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妖精の子 2

 ノルドは、初夏になると、雪と曇が大半だった冬の天候ががらりと変わり、とたんに晴れの日が増える。

 まるで冬の雪が、全てを洗い流しているかのような爽やかな気候は、初めてこの季節をノルドで迎えたサーレスやユリアに、新鮮な驚きを与えていた。

 季節的にも、遠乗り日和が続くこの期間は、黒騎士達も空き時間ができれば馬を駆る。厩舎番のハンスは、誰がいつ、馬を乗り出してもいいように、今日も馬の世話を丹精こめて行っていた。


 そんなハンスがそれに気が付いたのは、厩舎の掃除を全て終え、そろそろ昼の休憩のために使用人棟の食堂に向かおうとした時だった。

 サーレスが、手近にあったらしい木箱をひっくり返した簡易椅子に腰掛けたまま、真剣な眼差しで馬の運動場を眺めている。そしてその正面でフューリーは、馬場に用意されていた餌入れに一心不乱に首を突っ込んでいた。

 少し前までは、サーレスも自由になる時間があれば、フューリーを駆り、街などに出ていたのだが、今日は少し、様子が違っていた。

 ようやくこの奥様にも慣れてきたハンスは、さすがにその普段とは違う様子を不思議に思い、思い切って声をかけた。


「サーレス様。どうなさいましたかね」

「ああ、ハンス。ちょっと聞きたいんだが、フューリーはいつからこの餌を食べるようになった?」

「この餌とおっしゃると?」

「今食べているのは、穀物が配合されている軍馬用の餌だろう。そちらのえさ箱には青草があるし、運動場にも食べられる草があるのに、普段なら見向きもしない、苦手な穀物入りの餌を食べている」


 逸らされた視線の先には、ちゃんとその青草が入れられた餌入れもある。二つが並んでいれば、青草の方に行くのがいつものフューリーだった。

 軍馬用のエサは、しっかり体を作るため、草以外にも穀物などを混ぜ込んで、栄養をたくさん取れるように作る。このノルドでは、軍馬用の餌は高価なものだが、ここにいるのは全て、黒騎士達の愛馬だ。餌に関して、一切の妥協無く管理するのが、ハンスの役目である。

 だが、フューリーに関しては、実はハンスはほとんど手をかけていない。

 元々、ディモンは他の馬とえさ箱を同じにしておくと、他の馬が近寄れないために、専用の物を用意していたのだが、フューリーはディモン自身が連れてきて、ここで食べるように促している。そのディモンは、クラウス以外の手が入った餌はあまり口にしないため、ディモンの餌入れは、クラウスが全て管理している。

 運動場に出る時も、ディモンが外に出る時はフューリーも一緒に外に出ているし、厩舎に戻る時はディモンが促して一緒に入っていく。

 今日、ディモンは、クラウスが砦を見回りするために朝から出かけているが、餌入れはきちんと整えられていた。これはおそらく、フューリーのためだろう。

 そんなわけで、ハンスは、いつからフューリーの餌が替わっていたのか、答えられない。


「……いつも、ディモンが食わせているようなんで」


 申し訳なさそうに身を縮め、頭を下げるハンスを、サーレスは微笑んで顔を上げるように促した。

 しばらく二人は沈黙したまま、ひたすらに餌を食むフューリーを見守っていたのだが、その沈黙は、この場に近づく馬蹄の音で破られた。

 顔を上げた二人が見たのは、夏でも変わらぬ黒の団長服を涼しげな表情で着こなしたクラウスと、その騎馬であるディモンだった。


「どうかしましたか?」


 突然注目されたクラウスは、身軽にディモンから降りると、手綱を引きながら首を傾げた。


「……これほどディモンと会話できればと思ったことはないな」


 サーレスの言葉に、ますますクラウスは不思議そうにサーレスを見つめていた。


「もしかしたら、子供ができてるのかもしれない」

「!」


 クラウスが息を飲み、サーレスの体に視線を巡らせる。それを感じ、慌ててサーレスは首を振った。


「私じゃない! フューリーだ!」


 自分の妻の腹部を凝視していたクラウスは、その言葉に、明らかな落胆を滲ませた表情でがっくりと肩を落とした。

 しかし、直後に顔をそらそうとした隣の馬面を、うつむいたままで無理矢理自分の方に振り向かせたかと思うと、にっこり微笑んだ。


「……ディモン、何か申し開きはあるか?」


 若干、別の恨みが籠っていそうなクラウスの低い声に、ディモンはフンとひとつだけ鼻息を出した。


「ディモンを責める必要はない。同じ小屋に入れることを認めていたんだから、当然そうなる予想はしてたんだ」


 フューリーの顔を優しく撫でながら、サーレスはため息を吐いた。

 たとえ厩舎を分けていても、ディモンはフューリーがいる場所に自分から入っていく。鍵をかけても、その鍵を簡単に壊してしまうし、なにより、フューリーは嫌がらないので、朝までその事に気付けない事も多々ある。それに、他の馬がいる場所にディモンが入ってしまうと、ディモンを恐れるフューリー以外の馬の精神上よろしくない。本来、馬は繊細な生き物だ。ずっと怯えたままでいては、体をこわす。

