病気の彼女
私は以前、全く逆の、男性が多い職場にいたことがある。
そこでの論争はたいてい、
『クーラーの設定温度』だった。男性陣は暑いと抗議したが、エコロジーと経費削減と私の方が上司であることを振りかざし、二十八度設定した上に、まめに消していた。
彼女は数少ない女性のアルバイトだった。そして私の直属の部下になった。
私は彼女ほどの巨漢に出会った事はなかった。街で見かけた事はあっても、言葉をかわすのは初めてだった。
中学にあがるまで、『前へならえ』で前方に手を伸ばした事のない私は、
「隠れんぼすることがあったら、彼女のかげに入ろう」と思った。彼女は身長もそれなりにあったから、私サイズなら二人くらいいけそうだ。
入ってしばらく、私が指導にあたった。
巨漢だからといって別に差別も区別もしなかった。パソコンに向かっているのが主な仕事で容姿を問われるわけでもない。来客もほとんどないから、服装の規定もほぼないような会社で、私もジーンズで出勤していた。
仕事さえ、ちゃんとしてくれればいい、と思っていた。
だが、一つだけたえられない事があった。途絶える事なく、口が動いている。ジュースを飲んだり、飴をなめたりしているのだ。
どちらも禁止された事ではない。おしゃべりで口だけ動き、手がとまっているより、よっぽどいい。
彼女は新人だから、なんでも上手くできるわけではなかったが、真面目に作業を続けていた。
私がたえられなかったのは、匂いだ。
彼女が好きなジュースや飴は、信じられないくらい甘い匂いがした。
「ちょっといいですか?」質問されて指導する。彼女の口腔内はほっぺの肉に押されて狭くなっているのだろう。声がくぐもって聞き取りにくい。必然的に耳を、顔を彼女の顔に近付ける事になる。体に悪そうな甘ったるい匂いが襲いかかってきた。
でもそこは嗜好の問題だから文句をいうわけにもいかない。
「私の嗅覚の嗜好がかわってるのかも知れない。誰かから苦情がでたら言おう」とあきらめていた。
そんなふうに、痩せる兆しは一切なく、明らかに医学的にも太っている彼女を、
「太ってる」という声はなかった。
いや、私の耳には入って来なかった。
ここが男性の多い職場のなせる業だ。
「太ってる」
なんて発言はセクハラに成り兼ねない。しかもおっかない女性の上司にそんな事をいうなんて、いびりの対象にされかねない。私はそんな事しないけど、そういう心理が働いて当然だろう。
匂いにもたえ、一生懸命教えたが、彼女は仕事上では育たなかった。さらに上からたたかれて、どうしたものか、悩んでいた矢先、彼女が欠勤した。
出勤に関しては真面目だった彼女が、何日も休んだ。
ある日。
休日明けに出勤すると、昨日彼女からやめたいとの連絡があったと言われた。正直ほっとしながら、確認のために携帯電話にかけたがでない。自宅に連絡してみた。
電話に出たのはお母さんだった。彼女の辞意について説明すると、それでいいという。
「あの、ご本人は……」
「入院してます」
「え?何のご病気ですか?」
「太りすぎで色んなところが機能してないんです」
退院は当分先になるだろうという事で、バイトはやめるという話に落ち着いた。
私は後悔した。
どうして太りすぎだと言ってあげなかったんだろう。就業中の飲食だけでも禁止すればよかった。私にはその権限も与えられていたのに。
彼女は太っている以前に病人になってしまった。
それにもう何年も前の話だ。
今彼女は、多分太っていない。