな陽射しが射し込む席で、他愛もないおしゃべりに時間を費やしたり、片方は本を読んでいてもう片方がレポートをまとめていたり、たとえそこでは勉強をしなくてはならないのだとしても、それはそれでいいような気がする。

 店内の心地いい温度の空気を、軽やかなポップスが振動させて、所々に配置された植物が内部に活力を漲らせて活き活きとしていたりする。芳しいコーヒーの香りに満たされたその場所には、何故だか分からないけれど、とても理想的な幸せな空間が広がっているような気がするのだ。

「亮太。何ぼおっとしてんの。早く勉強しなさいよ」

 でも、もしかしたら、こんな風に考えてしまう原因は案外すぐ側にあるのかもしれない。

 例えば、昼下がりの客もまばらなこの喫茶店で、僕に声をかけた女の子が、美樹でなく他の誰なのかだとしたら、この何ともいえないやるせなさを感じることもなかったのかもしれない。いや、絶対にそうだ。僕と向かい合わせに座り、シャーペンを走らせているのが美樹じゃないのなら、すぐにでも神様に今この時を止めてくれと願っていると思う。目を閉じると、ため息が出てしまった。

 何やら鋭い視線を感じる。そっと目を開けると、眉間にしわを寄せた美樹と目が合った。とたんに強張った表情の下から、乾いた笑いが込み上げてくる。笑うしかない。そんな僕を見て鼻を鳴らした美樹は、また自分の作業へ戻っていった。週末に提出期限が迫ったレポートだそうだ。教授の意向で、手書きでまとめなければならなくなったらしい。視界に入る長い髪を邪魔そうに左手で押さえながら、美樹の大きな瞳は熱心に資料とレポート用紙とを行き来している。

 こうして黙っていてくれるのなら、幾分か僕の気持ちも明るくなるのにと思う。美樹はファッション誌でモデルをやってるらしいから、結構美人なのだ。傍から見たら、美樹と一緒にいる僕は羨ましく映るんじゃないかなあなんては思ったりする。

 でも、こいつは見かけ通りの美人じゃない。かなり癖のある灰汁を持っているのだ。毒舌なんてもんじゃない。猛毒の舌を持つ辛辣女とまことしやかに噂されているのだ。

 正直、一度その口が開かれようものなら、どんな人でも必ず顔をしかめることになるんじゃないかと僕は思っている。話が要領を得なければ話者に対してきっぱりと(見下したように)馬鹿というし、美樹自身が特別関心を持っていないことを得意気に話そうものなら阿呆と残して立ち去ってしまうのだ。何も意図して口を悪くしているんじゃないけれど、思ったこと、感じたことを率直に口に出してしまうところが美樹にはある。

 よく綺麗なバラには棘があるなんて言うけれど、多分美樹の場合、棘なんてものじゃ済まない。反しの付いた細い針を、まるでサボテンみたいに幾つも持っているのだ。その針は隠されることなく、絶えず切っ先を鋭く光らせている。

「なに。気持ち悪いんだけど。じろじろ見ないで」

 ……例えばこんな風に。眺めていた僕の視線に気がついて、不思議に思うのは分かる。どうしたのって話しかけて、穏やかにことは進んでいくことは多々あると思う。でも、美樹はというとそうはならない。僕を睨んで、顔をしかめて、心から嫌悪して言うのだ。気持ち悪いって。

 確かに美樹のことを見ていたのは認めるけれど、ちょっとカチンとくる。一言、というよりもいろいろと多いのだ。気持ち悪いなんて言わなくてもいいと思う。あからさまな態度にも傷つくし、何だか納得いかない。

「ごめん」

 でも、そんな何だか釈然としない思いを抱えながらも、僕は最終的に謝ってしまう。それほど悪いことをしていたわけじゃないのに、美樹の気分を害したことについて謝って、いつも黙ってしまう。

 全く、不甲斐ない。これまでに幾度となく繰り返した行為は、刷り込みのようにしっかりと心の奥底まで染み込んで、僕を内側から蝕んでいるような気がする。美樹の前だと、へなちょこになったような気分になるのだ。

 多分、僕は美樹のことがかなり苦手なのだろう。諦めにも似た感情が静かに渦を巻いた。

 毒を吐いた美樹は、黙々とレポートに取り組み始めていた。美樹を見ていてもつまらないし、また何か言われるのが目に見えているので、とにかく僕も勉強することにした。まだ先とはいえ、もうそろそろテストが近づいている。授業にうまく付いていけていない僕にとっては、恐怖のイベントだ。このままいけば、単位を確実に落とす。僕は開いていた問題集に目を移し、シャーペンを片手に気合を入れた。

 ふと視界に入った二人分のエスプレッソコーヒーは、机の端で肩身が狭そうに湯気を立てていた。


「……ねえ、美樹。ちょっといいかな」

 しばらくしてからおずおずと尋ねた僕に、美樹は作業を中断させられたことへの不快感を露骨に表しながら顔を上げた。何か聞こえた気がする。多分舌打ちをされたんじゃないだろうか。眉間に寄ったしわが深くなっていた。

