妖精の子 5
客間の周辺は現在、異様な緊張感に支配されていた。
部屋の外では、警護担当の黒騎士達が、周囲への警戒もせずに、扉に張り付いて中の気配を窺っている。
外から窺う限りは、先程までの喧噪が嘘のように一切の物音がしない。話し声すら聞こえてこない。
その部屋の中では、現在、城主夫妻が、城主の家族と面会している。
ただそれだけなのだが、その張り詰めた空気は、まるで、戦前の会議のようだった。
ソファの上で、サーレスは身動きできない状況で、夫の視線に射すくめられていた。
サーレスの正面には、ランデルが簀巻きから解放され、その商人のような変装も何のその、優雅な貴公子然とした姿勢でワインを傾けている。
その隣には、いつもの無表情をさらに凍り付かせ、一切の感情を無くしたままこちらに視線を送る夫クラウスがいる。
そして、勝利を勝ち取り得意満面の猫のような表情で、義母がサーレスの膝の上に座りギュッと抱きついていた。
この席が決まるまで、当然のことながら、義母と夫の間で熾烈な膝の上争奪戦が起こっていたのだが、結局義母が競り勝った。
―――いろんな意味で、母は強かった。
サーレスは、義母が身に纏う、クラウスが自分用に仕立てていた淡い黄色のドレスに視線を向けた。
確かに、ドレスのサイズも同じらしい。短時間で着替えてきたところを見ると、サイズを直したりする必要もなかったようだ。カセルアのレースで飾られた可愛らしいドレスは、まるで彼女のためにあつらえたようによく似合っていた。
染めてあった茶色から元に戻したらしい金茶の髪は、緩やかに濃い緑のリボンでまとめ上げられ、小さな花の髪飾りで随所を止めてある。
それは、幼い頃のクラウスが、クラリスとして初めてサーレスと出会った時の髪型だった。
「……お義母様は、スノウレストがお好きなのですか?」
かけた言葉に反応して、義母は腕をゆるめ、サーレスに顔を向けた。
「その髪飾りの小花は、スノウレストだと、以前夫に教えてもらいました。クラリスとしての装束を見せてもらった時も、その髪飾りを好んでいたように思いましたので」
緑の大きな瞳を向けていた義母が、ふわりと微笑む。
「私にとって、スノウレストは、特別な花なのよ」
「特別、ですか」
「ええ」
嬉しそうに微笑む義母の表情に、サーレスも思わず笑みがこぼれる。
それを見て、また嬉しそうに義母は微笑むのだ。
「本当に、笑うとお母様にそっくりね」
「そうでしょうか。私は皆に、父に似ていると言われているのですが」
「そうね、全体はお父様でしょうけれど、微笑んだ時の目元は、お母様なのよ。だから、笑った時の印象は、お母様に似ているの」
少女のような印象に、成人した女性の思慮が見える。まったく違うはずの性質が、当たり前に存在している。傍にいて、会話をしているというのに、中が読めない。
謎の多い義母は、そのまま嬉しそうに、サーレスの頬に口付けた。
その瞬間、夫の方から殺気を感じたが、自分にはどうしようもないため、サーレスはひたすらじっとしていた。
「……母さん……」
ここまで機嫌が悪そうなクラウスの声というのも、そうそう聞けない。凄まじく機嫌が悪いのはよくわかる。ここまで機嫌が悪いと、さすがのサーレスにもどう宥めていいのかもわからないくらい、恐ろしい。
しかし義母は、何食わぬ顔で自分の息子に微笑んだ。
「なあに?」
「いつまで私の妻の膝の上にいるつもりですか。いい加減降りてください」
「いーやっ」
ますますしがみついた義母を引き剥がすわけにもいかず、サーレスにもどうしていいかわからなくなってきた。
義母と夫の間で、膝の上争奪戦再びとなりそうなところを止めたのは、今までずっとカセルアのワインを堪能していたランデルだった。その側にある瓶は、すでに一本空になっている。飲みやすいものを出しはしたが、その杯を傾ける速さを見ると、気に入ってもらえたようである。
「母上。そろそろ降りてあげましょうよ。それじゃあ、足も痺れるでしょう。ただでさえ、体が弱いらしいんだし。な?」
いきなりそう会話を向けられはしたが、サーレスはそれに答えることはできない。あきらかに、視線は別のことを語っていたからだ。
「俺も、姫に聞きたいことがあるんですから、そう独占されちゃ困りますよ母上」
「あなたはトレス殿下とお話ししてきなさい。同じ世代の国王となる方なんだから、その方が有意義でしょう?」
「え? じゃあちょっとカセルアに行ってもいいですか」
「母さん。兄上にそんな事を吹き込んだら、本当にカセルアまで遠出しかねないでしょう。王太后お墨付きなどと言われたら、他に止められる者がいないんですからやめてください。黒騎士を派遣することになったら、母さんから特別料金を徴収しますよ」
「あら、どうして私が払わなきゃいけないの。そんなのはランデルのお小遣いから取っておきなさい。国庫管理のランデルの財産から支払うように、財務大臣に一筆書いてあげるから」
「ちょっ、人の金の使い道を勝手に指示しないでくださいよ!」
サーレスは、母子の会話に、ほんのすこし、気が遠くなった。
ブレストアで一位二位の権力者と、一騎士団の団長の三人の会話である。
会話に出てくる単語はその通りなのに、内容は違うもののような気がしてならない。
