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青の王太子

 ランデルは、今日も積み上げられた書類に向かっていた。

 留学から帰って、今日で一週間。この部屋を出たのは、寝るために寝室に向かうときだけだった。

 元より、ランデルは、どちらかと言えば室内より室外にいる事を好み、本を読むより実際に自分の目で世界を見る事を好んだ。

 今のこの状況は、ランデルにとって、これ以上ないほど我慢を強いられていたのだ。

 だが、父はもう、起きている時間よりも、意識がない時間の方が長く、王太子であるランデルは、そのまま執務の代行をしなければならない。

 その事を、誰よりも理解し、留学前から覚悟はしていた。

 だが、さすがにこの量は疲れる。

 覚悟はあるが、留学を終えたとたんに、こうまで休み無しで書類と向かい合わせになるのは、想定していなかった。

 少し休憩するかと身体を伸ばし、横になるためにソファに向かおうとして、愕然とした。


 黒い騎士服と狼の仮面を身につけた人物が、足を組んで腕を背もたれに回し、まるで自分の部屋のごとく寛いだ姿で、ソファに座っていたのだ。


 黒の騎士服は、この人物がノルドを本拠地としている黒騎士である事を表している。そして、狼の仮面は、黒騎士の密偵部隊の一員である事を表す。

 密偵としての仕事に障るから、王宮内でも顔をさらさないようにつけていると説明をしたのは、今いる小柄な密偵ではなく、前任の人物だったか。

 華奢な四肢に、小さな頭。黒く染められ、首の後ろで無造作に束ねられた猫毛の癖毛。この髪が、本当は母と同じ色である事を、ランデルは知っている。


「……来たならもっとちゃんと主張しろ、ノエル」

「いつ気が付くかと思いまして。初めは普通に立っていたのに、殿下も侍従も気が付かないので、最終的にこうなりました。もう少し、周囲に注意を払った方がよろしいですよ」


 可愛らしく小首を傾げる狼の仮面に、ため息が漏れた。

 これはまだ十一歳のはずだ。声変わりもしていない、可愛らしい声がそれを証明している。まるで少女のような華奢な体に、その声はとてもよく似合っている。

 それなのに、これが、間違いなく牙を持つ黒狼であり、それどころか、密偵部隊を束ねる立場にある事が、何度言われてもどうにも信じられない思いだった。

 

 そっと近寄って、仮面に手をかける。

 ノエルは、特に抵抗することなく、それを受け入れていた。

 外された仮面の下に、自分よりもなお強い、王家の蒼が現われる。大きな瞳に、感情の表れにくい表情は、母そっくりの顔を人形のように見せていた。

 以前、この瞳を見たときは、まったく魂が入っていない虚ろなガラス玉のようで、心の底から恐怖した。

 それなのに、数年留学していた間に、この瞳は激変していた。

 自分が見ていない間に、どこの誰がこの瞳に魂を込めたのか。 興味は尽きないのだが、本人は「そんな事わかりません」としか言ってはくれなかった。


 苦笑した兄を見て、弟は首を傾げながら、その手から仮面を取り戻し、再び装着した。


「そういえば、今度、ルバード侯爵家で、侯爵の孫の誕生会があるんだが」


 ランデルの言葉に、口元にあきらかに不満を浮かべたノエルが、忌々しそうに呟いた。


「……レイティス子爵令嬢全員に招待状を出させたのは、殿下ですか」

「別に全員に出せとは言ってないぞ。年齢の近い次女と三女を招待するといいと告げただけだ。その様子だと、ちゃんと招待されたようだな」


 現在、子爵家には、養子を含め、三人の娘がいる。

 侯爵家の孫は、現在十一歳。

 子爵の子供のうち、養女である次女と、実子である三女は、同い年だった。

 次女のクラリスである、目の前の人物を呼びつける口実としては、最上だと判断した。


「おかげで子爵が、黒騎士に泣きついてきましたよ」

「子供を返してくれと?」

「その期間は仕事を入れないでくれ、余所にやらないでくれ、だそうですよ。いい迷惑です」


 子爵も思いきったものだと思った。黒狼の首領に、仕事を入れるな、余所にやるなは、ほぼ不可能な願いだ。

 ふと気が付いた。子爵はまだ、これが従騎士だと思っているのかも知れない。

 元々、黒騎士の中に黒狼という名の密偵は意外と数がいる。従騎士として登録していたり、騎士として勤めていたりいろいろだと言うが、そのどれもに共通しているのは、表立っては黒狼だと告げない事だろう。みな、表向きは、黒狼ではない方の勤めをしている事になっている。


「まあ、たまにはいいだろ。おかげで母上も、大喜びで参加するそうだぞ」


 それを聞いたとたんに、ノエルがさらに顔をしかめたのを見て、苦笑した。


「最近、クラリスがかまってくれないと拗ねておいでだ。顔を出してなかったのか?」

「あの人に、この姿を晒せと? 今、ただでさえ忙しいんですよ。私の体はひとつしかないんですから、あちこちから袖を引かれても、対応なんかできません。ましてや、着替えて対応となったら、もっと面倒です」


