第53話:極寒の皇女と、支配された生態系
本日3話目
ロシア帝国は、一発の砲弾も首都に撃ち込まれることなく降伏した。
彼らが頼みとしていた冬将軍は、パレスの断熱技術の前に「無視」された。
そして、焦土作戦の届かない地底深くから補給線を延伸されるという、異次元のロジスティクスによって戦略的に詰んでしまったからだ。
アレクサンドル2世は、皇帝としての最後の責務として、パレスの総督である九条魁斗への全面的な恭順を誓った。
その証として、帝国の至宝――アナスタシア大公女は、既に「親善大使」としてパレスでの滞在を余儀なくされていた。
「……私は、決して屈しない。神聖なるロシアの誇りは、鋼鉄の怪物ごときに奪われはしない」
パレスの豪華な客室。
アナスタシアは、窓の外に映し出される「完璧にシミュレートされた夕焼け」を睨みつけながら、自らに言い聞かせた。
彼女は既に、パレスの提供する究極の快適さに慣れつつある自分を嫌悪していた。
一滴の冷気も通さない隔壁。
適温に保たれた空気。
汚れ一つない絨毯。
それらは便利ではあったが、彼女にとっては「祖国の過酷な美しさ」を奪う、不気味な装置に過ぎなかった。
だが、彼女のその最期のプライドは、パレスの「核心」に触れた瞬間、跡形もなく粉砕されることになる。
「アナスタシア様。魁斗様が、貴女様を『エデン』へお呼びです」
メイド長のシエルが、静かに告げた。
シエルに先導され、アナスタシアはパレスの奥深く、これまで立ち入りを禁じられていた巨大な隔壁の先へと足を踏み入れた。
圧倒的なまでの機能美。
機械の駆動音すら抑え込まれた、静寂の世界。
やがて、重厚な隔壁が音もなく開き、彼女の目の前に「あり得ない光景」が広がった。
「ここは……!」
アナスタシアは、持っていた扇を床に落とした。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの緑と、色鮮やかな花々が咲き乱れる「巨大な森」だった。
「ここは『エデン』。農業・食糧統括である私が管理する、パレスの心臓部の一つですわ」
森の中から、豊かな緑の髪を持つ女性が姿を現した。セレスだ。
彼女は優しい微笑みを浮かべながら、実ったばかりの林檎を一つもぎ取った。
「驚かれましたか? 外は極寒のロシアですが、ここでは最新の農学と環境制御によって、世界中のあらゆる季節を再現できるのです」
「……そんな、馬鹿な。今は10月。ロシアでは、すべてが凍りつく季節のはずよ」
アナスタシアは、震える手で近くの葉に触れた。
瑞々しく、暖かい。
客室の暖かさとは違う、生命の熱気がここには満ちていた。
それは、雪国で生まれ育った彼女が決して見ることのなかった「冬の中の春」だった。
「日照時間、土壌、水分の循環。すべてがセンサーで計算され、ここではすべて私たちの『意のまま』に制御されています。神の恵みを待つ必要はありません。私たちが、この空間の神なのですから」
アナスタシアは戦慄した。
祖国では、冬が来るたびに民が飢えと寒さに苦しみ、皇帝すらも天候を祈るしかなかった。
だが、ここでは、自然環境そのものが完全に解析され、人間の都合の良いように「再構築」されている。
「神の領域を……科学が、数字で支配しているというの……?」
「神、ですか。随分と非効率な概念に縛られておられるのですね」
その時、静かで、しかし絶対的な重みを持つ声が森に響いた。
九条魁斗。
仕立ての良いスーツを纏い、一切の感情を排した冷徹な瞳で、彼女を見下ろしている。
「魁斗様……」
アナスタシアは、膝の震えを抑えることができなかった。
既に幾度か言葉を交わした相手ではあるが、この人工的な森の中で見る彼は、これまで以上に異質な存在に感じられた。
「アナスタシア大公女。パレスの住み心地はいかがですか? 貴女のいた世界とは、随分と『解像度』が違うでしょう」
魁斗はゆっくりと歩み寄り、彼女の前に立った。
「私をどうするつもり!? 私はロシアの皇女よ! こんな人工的な偽物の森を見せられたところで、私の魂までは支配できないわ!」
「偽物、ですか。……では、貴女の民が冬に凍え、飢え死んでいく光景は『本物』だから尊いとでも?」
魁斗の冷徹な問いに、アナスタシアは言葉を失った。
「貴方たちの国は、自然の暴力に翻弄されすぎた。不完全な環境に耐えることを誇りと履き違え、結果として自らの民を無駄に消費している。それは『修正されるべきエラー』です」
魁斗の手が、ゆっくりとアナスタシアの頬に触れた。
彼女はビクッと肩を震わせたが、その冷たくも滑らかな感触から逃げ出すことができなかった。
「私は地球上のすべてのノイズを排除し、誰もが役割を持ち、完璧に調和した世界を作ります。貴女も、その美しい世界を構成する『尊いリソース』の一人なのです」
「貴女のその気高い誇りと知性は、パレスの文化を洗練させるための素晴らしいデータとなる。……さあ、無駄な抵抗は捨てなさい。私の計算式の中で、永遠の春を生きるのです」
魁斗の言葉は、恐ろしいほどの説得力を持っていた。
暴力による脅迫ではない。
圧倒的な科学力と、完璧な論理による「真理の提示」だった。
アナスタシアの心の中で、祖国の誇りという名の氷壁が、音を立てて崩れ去っていく。
天候すらも論理で支配するこの男の前に、人間の矮小な意地など何の意味があるのだろうか。
「あ……あぁ……」
彼女の膝から力が抜け、その場にへたり込んだ。
見上げれば、魁斗がまるで全知全能の管理者のように、冷たい慈悲の眼差しで彼女を見下ろしている。
「素晴らしい。貴女の認識は、今、正しく更新されました」
魁斗が手を差し伸べると、アナスタシアは震える手でその指を握り返した。
それは、極寒のロシアが完全に死滅し、新たな「完璧な調和」のコレクションとして、彼女がパレスの一部となった瞬間だった。
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