 結果、ディモンの専用馬房に、フューリーの居場所を作るしかなかったのである。

 その状態では、当然、繁殖期にフューリーはディモンの隣にいる事になり、結果は容易に想像できるというものである。


「これの母親も、普段は青草しか食べないのに、子供ができると今度は穀物しか食べなくなった。この状態は、その時の状況によく似ているんだ」

「予想していたのに、どうしてそんな浮かない表情なんです?」

「しいて言うなら、やっぱり予想していたのより早かったなと言うのと、遠乗りに、次の馬が間に合わないなと思って」

「遠乗り……」

「この前、誘ってくれたから。ここに来て初めて、二人で遠乗りできると思って楽しみにしてたから、ちょっと残念だと思って」


 クラウスは、サーレスに、ここノルドからカセルアを見せると約束していた。

 ノルドは、その立地から、主要街道以外は狭い山道ばかりだ。黒騎士の皆が、借り物ではなく自分の馬を持っているのは、慣れた馬じゃないと難しい道が普通にあるからだった。

 サーレスの腕なら、そんな道でも訓練なしで走れはするが、初めて操る馬となると、少し難度が上がる。さらに、馬の方にも、怯えないように訓練する必要がある。

 だが、新しい馬を調教していては、カセルアが最もよく見えるという今の季節に間に合わないのは確定だった。

 苦笑していたサーレスは、夫を目にした瞬間、思わず言葉を呑込んだ。

 滅多に見られない機嫌の良さそうな笑みを浮かべていたクラウスは、手際よくディモンから全ての馬具を取り外していたのだ。

 最後に轡を外し、ディモンの顔を正面に捕らえたクラウスは、その表情のまま、ディモンと睨み合う。


「……私が何を言いたいか、わかるな?」


 クラウスの問いに、ディモンは胡乱げな視線を向けた。

 相変らず、表情の豊かな漆黒の馬は、やれやれと言わんばかりにサーレスを見つめ、そしてその場に集まってきた人々を見つめ、首を傾げるような仕草をしていたフューリーの首筋に優しく頬ずりをすると、突然背を向けて走り出し、柵を跳び越えると、あっという間に姿を消した。

 呆然とその後ろ姿を見送ったサーレスとハンスは、嬉しそうに笑ったままのクラウスに恐る恐る視線を向ける。

 そんな二人の視線に気付いたクラウスは、自信に満ちあふれた表情で頷いた。


「大丈夫です、サーレス。ディモンが責任を取りますから」

「責任?」


 慌ててその責任の内容を問いただそうと身を乗り出したサーレスを遮るように、突然、黒騎士の一人がこの場に駆け込んで来たかと思うと、素早くクラウスに耳打ちした。

 次の瞬間、先程の笑顔が幻のように消えた。


「どうかしたのか?」

「……やっかいな客人が来たようです。すみませんが外します」

「まて。ディモンはどこへ行ったんだ?」

「大丈夫です。どんなに遅くても、明日の朝までには帰ってきます」


 結局、クラウスは、ディモンの行き先も目的も告げることなく、呼びに来た黒騎士と共にこの場を去っていった。


「……誰が来たんだろうな」

「さあ……」


 残されたサーレスとハンスは、お互い顔を見合わせ、首を傾げた。


「サーレス様。ひとまず、フューリーに子ができたか、調べましょうか」

「ああ、頼む」

「もしできていたら、妖精馬の血筋で、外で産まれる最初の子になりますなぁ」

「へぇ……。でも、妖精馬は、他にも主になった人がいるんだろう? まあ、数百年に一度という話だったが。その時の妖精馬は、子供を作らなかったのか?」

「妖精馬は、妖精の森だけで産まれる馬だと言われとります。外に出た妖精馬も、最後は森に帰ると言い伝えがありましてな。その証拠に、ディモンも、ノエル様が長期間ここにいるとわかっている時は、よく妖精の森に帰っておりますよ」

「そうなのか? 私が来てからは、あの人がいる間は、ずっとここにいたように思うんだが」


 なにせ、フューリーを見に来たら、ほぼ必ず隣にいたのである。見間違えようがない。


「あいにく、ディモンの言いたい事がわかるのは、ノエル様だけですからなぁ。ディモンにとって、この柵は無いものと変わらんが、つがいのフューリーはここから出せませんからなぁ」