「あのさ、ここの問題なんだけど、さっぱり解き方が分からないんだけど」

 そう言って僕は数学の問題集の左上に書かれた問題を指差した。美樹は僕の手から問題集を奪うと、その問題をじっくりと見て、そして僕の方に視線を戻した。呆れ返った瞳が僕をひやりとさせる。

「亮太、こんなのも分かんないの? 基本中の基本でしょうが。基礎でしょこれ。高校レベルの問題じゃない。……ねえ、馬鹿なの? それともなに、ただ私に話しかけたかっただけなの?」

「いや、本気で分からないんだけど……」

 途端に美樹が宙を仰いだ。なんてこったい。そう脱力した美樹の身体全体が言っている。ひしひしと伝わってくる。同時に何となく嫌な予感がし始めた。美樹はひとつ大きなため息をついてから、再び僕に視線を戻した。その表情を見て、僕は一瞬で気分が滅入ってしまった。

「亮太ってさ、大学生だよね。私とおんなじ大学の。ねえ、そうだよね。じゃあさ、やったでしょこんな問題。やったよねえ。同じ高校だったんだしさ。ねえ、あんたどれだけ忘れるのが早いのよ。大丈夫? 脳細胞ほとんど死んでんじゃないの? それともニューロンの絶対数が足りてないのかしら。亮太だけ神経の伝達速度が遅いのかしら。凄いね。珍しいよ。新人類じゃない?」

 言われたい放題だ。美樹は一気にまくし立てると、最後に考えられないとぼやいた。そしてまたひとつ大きなため息を吐くと、さも面倒くさそうに僕に解法を教え始めてくれた。店内の証明が少し赤暗くなったような気がする。正直僕も考えられなかった。

 数学の問題がひとつ分からなかっただけなのに、どうしてここまで言われなきゃなんないのだろう。確かに簡単な問題なのかもしれない。高校の時に似たような問題を解いたかもしれない。けれど、新人類とか酷過ぎないだろうか。本質的に馬鹿にしてる。そりゃ僕は美樹に比べたら恐ろしく頭が悪いかもしれないけれど(確かにどうして同じ大学に入れたのか今でも不思議でならない)、こんなにぼろくそに言われる筋合いはないと思う。

 腹の底に暴れる虫を一匹仕舞い込みながらも、低頭僕は身を乗り出して解法を教えてくれる美樹の声をしっかりと聞いていた。美樹はこういう奴なんだから、我慢しなくちゃ。そう思っていた。

 美樹の説明を受けながら、僕は公式をひとつ忘れてしまっていたことに気が付いた。そのせいで出来なかったのかと、気が付いてなんだか清々しい気分になった。

 美樹の説明は続く。かなり早い。端的に説明しながら、僕が理解出来ているかも関係なく進んでいく。お陰でとうとういつの間にか進んでいた計算がよく分からなくなってしまった。

「ちょ、ちょっと待って。ここはどうやってこうするんだ?」

 慌てて尋ねた僕を見上げた美樹の瞳に苛立ちが燃え上がっていた。そしてその光が急に消えたかと思ったら、哀れむように眉を下げて美樹はこう返してきた。

「分数の足し算引き算から教えないといけないのかな?」

 その時、僕の中で何かが切れた。同時に、一瞬目の前が真っ赤に染まった。気が付けば僕は勢いよく立ち上がっていた。

「美樹さ、ちょっと酷過ぎるよ。そりゃ僕は美樹みたいに頭良くないけどさ、ここまで馬鹿にされると頭にくるよ」

 そんな僕を前にして、机を叩いて美樹も立ち上がった。

「なに逆ギレしてんのよ。本当のことじゃない。こんな問題、誰でも解けるわよ。分かんない亮太を馬鹿って言って何が悪いのよ」

「そんなこと言ったってしょうがないだろ。ちょっと公式を忘れちゃってたんだから」

「忘れてた? 馬鹿じゃないの。あんな公式一回覚えたら忘れるほうがおかしいわよ」

「誰にだって忘れることはあるだろ。第一、美樹は説明が早すぎるんだ。そのせいで僕は計算の仕方を聞かなくちゃならなくなったのに。何さ。足し算引き算から教えようかって」

「付いて来られないほうが悪いんじゃない。自業自得よ。考えられないんだけど。どうしてあんな簡単な説明を聞き逃すことが出来るのよ」

「簡単だって? あれのどこが説明なんだよ。理解させようって気もなかったくせに。ていうかね、美樹はいつも一言多いんだよ。今のもそうさ。もっと違う言い方があっただろ」

「私はね、しなきゃならないことがあるの。時間かけらんないの。大体亮太だって――」

「お客様」

「なに!」

 突然割り込んできた声に、僕と美樹の声は見事に重なった。

「他のお客様の迷惑になるのでお静かにお願いしたいのですが」

 見ればこの店の店長らしきおじさんが、笑顔で僕たちのテーブルの側に立っていた。こめかみの辺りに青筋が立っている。口角がひくひくと痙攣していた。その表情に僕の昂ぶっていた怒りは冷め始めた。注がれる他の客たちの視線が痛い。

