遠野さんの憂鬱
遠野さんが新人に振り回されています。
仕事上がりの午後五時半。社員食堂の片隅、休憩コーナーで遠野さんはけだるげに溜息をついた。
お向かいには村田君がいる。ここのところ元気のない遠野さんを心配して……いるわけではなく、カフェオレ(お値段210円、高級品)で買収されただけの話であった。
「仕事を教えるのがこんなに大変だとは思わなかった……」
そう呟いて、テーブルに勢いよく撃沈した遠野さん。勢い良すぎてゴーンと音がした。
「あの……あの平成生まれめ……。どたまかち割って脳味噌引きずり出してやりたい……」
不穏な呪詛を吐く遠野さんの口元からは、不気味な白い魂が出ております。
「まあがんばれよいっしょーけんめーやればけっかはついてくるって」
棒読みで適当に励ます村田君。
「わたしの一生懸命は空回りさ。カラカラカラカラああ、まるでハムスターの永久運動のようねうふふふうふふあはははははは」
2週間がたち、ついに限界突破してしまった遠野さん。
懐のさびしい月末、飲みに行く金もないので、休憩コーナーでブリック片手に村田君に絡んでいる。
面倒くせえ、と思いながらも村田君はちょっぴり同情した。
今回入った新人ちゃんは、ちょっと特殊な人物であった。遠野さんはその教育担当を任されてしまったのである。教えることはたくさんある。基本を覚えてしまえば、後はニュートラルに動けるのだが、そこまでが大変なのはどの仕事でも同じだ。
初日に事務所で研修を受けた新人ちゃんは、そのまま担当者に連れられてカウンターに挨拶にやってきた。
まずその格好に文具売り場の面々は度肝を抜かれた。
某ツンデレヒロイン如しのツインテール(これはいい)、
ゲジゲジのような付けまつ毛(これも大丈夫)、
厚さ五ミリもあろうかという厚化粧(許容範囲)、
そして露出度激しすぎるパンクファッション(←ここ重要!)!
あんたそれ仕事しに来たファッション違うだろ! 普通、スーツだろう!
ニュータイプ! いろんな意味で違うけどニュータイプが今、ここに!
心の中で絶叫しているスタッフに向かって新人ちゃんは超メガど級の挨拶を放った。
「ちぃーす」
ニ ッ ポ ン ホ ウ カ イ 。
この時、上は64歳(次長)から下は22歳(大橋嬢)まで、真剣に日本の将来を憂えたという。
「教育の担当者、どうする?」
「あたし、嫌ですよぅ。あんなの」
「よし、遠野にしよう」
「そうしよう」
「きーまった」
「今日、休んでいるあいつが悪い」
そんなわけで、遠野さんが教育担当する次第となったのだった。
だがしかし。
「あたし、昨日それ教えたよね? メモ取ってって言ったよね?」
「とったけど、どこに書いたか忘れちゃってェ。てか、怒ってる?」
当たり前だ、めちゃくちゃ怒ってるわ! とは内弁慶外地蔵の遠野さんは中々言えない。
新人ちゃんが失敗しても、顔を引き攣らして注意して、「次から気を付けてね」というくらいである。そもそも、新人が失敗するのは当たり前だし、教育担当はそのサポートをするのが仕事。だけど「がんばって気を付けても間違える」と「最初からやる気がなくて失敗してもフォローしてもらえる」はベクトルが全く違う!!
そして文具売り場は基本的に新人放置で有名なカウンターでもある。上から下まで一丸となるのは、年に一回に開催されるかどうかの飲み会のみ。後は困ってようが客に絡まれてようが、基本的に見物のスタンスを取る。実質、遠野さんも入ってばっかりの頃は教育担当が自分の仕事でいっぱいいっぱいだった(手帳立ち上げの季節だった)こともあって、野育ち同然で育ったクチだ。とにかく必死だったし、お客さんにもいっぱい怒られたし、なにより村田君の存在が大きかった。「あまりにも必死すぎて見てられなかった」そうだ。
「ねえ、村田君」
撃沈していた遠野さんが、ふと顔を上げた。額が赤くなっている。
「んー?」
「リア充ってなあに? リア王の親戚?」
「は?」
ハブるわけにもいかない昼休憩で彼氏彼女の話になったらしい。彼氏がいると言った遠野さんに向けられた新人ちゃんの言葉が「へー。意外とリア充なんだー」。どうやら褒め言葉のようだと受け取った遠野さんは礼を言った。
「お前、パソコン持ってるくせにネットスラングはからしきだな」
「む。それくらい分かるわい。ええと、ドンクでしょう……」
「DQNな。それ、某有名パン屋に対して失礼だから」
村田君はリア充について、説明をしてあげた。聞いて遠野さんは怒髪天をついた。まるでサイア人だ。
「そんな人間、世界に一握りしかおらんわ! 第一、彼氏がいるっぽっちで人生充実してたら苦労せんわ!」
「俺に言われても」
「だいたい注意しても注意してもあたしに敬語を使わないんだ、あの小娘! こちらとら先輩だぞ、もっと敬え崇めろ奉れ!」
「お前はあれか、神か何かか」
呆れた村田君はふと気が付いた。
「ていうか俺もお前の先輩なんだけど」
「そもそも何であんなのが面接通ったんだっつーの!」
「うわ、しゃらっとスルーしたよ。この女」
「もうやだー! 仕事やめたいー!」
ついに足をバタバタさせて駄々をこね出した。
「はいはい、お前がやめた所で何も変わらんからな。好きな奴とだけ仕事できる訳じゃないし、そんな甘えた理由で逃げたら、これから先、しんどいぞ」
「正論言う男はもっとやだー!」
いいこと言ったのに、遠野さんに蹴られた村田君。210円のカフェオレでは割に合わない、と呟きながら蹴られた足をさすった。
ところでその新人ちゃんは入って3週間目で、いきなり消えた。
開店時間を過ぎても出勤してこなかったので電話をした所、「あー、何か合わなかったんでやめまーっス。プチッ。ツーッ、ツーッ、ツーッ……」。
彼女は文具カウンターの伝説になった。
文具カウンターがある限り、永遠に語り継がれるであろう。語り手はもちろん遠野さんだ。