 ハンスは、それだけ言うと、厩舎に向かって歩いて行った。

 道具置き場の奥から、カバンを一つ出してきたハンスは、そのままフューリーを調べ、サーレスの思った通りの結果を得た。


「腹の子が育ったら、レシュベルの牧場に預けた方がいいですな。ここで産ませるよりは、あちらの方が設備がいい。レシュベルの奥さんも、ディモンの子だと言えば、一も二もなくひきうけなさるだろう。あの人は、繁殖に熱心だから」


 ハンスは、この話を聞いたあの牧場主がどういう反応をするのか、まるで目の前で見た事のように想像できた。

 小躍りして、しばらく人の話も聞かないに違いない。

 思わず遠い目で思考に耽っていたハンスは、サーレスの様子がまた変わった事に気が付いていなかった。


「……ハンス。妖精馬というのは、珍しいんだよな?」

「へえ」

「妖精の森という場所から、ほとんど出てこない。間違いないな?」

「そのとおりで」

「……では、アレはなんだ」


 その言葉で、サーレスが視線を向けていた自分の背後を勢いよく振り返る。

 運動場の周囲を取り囲む木立の中に、どこかで見たような漆黒の馬影がある。静かな、ほんの少しの揺らぎすら感じられないほど、影と一体化しているが、間違いない。


「……妖精馬」

「あれは、ディモンじゃないぞ。それともここには、ディモンに会うために、他の妖精馬がちょくちょく遊びに来るような事があるのか?」

「そんな事ありゃしませんよ!」

「大きい声は出すな」


 サーレスに言われ、慌てて口を噤む。

 現われた妖精馬は、何をするでもなく、じっと運動場を見つめていた。ディモンは感情豊かな馬だが、こちらの妖精馬は、まったく考えが読めない。

 サーレスは、しばらくその様子を見ていたが、すっと息を吸って、その妖精馬に対して声を上げた。


「そこの妖精馬。今、お前の長であるディモンは、主人のノエルの所用で出かけている。会いに来たのなら、すれ違いだ。いつ帰るのかもわからないぞ」


 その声が聞こえたのだろう。初めてその妖精馬は、微かに身じろいだ。

 帰るのかと思ったら、その妖精馬は、ディモンがやるように身軽に柵を越え、運動場に入って来る。


「……ハンス。他の馬をこちらに来させるな」

「フューリーはどうするんで?」

「この子には、他の馬が避けて通るほどディモンの匂いが染みこんでいる。その匂いを前に、攻撃行動に出る事はないと思う。だが、他の馬に対してはわからない」


 サーレスの言葉に、ハンスの背中に汗が流れた。じりじりと、背中を見せないようにハンスはその場を離れ、運動場に出ていなかった馬をそのまま小屋に入れる作業を始めた。

 もともと、フューリーがいたのは、普段ディモンが使うために他の馬は近寄らない、小さな運動場だ。そのままそこは閉鎖し、出ていた騎士たちは全て中庭で他の厩舎番達に預かってくるように手配すると、その報告のためにサーレスの元に引き返した。


 そしてハンスは、信じられないものを目にする事になる。


 妖精馬は、先程までの静かな様子が嘘のように、機嫌良さそうにフューリーと一緒に、同じ餌入れに首を突っ込んでいたのだ。

 唖然としたハンスに、サーレスの苦笑を含んだ声が届いた。


「この妖精馬、雌だ。どうも、フューリーに会いに来たらしい」


 サーレスが見ている前で、この妖精馬は、堂々とフューリーの元まで来ると、その匂いを嗅ぎ始めた。

 フューリーは、暢気な馬だが、基本は臆病で、他の馬に近寄られると驚いて逃げ出す事が多い。ところが、この妖精馬相手には、逃げることなく、フューリーの方も、不思議そうにその匂いを嗅いでいた。

 フューリーと妖精馬は、そのままなにやら意気投合したようにスリスリと挨拶をすると、なぜか一緒に餌を食べ始めたのである。


「もしかしたら、この妖精馬、ディモンの血縁なのかもしれないな」


 あまりにもほのぼのとしたその場の空気に、気の抜けたハンスはへなへなとその場に膝をついた。


「攻撃の意思はないようだが、一応クラウスに知らせてくる。ハンスは、ここで様子を見ててくれ。あ、囲い込むような事はするなよ。それの機嫌は損ねないように、手は出すな」

「はぁ、わかりました」


 ハンスは、力の抜けた体に気合いを入れて立ち上がると、サーレスを見送った。


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