第6話:鋼鉄の玉座と降伏勧告
本日4話目
冷たい冬の風が、吹き飛んだ岩山の残骸から巻き上がる土煙を運び、榎本武揚の頬を撫でた。
彼はその痛みに似た冷気に打たれ、今目の前で起きたことが、決して悪夢や幻覚ではないのだと悟らざるを得なかった。
遥か遠方にある大山が、たった一撃で、しかも音よりも早く到達した何らかの質量によって粉砕されたのだ。
蒸気機関や黒色火薬といった、彼がオランダで学んできた最先端の物理法則を根底から覆す、圧倒的な破壊力。
もしあの不可視の砲撃が、自分たちの陣地や、箱館の五稜郭に向けられていたら。
榎本の優れた頭脳は、コンマ数秒でその結末を弾き出し、背筋に氷をねじ込まれたような悪寒に震えた。
「……お分かりいただけたでしょうか、榎本さん。これが、私たちが持つ『交渉のテーブルにつくための資格』です」
九条魁斗は、崩れ去った山の残骸など全く意に介さない様子で、穏やかな笑みを浮かべていた。
その若く美しい顔立ちには、誇張も、脅威をひけらかすような下品な優越感もない。
ただ、天候や潮の満ち引きについて語るような、冷徹なまでの「事実の提示」だけがあった。
榎本は、ゆっくりと息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。
ここで取り乱せば、総裁としての、そして一人の武士としての誇りまで失うことになると、本能が警鐘を鳴らしていた。
「……見事な大筒だ。いや、大筒と呼んで良いのかすら分からんが。確かに、貴殿らは我々を瞬時に消し去る力を持っている」
榎本は、苦渋に満ちた声でそう答えた。
「ご理解が早くて助かります。無駄な血を流すのは、極めて非効率ですから。……立ち話も何ですから、中へどうぞ。温かい茶でもお出ししましょう」
魁斗が軽く手を上げると、アイアン・パレスの巨大な装甲壁の一部が再び静かにスライドし、内部への通路が現れた。
中からは、この寒空とは無縁の、微かに甘い香りを帯びた暖かな空気が流れ出してくる。
「総裁! 行ってはなりません! 罠です!」
「ムッシュ・エノモト! 相手の素性も分からんのに、敵の腹の中に入るなど狂気の沙汰だ!」
側近の武官と、フランス軍事顧問のジュール・ブリュネ大尉が、血相を変えて榎本を制止した。
しかし、榎本は静かに首を振った。
「罠を張る必要など、彼らにはないのだよ。我々を殺すつもりなら、先ほどの砲撃を我々に落とせば済むことだ」
榎本は馬を降りたまま、泥だらけの軍靴で、その滑らかな金属の通路へと足を踏み入れた。
ブリュネもまた、渋面を作りながら、腰の拳銃に手を当てたまま榎本の後に続く。
通路を抜け、案内された部屋に入った瞬間、榎本とブリュネは再び言葉を失った。
そこは、彼らが想像していたような、薄暗く煤けた軍艦の内部や、武骨な砦の広間とは全く異なっていた。
壁や床は、継ぎ目のない滑らかな象牙色の素材で覆われ、天井からは、油もガスも使っていない真珠のような柔らかな光が降り注いでいる。
部屋の中央には、黒檀のように黒く艶やかな巨大な円卓と、見たこともないほど洗練された意匠の椅子が配置されていた。
魁斗は、ホログラムや空中に浮かぶインターフェースといった、当時の人間にとって「魔法」にしか見えない要素を、この部屋から完全に排除させていた。
あくまで「極めて高度な西洋建築と、未知の照明器具」という範疇に収まるよう、シエルに偽装させていたのだ。
「どうぞ、お掛けください」
魁斗に促され、榎本とブリュネは恐る恐る椅子に腰を下ろした。
その椅子は、座った瞬間に身体の形に合わせて沈み込み、まるで雲の上に座っているかのような錯覚を覚えさせた。
銀髪の従者――シエルが、音もなく近づき、透き通るような白い陶器のカップを彼らの前に置いた。
中からは、最高級の紅茶の香りが立ち上っている。
「さて、単刀直入に申し上げましょう。榎本さん。私は、この蝦夷全土の完全な統治権、および管理権を要求します」
魁斗は、自らも紅茶に口をつけながら、淡々と切り出した。
「統治権の譲渡……。それはつまり、我々蝦夷共和国に降伏しろということか? 徳川の家臣としての意地を捨て、得体の知れない貴殿の軍門に下れと?」