思わず、一人、意識が遠い場所に向かいかけたサーレスに気が付いたのか、クラウスがそういえばと話題を変えた。
「母さん。ディモンに会いましたか?」
「あら、会ってないわよ。どうかしたの?」
「すれ違ったか……。少し頼みたいことがあったんです」
「それはディモンが? それともあなたが?」
「両方です。ディモンに番いができました。長の地位の譲渡と、妖精馬を一頭こちらによこしてもらえないかと伝えに、ディモンが森に向かったはずなんです」
その言葉に驚き、一瞬視線を向けたサーレスに、クラウスは頷いて見せた。
「ディモンは、外で番いを見つけたので、もう森には帰りません。そのままでは、森の守護に触りがあります。ですから、長の地位を他の者へ譲ります」
「まあ、ようやく見つけたのね。ディモンは、森で番いを見つけなかったから、死ぬまで一頭でいるつもりなのだと思っていたのに。でも、それじゃあ無駄足になったわね。ルシエンは私について来ちゃったわよ」
「……知ってます。いきなり馬場に来られても困りますよ。他の馬を出してる時だとどうなると思うんですか。団員の騎馬は、痛めたらなかなか換えがきかないんですよ」
「え? あら、馬場に行っちゃったの? 行かないように言っておいたのに」
「ディモンの番いを見に来たようだと報告を受けました」
「あら、ここにいるの?」
「ええ。カセルアから来た従者の騎馬なんです。以前、カセルアに赴いた時に、ディモンが見初めたので、姫の輿入れと一緒にその馬も連れてきてくださったんです」
義母は、手を叩き、喜びの表情になる。その様子は、もう一人の子供の話をしている母親のようだった。
「まあ! じゃあ、ディモンもカセルアのお嫁さんをもらったのね。でも、それでもう一頭妖精馬を連れてきて、どうするの?」
「私が乗ります」
この場にいた、クラウスを除いた全員が首を傾げた。
サーレスも、それがどう責任を取ることになるのかわからず、困惑していた。
ディモンを送り出した時、クラウスは、ディモンが責任を取ると言っていたはずなのだ。それが、クラウスがディモン以外の妖精馬に乗ることにどう繋がるのかがわからない。
全員の困惑の視線が向けられても、クラウスは平然としていた。
「……ディモンが選んだのは、妖精馬と比べても遜色ない足を持つ馬です。ディモンは、番いとなった馬だけではなく、その乗り手のことも認めています。他の妖精馬はわかりませんが、ディモンはその人が望めば背中を預けます。番いの馬はすでに懐妊していて、その人の足がありません。ですが、ディモンが認める腕を持つ乗り手に、馬無しでいろとも言いたくありません。ですから、その乗り手は、ディモンが乗せます。その間の、ディモンの代理を務める妖精馬をよこして欲しいんです」
さすがのサーレスも、クラウスの言葉に、愕然としていた。サーレスは、他の騎士たちの言葉から、ディモンが自分に対してそれほど悪い感情を持ってはいないのだろうということは知っていた。だが、その背に乗せてくれるほどとは思っていなかったのだ。
信じられない思いでクラウスを見つめると、クラウスは微かに微笑み、頷いていた。
義母は、微かな困惑と共に、そんな息子を見つめていたが、一つため息を吐いて、頷いた。
「ディモンの長の件は了承したわ。だけど、ディモンがその乗り手を本当に受け入れているとは、私には思えない」
それは、至極当然の言葉だった。サーレスですら、その言葉に頷いた。
「それに、他の妖精馬は、戦の時も大人しくしているかはわからないわ。ディモンは、人の血を見ても平気だけど、他の子達は、興奮を抑えられるかどうか、保証できない。その時は、どうするつもりなの?」
「戦に出る時は、さすがにディモンに乗りますよ。その時その人は、城の守護を担当することになりますから、城にいてもらわないといけませんし」
そこで、ようやく義母がサーレスの膝から降りた。
すくっと立ち上がったその人は、なぜかサーレスの腕を取り、扉に向かった。
「……ひとまず、あなたがいいなら、ルシエンを試してみなさい。今までも、長はここにいたのだし、ルシエンがここにいる事になっても、妖精馬たちはかまわないと思うから」
「……お義母様は、どうやってお帰りになるんですか?」
サーレスが、差し出がましいかと思いつつ口にした疑問に、義母は笑顔であっさりと答えた。
「あら、馬車を出してくれるんでしょう? 森の近くで降ろしてもらえれば、あとは森から迎えが来るわ」
うきうきと楽しそうに、扉に手をかけた義母を、クラウスが頬を若干引きつらせた笑顔でその腕を取り、足止めした。
「……どうして母さんが彼女の手を取っていくんですか?」
ちっ、という舌打ちの音が聞こえた。
それは、すぐ傍にいた、可愛らしいドレス姿の人から聞こえてきたような気がしたが、サーレスは全力でその記憶を頭の隅に追いやった。
渋々といった感じに、義母はクラウスに道を譲り、クラウスが扉を開けた瞬間、サーレスは小さな手によって無理矢理腕をひかれ、体が傾いた。
「まだ甘い」
その言葉が背後から聞こえた瞬間、サーレスが見たのは、自分の部屋で見た真っ白で小さな足が、クラウスに向かって、恐れ多くも国王を背中から蹴倒した姿だった。