「す、すみません……」

 そう謝って、僕は静かに腰を下ろした。物凄く居心地悪い。恥ずかしくもなってきた。椅子に座る僕は、ただ縮こまるしかなかった。

 そんな僕を見てひとまず気が済んだのか、おじさんはくるりと振り返ると、大きな歩調で立ち去っていった。でも他の客の視線はまだ突き刺さってくる。僕は彼らに、心の中で謝った。そしてゆっくりと目の前の人物を見上げる。真っ赤な顔をした美樹はまっすぐに僕を睨んでいた。

「帰る」

 そう言って美樹は、持ってきた資料やレポートを残したまま店から出て行ってしまった。取り残された僕は、激しい後悔に襲われながらも空になった席を見つめるしかなかった。

 やっちゃった……。

 さあっと背筋が冷たくなる。見れば、コーヒーカップに少しだけ残っていたコーヒーは、もうすっかり冷め切ってしまっていた。


 持ち物をまとめて会計を済まし、慌てて外に出た僕はその暖かさにちょっぴり驚いた。店内から見た時は、枯れ木が立ち並ぶ路地に北風が舞っているのかと思っていたけれど、どうやらそうじゃないらしい。頬を撫でる風はどこか温かく、差し込む日の光は思った以上に暖かかった。僕はいなくなった美樹を探すことにした。

 美樹の性格はよく分かっていたつもりだった。だからあんな風に攻めてはいけなかったのだ。少し熱くなり過ぎてしまった。僕の中燃え上がった真紅の光は、今はもうその輝きを失い、急き立てられるような青色に変わっていた。美樹のことが心配だった。

 あれで美樹は結構傷つきやすい。

 一度口を開けば毒を吐きまくるために、美樹は今までにいろいろと経験してきたらしいのだ。高校ではいつも影で悪口を囁かれ、言われもない噂をいくつも立てられた。そのため、いつからか口数の少ない女の子になってしまった。僕の前だけああやって気兼ねなく話せるのだろうと思う。多分ずっと。だからそんな僕は美樹を攻めるべきではなかったのだ。深く消えない傷をまだ隠し持っていたのだから。

 しばらく走り回って、ようやくとある公園のベンチに美樹を見つけた。手にはハンカチを握り締め、ぼんやりとうな垂れている。泣いていたのかもしれない。そう思うと、僕の中の後悔は罪悪感へとその姿を変え始めた。しかし、同時にしみじみとした暖かな愛おしさが沸き起こってくるのも感じた。その温もりは急速に僕の中を駆け巡る。こいつは腹立たしくも可愛らしい、憎みきれない奴なんだと頬が緩んでしまう。

 まるで長く辛抱して、ようやくおいしく食べられるようになる渋柿みたいに、美樹と付き合っていくことには辛抱が要るのだ。

「やっ」

 俯く美樹に近づいて出来るだけ明るく声をかける。その肩が飛び上がった。けれど、顔は上げてくれない。しばらく前に立ってみたけれど、僕の顔を見るつもりはないようだった。ため息が出そうになる。でも、何とか堪えた。

埒が明かないので僕は美樹の隣に腰掛けて、広がる公園を眺めることにした。枯れ草のような芝生の先に桜の木々が立ち並んで、その上に青く淡い空が広がっている。白い雲がゆっくりと浮かんでいた。

「さっきはごめん。ちょっと熱くなっちゃったんだ。ほんと、ごめん」

 そう、空を見ていたら言葉がこぼれ出た。どこからか小鳥の伸びやかの声が聴こえてくる。軽やかで透き通ったその音色は、風に乗り、どこまでも響き渡っていくような気がした。歌声は遠く恋人に語りかけるかのように青空を駆けていく。

 ふと、柔らかな温もりを感じた。見れば美樹の頭が僕の肩に寄りかかっていた。未だに下を向いたままだった。でも微かにのぞくことの出来た唇は、小さく言葉を発していた。ごめんね。多分そう言ったんだと思う。

 素直じゃないんだから。

 多分僕は美樹のことがかなり苦手なんだと思う。でも、だからと言って美樹のことが嫌いだったりするわけじゃない。美樹にとって僕が思う存分話すことが出来る相手であるように、僕にとって美樹は大切な人なのだから。

 だから、寄りかかる美樹の肩にそっと腕を回してみるんだ。

 吹いた風に、暖かな春の訪れを感じたような気がした。



(おわり)


後半の加速っぷりが(自虐的な意味で)なんとも素敵な作品となりました! 残念!

こんないい人は、そんなにいないと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言]  いつもながら、美しい情景描写に惚れ惚れしました。  私の好みでは、二人の関係はこれくらいの軽い触れられ方でよかったなと思います。  しかし、辛辣な毒舌……美樹ちゃん怖いです……
[一言] とても面白かったです! 美樹の毒舌に、ときめいてしまった私はもう、きっとダメなんですね。 亮太君も、苦労性ですね。 ほんわか、心温かい作品、ありがとうございました。
[一言] こんにちは。拝読させていただきました。 冒頭の喫茶店の描写が、とても好きです。自分もその場にいるように、雰囲気が伝わってきました。 ラストも、美樹の声にならない一言で、全部許せてしまうとこ…
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