榎本が、卓の上に両手を置き、鋭い眼光で魁斗を睨みつける。
「降伏という言葉は、感情的すぎて好きではありません。私は『効率的な統合』と呼んでいます」
魁斗は、どこまでも冷たい瞳で榎本を見返した。
「現在、あなたがたは南から迫る新政府軍と、血みどろの戦争を繰り広げようとしている。勝算はありますか? 最新の小銃と、わずかな軍艦で、国家の全土を掌握した新政府に勝てると、本気で思っているのですか?」
「我々は、独立国として列強に認められるための交渉材料を……」
「無意味です」
魁斗が、刃物のように鋭い言葉で榎本の言葉を切り捨てた。
「列強諸国は、あなたがたが内戦で疲弊するのを待っているだけです。どちらが勝とうと、莫大な借金を背負わせ、実質的な植民地にする腹積もりだ」
「な……!」
「私は、そんな非効率で無駄な歴史の遠回りを許容するつもりはありません。私の管理下に入れば、あなたがたの兵士の命はすべて保証します。そして、この国を……いや、この世界を、あなた方が百年かかっても到達できない高みへと、一瞬で引き上げてみせましょう」
魁斗の言葉には、狂人のような熱ではなく、確固たる事実に基づく冷厳な響きがあった。
ブリュネが、耐えきれなくなったようにフランス語で榎本に囁いた。
『ムッシュ・エノモト。こいつの言うことを聞いてはならない。あの鉄の巨人も、山を吹き飛ばす大砲も、キリスト教の教義に反する悪魔の兵器だ。こいつは人間じゃない』
その囁きを聞いた瞬間、魁斗は完璧な発音のフランス語で返答した。
『悪魔ですか、ブリュネ大尉。神に祈って救われる命と、私の管理下に入って確実に生き延びる命。どちらが現実的か、軍人であるあなたなら計算できるはずですが?』
ブリュネは顔面を蒼白にし、椅子から転げ落ちそうになった。
自分の母国語を、これほどまでに流暢に、しかも感情の起伏を一切見せずに話す東洋の若者に、底知れない恐怖を覚えたのだ。
榎本は、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼の肩には、三千の将兵の命と、徳川の旧臣としての意地、そして新しい国を創るという夢が重くのしかかっている。
しかし、目の前に提示されたのは、そのすべてを無に帰すほどの圧倒的な力の差だった。
「……貴殿の要求を呑めば、我々はどうなる。武装を解除され、虜囚の辱めを受けるのか」
「いいえ。あなたがたの組織はそのまま維持して構いません。ただし、私の『命令』を最優先で実行する実働部隊として働いていただきます。まずは、この大地を平定するための下準備です」
魁斗は、薄く笑った。
「榎本さん。今、南の海から、あなたがたを滅ぼそうとする新政府軍の艦隊と大部隊が接近しています。私は、彼らにも同じように『勧告』を行うつもりです」
「新政府軍にも……?」
「ええ。もし彼らが私の勧告を拒み、非効率な武力行使を選んだ場合……私は、彼らを『排除』します。あなたがたは、その後の残敵掃討と、治安維持を担っていただきます」
榎本は、魁斗の言葉に込められた恐るべき意味を理解し、息を呑んだ。
この若者は、数千、数万の軍勢を、文字通り「ゴミを掃除する」ように消し去るつもりなのだ。
「……即答は、できん。総裁とはいえ、私の一存で皆の命運を決めるわけにはいかない。少し、考える時間をいただきたい」
榎本は、絞り出すようにそう答えた。
それが、彼に残された最後の抵抗であり、将としての責任だった。
「構いませんよ。明日の日の出まで待ちましょう。ただし……」
魁斗は、冷たい光を放つ瞳で榎本を射抜いた。
「時計の針は、私が止めても、現実は止まってくれません。新政府軍が私に牙を剥いた時、あなたがたの返答がまだであれば、私はあなたがたも『敵』と見なして処理するしかありません。どうか、賢明な判断を」
榎本武揚は、重い足取りでアイアン・パレスを後にした。
振り返ると、圧倒的な質量を持った黒い金属の壁が、霧の中で無言の圧力を放ち続けていた。
彼らの背後で、歴史の歯車が、本来の軌道から大きく外れ、恐るべき速度で回転し始めていた。
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