 弟の苦情をどこ吹く風で聞き流した兄は、にっこりと微笑んだ。


「せっかくだし、お前が舞踏会にいるなら、兄がパートナーになってやろうじゃないか」

「やめてください」


 本気で嫌そうな表情をしている。

 ランデルは、この弟が、どんなものであれ、顔に感情を表しているのが嬉しいのだ。

 上機嫌になった兄とは違い、顔をしかめた弟は、吐き捨てた。


「殿下の花嫁候補と言われるのは、もうごめんです」


 ランデルはそれを聞き、首を傾げた。


「レイティスからは、母上が嫁いでいる。二代続けて、同じ家から王妃が出る事などないから、お前が候補に入る事はないだろう?」

「入ってますよ、側妃候補に。側妃には、同じ家から二代は不可の法も、無効ですからね」

「……側妃?」

「誰が入れたんだかわかりませんが、名前が会議で出たとたんに抹消してもらえるはずですけどね」


 兄は、少し考え、それはそれは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべた。


「どうせなら、嫁に来い。うん、それがいい」

「はぁ?」

「一番いい部屋を空けておいてやる。なんだったら、黒狼のお前がそのまま使っててもいいぞ」

「お断りします」

「どちらにせよ、レイティスからは異動させるつもりだったからな。側妃なら遠慮なく王宮に呼べる。母上には感謝しないといけないな。お前を娘にしてくれて。ハハハ」

「ハハハじゃない! お断りしますと言ってるでしょう。いつか女装なんてできなくなるのはわかってるんですから、そうなった時に側妃が男でどう説明する気なんですか」


 弟の盛大な抗議もどこ吹く風に、兄は嬉しそうに、弟の両脇に腕を回し、そのまま抱き上げた。


「……武装しているわりに軽いな」

「今だけです。いつかちゃんと育ちます」

「お前はそう言うがな。母上似のお前がどこまで育つのか、俺としては大変疑わしいんだが」

「育ちます!」

「母上も、御年二十九だが、十五の俺と同じくらいに見えるんだぞ? お前がそれに似てたら、どう考えても今以上に育ってもそこで止まるぞ?」

「成長具合は、似ません!」


 本人が似たくなくとも、親と子は似るものである。

 外見が母に瓜二つの弟の成長具合も、なんとなく想像が付くというものだ。


「今のままなら、側妃にしておいてもいつまでも女で通る。うん、大丈夫大丈夫」

「育ちます!」

 

 キャンキャン吠える弟というのは、なかなか見られるものではない。これはこれで楽しくなり、弟を抱えたままぐるぐる回ってみた。


「なにするんですか」

「これはこれで楽しいな。次はドレス姿の時にでもやってみるか」

「お断りします。こういう事は、正妃をお迎えになって、その方となさってください。私は迷惑です」

「后にこれをやると、うっかりすっぽ抜けた時に、大けがするだろうが。お前なら大丈夫だから、お前でやるんだ」

「迷惑です」


 そう告げながらも、ノエルの視線が忙しなく周囲に向けられているらしいのに気が付いた。おそらく、どこに国宝があるのかを判断し、頭でその被害額を計算しているに違いない。

 弟の、そんなかわいげのない様子を見て、思わず意地になった。

 意地になってぐるぐる回っていると、次第にそれは蓄積されていく。


 ゆっくりと体を止め、なんとか弟を飛ばさずにすませ、床に降ろす。

 弟が、怪訝そうな顔を向けていたが、それにかまわずに床にへたり込んだ。


「どうかしましたか?」

「……気持ち悪い」


 兄の様子を見て、弟は嘆息した。


「目が回ったんですよ。あんなに勢いをつけて回るから」

「お前はなんで平気でいられるんだ」

「黒騎士団では、あの程度で目を回すようでは、表に出してもらえませんよ」


 ノエルが、黒騎士の中でどのような訓練を行っているのかは知らないが、己の身を顧みないほどに訓練に没頭していた話は、王宮付きであり、黒狼の首領の前任でもあった、ノエルの師匠に聞いた。

 この姿で、この声で。

 自分より遙かに強い生き物に生まれ変わった弟は、ふてぶてしい笑みを口元に浮かべ、こちらの顔をのぞき込んでいる。


「……吐く」

「ここだと絨毯が駄目になりますね。何か探してきます」


 ふらっと移動していったノエルは、ほんの数秒もしないうちに帰ってきた。

 ―――この部屋で、一番高価な壺を携えて。


「はい、どうぞ」


 神の御使いと見紛うばかりの、輝くような笑みを浮かべながら、普通の神経があれば動かすのも躊躇うような白磁の壺を、無造作に突きつけてくる。

 あきらかに、これは先程からかった仕返しなのだとわかるが、そう簡単に乗るわけにもいかない。


「それを使うと、侍従長が心臓を止めそうなんだが」

「絨毯だと、どうしても痛みますから、捨てるしかありません。壺なら、洗うだけじゃないですか。被害は少ないですよ」


 洗うだけだ。確かにそうだ。その手が滑らないかどうかを見張られながら、哀れな侍女達が、恐怖で凍り付きながら、泣く泣く洗うだけだろう。

 侍女の中に、これのように度胸よく片手で国宝を扱える者がいるとは聞いた事がない。もしいたらすぐさま側付きに昇格させる。

 限界の近づいた思考の中、それを納得したランデルは、恨みがましく正面の狼の仮面を睨み付けた。


「さあどうぞ」

「……あとで侍従長と女官長がひっくり返っても知らんぞ」

「私はもっと知りません。この後遠出しますから」


 あのお人形のようだった、かわいい弟はどこへ行ったのか。

 兄は、遠い日を懐かしむ間もなく、体の訴えに素直に従い、結局壺を奪い取った。



 ノエルが、これからカセルアに行くと告げて、機嫌良く姿を消したすぐ後、部屋にノックの音が響いた。

 侍従長が、王太子にさらなる仕事を渡すため、書類を載せたワゴンと共にやってきたのだ。

 その部屋では、王太子が床でぐったりと座り込んでおり、その手には、国宝の壺が、無造作に抱えられていた。

 その姿を見ただけでも、すでに老齢の侍従長は目眩を起こしそうになっていたのだが、王太子から事の次第を聞き、人間とはこれほど顔色を変えられるのかと思うほどに真っ青になって、王太子の許しを得るのももどかしげに部屋を飛び出していったのだった。


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